2021年1月24日(日)顕現後第三主日礼拝 説教「初めに漁師が四人」

2021年124日(日)顕現後第三主日礼拝 説教「初めに漁師が四人」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

マルコによる福音書 1: 14-20

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(16-18節)

 

< 「十二人十二色」〜個性的な人もそうでない人もそれぞれの持ち味を生かして「人間をとる漁師」として用いるイエス >

本日は「顕現後第三主日」。典礼色は信仰の成長と希望を表す「緑」です。本日はマルコ福音書1章より最初の四人の弟子たちの召命(コール)の場面です。先週私たちはヨハネ福音書1章から最初の弟子としてフィリポとナタナエル(=バルトロマイ)の召命を読みました。それに対してヨハネ福音書以外の三つの福音書(「共観福音書」と呼ばれる)では最初の弟子は二組の兄弟たちと記されています。シモン・ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネです。彼らは皆漁師でした。その中でアンデレだけは、他の三人とは異なり、先週のフィリポ同様、あまり目立たないけれども周囲からの信頼が厚い穏やかな人物だったようです。ヨハネ福音書によればアンデレはイエスのところにその兄弟シモン、5つのパンと2匹の魚を持った少年、フィリポと一緒にギリシャ人らを連れてきた人物として描かれています。フィリポ同様、アンデレもまた伝道者としてのスピリットを持っていたと申し上げることができましょう。彼らは今風に言えば「癒やし系のキャラ」であったと思われます。それに対して、「岩(ケファ/ペトロ)」というあだ名を持つシモンと「雷の子ら(ボアネルゲス)」というあだ名を持つゼベダイの子ヤコブとヨハネは大変に強烈な個性を持っていた。だからそのようなあだ名がイエスによって付けられた。「十人十色」ならぬ「十二人十二色」であってみんな違ってみんな面白い!イエスは私たち一人ひとりをよく見ていて、各人の個性と賜物に応じて使命を与えてゆかれるのです。そのように私は思います。

 

< 初めの4人の漁師たちの召命 >

マルコ福音書はイエスの公の働きが洗礼者ヨハネの働きが終わったところから始まることを明確に告げています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14-15節)。「時は満ちた」のです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」に現れイエスの先駆者としての活動を始めました。ヨハネは人々に罪の赦しを得させるためにヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を授けてゆくのです。ヨハネは自分は水で洗礼を授けるが「わたしの後から来られる方はわたしより優れた方」で聖霊により洗礼を施すと預言しています(1:8)。ヨハネに対してイエスは人々が住むガリラヤで宣教を始められました。神の国が近づいて来た様子が分かります。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、神に立ち返り、神の備えてくださった福音(喜びの音信)を信じることを意味します。その基調音は「喜び」です。ともすれば困難なことばかりが目に入りますが、信仰者の生活の根底には通奏低音として喜びの和音/和声が響いているのです。私たちはこのことを忘れないようにしたいと思います。

 

<「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」>

 イエスの呼びかけの言葉はとても端的でした。漁師であった彼ら四人には直接魂に深く響いたことでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。「人間をとる漁師」? 原語では「人間の漁師」となっています。謎のような言葉です。英訳聖書では「人間のための漁師」と訳すものもあります(NRSV)。シモンとアンデレの「二人はすぐに網を捨てて従った」とある(18節)。自分がこれまで大切にしてきた仕事道具をそれほど簡単に捨てることができるのか。ある意味で難しい決断を一瞬で彼らは行ったのです。「すぐに」とは「即座に」ということです。また、舟の中で網の手入れをしていたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも呼ばれたらすぐに「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」のでした。「捨てて」とか「(後に)残して」とかいう言葉は凜とした響きがあります。しかし他方、実際にはベトサイダの村ではイエスと弟子たちはシモンとアンデレの家に泊まっていたようです。マルコ1:29-33によると、イエスはシモンのしゅうとめが熱を出したのを癒したり、その「戸口」(33節)に集まった大勢の苦しむ者たちを癒しました。漁師であった四人はすべてを捨てたわけではなかったのです。マルコは「すぐに」とここで二度記すことで何か大切なことを私たちに告げようとしている。それはそこに神の力が働いたということです。

 それにしてもイエスの召し出しに彼らが即座に従い得たのはどうしてか。何も記されていませんが一つにはガリラヤでのイエスの評判が高かったことが考えられます。彼ら四人が漁師としての日々の生活に満足していたかどうかは分かりません。イエスは彼らの目の前に現れてまっすぐに見つめ、真正面から声をかけたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と(17節)。「人間をとる漁師」とは「人間をとらえて真の意味で生かす漁師」とも理解できます。それは人生の意義を端的に一言で示す言葉です。「わたしに従って来なさい」。この確かなイエスの言葉はあまりにも強烈で抗いがたいものであったと私は想像します。主の呼びかけの声の力が彼らの中に服従の行動を起こさせたのです。イエスこそにイニシアティブがありました。彼らには彼らで都合や優先順位があったと思います。しかし彼らはそれを置いてイエスの呼びかけに即座に応答し、イエスに服従してゆきました。「信仰(ピスティス)」とは、私たちを信頼して私たちに近づき、私たちを見つめ、確かな声で呼びかけてくださるイエスに服従してゆくことなのです。

 

<「人間をとる漁師」の意味 〜「神の道」を歩む喜びのネットワークに生きる >

信仰の詩人・八木重吉(1898-1927)に「神の道」と題される詩があります。「自分が この着物さえも脱いで 乞食のようになって 神の道にしたがわなくてよいのか かんがえの末は必ずここにくる」(『貧しき信徒』1929)。信仰には確かに、イエスの「神の道に従いなさい」という招きの言葉にすべてを捨てて応答しなければならない側面があります。イエスに服従する中ですべてが新しい光の中に輝き始めるのでしょう。マルコ10章には「金持ちの男」のエピソードがあります(10:17-31)。彼はイエスに「どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と問う。イエスが十戒を守るよう答えると彼はこう言うのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)。イエスは彼を「見つめ、慈しんで」言われます。「あなたに欠けているものがひとつある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。あと一歩なのです。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります。たくさんの財産を持っていたから」と言われます(22節)。財産の多さが服従を妨げたのです。イエスは続けます。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」と(23節)。その言葉に驚く弟子たちにさらにイエスはこう告げられました。「金持ちが神の国に入ることよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)。大変に厳しいエピソードです。弟子たちも互いに顏を見合わせこう反応します。「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(26-31節)。

 私たちにはペトロの驚く気持ちが分かります。ペトロは私たちを代弁してくれている。しかしイエスはそのような私たちに「人間にはできることではないが、神にはできる。このことをあなたは信じるのか」と問うています。自分の力に頼ることを止めて、そこに働く神の力にあなたは委ねることができるのか。すべてを手放してあなたは神の道を歩むことができるのか。「自分が この着物さえも脱いで 乞食のようになって 神の道にしたがわなくてよいのか かんがえの末は必ずここにくる」(八木重吉)。自分の力ではできなくても、神の御業がこの身に現れるならばそれが可能となると信じます。

 201810月にドイツのブラウンシュバイクを旅しました。釜ヶ崎活動50年ということでJELCELKB宣教50年の節目を記念するために招かれたのです。その時、ドイツ人と結婚された一人の日本人女性から昼食時にこう問われました。「先生、どうしてイエスさまは最初の弟子として漁師をお選びになられたかご存知ですか。」「イエスさまは人間をとる漁師にしようと言われましたね。」「漁師は漁のために網を道具として使いますよね。」「そうですね。」「英語で言うと網はnet、仕事はwork。ですからイエスさまは弟子たちを網仕事(net-work)のために召し出したのだと思うのです。」「なるほど、確かにそうですね」。確かにイエスは私たちを「救いのネットワーク」の中に召し出してくださった。それは喜びの網仕事でもある。私たちが喜びの人生を送ることができるように。そのことを覚えて新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。 お一人おひとりに祝福をお祈りします。アーメン。

2021年1月16日 (土)

2021年1月17日(日)顕現後第二主日礼拝 説教「フィリポとナタナエル」

2021年117日(日) 顕現後第二主日礼拝 説教「フィリポとナタナエル」   

大柴 譲治 joshiba@mac.com

ヨハネによる福音書 1: 43-51

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。(43-46節)

 

< 「影の薄い人」も「影の濃い人」も御用のために用いられる神 >

本日は「顕現後第二主日」。本日は12使徒の中の「フィリポ」と「ナタナエル」という二人が登場します。この二人はほとんど名前しか記録されていないため、本日の箇所は貴重な記録です。フィリポは12使徒のリストの中で5番目に出てきますが(マルコ3章、マタイ10章、ルカ6章。ヨハネにはリストそのものがありません)、ナタナエルという名はヨハネ福音書にしか出てきません。その代わり最初の三つの共観福音書の12使徒のリストにはフィリポと並んで必ずバルトロマイという名前が並んで出て来る。ナタナエルとバルトロマイ(「トルマイの息子」の意)は同一人物である可能性が高いと思われます。本日の福音書の日課ではイエスに招かれたフィリポがナタナエルをイエスのもとに導いたと記録されているからです。そういう意味では12使徒にも濃淡があって、ペトロやヤコブやヨハネなどと比べると、フィリポとナタナエルは大変に影の薄い人物であると申し上げることができましょう。しかし第四福音書によればこの二人がイエスの最初の弟子となったと報告されているのです。本日はその比較的影の薄い二人に焦点を当てて御言葉に聴いてまいりましょう。

