2018年4月20日 (金)

2018年4月15日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」

2018415日(日)復活節第三主日聖餐礼拝説教「復活と焼き魚のリアリティ」 大柴譲治

ルカによる福音書 24:36-48

彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。(41-43)

 

Fact(事実)」と「Truth(真実)」

 キリスト教会は二千年に渡ってイースターをキリストの復活日として祝わってきました。主の復活の光の中にすべてを見てきたとも言えましょう。四福音書の中で一番最初に書かれたマルコ福音書は当初は168節までで終わっていました。9節以降の二つの結びは後の時代の加筆であると考えられています。ですから新共同訳聖書では括弧に入っています。マルコ福音書には復活の証言はなく、それは「空の墓」の記事で終わっていました。「復活」は言葉で表現することのできない神秘であったからかもしれませんし、マルコが書かれた当時(紀元70年頃と推定されます)にはまだ復活の証人たちが生存していて、敢えてそれを言葉にする必要はなかったからなのかもしれません。実は、歴史学が証明できることは「キリストの墓が空っぽであった」ということまでです。キリストの復活は「歴史的な事実Factとしては証明できないのです。証明できるのは、イエスが葬られた墓が何者かによって暴かれてイエスのご遺体がなくなっていたという事実であり、そこまでなのです。「イエスが復活した」ということは私たち人間の理性や経験や知恵を遙かに超えた出来事であり、信仰によって捉えるべき事柄ですから、アカデミックな立場からは実証できない次元の事柄です。カトリック作家の遠藤周作は復活とは歴史的な「事実Factではないとしても「真実Truthであったと語っていました。復活のキリストと出会った十字架の前から逃げ出した弱虫の弟子たちが、復活のキリストと出会った後には全く別人のように変えられて、殉教の死をも恐れずにキリストの福音を全世界に宣べ伝える者となってゆきました。彼らの心の中に真実、キリストはよみがえられたのだと言うのです。これはなかなか説得力のある説明ではないかと思います。しかし本当にそうなのかという思いも私の中には残ります。

 

焼き魚を食べた復活の主のリアリティ

 本日の日課であるルカによる福音書24章には次のような復活の主と弟子たちのやりとりがあります(36-43節)。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。『なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。』こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、『ここに何か食べ物があるか』と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」36-43節)。

 空の墓の場面で終わっていたマルコ福音書とは異なり(ルカにもマタイにもヨハネにも「空の墓の出来事」は記されています)、ルカ福音書には復活のリアリティが伝わってくるような証言が記録されています。復活のキリストは「わたしの手や足をよく見、触ってみなさい」と弟子たちに勧めているばかりか、「亡霊」ではないことを証明するために焼き魚を一切れ食べておられるほどなのです。焼き魚を食べる復活の主。ルカはキリストの復活は歴史の「真実Truthであると共に「事実Factでもあったと私たちに告げているのです。

 

響き合うルカ福音書とヨハネ福音書

 このことはヨハネ福音書が伝えている「復活のリアリティ」と重なります。先週の日課はヨハネ20章の「疑いのトマスのエピソード」でした(24-29節)。それによると復活の主が最初に弟子たちに現れた時にはトマスはそこにいませんでした。他の11人が復活の主と出会ったと喜んでいる中で、トマスだけは「私はこの目で見、この指をその手の釘跡に触れるまでは、そしてこの腕をそのわき腹のやり痕に差し入れてみるまでは、決して信じない」とある意味では頑なに、実証主義的な私たち現代人にも通じるようなリアクションをして復活を一週間疑い続けるのです。そして一週間後のやはり日曜日に主は再びご自身を弟子たちに現されます。今度はトマスもそこにいました。ヨハネ20:20-26「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』トマスは答えて、『わたしの主、わたしの神よ』と言った。イエスはトマスに言われた。『わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。』」

 復活の主はいつも私たちに対して向こう側から自ら近づいてくださり、ご自身を示してくださいます。こちらから人間の側から主に近づいてゆくのではありません。「戸」「鍵」がかかっていても関係ありません。目で見て手で触れることができるほどリアルな復活の主の姿がそこには証言されています。そして、疑いのトマスが信仰告白者へと劇的に変えられたように、復活のキリストのリアリティは私たちを「復活を信じることができない者、疑う者」から「復活を信じて主と告白することができる者」へと変えて下さるのです。「わが主、わが神」!