伝承によれば二人ともやがて壮絶な殉教の死を遂げてゆきます。フィリポは逆さ十字架に架けられて殉教し、バルトロマイ(ナタナエル)は生きたまま皮を剥がれて殉教したとされている。彼ら二人もまた死に至るまで忠実にキリストの与えられた使命を生き抜いたことになる。彼らはキリストのために自分を捨て、自分の十字架を負っていったのでした。「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」という御言葉の通りに(黙示録 2:10)。

フィリポは共観福音書では名前しか出てきませんが、第四福音書では四つのエピソードに登場します。彼はペトロ、アンデレ、ヤコブとヨハネ同様に、ガリラヤの漁師町ベトサイダの出身でした(ヨハネ1:44)。おそらく彼自身も漁師だったことでしょう。フィリポはイエスから「わたしに従って来なさい」と最初に呼びかけられています。彼には「宣教者」としてのスピリットがあったのでしょう。フィリポは友人ナタナエルのところに行きます。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」(45節)と。そして彼をイエスのもとに連れてくる。このようにフィリポは最初の伝道者となりました。特に英国の註解者W・バークレーは、フィリポが「ナザレから何の良いものが出るであろうか」と疑い深く批判的であったナタナエルの議論には加わらず「来て、見なさい」と彼を直接イエスに導いたことを的確とほめています。「百聞は一見に如かず」です。神学議論ではなくてイエス・キリストのリアルプレゼンス(現臨)に、キリストのリアリティに導くことが大切だということがそこから分かります。

彼はもうヨハネ12章でもペトロの兄弟であるアンデレと共に「ギリシャ人たち」をイエスのもとに連れてくる働きをしています。彼の温厚さ、謙虚さ、忠実さが周囲にもよく知られており、信頼されていたのでしょう。フィリポというギリシャ名も仲介の役割を果たし易かったと思われます。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。(「ギリシャ人」とは「ギリシャ語を話すユダヤ人」あるいは「ユダヤ教に改宗したギリシャ人」のこと)。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』」(20-24節)。フィリポはギリシャ人たちをイエスに紹介することからこの「一粒の麦、地に落ちて死なずば」というという重要な言葉を引き出しているのです。フィリポは最初はナタナエルをイエスのもとに連れてゆき、そして今度はギリシャ人たちをイエスのもとに連れてゆく。人々をキリストに招く働きをしてゆく。決して派手ではない。地道にコツコツと、周囲(たとえばアンデレ)に相談しながら、そのような働きをなしてゆく。イエスによって「岩」というあだ名で呼ばれた頑固なペトロや「雷の子ら」というあだ名で呼ばれた気性の烈しいヤコブやヨハネとは違って、穏やかなフィリポにはフィリポの役割が主から与えられてゆく。私たち自身も一人ひとりがそうでありましょう。一人ひとりには神から託された使命がある。それを果たしてゆく中に大きな喜びが隠されているのです。

フィリポはヨハネ福音書ではあと二ヶ所に出てきますが(6:514:8)、このあたりでナタナエルに目を転じましょう。彼は「ガリラヤのカナ出身」です(ヨハネ21:2)。ヨハネ2章によれば「カナ」はイエスが婚宴の席で水を極上のワインに変えた最初の奇蹟(しるし)が行われた場所でもありました。ナタナエルはイエスから「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と賞賛されています(47節)。「まことのイスラエル人」というのは「真の神の民」という意味です。イエスは神のまなざしでナタナエルを見抜いておられる。ナタナエルが「どうしてわたしを知っておられるのですか」と問うとイエスはこう言われます。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と(48節)。当時「いちじくの木陰」はあたかも個室のような祈りと学びの場だったようです。ナタナエルはいちじくの木の下で聖書を読み、律法について深く思いを巡らせ、真剣にイスラエルの救いを祈り求めていたのでしょう。

彼はイエスにすべて見抜かれて驚きます。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。「ナザレから何の良きものが出るだろうか(決して出ることはない!)」と批判的に言っていたナタナエルがイエスに出会ってアッという間にイエスが「真の王」と告白する者に変えられてゆく。その姿はヨハネ福音書20章の「疑いのトマス」と重なります。キリストのリアリティに触れてナタナエルは変えられたのでした。「さあ、来て、見なさい」とナタナエルを促したフィリポは正しかった。イエスはナタナエルに答えて言われました。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる」(50節)。そして更に続けられました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子(=イエス・キリスト)の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」(51節)。創世記28章には父祖ヤコブが「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神のみ使いたちがそれを昇ったり降りたりする夢」を見てその場所を「ベテル」(=神の家)と名付けるエピソードを想起します。「見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが今横たわっているこの土地を、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。』 ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。』そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。』ヤコブは次の朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで、その場所をベテル(神の家)と名付けた。ちなみに、その町の名はかつてルズと呼ばれていた。ヤコブはまた、誓願を立てて言った。『神がわたしと共におられ、わたしが歩むこの旅路を守り、食べ物、着る物を与え、無事に父の家に帰らせてくださり、主がわたしの神となられるなら、わたしが記念碑として立てたこの石を神の家とし、すべて、あなたがわたしに与えられるものの十分の一をささげます』」(創世記28:13-22)。

この神の家ベテルで見たヤコブの夢がイエスにおいて成就することをフィリポとナタナエルは見てゆくのです。実は45節でフィリポがナタナエルに言った「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」という最初の言葉がすべてを意味していました。フィリポはナタナエルと共にイスラエルがメシアによって救われることを、ちょうどルカ福音書の2章が描く老シメオンや女預言者アンナのように、昼も夜も祈り求めていたのでしょう。その祈りがイエスにおいて実現したのです。ここでも「今、私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光。み民イスラエルの栄光です」というシメオンの喜びの頌歌「ヌンク・ディミティス」が天と地を貫いて聞こえてくるような気がいたします。 皆さまお一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

 

2021年1月10日 (日)

2021年1月10日(日)主の洗礼主日礼拝 説教「永遠の今を生きる」

2021年110日(日) 主の洗礼主日礼拝 説教「永遠の今を生きる」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

創世記 1: 15

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。(3-4a節)

マルコによる福音書 1: 4-11

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(9-11節)

 

< 主の洗礼主日にあたって 〜 「光あれ!」 >

本日は「主の洗礼主日」。主がヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた時のことを想起し、私たち信仰者にとって三一の神の御名において洗礼を受けることが何を意味するかを覚えながら聖書の御言葉に思い巡らせてゆきます。

本日与えられている第一日課は創世記1:15。聖書の最初のページです。そこでは神の天地創造のみ業がダイナミックに宣言されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた」(1-4a節)。印象に残る場面です。混沌とした闇の中で神の確かな声が響く。「光あれ!」 すると光があったのです。闇の中で人間は生きてゆくことができません。どうしても光が必要です。しかし、人間の眼が太陽を直視することができないように、まばゆすぎる光の中でも人間は生きてゆくことができません。生きるためにはちょうどよい明るさが必要なのです。

それにしても天地万物の創造の一番最初に「光」が創造されたということはとても意味深い事です。混沌と闇の中にそれを照らし闇の中に秩序を与える「光」が与えられたのですから。「初めに」という言葉はヨハネ福音書の冒頭にも出て来ます。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ11)。それは時間的な最初というよりも、「徹底的に、根源的に」という意味で「初め」を意味しています。聖書の一番最後に置かれているヨハネ黙示録には繰り返しこうあります。「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。再臨の主の言葉です。例えば22:13。「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。万物の根源としての「光」が初めに創造されました。それこそが私たちの「いのちの光」であるイエス・キリストでした。

ユダヤ教の安息日は第七の日、週の終わりの日である「土曜日」のことを意味しています。ユダヤ教は今でも土曜日に安息日礼拝を守っています。キリスト教も最初は土曜日に礼拝を守っていました。しかしやがてキリスト教は週の終わりの日ではなく「(安息日が終わって)週の初めの日」を「主の日」「主日」として礼拝するようになってゆきました(全福音書に記録)。それは日曜日が「主の復活日」であったと共に「聖霊降臨日」の出来事も起こったからでした。同時に、この創世記の「光あれ」という声によって神が光を創造されたことが、キリストの復活とが重ね合わされたためでもありました。復活とは死の闇からの解放を意味します。「『光あれ』。すると、光があった」。このキリストの復活の光を信じることができたために、初代教会のキリスト者たちは困難な迫害の中で殉教の死をも恐れずに生き抜き、キリストの日に向かって死線を越えてゆくことができたのです。