 ヨハネ福音書には、ルカ福音書にも「焼き魚」が出ていましたが、復活の主が炭火を起こして魚を燒く場面が出て来ます(21:1-14)。夜通し徹夜で漁に出たペトロたちが何も獲れなかった場面です。513節を引用します。5イエスが、『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた。6イエスは言われた。『舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。』そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、『主だ』と言った。シモン・ペトロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

 この場面はルカよりもさらに具体的です。炭火のパチパチとはじける音と匂いと、そして焼き魚の匂いが伝わってくるような情景です。私たちの五感を刺激するかたちで「復活のキリストのリアリティ」がここを読む者の胸に迫ってくる。特に五感の中でも「嗅覚」「味覚」「触覚」という三つの感覚は、直接私たちの脳幹に刺激を与える感覚です。それに対して「視覚」「聴覚」は、遠くから危険が迫ってきても判断に時間をかけることができるような感覚で、その情報は判断するために前頭葉の方に伝えられます。しかし、嗅覚と味覚と触覚は危険が迫ったときにすぐさま反応しなければなりません。嫌な臭いがしたら顔を背けなければなりませんし、苦い物を食べたら吐き出さなければなりません。熱いものに触れたら火傷をする前に即座に手を引っ込めなければならないのです。私たちの五感を通して受け止めた情報はとても具体的なリアリティを持つものなのです。ヨハネ福音書とルカ福音書は「キリストの復活」をそのような「焼き魚のリアリティ」をもって報告しているのです。

 

サクラメント(聖礼典/洗礼と聖餐)においてご自身を示される復活の主

 私たちは復活の主のリアリティをどこで受け取ることができるのでしょうか。今日も私たちは聖餐式に与ります。洗礼も聖餐も具体的な物質を用います。洗礼は水を用いますし、聖餐はパンとブドウ酒を用います。牧師は水とパンとブドウ酒を用いますから私は冗談のように「牧師の仕事は水商売です」と言うこともあります。もちろん「水商売」と言っても意味は違いますが。水とパンとブドウ酒という物質を用いて私たちは、五感を通して復活のキリストのリアリティを分かち合うのです。復活の主ご自身からパンとブドウ酒をこの手にいただき、その匂いを嗅ぎ、歯でかみしめて舌で味わい、飲み込む。五感を通して味わうのです。このリアリティの中に今日も復活のキリストがご自身を示していて下さる。それを覚えつつご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。

2018年4月11日 (水)

2018年4月1日(日)復活日(イースター)礼拝説教「ガリラヤに行け」

201841日(日) 復活日(イースター)礼拝 説教「ガリラヤに行け」 大柴 譲治

マルコによる福音書 20: 1- 8

若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。7さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(6-7)

 

「空の墓の十字架」

 イースターおめでとうございます! “Christ is risen!” “Indeed, he is risen!” これは米国でイースターに交わされる合言葉のような挨拶です。「キリストはよみがえられた!」「まことに彼はよみがえられた!」一般の人にとってはクリスマスの方がよく知られていますが、教会暦では本日のイースターが最も大いなる喜びの日です。「キリストが復活された!」この驚くべきニュースが「福音Good Newsとして告知されていきました。この地上で起こるすべての事柄はこのイースターの日に起こった出来事、キリストの復活の光の中に置かれています。1コリント15章が告げていたように、十字架の死を経て三日目にイエス・キリストは死人の中からよみがえられました。「復活(アナスタシス)」とは「再び起き上がること(再起)」であり「もう一度立ち上がること」です。コンピュータなどをリスタートすることを「再起動」と言いますが、「キリストの復活」は私たちを死の中から真の命へと再起動するため神によって与えられた出来事であると言うことができましょうか。

 本日の週報の最後の方に、ハートマークがくり抜かれた十字架のシンボルを挿入させていただきました。週報は白黒になっていますが、本来それはこのような「赤い十字架」です。赤は血潮の色、燃える生命の色であり、心臓の色、聖霊の色でもあります。解説にありますように、それは「空の墓の十字架」と呼ばれています。フィリピンで活動するカトリックの宣教会「イエスの宣教司祭会」が用いている印象的かつ「劇的な」シンボルマークです。十字架の真ん中に空いた穴は、墓が空の状態、すなわち墓に誰もいないことを意味しています。「空の墓を意味する穴こそ、愛を意味するハートマークで表現されます。十字架と復活の出来事こそ、恵みの結晶であり、愛の極地だからです。空になった心臓は、最も犠牲的なものとして感じられます(宋炳九 ソン・ビョング編、168の十字架―そのシンボルと黙想』2009、キリスト新聞社)。

実は、歴史学が「歴史的な事実」として証言できることは「イエスの墓は空っぽであった」ということまでです。墓が何者かによって暴かれ、イエスの遺体がなくなっていた。「キリストが復活した」ということは、人間の理性や経験を遙かに超えた出来事ですから、実証主義的な立場からは証明できません。信仰的に捉えるしかない。やがて最後までイエスの近くにいた女性たちや弟子たちを中心に「イエスがよみがえられた!」という噂が広まり始めました。最初の、“Christ is risen!” “Indeed, he is risen!”というイースターの合言葉は、そのような驚きを持って人から人へと伝えられていったのです。