キリスト教作家の椎名麟三は無神論から転じてキリストを信じ洗礼を受けた時にこう語ったと伝えられています(森勉先生)。「ああ、これでおれは安心してジタバタして死んでいける」。「安心してジタバタして」? これは形容矛盾ではないのか。私たちは通常「安心している」時には「ジタバタしません」し、「ジタバタしている」時には「決して安心していない」のではないでしょうか。「安心してジタバタして死んでいける」という表現は、罪や死や生きることの意味の問題を前にしたとき、私たちはジタバタジタバタせざるを得ない小さな存在でしかないという現実を見ています。しかしそのような小さき者である私たちを神はイエス・キリストにおいてしっかりと捕らえてくださいました。それが洗礼であり聖餐です。「サクラメント」は「聖礼典」「神の恵みの手段」と呼ばれますが、神の恵みがサクラメントという「水道の蛇口」を通して私たちには豊かに注がれてゆくのです。このキリストのサクラメントのゆえに私たちは「安心してジタバタして死んでゆける」。これは信仰の逆説であり、逆説的な信仰です。

以前に遠藤周作と三浦朱門、そして井上洋治という三人のカトリックの文学者たちが九州の地獄温泉を旅した時にこのようなやりとりがあったことを知りました。遠藤周作と三浦朱門がグツグツと煮え立つ地獄温泉を見ながら、「こんなところに投げ込まれるくらいならば俺たちはすぐに踏み絵を踏んで転んでしまうだろうなあ」と話をしたそうです。そして井上神父に「あんたはどうだい」と聞いたら、井上神父はカンカンになって怒って、「そんなことはその場にならなきゃ分からんだろ。神からの聖霊の風がどのように吹くかによる」と答えたそうです。復活の光を信じることができるかどうかは、自分の力にはよらずに神の聖霊の力によるのだということですね。確かにその通りです。信仰とは人間の業ではなくて、私たちにおいて働く神の聖霊の御業だからです。

 

< 究極的な天からの存在是認の声 〜 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」 >

 本日は主の洗礼主日。イエス・キリストがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたことを覚える主日。本日の福音書の日課のマルコ1:9-11にはこうありました。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた』。ここで「霊」というのは「人間を生かす神のいのちの息吹き」のこと。私はここで二つの聖書の箇所を想起します。一つは創世記2:7。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある。もう一つはペンテコステの出来事。こちらは「ハトのような穏やかなかたちの聖霊の降下」ではなくて「もっとダイナミックな聖霊降臨」ですが・・・。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2:1-4)。

 いずれにしてもこの主の受洗において特徴的なことは「究極的な存在是認」とも言える天からの声です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これはすばらしい言葉であり、福音の宣言です。私たち一人ひとりはすべからくこのような天の声を必要としています。私たちの存在、私たちのいのちをその根底から支える根源的な神の声です。これはイエス・キリストだけに与えられた天からの声ではありません。私たち一人ひとりに告げられている神の声なのです。それもキリスト者だけではなく、すべての人々に対して語られた声なのだと私は信じています。「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びることなく、永遠の命を得るためである」とヨハネ3:16にある通りです。更に言えば実は、この声は洗礼を受けた時だけではなく、私たちがこの世に存在を始める前に、母の胎内にある時から既に響いていた声なのです。パウロはエレミヤの言葉を想起しながらこう言っています(ガラテヤ1:15)。「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が」と。否、それだけではない。実はこの声は、天地創造の「初め」から、「光あれ!」と宣言されたその時から天空を充たして響き続けてきた創造主なる神の根源的な声なのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。これが「光あれ」という宣言と重なります。洗礼と聖餐という神のサクラメントにおいてこの究極的な天からの声に出会うこと、「光あれ」という神の生きた声に出会うことが私たちの人生の目標です。今ここで、私たちはこの声を聴きながら、この光の中に、永遠なる神とつながって生きている。今こここそが「永遠の今」なのです。「永遠」とは時間的な長さのことではありません。「永続する時間(クロノス)」のことではないのです。それは神に垂直につながる質的な「神の時(カイロス)」のことであり、「いつでもどこにおいても妥当する神の真実(ピスティス)」にこの私が生きているこの瞬間(時間)とこの場所(空間)においてつながることです。そのことを覚えながらご一緒に新しい一週間を主と共に踏み出してまいりましょう。「光あれ。すると光があった」。私たちはこの光の中に生かされています。この光は闇の中で輝き続けています。闇は光に勝たなかったのです。  皆さまの上に天からの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2021年1月 2日 (土)

2021年1月3日(日)顕現主日礼拝  説教「新しい黄金、乳香、没薬」

2021年13日(日) 顕現主日礼拝  説教「新しい黄金、乳香、没薬」

大柴 譲治  joshiba@mac.com

イザヤ書 60: 16

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。 (1-3節)

マタイによる福音書 2: 1-12

家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(11-12節)

 

< 新年、そして顕現主日にあたって 〜 「聽く」という信仰の基本姿勢 >

新年あけましておめでとうございます。この新しい主の年2021年の上に神さまの祝福がお一人おひとりの上に豊かにありますよう祈りつつ、今朝も聖なるみ言葉に共に耳を傾けてまいりましょう。

本日は「顕現主日」。特別な星の輝きを発見して救い主の誕生を知った占星術の学者たちが、黄金・乳香・没薬という高価な宝物を携えてはるばる東からの旅を続けてきたことが出来事として刻まれています。は神からの救いの光がすべての民族に届いたこと、神の栄光が顕現したことが祝われているのです。「顕現日」は毎年16日ですが、私たちは本日顕現主日として礼拝を守っています。第一日課のイザヤ書60章に預言されていた通りです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。このイザヤの預言が幼子イエスにおいて成就したことを博士たちの訪問は告げています。

先週の日曜日、2020年の最後の主日に私たちはシメオンの讃歌「ヌンク・ディミティス」から学びました。「今、私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光。み民イスラエルの栄光です」と老シメオンは幼子イエスを胸に抱きながらエルサレム神殿で高らかに神を讃美する歌を歌ったのです。救い主キリストと出会うこのような喜びの中にこの世の生涯を終えることができる者はまことに幸いです。その時「シメオン」というヘブル名が「聴く、耳を傾ける」という意味を持つことにも触れました(「シモン」はそのギリシャ語読み)。本日は主の年2021年の初めに当たり、また顕現主日にあたり、「信仰の基本姿勢」について御言葉に聴いてまいります。

 

< 機関誌『るうてる』20188月号の議長コラムより >

JELCの機関誌『るうてる』1月号が皆さまにも配布されていますが、その中に私は毎回「議長室から」と題して議長コラムを書かせていただいています。私の前任者であった立山議長から議長が毎月書くようになりました。私は2018年8月号から書き始めましたのでもう二年半になります。その内容は毎月変わるのですが、そこには「聽」という見慣れない文字が毎回記されています。これは「聴く」という字の旧字体で私はそこに「王なる神に聽くという信仰の基本姿勢」が表されていると固く信じています。このような文章を書くときも、説教を準備する時も、人の話を聴くときも、聖書を読む時も、祈る時も、耳を澄ませて無心になって、つまり自身の頭の中の声は黙らせて、向こう側から届けられる「神の声」に聴くことが一番大切なことだと思っています。その時に向こう側から聞こえてきたメッセージを言葉として刻むのです。牧師は毎週説教を語るという意味では確かに「噺家」でもありましょう。しかしそれに先立ってまず第一には「傾聴者」であるべきと念じています。それは牧師だけではありません。キリスト者は皆、神の御言葉の「傾聴者」です。おとめマリアが受胎告知の場面で天使に対して告白したように、「わたしは主の僕です。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と私たちは共に心の底から唱和したいのです。

「共感的な受容と傾聴」。カール・ロジャースの有名な言葉ですが、この態度が対人援助職においては基本とされています。私は一信仰者としてこの姿勢を大切にしたいと念じてきました。
 神学生時代、飯田橋のルーテルセンターで「いのちの電話」のボランティア訓練を受けた時に、斎藤友紀雄先生から「聴く」ことの大切さを学びました。「聞く」という字とは異なり、「聴く」とは「耳に十四の心」と書きます。既に35年以上経っているのですが、「そのくらい丁寧に、心を配りながら相手の声に耳を澄ませることが大切」という先生の声は今でも私の耳の中に響き続けています。
 5年ほど前のことですが「聴」には「聽」という旧字体があることを知りました(NHK『こころの時代』)。「耳」の下に「王」という字があり、数字の「四」だと思っていたのは実は「目」が横たわっている姿であると知り、ストンと腑に落ちました。すなわちそこには「耳と目と心を一つにし、それらを十全に用いて王なる者の声を聽け」という意味があるというのです。
 旧約聖書の申命記6章4節には、有名な「シェマー、イスラエル」という語があります。4節と5節を読んでみましょう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして 、あなたの神、主を愛しなさい」。
 私としてはここに「聽け」という字を当てたいところです。神のみ言に聽くことを第一にしながら、耳と目と心を尽くして王なる神の声(御言)に耳を澄ませてゆきたいのです。
 5月の全国総会で立山忠浩前議長の後任として総会議長に選出されました。相応しくない者を神はその恵みによって選び立て、その御用のために用いてゆかれるのだと信じます。「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。』」(哀歌3・2223)とある通りです。皆さまとご一緒に主の御言に忠実に聽き従ってまいりたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 