最初に書かれたマルコ福音書は168節、即ち「空の墓」の描写で終わっていたと思われます。突然中断されたのでしょうか。最後の部分が失われたのでしょうか。新共同訳聖書では9節から先は鍵括弧に入っていますが、これはこの聖書が底本とした有力な写本の中にはこの部分がないものが少なくないということを意味しています。9節以降に付加されている復活のキリストの顕現の場面(二つありますが)は、マタイやルカを参照しつつ少し後の時代に加筆された部分である可能性が高いということになります。

 カトリック作家の遠藤周作は、「復活」「事実Factではなかったとしても「真実Truthと言います。「キリストの復活は、歴史的な事実として証明することはできないとしても、弟子たちの心の中にキリストが復活されたという真実であったと言うことはできるであろう。なぜなら、十字架の前から逃げ出した弱虫の弟子たちが、復活のキリストと出会った後は別人のように変えられて、殉教の死をも恐れずにキリストの福音を全世界に宣べ伝える者となっていったからである。キリストは彼らの心の中に真実、よみがえられたのだった」。

 イエス・キリストの復活の出来事。これは私たちに、死は終わりではないということ、墓は私たちの人生の終着駅ではないということを教えています。医療の分野には「末期医療」とか「終末期ケア」とか訳される「ターミナルケア」という言葉がありますが、キリスト教の立場から言えば、「ターミナルケア」をそのように「終わりを迎えるためのケア」として見てゆくのは事柄の半分しか捉えていないことになります。なぜかというと、「ターミナル」という言葉には確かに「終点」とか「終着駅」という意味がありますが、もう一つ別の意味もあるからです。バスターミナルなどのことを想起していただくとよく分かると思いますが、「ターミナル」には「分岐点」とか「乗換点」という意味もある。そこは一つの路線の終点であると共に、新しい路線の出発点でもある。つまり「死」という終わりに向かって準備をしてゆくのが「ターミナルケア」だと理解されていますが、そうではなくて本当は、死の向こう側に始まる「新しい(永遠の)命」に乗り換えてゆくための準備、それが「ターミナルケア」なのです。

 イエスはヨハネ福音書11章で、最愛の弟ラザロを亡くして悲しみに暮れるマルタに対して次のように告げています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」25-26節)。これは人間には語り得ない言葉です。そうです。自ら死を超えられた復活の主イエス・キリストにしか語り得ない言葉であると思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言われている通り、イエスを信じる者は、イエスの復活によって示された「永遠の命」に与ることができる。これは大いなる福音です。確かに「事実」として証明することはできない事柄かもしれませんが、「真実」として二千年に渡り歴史を超えて信じられてきた事柄です。もちろんこの場合の「永遠の命」とは「永続的に続く命」という意味ではありません。「永遠なる方」である「インマヌエル(神われらと共にいます)の神」とつながった命ということです。今この瞬間、ここで神とつながった垂直に切り取られた「永遠の今」と申し上げることもできましょう。またこの「永遠の命」とは「死後の命」のことでもありません。今この世界において、死が私たちを取り囲んでいる悲しみの多いこの世界のただ中においても、信じる者には神との関係の中で揺らぐことのない「永遠の命」が与えられているのです。マルタに告げられたイエスの言葉はそのことを明らかにしています。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」というイエスの最初の言葉は、「死によっても断ち切られることのない命」について語っています。「死んだら終わり」ではなく「死んでも終わらない命」なのです。また、「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という二番目の言葉は、「たとえ死の陰の谷をゆく時も、主が共にいましたもうがゆえに、災いを恐れなくてよい」(詩編23)ということです。復活であり命であるキリストを信じる者は「決して死ぬことはない」のです。前に並べられた召天者たちの笑顔がそのことを私たちに証ししています。

 

「ガリラヤに行け!」

 マルコ福音書は「復活のキリスト」が弟子たちをガリラヤで待っていると記しています。空の墓で出会った白い長い衣を着た若者」(=「天使」)はこう告げています。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり(マルコ14:28)、そこでお目にかかれる』と」6-7節)。だから「ガリラヤに行きなさい」と指示するのです。「異邦人のガリラヤ」と呼ばれた「周縁の地」です(イザヤ8:23)。しかしイエスの福音宣教の第一声は、そのガリラヤで始まりました。ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた(マルコ1:14-15)。今一度、復活の主は「ガリラヤ」から弟子たちを再生されるのです。そここそが原点であり、復活の主と出会う再生の場であり、再出発の場です。三度も「イエスという男なんか知らない」と否んだペトロを筆頭として、すべて十字架の前から逃げ去ってしまった弟子たち。トボトボとガリラヤへの道を歩みながら、もうイエスに合わせる顔がないという情けない複雑な思いで重たい歩みを進めていったのではないかと想像します。しかしそのガリラヤで主は、弟子たちを再度「復活の証人」として立ち上がらせて行くのです。「復活(アナスタシス)」というギリシャ語は「再び起き上がること(再起)」です。主はガリラヤで私たちをも待っておられます。罪を裁くためではなく、罪を赦し、新しい生命を与えるために。私たちも「ガリラヤに行け!」という主の確かな声に聴き従ってまいりましょう。“Christ is risen!” “Indeed, he is risen!”

 

2018年3月25日 (日)

2018年3月25日(日)棕櫚主日礼拝説教「子ロバに乗った王」

2018325日(日) 棕櫚主日礼拝 説教「子ロバに乗った王」    大柴 譲治

フィリピの信徒への手紙 2:6-11

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。6-9節)

マルコによる福音書 11:1-11

多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」(8-10)

 

子ロバに乗った王

 私たちは今日、子ロバに乗って「神の都」エルサレムに入城される「王」イエス・キリストの姿をみ言から聞いています。この出来事は、第一朗読にありました旧約聖書ゼカリヤ書9章の預言の成就でした。本日はなぜイエスが子ロバに乗ってエルサレムに入ってゆかれたことに焦点を当ててみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。

 

娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ。ゼカリヤ書9:9-10

 

 力と権威の象徴である立派な「軍馬」に乗っての入城ではありません。柔和さと謙虚さの象徴であるみすぼらしい「子ロバ」に乗って王が到来するのです。群衆は、ダビデ王のように自分たちを他国の支配下から救い出してくれるであろう王を、「ホサナ」と歓呼の声をあげ、棕櫚の葉を振って迎えます。「ホサナ」とは「主よ、救い給え」という意味のヘブル語ですが、今でいえば「万歳!」という意味となりましょうか。イエスは紀元前千年に生きたダビデ王の再来と期待されています。イスラエルが何百年も、否、千年も待った「神の救い」がイエスの登場において成し遂げられるという大きな期待の中に民衆はイエスを熱狂的に迎えているのです。それに対してそこには対照的なイエスの姿があります。熱狂的な群衆と沈黙するイエスの姿は際立っています。聖書には記されていませんが、イエスは笑顔で民衆に向かって手を振りながらエルサレムに入城して行ったのではないと私は想像します。主の目はしっかりと自分がエルサレムにおいて成し遂げようとしておられること、すなわち十字架を見据えていたのでありましょう。十字架の苦難と死を見据えた王の心は「深い悲しみと恐れ」に満たされていたと思います。さらにそこには「神の御心に従う覚悟」があったことでしょう。子ロバに乗った王は「ホサナ」と叫ぶ民衆が、その舌の根も乾かないうちに「イエスを十字架に架けよ!」と叫ぶ者へと変わってゆくことを知っているのです。人々の大きな期待が失望に終わると共に、失望はあっという間に怒りと憎しみに転じてゆきます。大いなる力と権威に充ちた救世主を求めた民衆は、エルサレムで宮清め以外には何もしようとしない無力なイエスに対して、イエスに対して快く思っていなかったユダヤ教の指導者階級たちの煽動もあって、やがて怒りと憎しみをもってイエスに臨むようになってゆく。人間は自分の期待が的外れなものであったことを知るとき、すぐさま怒りがその人を捉え、人が変わったようになってゆくのです。ヤコブ書1:20「人の怒りは神の義を実現しない」と記されている通り、ネガティブな感情的が自分の中に沸々と湧き上がってくる時には私たちは注意しなければなりません。ともすれば「憤り」というものは私たちを神のような「絶対者の位置」に立たせてゆくからです。しかしそれにも関わらず、イエスは子ロバに乗ってただ黙ってエルサレムに入ってゆく。イザヤ書53章が描く「屠り場に引かれてゆく小羊」のように王は十字架の玉座に向かって黙って歩んでゆくのです。主ご自身は人々の無理解にどれほど深く孤独と悲しみとを感じておられたことでしょうか。私たちはこの受難週、主イエスの十字架への歩みへと目を向け、心を開き、耳を澄ませてまいりたいと思います。

 