< 新しい人生 〜 新しい「黄金、乳香、没薬」 >

私たちに与えられている人生の目的はこの救い主キリストと出会うことです。そのことは占星術の学者たちが幼子イエスにまみえるために遙か遠方からはるばる旅を続けてきたことからも分かります。しかも彼らは「黄金、乳香、没薬」という三つの高価な宝物を携えて旅してきたのでした。途中で星を見失って道に迷ったこともあったでしょう。星の見えない夜は足を止めて待たなければならなかったはずです。山あり谷あり、丘を超え川を渡り、彼らは東から旅を続けてきた。博士たちですからもう若くはなかったことでしょう。老体に鞭打ちながら彼らは星を目印に歩き続けたのです。もちろん明るい昼間は旅ができない。夜の旅です。曇っていたり雨が降ったりしても旅は続けられません。エルサレムでは自己の権威を守ろうとするヘロデ大王と面会することにもなりました。彼らは「ヘロデ王」や「エルサレムの住民皆」が持つ「不安」という「人間の闇」が浮かび上がりました(3節)。しかし「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあるように(10節)、彼らは星を見上げるたび大きな喜びに満たされたのです。人間の闇を照らす救い主の確かな光。博士たちは占星術のプロとして自分の仕事を通して、また困難な旅を続けるという身体的な労苦を通して、さらに言えば自分の五感を通して、救い主と出会って「黄金、乳香、没薬」という宝を献げたのです。一説によればそれらは彼らの商売道具でもあったと言われています。自分にとって一番大切な宝物をキリストに献げたのです。彼らはそれ以上の宝と出会って大きな喜びに満たされたからです。私は思います。イエスと出会うことができたシメオンやアンナがそうであったように、彼らは幼子から喜びに満ちた「新しいいのち」を与えられたのです。「『ヘロデのところへ帰るな』と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」(12節)とある。深読みしすぎかも知れませんが、「別の道を通って」とは「父と子と聖霊」という「新しい黄金、乳香、没薬」によって生きる「新しい道」であり「新しい生き方」を意味しているのだと。そのことを覚えながら、「聽」という字に表されているように、私たちは今年も王なる神の聖なる御言葉に、耳と目と心を一つにしそれらを十分に用いながら、すなわち全身全霊をもって服従してまいりたいと思うのです。

新しい主の年にも、お一人おひとりの上に天からの豊かな祝福が注がれますようにお祈りいたします。 アーメン。

2020年12月28日 (月)

2020年12月27 日(日)降誕節第一主日礼拝 説教「シメオンの讃歌を歌いながら」

2020年1227 日(日) 降誕節第一主日礼拝 説教「シメオンの讃歌を歌いながら」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

イザヤ書 61:1062: 3

わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。(10節)

ルカによる福音書 2:22-40

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。

29-32節)

 

< 「ヌンク・ディミティス/シメオンの讃歌」 >

「今、私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光。み民イスラエルの栄光です。」これは毎週の礼拝で歌われる「ヌンク・ディミティス/シメオンの讃歌」です。私はこのシメオンの讃歌がとても好きで、特にご葬儀の際などにこの曲が歌われることは信仰者にとってふさわしいことだと考えています。幼子キリスト・イエスに出会うことができた時の老シメオンの大きな喜びがそこからはダイレクトに伝わってくるように思うからです。

 私たちは今年のクリスマスをCOVID-19感染拡大のため、これまでとはまったく異なった状況で迎えています。先の見えない闇の中に私たちはいるのです。しかしクリスマスは、闇の中に私たちを照らす「命の光」が与えられ、それが闇の中で輝き続けていることが告げられます(ヨハネ1:4-5)。そして「闇は光に勝たなかった」のです。すなわち、光は消え去ることなく、今も闇の中で輝き続けている。シメオンが歌うようにその光は私たち「異邦人(ユダヤ民族ではない民)の心を開く光」であり、メシア・キリストのもとに集められた「新しい神の民(イスラエル)」の「栄光の光」です。このような光の到来をご一緒に喜び祝うことができるのを神に感謝したいと思います。改めて互いにご挨拶を交わしましょう。クリスマス、おめでとうございます。

 

< 出口の見えない闇の中にあって >

出口の見えない闇の中で私たちはこのクリスマスを迎えています。この世の闇の一番どん底に天から救い主イエス・キリストが遣わされた。それがクリスマスの出来事です。ベツレヘムの貧しい家畜小屋の飼い葉桶に安らう幼子イエス。そして幼子を抱く母マリアと、妻と幼子とを力の限り守ろうとする父ヨセフ。聖なる家族が置かれていた状況はやはり、大きな不安と恐れに満ちた先の見えないものでした。そもそもヨセフとマリアは、身重にも関わらず住民登録のためにガリラヤのナザレからユダのベツレヘムまでの(150 kmほどの)長旅をしなければならなかったのです。宿屋には泊まる場所もありませんでした。そして遂に月満ちて幼子イエスが誕生します。家畜小屋の飼い葉桶が揺りかごの代わりとなりました。どれほど大変なことだったか。それにも関わらず、幼子イエスを抱いた母マリアは父ヨセフと共に大きな喜びに満ち溢れていたと思われます。人々を救うために神からの特別な使命を与えられていた幼子イエス。そのことを完全には理解できないでいたマリアは、天使が告げたことを繰り返し思い巡らし、「お言葉どおり、この身になりますように」と祈り続けていたに違いありません。

そこに老シメオンがまるで旧約の預言者のように登場し、「今、私は主の救いを見ました」と確かな声で高らかに讃美を捧げるのです。「シメオン」という名は「聴く、耳を傾ける」という意味の名前で、そのギリシャ語形が「シモン」となります(例:シモン・ペトロ)。「名は体を表す」と言う通り、老シメオンはその長い生涯を通してエルサレム神殿で神の声に耳を澄ませてきたのでありましょう。「神の聖霊(いのちの息吹き)」が常に彼を導いていました。彼についてルカ福音書はこう記しています。「エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていたそして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンがに導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」(25-28節)。そして「ヌンク・ディミティス」を歌うのです。「今、私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光。み民イスラエルの栄光です」。

ヌンク・ディミティスを歌った後、シメオンはマリアたちを祝福してさらに重要な預言を語ります。それはこう書かれています。「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ——あなた自身も剣で心を刺し貫かれます——多くの人の心にある思いがあらわにされるためです』」(33-35節)。シメオン自身はここで「十字架」という言葉を使ってはいませんが、イエスが犠牲の神の小羊として多くの人の罪の贖いのために苦難を受けることを預言しているのです。「反対を受けるしるし」や「多くの人の心にある思い」とは「神に反逆する思い」、すなわち「人間の罪」のことを意味しています。そして母マリア自身もイエスの苦難と死を通して心を剣で刺し貫かれるような痛みを味わわなければならないことをも明確に告げています。イエス・キリストの誕生にはその最初から十字架の影がくっきりと架かっていたことが分かります。私たちの罪を贖うための犠牲の小羊としてメシア・キリストはこの世に来てくださった。幼子イエスに出会ったシメオンは大きな喜びに充たされます。その喜びは死の力によっても奪われることのないほどの大きなものでした。「今」眼の前で「幼子イエスにおける神の救い」を見たシメオンは平安のうちに自分がこの世の生涯を終える時が来たことを知ります。「主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます」。シメオンは「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」からです。

 

< シメオンの讃歌を歌いながら〜「歌う門には福来たる」 >

私たちの人生の目的は、この救い主イエス・キリストと出会うことです。もう22年も前のことになりますが、私はガンのために47歳で天に帰って行かれた一人の信仰者の女性を看取りました。その方の名は松下容子さん。その方は亡くなられる三日前に私がホスピスでお祈りに伺った時、聖餐式の後に輝くような笑顔でこのように言われました。「先生、もしかしたら間違っているかも知れませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。人生は神さまと出会うためにある。その方は、ガンで余命幾ばくもないという告知を受ける中で親しい友人が通っておられたルーテル教会の門を叩き、キリストを信じてクリスマスに受洗。その次の年のペンテコステ(1998年は奇しくも今年と同じ531日)の後に天に召されてゆかれました(199864日)。この方のことを思い出すたびに、私はシメオンの讃歌を思い起こすのです。「今、私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉の通り、僕を安らかに去らせてくださいます。この救いはもろもろの民のためにお備えになられたもの。異邦人の心を開く光。み民イスラエルの栄光です」。