沈黙の中で主が耳を傾けていたもの

 それにしても沈黙の中で主イエス・キリストは何を聴きとっておられたのでしょうか。本日は使徒書の日課としてフィリピ書2章のあの有名な「キリスト讃歌」が与えられています。これは先ほど「詠歌」で福音書の朗読に備えてご一緒に歌ったみ言でもあります。これは初代教会の讃美歌でした。実はパウロはその讃美歌に(8節の後半ですが)「死に至るまで」という言葉の後に、「それも十字架の死に至るまで」という自らの言葉を加えて再録しています。

 

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

 

 「キリストは、へりくだって、十字架の死に至るまで神の御心に従順であった」と告白されています。主の沈黙は、群衆が熱狂的にホサナと叫ぶ中で、ただ神の御声に向けられており、神の御言に耳を澄ませる姿として現れていたに違いありません。喧噪の中にあっても、ただ神の声に耳を傾けてゆくということ。神の御心に従順にしたってゆくために、神にのみ旨に心を集中させてゆくこと。これが主が沈黙の中で示された生き方です。それこそ私たちに求められている生き方でありましょう。これは逮捕直前、ゲッセマネの園でイエスが苦しみにもだえながら、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい」と弟子たちに命じて、三度祈られた場面を思い起こさせます。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。しかし弟子たちは愚かにも一時も目を覚ましていることができず三度とも眠ってしまいました。肉体は弱いのです。

 

イエスをお乗せした「チイロバ」

 イエスはまっすぐ十字架を見据えて、子ロバに乗るというへりくだった従順な姿でエルサレムに入ってゆかれます。ただ父なる神の御心に「死に至るまでの従順」を貫きつつ。苦難の中で主がこのように歩むことができたのは、父なる神との揺るがぬ一体性があればこそでした。イエスは私たちの重荷をすべて背負って十字架へと歩まれます。

 アシュラム運動を展開した榎本保郎という牧師は「チイロバ牧師」と呼ばれていましたが、『チイロバ』という本の中で、「キリストがエルサレム入城の時にお乗りになったこの子ロバ、チイロバこそ、私たち自身を表している」と受け止めました。主がお入り用なのです(マルコ11:3)。どんなに自分が貧しく愚かで力がない小さな存在であったとしても、キリストはそのような私を選び、清め、御用のために用いてくださる。このような自分にもキリストをお乗せして運ぶという大切な、栄光ある仕事が与えられているのだというのです。そのためにも私たちは、どのような時にも黙して、キリストを見上げ、キリストの声に聴いてゆかなければなりません。どこにキリストに従う道が備えられているのか。様々な声が聞こえる中でも、ただ父なる神の声に聴き従ってゆく。そのような思いをもって、この受難週の一週間を主と共に過ごしてまいりたいと思います。

2018年3月18日(日)四旬節第五主日礼拝説教「世界を動かす力は希望」

2018318日(日) 四旬節第五主日礼拝 説教「世界を動かす力は希望」  大柴 譲治

エレミヤ書 31:31〜34

「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」31節)

ヨハネによる福音書 12:20〜33                   

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」24節)

 

四旬節第五主日〜「一粒の麦死なずば」

 本日は四旬節(レント)第五主日です。私たちに与えられたヨハネ福音書の日課には有名な「一粒の麦」のたとえが語られています。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)。この言葉はヨハネ福音書にしか記録されていません。主イエスはご自身の十字架の死を通して、多くのいのちの実が結ぶことになることを知っていて、この言葉を語られました。神がイエス・キリストを通してもたらそうとしておられる豊かな実り、そこに私たちの揺らぐことのない希望があります。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶのです。

 私たちは死すべき定めに生きています。私たちの存在は有限です。どれほど長く生きようとも、どれほど強く不死を望もうとも、死がすべての終わり、墓が私たちの終着駅であるように見える。しかし主イエスはここで私たちに、それを超えた次元を明らかにしています。死の向こう側に約束されている「神のいのち」「多くの実を結ぶ未来」があり、そこに死を超えた次元があるということを。この希望は「この世的な希望」ではありません。神がその実現を約束しておられる「終末論的な希望」なのです。

 

「世界を動かす力は希望である」(ルター)

 昨年は「宗教改革500年」ということで、私たちは要所要所において宗教改革者マルティン・ルターのことを思い起こしました。彼には様々な印象的な言葉がありますが、次のような言葉もあります(1538年の『卓上語録』より)。「全世界に起こることは、何もかも希望の内に起こるのである。農夫は、収穫を望まないなら、一粒の種も蒔かないであろう。子どもを持とうと望まないなら、だれも結婚しないであろう。証人も労務者も収益や賃金の期待なしには働かないだろう。永遠のいのちへの希望は、われわれをますます前進させるのである」(W.シュパルン編、湯川郁子訳、『ルターの言葉―信仰と思索のために』、教文館、2014p36確かにその通りでありましょう。希望があればこそ、私たちはその希望に向かって生きることができるのです。ピョンチャンのパラリンピックがそれを観る者に大きな勇気と希望を与えたのも、私たちが生きる上で「希望」がいかに大切かを証ししています。「希望」をなくした状態を私たちは「失望」とか「絶望」と呼びますが、キルケゴールが言うように「絶望とは死に至る病い」であって、「希望」なしに私たちは生きることはできないのです。

聖書も「希望」について繰り返し語っています。しかしこの「希望」は人間的な希望ではなく、神が与えてくださる「希望」であり、それも神だけが上から与えてくださる「希望」です。人間的な希望が打ち砕かれても、なおそこに輝き続ける「希望」です。その意味でそれは「終わりの日の希望」を指し示し、「終末論的な希望」を意味しています。パウロはイエス・キリストを見上げながら次のように言っています。「それゆえ、(大柴註:神がキリストにおいて与えたもう)信仰と、希望と、愛。この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」1コリント13:13)。また、ローマ書5章には次のようにあります(1-5節)。このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」。神の与える終末論的な希望」があればからこそ私たちは、どれほど苦難が私たちを襲おうともそれに耐え抜くことができるのです。イエス・キリストが自らのことを「一粒の麦」と語りつつ、死ねばそこには神によって多くの実が結ばれるという神による希望の言葉を語っておられる通りです。その意味では、イエス・キリストご自身が私たちの希望でもあります。キリストが私たちと共にいましたもうがゆえに、「為ん方尽くれども希望を失わず」2コリント4:8)です。どのような状況に置かれても、私たちは今ここで、イエス・キリストという神からの「新しい契約」の光によって照らされています(エレミヤ31:31)。

 

神の「希望」に生きた人〜石井和子さんのこと

「神の与える希望」ということで思い起こすいくつもの出会いがあります。今日はそのうちの一つを分かち合いたいと思います。19864月、神学校を卒業してすぐの私は按手を受けて、広島県の福山という広島県第二の都市、人口37万人の町の小さなルーテル教会の牧師となりました。当時はメンバーが30人ほどで、礼拝出席の平均が12人ほどの小さな群れでした。福山は日本鋼管の城下町とも呼ぶべき町でした。もともと福山、尾道、三原と人口10万人の町が三つ並んでいたのですが、日本鋼管が福山にきてから福山は三倍にも人口が増加したのです。

そこで私は石井和子さんという一人の車いすのご婦人と出会いました。石井さんとの初めての出会いは、1987年、米国人宣教師であったジェリー・リビングストン先生が中心となって、アメリカからお招きしたレスリー・レムキという盲目で肢体不自由、そして精神発達遅滞という三重の苦しみを持つ天才ピアニストのコンサートを急きょ福山で行うということになったために、協力を求めて社会福祉協議会を訪ねた時でした。快く協力を申し出てくださった石井さん(当時の福山車イス協会会長でした)と私は、さらに協力を求めて文字通り福山を中心とした備後地方を私の運転する軽自動車で東に西に走り回ることになりました。その時に石井さんが私が運転する軽トラックの助手席に乗りながら笑顔でおっしゃられた言葉が忘れられません。「先生、大変ですが、本当に生きてるって実感がしますね」。レスリー・レムキのコンサートを通して、またその後石井さんのお宅で家庭集会を始めたことがきっかけで、やがて福山ルーテル教会に転入されることになりました。最初の家庭集会の時に、ご主人は私の顔を見るなり「植木に水をやるから。私はキリスト教は嫌いだ」と言ってプイッと庭に出て行かれたことを思い起こします。最初はそのような出会いだったのですが、ご主人を含めて石井さんご夫妻とはとても親しい交わりをいただきました。石井和子さんはその後しばらしくして胃ガンを発病し、19907月に55歳で岡山大学病院で神さまのみもとに召されて行かれました。

石井和子さんの笑顔の背後には、苦しい人生がありました。キノホルムという整腸剤によって引き起こされた薬害スモン病によって、幸せな家庭生活を突然に奪われ、離婚を通して二人の息子からも引き離され、七転八倒する痛みの中で治療のために神戸の病院にいた時にカトリックの神父と出会って、イエス・キリストを救い主として信じ、洗礼を受けられたのでした。苦しみの中で信仰を得た石井さんは文字通り「筋金入り」のキリスト者でした。福山に住むやはり車イスのご主人と再婚されて、当時はご主人の持つ小さな印鑑業を手伝っておられました。大変な頑張り屋さんでもあり、自分に背負わされた十字架にも関わらず、否、十字架を背負えばこそでしょう、人々の背負っている苦しみや悩みを思いやることができたのです。そして困っている人の悩みを自分のことのように受け止め、一緒に担おうとされたのだと思います。石井さんには周囲にいる人の心を開く不思議な力がありました。太陽のような輝きと温かさをもっておられた。最初は「キリスト教なんか大嫌いだ」と言っておられたご主人も結局、奥様の死を通して、「教会は天国に一番近いところだから、あなたも洗礼を受けて礼拝に行ってね」という遺言の通り洗礼を受けてゆかれました。ご主人の石井弘文さんもまた病いのために数年して天の召しを受けられました。