「笑う門には福来たる」と言われますが、私は皆さまと一緒にこの「ヌンク・ディミティス」を歌いつつ2020年の一番最後の礼拝説教でこのように言いたいと思います。「歌う門には福来たる」と。メシア・キリストと出会った喜びを深く味わいながら、シメオンの讃歌を歌いながら、私たちはしなやかにしぶとく、賢くこの闇の深い現実に対処してゆきたいのです。必ず私たちはこの苦境を乗り越えることができます。闇が白み始める時が必ず来る。開けない夜はないのです。「闇は光に勝たなかった」。そのことを信じて、イエス・キリストという希望を見失わないようにして、諦めずに共に歩んでゆきましょう。「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のですから(ローマ53-5)。そしてこの「希望」は決して私たちを欺くことがありません。シメオンがそうであったように、私たちに与えられた「聖霊」によって「神の愛」が私たち一人ひとりの心に注がれているからです。

お一人おひとりの上にキリストの豊かな恵みと祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2020年12月20日 (日)

2020年12月20 日(日)主の降誕主日礼拝 説教「母マリアと幼子イエス」

2020年1220 日(日)主の降誕主日礼拝 説教「母マリアと幼子イエス」 大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 52: 7-10

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。(7節)

〇 ヨハネによる福音書 1: 1-14

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。(4-5, 14節)

 

< 主の降誕主日にあたって 〜 福音宣言 >

クリスマスおめでとうございます。本日は主の降誕主日。典礼色は「紫」から神の栄光を現す「白」になりました。アドヴェントクランツのローソクはすべて点されました。本日の第一日課イザヤ書52章では「福音宣言」とも呼ぶべきみ言葉が与えられています。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」(7-10節)。何とすばらしい情景でしょうか。地の果てまですべての人が神の救いを仰ぎ見、廃虚の中にあっても皆が共に歓声をあげて喜び歌うというのですから。これが礼拝の姿です。

 今年のクリスマスを私たちはCOVID-19のためにこれまでとは全く異なった状況の中で迎えています。今年は大勢が集まって共に讃美の歌声をあげることがはばかられるような状況です。ですから私たちは、それぞれの場で「離れてつながる」かたちでオンライン礼拝をも守っている。礼拝式文も短縮のままです。振り返って見れば、今年は315日から531日に再び礼拝堂に集って礼拝を守るまで何と11回もの主日礼拝の公開を停止することになりました。この礼拝堂での礼拝自体を休んだわけではありません。実は毎週4-5人の参加者がありました。ここでは礼拝が行わ続けたのです。その礼拝がインターネットを通して配信されました。それでもこの「無会衆礼拝」のかたちは私が牧師になって34年目にして初めての体験でした。オンラインで結ばれているとはいえそれは双方向ではなく、「主が皆さんと共に」「またあなたと共に」と司式者と会衆が「交唱する」ことができなくなったことは私にとって衝撃的であり悲しいことでもありました。今まで当たり前で自明なことだと思っていたことが実はそうではないこと、「聖徒の交わり」は神の恩寵であることに改めて気づかされたのです。迫害下や戦時中も恐らく同様だったことでしょう。

 私は神学校時代に聖歌隊に所属していて、その時の指導者の山田実先生はよくこう言われました。「隣の人の声が自分の口から出ているように歌いなさい。そして自分の声が隣の人の口から出ているように歌いなさい」。味わい深い言葉です。周囲の人の声をよく聴きながら自分の声をその響きに加えてゆくことと私は理解しました。大切なことは呼吸を合わせることであり、よく互いに聴き合うことです。集まることができなくなって私たちは、同じ空気を呼吸して声を合わせて讃美歌を歌うことができにくくなりました。キリエも交唱もできなくなったのです。私たちが全く予想したことのない現実が到来した。531日のペンテコステから私たちはオンライン中継も続けながらこの場所での対面礼拝を再開しました。すれから既に七ヶ月近く経っています。二ヶ月ほど前からですが、毎回礼拝の始まる前に「主が皆さんと共に」「またあなたと共に」というやりとり(交唱)を一度リハーサルしていますが、私はこれがとても嬉しく心が躍るのです。今年はイースター(412日)も共に集まることができませんでしたので共に集まれるだけでもとても嬉しいのですが、相互のやりとりができることがさらに嬉しい。ルーテル教会の式文は対話的で実によくできていると思います。「主が皆さんと共に」「またあなたと共に」という挨拶を交わすことができる。すばらしいと思います。

同時にオンラインの礼拝を大切に思ってそこに加わってくださる方々がおられることも感謝しています。たとえ大阪教会に足を運ぶことができなくてもオンラインを通して大阪教会と確かにつながっているということを味わえるのです。そして心を合わせて祈ることができるのです。「離れてつながる」ことができる。すごいことですね。インターネットを通しても神の聖霊は働くということを私は信じています。大切なことはその中心に「キリストの現臨(リアル・プレゼンス)」があることであり、私たちがそこで「キリストのリアリティ」を分かち合うことができることです。礼拝はインマヌエルの主が今ここに共におられることを証ししている。言うなれば「礼拝」は「見えないキリスト」の「目に見えるライブ」なのです。「オンライン礼拝」はその「ライブ中継」です。

 

< 聖家族 〜 母マリアと幼子イエス、そして父ヨセフ >

既にワクチンの接種が英国や米国では始まっていますが、それが世界中に行き渡るまでは今しばらく時間がかかりそうです。私たちは先の見えない闇の中でこの2020年のクリスマスを迎えています。二千年前、この世の闇のただ中に天から救い主キリストが遣わされたことを今私たちは特別な思いの中に想起しています。ベツレヘムの貧しい家畜小屋の飼い葉桶に安らう幼子イエス。幼子を抱く母マリア、力の限り家族を守ろうとする父ヨセフも傍にいます。聖なる家族が置かれた状況はやはり大きな不安と恐れに満ちた先の見えない状況でもありました。ヨセフは身重のマリアと共にローマ皇帝から命じられた住民登録のためにガリラヤのナザレからユダのベツレヘムまでの(直線距離で110キロほど、恐らくは150キロほどの)長旅をしなければならなかったのです。一週間はかかったことでしょう。そしてベツレヘムでは登録のために旅してきた人々で混み合っていて宿屋に泊まる場所もありませんでした。そして結局月満ちて幼子イエスが誕生するのです。飼い葉桶が代わりの揺りかごとなりました。旅先で出産することはどれほど大変なことだったでしょうか。それでも幼子イエスを抱いた母マリアの心は父ヨセフと共に大きな喜びに満ち溢れました。新しい生命の誕生。しかもこの子は神から特別な使命を与えられた幼子です。「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)とマリアは受胎知以降もずっと祈り続けていたに違いありません。聖家族のことを考えるとマリアにもヨセフにも天からの大切な役割・使命が与えられていたことが分かります。ヨセフは石大工でしたがおそらくイエスがまだ小さい頃に、ルカ福音書には12歳のイエスのエルサレム神殿でのエピソードが記されていますので12歳を超えてからでしょうが、ヨセフはこの世の生涯を終えています。マルコ福音書6:3にはイエスが育ったナザレのエピソードが記されています。「『この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた」。ここでイエスは「ヨセフの子(=息子)」と呼ばれず「マリアの息子」と呼ばれている。通常であれば「ヨセフの息子」と呼ばれるはずですが、母の名前で呼ばれている。それはヨセフがかなり以前に死んでしまったことを意味します。ヨセフは天から与えられた使命を終えて天へと帰っていったのでした。聖家族から私たちは「家族の絆」の大切さを教えられます。

 

<「初めに言(キリスト)があった。言(キリスト)は神と共にあった。言(キリスト)は神であった。」>

 本日選ばれているのはヨハネ福音書1章の冒頭です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1:1-5)。この「言」とはギリシャ語で「ロゴス」という語ですが、イエス・キリストご自身を意味しています。「言」を「キリスト」と読み替えるとヨハネが伝えたかった意味がよりはっきりするでしょう。イエス・キリストこそが私たちの命を照らす「救いの光」であり、このキリストの光が「暗闇」の中で輝いているのです。

『新共同訳』(1987)では5節は「暗闇は光を理解しなかった」と訳されていますが、新しい『協会協同訳』(2018)では「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」となっていて、以前の『口語訳聖書』(1955)に戻るかたちになっています。キリストの光が闇に勝利したのです。二千年前のクリスマスの出来事はそのことを宣言しています。福音宣言ですね。クリスマスが北半球では闇が一番深い冬至の時期に祝われることにはそのような意味があります(今年は1221日が冬至)。私たちもイザヤと共に「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と大きな声で唱和したいと思います。「光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった」からです。本日は洗礼式と転入の祈り、聖餐式が行われます。どれほど闇が深くとも、皆さまがキリストの光によって豊かに照らされますようお祈りします。アーメン。

2020年12月13日 (日)

2020年12月13日(日)待降節第三主日礼拝 説教「荒野で叫ぶ声」

2020年1213日(日)待降節第三主日礼拝 説教「荒野で叫ぶ声」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 61: 1-48-11

主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。(1節)