私たちもまたルターと共に「この世を動かす力は希望である」と告白したいと思います。どのような時にも、希望の主が私たちと共にいてくださいます。お一人おひとりの上に神さまの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

2018年3月12日 (月)

2018年3月11日(日)四旬節第四主日礼拝説教「神のアガペーの愛」

2018311日(日) 四旬節第四主日礼拝 説教「神のアガペーの愛」   大柴 譲治

民数記 21: 4〜 9

「主はモーセに言われた。『あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれを見上げれば、命を得る。』」(8節)

ヨハネによる福音書 3:14〜21

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

3.11」に当たって

 本日は四旬節(レント)の第四主日。与えられた福音書の日課には「小福音書」とも呼ばれる有名なヨハネ316が含まれています。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちはこのみ言葉を本日、二つの時代状況のコンテクスト(脈絡)から聞くことができるように思います。

 一つ目は今日が3.11だからです。今日は2011年の311日に起こった東日本大震災から数えてちょうど七年目に当たります。テレビや新聞では七年前の今日に起こったこと、そしてその後に続いて起こったことに焦点を当てて報道しています。15千人を超える方々が亡くなられ、6千人の方々が負傷され、今も25百人を超える行方不明者がおられます。そのことを思う時、私たちは胸が痛みます。愛する者を失くされた方々にとっては、あの時以来時計が止まってしまって、まだ動き始めてはいないと感じておられる方もおられましょう。あまりにも悲劇は突然でしたし、その被災地域の広さと被害の甚大さは衝撃的でした。今でもありありと私たちの眼には繰り返し放映された津波と原発事故の映像が焼き付いています。ある詩人は「日本慟哭!」と叫びました。あの直後から、三ヶ月ほど私たちは実際に喪に服するような重たい期間を過ごし、テレビやラジオも放送を自粛したことを思い起こします。あの時私たちは慟哭の中で「神はどこにいて、なぜ沈黙しておられるのか」という深い嘆きを発していたのではなかったでしょうか。七年前、311日は金曜日でした。その二日後の313日に、まだ交通網が分断される中で、そして全体像が掴めない中で、教会に集まることができた38人ほどで礼拝を守りました。胸がつぶれるような思いの中で、祈ること以外に何もできない自分たちの無力さを覚える中、ただただひたすら神に祈りました。「わが神、わが神、なにゆえにわたしをお見捨てになったのですか!」というような思いを私たちは被災地の人たちと共有したのだと思います。神はこの世の悲しみの中に降り立って下さいました。

今日私たちは、そのようなことを想起する中で本日の聖書のみ言葉を聞くのです。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この天から響いてくるような言葉には、人知を遙かに越えるような確かさ、明るさを感じることができます。上から私たちを照らす光が感じられる。これは「どのような時にも、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたを見捨てることはない」というインマヌエルの神からのメッセージでもあります。やがて、あの3.11の後に、日本中から黙々と大勢の若い人たちが被災地に集まってきて、無名のボランティアとして自分のできることをしてそして静かに戻ってゆくということが起こり始めました。そして世界中からも深い悲しみを共有する祈りと支援とメッセージが寄せられて、輪が拡がりました。世界ルーテル連盟(LWF)からも災害救援の専門家であるインド人のマタイさんという方が日本に派遣されました。世界から孤立しているのではない、世界とつながっているのだということを私たちはその時実感し、その温もりに慰められたのだと思います。東教区は本(全体)教会と共に協力しながらJLER「ルーテルとなりびと」の救援活動が始まりました。引退牧師の伊藤文雄先生などは、被災地の避難所に何ヶ月も泊まり込んで自ら被災者たちと共にあり続けました。専従のスタッフを派遣し、被災者の方々の日毎に変わってゆくニーズを丁寧に確認しながら、それに「となりびと」として応え、懸命に仕えてゆこうとしたその働きを私は忘れることはできません。この活動は三年間継続して一つの節目を得て終了しています。私たちには3.11のことを忘れず、覚えて祈り続けるということが求められています。