〇 テサロニケの手紙 一 5:16-24

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(16-18節)

〇 ヨハネによる福音書 1: 6- 819-28

ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」(23節)

 

< アドヴェント第三主日に >

本日は待降節第三主日。典礼色は悔い改めの色であり王の色である「紫」。アドヴェントクランツの三本目のローソクが点されました。このローソクは「羊飼いのローソク」と呼ばれ、紫色ではなくピンク色のものが用いられています。私たちのためにこの地上に降り立ってくださった「羊飼い」主イエス・キリストを覚えつつ守る礼拝です。それは本日の第一日課、イザヤ書61章にこうあった通りです。「主はわたしに油を注ぎ、主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。このお方のゆえに私たちは、どのような状況に置かれていても羊飼いのご臨在を喜び祝うことができる。それをイザヤ書はこのようにも告げています。「わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる」(61:10)。すばらしい祝宴のイメージですね。

 

<「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」>

 本日選ばれているのはヨハネ福音書1章からのみ言葉です。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(6-8節)。ここでの「ヨハネ」とは「洗礼者ヨハネ」のこと。そしてヨハネは「あなたは誰か」と問われて次のように答えるのです。「ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と』」(23節)。

先週も私たちはイザヤ書40:3とマルコ1:2-4から同じみ言葉を聴きました。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」』」。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということは私たちにとって何を意味するかについて先週私たちは思い巡らせました。本日は少し違った角度からこの「荒野の声」に光を当ててみます。

 

< 星野冨弘さんについて >

 星野冨弘さんという群馬県出身の方がいます(1946年生まれの74歳)。『愛深き淵より』や『花の詩画集』などの詩画集やカレンダーでよく知られている方で、ご存知の方も少なくないと思われます。もともとは群馬大学を出られた後、中学校の体育の先生になったのですが、翌19716月に学校でのクラブ活動指導中に頸髓けいずい損傷という事故のために全身麻痺となります(24歳)。1972年から群馬大学病院に入院中に、口に筆を加えて絵や文章を書き始めるのです。そして1974年にキリスト教で受洗。以降、コツコツと創作活動を展開し、1979年に前橋で個展を開いて以来、現在までに世界各地で作品展が開かれています。1991年には群馬県のふるさと(みどり市東町)に星野冨弘美術館が開館。2014年12月までに650万人もの人がそこを訪れたということです。世界中の人々がその絵と文章から生きる勇気と力とを得てきたのです。すごいですね。

 その星野さんの作品に『鈴の鳴る道』という「花の詩画集」があります(1985、偕成社)。その中の一番最後に次のような詩が出て来ます(p80)。

 

いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。

いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった。

 

 深く心に響く言葉です。今回私は「荒れ野の声」について思い巡らせる中でこの詩を想起させられました。「荒野」とは「死の世界」を意味します。それは私たち人間の力がそこでは通用しない世界。人間が自分の力に頼っては生きることができない場です。しかし同時に、聖書では「荒野」とは神がご自身を啓示される「神顕現の場」でもある。「荒野で叫ぶ声」とは私たちに大切なものが何であるかを告げる「天からの声」なのです。

星野冨弘さんは突然の頸膸損傷という「人生の荒野」とも呼びうる絶望的な状況でキリストと出会われた。「いのちより大切なもの」とは何か。それはイエス・キリストと出会うということ。そしてイエスさまと共に生きるということ。その独り子を賜るほどこの世を愛してくださった神の愛を知り、その神の愛を証しして生きることを星野さんは始められたのです。口に筆をくわえて星野さんは神さまを讃美する絵や詩、文章を書き始めました。自らの力に絶望した時に自分の中に働いている神さまの御業を知ったのです。神が星野さんに苦難を通して与えた「喜びの使命」となりました。その讃美の絵や詩が多くの苦しむ者たちの魂に響いたのでした。『鈴の鳴る道』からもう一つ詩を引用します。

 

毎日見ていた空が、変わった。涙を流し友が祈ってくれた。あの頃、恐る恐る開いたマタイの福音書。

あの時から、空が変わった。空が私を見つめるようになった。」(p69

 

< 「荒野で叫ぶ声」に聴き、私たちもまた「荒野で叫ぶ声」となる。 >

 洗礼者ヨハネは自分の役割/使命をはっきりと意識しています。それは救い主イエスの到来を呼ばわる「荒野の声」になることでした。まことの光が到来することを指し示す「指」としての役割です。ヨハネ福音書はこう告げています。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」(1:6-8)。私の中では洗礼者ヨハネ自身が「荒野で叫ぶ声」となったことと星野冨弘さんの声とが重なります。星野さんも「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」と謳うたうことで、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」という「荒野の声」「指」としての役割を果たしているのです。それは今ここで、荒野で叫ぶ声に耳を澄ましている私たち一人ひとりにおいても同じです。私たちもまたそれぞれの場でキリストの救いの道が向こう側からまっすぐに敷かれていることを指さし証しするのです。このひとすじの光の道がこの暗い地上にも敷かれていることを覚えてご一緒にクリスマスを迎えたいと思います。このキリストの道を共に歩む時、私たちにはパウロの語る次の言葉(本日の第二日課ですが)の深い喜びの意味が理解できるのです。 お一人おひとりの上に主の祝福と喜びが満ち溢れますことをお祈りいたします。 アーメン。

 

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。

これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(1テサロニケ5:16-18

2020年12月 5日 (土)

2020年12月06日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道をまっすぐにせよ」

2020年1206日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道をまっすぐにせよ」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 40:1-11

草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。(8節)

〇 マルコによる福音書 1: 1- 8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」(1-3節)

 

 

< アドヴェント第二主日に >

先週から「アドヴェント(待降節)」に入りました。本日は待降節第二主日となります。典礼色は悔い改めの色、王の色である「紫」。アドヴェントクランツの二本目のローソクが点されました。クリスマスまでの四週間、私たちは身を正して主の到来(アドヴェント)を待ち望むのです。

 本日与えられているのはマルコ福音書1章からの御言葉。マルコ福音書は「神の子イエス・キリストの福音の初め(ギリシャ語でアルケー)」という言葉で始まります。四つの福音書の中でマルコ福音書が一番古く、最初に書かれたものと推測されます。恐らく紀元後70年前後のことでしょう。それでもイエスの十字架から既に40年ほどが経っている。先週は福音書として「小黙示録」と呼ばれるマルコ13章を読みました。そこに過酷な表現で描かれていた終末の場面は恐らく紀元70年のローマ帝国によるエルサレム陥落の出来事を背景としていると考えられます。ユダヤ人の反乱を抑えるためにローマ帝国は神殿を含めエルサレムを徹底的に破壊し尽くしたのです。以降、歴史からイスラエルという国は姿を消します。1948年に建国されるまでの1900年近く、ユダヤ人は領土としての国を失ったのです。

福音書の著者のマルコは誰かということには諸説があるようですが、私自身は古い伝承が伝えているようにマルコはペトロの通訳であったと捉えています。ペトロのごく近くにいなければ到底知ることができないような事柄をマルコは記しているためです。たとえば、ニワトリが二度鳴く前に三度イエスを知らないと否んだ出来事などです(14章)。そこからはペトロの息遣いと慟哭が直接聞こえてくるように感じる場面です。マルコはペトロを美化することはありません。弱さや失敗を含めありのままに記録する。リアリズム。マルコはペトロの説教を注意深く聞き漏らさないように書き留めて福音書にまとめたのであろうと考えられます。著者マルコがこの福音書の中で自らを一人称で語ることはありません。マルコはある意味で自分を無色透明にし、ペトロの説教を忠実に再現しながらイエスを描いているのです。「自分がすきとほって背中の神を人にあらわそう」という八木重吉の詩を想起します。

この「初めに」(英語で言えば “In the beginning”)という語はヨハネ福音書の冒頭にも登場します。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」(ヨハネ1:1-3)。またこの「初めに」は創世記の冒頭とも響き合っています。「初めに、神は天地を創造された」(創世記1:1)。この語は時間的・空間的な「初め」を意味するだけでなく、天地万物の存在の根源的な「初め/始まり」を意味していると思われます。イザヤ408で「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と告げられている通り、すべては神との関係の中に始まっているからです。

書物の最初をどのように書き始めるかは文書を執筆する人はいつも頭を悩まされることでしょう。マルコは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書き出しました。その短くも端的な言葉の中にマルコの思いがすべて込められています。すなわち「イエス」は「キリスト」であり「神の子」であるということ、その「福音」(=喜びの音信)が「根源的なはじめ」として私たち人間に贈り与えられているという「神の恵みの事実/真実」が高らかに宣言されている。先週のマルコ13:31には「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」というイエスの言葉がありましたが、それもイザヤ40:8と響き合っています。この不動の「神の言」という岩盤上に信仰者はその人生を築いてゆくのです。

 

< 「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」 >

 マルコはペトロに聴いた通りに語ります。それは本日の旧約日課でもあるイザヤ書の預言の成就でした(40:3)。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」』」。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とある(マタイ1:2-4)。アドヴェントには必ずこのイザヤの預言が告げられます。本日の主題は、私たちにとって「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」ということは何を意味しているかということです。神とまっすぐ、ダイレクトにつながることが求められていると受け止めたいのです。

 私は今回『るうてる12月号』に「魂の志向性 〜 アドヴェント黙想」と題しる文章を書かせていただきました。

「学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:10

 

今年もアドヴェントに入り教会暦は新しい一年が始まりました。私たちは今ここで二千年前の「キリストの降誕」と終わりの日の「キリストの再臨」という二つの「時」の間を生きています。方位を示す磁石が地球の地磁気に対応して北を指してピタッと止まるように、「神のかたち」に造られた私たちの魂も神の愛に応じて神に向くように初めから定められています。だからこそアウグスティヌスの言葉がストンと腑に落ちるのでしょう。「あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」(『告白』、山田晶訳)。私たちの魂は神への志向性を持っているのです。ルカ福音書が記すマリアの讃歌もシメオンの讃歌もそのことを証ししています。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(ルカ1:46-47)。「今、わたしは主の救いを見ました。主よ、あなたはみ言葉のとおり、しもべを安らかに去らせてくださいます」(青式文「ヌンクディミティス」)。救い主と出会う喜びこそ福音の基調音であり、私たちの人生はそのような祝福に向けられています。

 アドヴェントは「主の道を整え、その道をまっすぐにせよ」という「荒野の声」から始まります。「荒野の40年」であるこの人生では進むべき方向が見失われてしまうこともある。東からの博士がベツレヘムの星を目印に夜の旅を続けたように、私たちもキリストの光を目指してこの世の巡礼の旅を続けてゆきます。光は闇の中に輝いています。しかし頼りは星の光ですから、昼間は見えませんし雨や曇りの夜も見えません。夜の闇で星の方角と足下の地面の両方を確認しながらの時間のかかる手探り旅。私たちが携えるべき「黄金、乳香、没薬」とは何か。それは私たちがこれまでそれぞれに大切にしてきた宝物です。一説にはそれらは博士たちが用いた占星術の道具だったとも言われます。とすれば博士たちは自分たちの古い生き方をすべて幼子に託したということになる。彼らはそこで喜びにあふれる新しい人生を発見したのです(マタイ2:10)。私たちもまたご一緒にキリストの日に向けて旅を続けてゆきたいと思います。クリスマスには天からみ使いたちの歌声が響いてきます。「天には栄光、地には平和」。COVIT-19のために今年は例年と少し異なる状況にありますが、ご一緒に天からの言祝ぎの声に共に耳を澄ませてゆきたいのです。   (るうてる12月号 議長室から)

 3日の夜からCOVID-19感染拡大のため大阪では大阪モデルの赤信号が点灯しました。厳しい状況が続いています。感染者はもちろんのこと医療現場や社会福祉の現場では必死の対応が続いています。入院している方々へのお見舞いも制限されている。このような過酷な状況の中で私たち信仰者に問われることは、やはり独り一人の神との垂直でダイレクトなつながりであると思われます。キルケゴールは私たちが神の前にただ独り立つ必要があるという意味でそれを「単独者」と表現しました。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」とは私たち独り一人がこの現実の中で「生ける神の言である勝利者キリスト」にダイレクトにまっすぐつながり続けることを意味しています。ルターは言いました。「我々は皆死に定められており、そのだれもが他人に変わって死ぬことはない。むしろ各人は、自ら独りで死と戦わねばならない。・・・各人は、死の時に自分自身で死の準備ができていなければならない」と(1522年四旬節第一主日説教)。そのような私たちの死の現実の中に、一本のまっすぐなキリストの道が向こう側から私たちに向かって敷かれている。この主の道の上を主に従って歩むように私たちは招かれています。そのことを今ここで覚えたいのです。

2020年11月29日 (日)

2020年11月29日(日)待降節第一主日礼拝 説教「主の再臨」

2020年1129日(日)待降節第一主日礼拝 説教「主の再臨」        大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 コリントの信徒への手紙 一 1: 3- 9

「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方(ピストス)です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(8-9節)

〇 マルコによる福音書 13:24-37

「はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」(31-32節)「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(37節)

 

 

< 「主の日の到来」 >

今日から「アドヴェント(待降節)」に入りました。教会暦では一年の最初の主日となります。典礼色は悔い改めの色であり王の色である「紫」。アドヴェントクランツの最初のローソクが点されました。クリスマスまでの四週間、私たちは身を正して「主の到来(アドヴェント)」を待ち望みます。今日から新しい一年が始まりました。教会暦は三年周期になっていて、これまでの一年間はマタイ福音書を中心に読んでまいりましたが、これからの一年間はマルコ福音書を中心に読んでまいります。来年はルカ福音書です。要所要所ではヨハネ福音書が読まれますが、三年間で私たちはマタイ、マルコ、ルカの「共観福音書」を読むことになります。

 

< 「終わりの日を待ち望む」ところから始める一年の歩み >

 本日選ばれているマルコ福音書13章は「小黙示録」と呼ばれる箇所で、「終わりの日」の情景が描かれています。それは万物が揺り動かされるような大変に厳しく恐ろしい情景です。新約聖書の最後にある預言の書『ヨハネ黙示録』を想起します。それは初代教会のキリスト者たちが厳しい迫害を受ける状況の中で書かれました。私たち人間は楽天的であるように造られていて、人間は歴史を通して次第に上向きに進化・発展してゆくような幻想を持ちやすい存在です。しかし黙示録は私たちの幻想を打ち砕きます。ヨハネ黙示録では、人間の現実はジグザグにドンドン悪い方向に向かっていて、最後はドン底に落ちたところで終わりの日、すなわちキリストの再臨を迎えると預言されているのです。そしてそこにおいては、神によって私たちの「涙が拭われ」「もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない」「新しい天と新しい地」が到来することが告げられているのです(黙示録21:4)。私たちは今ここに、「第一のアドヴェント」(主の降誕)と「第二のアドヴェント」(再臨)の間を生かされています。

 マルコ13章は次のような内容となっています。「エルサレム神殿の崩壊を予告する」ところから始まって「終末の徴」について語られ、「大きな苦難を予告する」言葉が来て「人の子が来る」こと、「イチジクの木のたとえから学ぶこと」が勧められ、目を覚ましているように繰り返し呼びかけられています。そこには読んでいると気が滅入ってしまうようなリアルな情景が描かれています。ある意味で現在私たちが苦しんでいるCOVID-19の現実と重なるようでもあります。

 24-27節をもう一度読んでみましょう。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。驚くべき天変地異の中に、人の子イエス・キリストの再臨が予告されているのです。

 

< 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」 >

聖書には天地創造からその天地が終わるところまでが記されています。私たちの人生に初めがあり終わりがあるように、この世の世界にも始めがあり終わりがあるというのです。しかし次のイエスの言葉は、万物が流転し揺れ動き滅びてゆく中に決して揺れ動くことなく滅びることがないものがあると告げています。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(28-31節)。天地は滅びるが、キリストの言葉は決して滅びない。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」のです(イザヤ408)。私たちはそのような神の御言に拠り頼んでいます。それは「天、共にあり」(一年前、アフガンで凶弾に倒れた医師・中村哲氏の大切にした言葉)ということであり「どん底に大地あり」(『長崎の鐘』で知られる医師・永井隆氏の大切にした言葉)のようなものです。天地万物が揺れ動こうとも決して揺れ動くことのない足場の上に私たちは立っている。私たちは神によってそのような確固とした岩盤の上に置かれているのです。これを私自身が信じるかどうかが求められています。

本日の使徒書の日課である1コリント1章でパウロは次のように語っていました。「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。神は真実な方(ピストス)です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」(1:9)。「神の真実/まこと」(ピストス/ピスティス)によって私たちはしっかりと捕らえられているのです。ルターも追い詰められた絶体絶命状況の中で言いました。「われ、ここ(神の言)に立つ。神よ、われを助けたまえ」。

 

< 「目を覚ましていなさい。」 >

 終わりの日がいつ来るかは誰にも分かりません。イエスは告げています。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(32-37節)。目を覚ましているべきことが33節、35節、37節と「三度」も繰り返されています。「目を覚ましている」ということは「眠らないでいる」こととは違います。そのようなことは私たちにはできません。それは要所要所で、私たちの人生も、この世界も終わりの日に向かって歩んでいることを常に忘れずにいて、最後には主の日が到来することを意識しておくようにということでありましょう。それは「裁きの日」でもあると共に「キリストによる救いの日」でもある。それは「天地は滅びるが、キリストの言葉は決して滅びない」ことがすべての人に明らかになる日なのです。その日を待ち望みつつ、私たちは身を正して、クリスマスまでの四週間を過ごしてまいりましょう。私たちは自ら身を慎み、自身の「罪(神との破れた関係)」を「悔い改めて」、「神に立ち返る」のです。

お一人おひとりの上にキリスト・イエスの豊かな守りと導きがありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2020年11月22日 (日)

2020年11月22日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「終わりの日に問われる愛」

2020年1122日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「終わりの日に問われる愛」 大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 エゼキエル書 34:11-1620-24

わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う。(16節)

〇 マタイによる福音書 25:31-46

そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(40節)

 

 

< 「終わりの日に問われる愛」〜「最も小さき者の一人にしてくれたのは、わたしにしてくれたのである。」 >

今日は教会暦で一年の一番最後の主日となります。次週29日からは新年が始まりアドヴェント(待降節)となります。本日の日課では旧約聖書も福音書も「終わりの日の希望」について告げています。聖霊降臨後の最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれ、典礼色は「白」。神の栄光を表す色です。本日は「終わりの日に問われる愛」という主題に心を留めながら、御言葉に聴いてまいります。

本日の福音書はマタイ25章の最後の部分。そこには「人の子」(=メシア)イエス・キリストが終わりの日に再臨してその栄光の玉座に着座するときすべての民族が裁かれるということが預言されています。「羊」と「山羊」を分けるように救われる者(「祝福される者」)と裁かれる者(「呪われる者」)をイエスが「裁く」というのです。その基準は何か。それは「飢えた者」「のどの渇いた者」「旅をしている者」「着るものがない裸の者」「病気の者」「獄中にいる者」に「愛の行い」をしたかどうか、すなわち「最も小さき者の一人」に「愛の行い」をしたかどうかであると告げられています。しかもその「小さい者に対して行った愛の行為」はイエスご自身にしたことだと言われています。救われる者たちは知らずしてそのような愛を行っていました。逆に、裁かれる者たちは知らずしてそのような愛の行いをしていなかった。もし「終わりの日」に問われるのが「愛」であることを最初から知っていたら彼らも善行に励んだに違いありません。しかしもう遅い。それが重要なことであることには両者とも気づかずにいるのです。

ここで終わりの日に問われるのが「信仰」ではなくて「愛」であるということは大切なことと思われます。しかも、それは小さな愛であり、日常的なささやかな愛なのです。その意味で実は「最も小さき者の一人」に対して「関心を持つこと」がさらに重要です。それらの忘れられてしまうほど「小さい存在」に気づき、自分にできることを考え、行ってゆくのです。私たち一人ひとりが「よきサマリア人」となるように招かれていると言えましょう。ルターが『キリスト者の自由』の中で読者に「私たちは一人の小さなキリストになろう」と呼びかけていた言葉を思い起こします。

 

< 私=「ヒツジ」と「ヤギ」との混合的存在? >

私はこのたとえを読めば読むほど自分が難しいジレンマに陥ってしまうような気がしています。私たちの中には「ヒツジ」と「ヤギ」とが同居していると思うからのです。私たちは「ヒツジ」のように救われたいと願いつつも現実にはどちらかと言えば「小さな者」に対して無関心な「ヤギ」になっているのではないか。いやより正確に言えば、私たちには「ヒツジ的な部分」もあるし「ヤギ的な部分」もある、白黒まだらの存在ではないかと思わされるのです。すべてが「ヒツジ的」でもないしすべてが「ヤギ的」でもない。グレイゾーンが多いのです。どちらかに統合できないでいる。ヒツジ的な部分だけは救われて、ヤギ的な部分は救われないのでしょうか。そうではないはずです。私たちは一人の人間としてトータルに、全人的に永遠の生命に与れるか永遠の罰を受けるか、二つに一つなのです。「永遠」とはそのような意味だろうと思います。部分的な救いではありません。そう思うと私たちは出口のない苦しみの中に落とされるような気分にさせられます。とするとこの預言は私たちにさらに大切なことを伝えようとしているのではないかと思えてきます。それは「最も小さき者の一人」に対する「王なるキリスト」の救いの御業です。神によって立てられた民の「牧者」(エゼキエル34:23)としての働きです。

 

< 「最も小さき者の一人」であるこの私にしてくださったキリストの「愛」〜「I Love You!」というキリストの声>

 確かに「終わりの日」に問われるのは「愛」です。しかしそこで問われる「愛」は第一義的には私たち人間が持つ愛ではない。そこで問われているのは、自ら「最も小さき者の一人」としてこの地上を歩まれたキリストの愛の深さを知ることであり、孤独の中に友も希望なく苦しんでいる「最も小さき者の一人」に注がれた主イエス・キリストの「深い憐れみ」を知ることなのです。キリストご自身がそのような者の一人となり、私たちが飢えているときに食べさせ、のど渇いているときに水を飲ませ、旅をしているときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、獄にあるときに訪問してくださったのです。キリストは深い憐れみのゆえにそのような愛を惜しみなく私たちに注いで下さった。その最たるもの、その極地があのゴルゴダの十字架の出来事です。私は香港を旅した折に一枚の十字架像の描かれた絵ハガキを手にしたことがあります。それは確か、ブルーの背景の中にピンクの光で照らし出されたキリスト像でした。そして一言、その十字架像の下に「I Love You」と記されていた。「アイ・ラヴ・ユー(あなたはわたしの愛する者)」! そこにキリストの声が実際に響いてきたように思いました。それは魂に深く響いてきた神の言葉であり、キリストの声だったのです。

 

< 聖書の読み方「よきサマリア人のたとえ」〜 自分の姿をどこに見るか >

 聖書は自分の姿をどこに見るかで劇的に読み方が変わります。たとえばルカ10章に出てくる「よきサマリア人のたとえ」(10:25-37)。有名なたとえです。そこには登場人物が7人(?)出て来ます。①「旅人」②「強盗」③「祭司」④「レビ人」⑤「サマリア人」⑥「ロバ」(動物ですので厳密に言えば「登場物」とは呼べませんね)⑦「宿屋の主人」の6人と1頭です。私たちはともすれば自分が③「祭司」であり④「レビ人」であると思いつつこのたとえを読むことが少なくありません。私たちの中に何か胸がうずくような「あの時、助けたかったけれども助けられなかった」という深く苦い記憶がいくつもあるからだろうと思います。自分は「よきサマリア人」ではないし、そのようにはなれない、と思うのです。

私が神学生時代、熊本の神水教会でインターンをしていた時に、九州学院で聖書科の授業を何度か担当したことがありました。その時にこの「よきサマリア人のたとえ」を用いて授業をしました。このたとえを読んだ後にクラスの高校生たちにアンケートを取ったのです。二つの質問を出しました。その問いとは次のようなものでした。ⓐこのたとえに出てくる登場人物の誰に一番自分が近いと感じますか。ⓑそれはなぜですか、自由にその理由を記してください。すると生徒たちはとても面白い答えを色々と出してくれました。三分の一は「自分は困った人を見たら放ってはおけないので、サマリア人の役割を果たしたい」というものでした。そして三分の一は「自分はなかなか困った人を見ても助けられないだろう」から「祭司」や「レビ人」に近いと答えてくれました。面白かったのは残りの三分の一です。いろいろと答えは分かれたのですが、「自分は強盗だ」と答えてくれた生徒が三人ほどいたと思います。「人を傷つけてしまうことがあるから」と言うのです。「自分はロバだ。いつも重い荷物を背負わされている」という答えも一つありました。それまで私は「ロバ」を全く考慮に入れていなかったのですが、高校生から教えられたのです。「自分は宿屋の主人だ。お金をもらったら助けるだろう」というのも一人ありました。残りの三人ほどは「自分は強盗に襲われて傷ついた旅人だ」と答えてくれました。傷ついた心を持っているためでしょう。なかなか興味深い結果だと思いませんか。この「よきサマリア人のたとえ」では自分をどこに重ねて見るかで意味合いがずいぶん変わってきます。聖書とはなんと味わい深いものであろうかと思います。イエスはたとえの名人ですね。この「よきサマリア人のたとえ」はそのようにいろいろな読み方が可能なのですが、私たち自身が「強盗に襲われて傷つき倒れた旅人」(=「最も小さな者の一人」)であり、その姿を見てあわれに思い、近寄ってきて傷口を消毒し、薬を塗って手当てをし、包帯を巻いて助け起こし、ロバに乗せて宿屋に連れてきてくれて、デナリオン銀貨二つを宿屋の主人に渡して助けを依頼したサマリア人こそ私たちのためにこの地上に来てくださった「イエス・キリスト」であるという事実を告げています。それこそエ前述のゼキエル34:23が預言していた「牧者」です。私たちがイエスによって傷を癒されたからこそ、私たちは他者のために「一人の小さなキリスト」になることができるのです。

そこから本日の福音書の「ヒツジとヤギのエピソード」を読むと、「最も小さき者の一人」である私に惜しみなく愛を注いでくださったお方こそ私の羊飼いイエス・キリストであることが分かります。その有り難さを知れば知るほど私たちもまた自然にキリストのように生きる者とされてゆくのです。そのことを覚えて新しい一週間を踏み出し、アドヴェントを迎えたいと思います。 お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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