一昨年の熊本地震の際にも教会は、るうてる法人会連合や地域の人々と共に、「できたしこルーテル」の活動を一年半ほど展開したことも記憶に新しいことです。「できたしこ」とは熊本弁で、できることをできる範囲内で行いながら頑張るという意味です。自ら被災しながらも、教会や施設は、地域の人々と共に、悲しみを背負いながら実に頑張ったのだと思います。なぜなら私たちは、神がその独り子を賜るほどにこの世を愛しておられることを知っているからです。どのような時にも、神の愛がこの世に光のように注がれていることを知っている。そのキリストの救いの出来事が根底にあるからこそ、私たちはこの場所に立ち続けてゆくことができるのです。神の独り子は私たちの苦しみや悲しみのすべてを背負って、私たちをそこから贖い出すために、あの十字架へと歩まれました。今は四旬節。主イエスの十字架への歩みを覚える時です。神はその愛のゆえに、十字架に死んだイエスを復活させてゆきます。「復活(アナスタシス)」とは「再び起き上がること、再起すること」を意味します。神の愛は私たちに人生が七転び八起きであることを教えています。

 

ピョンチャン・パラリンピック2018 〜 神のアガペーの愛

 私たちは今日、3.11と共に、もう一つのコンテクスト(脈絡)の中でヨハネ3:16のみ言葉を聞いています。それは韓国のピョンチャンでのパラリンピックが昨日から開催されているというコンテクストです。オリンピックの時同様、その熱い競技の模様を映し出すテレビの場面に釘付けになっている方もおられることでしょう。様々な事情から肉体的なハンディを負いながらも、その状況に負けることなく、前を向き、上を向き、何度倒れても起き上がり、頑張っているそのひたむきな姿は私たちの心を打ちます。私たちはそこに、人間というもののすばらしさを、その真実さと可能性とを深く感じ取ることができるように思います。感動の中で「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」(『ファウスト』)と叫びたくなる瞬間を味わうことができる。そしてさらに深くK観てゆくならば、そのようなオリンピアン一人ひとりの背後には、それを支えてきたその家族や友人や同僚たちの愛と祈りとがあることを私たちは知っています。その愛に支えられて彼らは自分を輝かしているのです。ホンモノの愛だけが私たちのいのちを輝かすことができましょう。盲目のピアニストの辻井伸行にも、片腕(左手)のピアニストである館野にも、またスウェーデンの歌手レーナ・マリア女史にも、そして私たち自身にも、その背後にはその力を信じ、祈りと愛をもって支えてくれる家族や友人たちの輪があ神はそのような交わりを祝福して苦難の中にある人と共に歩んでくださいます。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。独り子を惜しまずに私たちに与えてくださった神のアガペーの愛は、すべての人の上に注がれています。「アガペー」という語は、神の無私の愛、無限に注がれる神の無償の愛を意味します。この神のアガペーの愛こそが、十字架の上で死んだイエスを死人の中から復活(再起)させたように、私たちをも絶望の中から再起(復活)させてゆくことができると信じます。旧約の日課・民数記21:8に出てくるモーセが旗竿の上に高くかかげた青銅の「炎のヘビ」とは、私たちのために十字架に架かられたイエス・キリストです。キリストを見上げることで、人は苦難の中で神からの再生と再起の力を与えられてゆく。本日も、この神のアガペーの愛を噛みしめながら、ご一緒に主の食卓に与ってまいりましょう。

ここにお集まりのお一人おひとりの上に、天からのいのちの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

2018年3月4日(日)四旬節第三主日礼拝説教「うるさい親ほどあったかい?」

201834日(日)四旬節第三主日礼拝 説教「うるさい親ほどあったかい?」 大柴 譲治   

出エジプト記 20: 1〜17

「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(5-6節)

ヨハネによる福音書 2:13〜22                   

「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。』」15-16節)

 

四旬節第三主日「イエスの宮清め」

 本日は四旬節(レント)第三主日。与えられた福音書にはイエスの宮清めの出来事が描かれています。ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」13-16節)。大変過激なイエスの姿です。この宮清めの出来事は実は四福音書のすべてに記録されています。マタイ・マルコ・ルカの「共観福音書」ではエルサレム入城の後、受難週の出来事とされていますが、ヨハネ福音書では2章、イエスの公生涯の最初の部分、カナの婚礼でイエスが水を極上のワインに変えられた最初の奇蹟の直後に置かれています。そしてヨハネ福音書には、共観福音書の三つが記録している重要なイエスによる旧約聖書からの引用の言葉がありません。「わたしの家は、(すべての国の人の)祈りの家と呼ばれるべきである」というイザヤ56:7の言葉がそこには記録されていないのです。

 そのような大きな二つの違いがあるにしても、これは重要なエピソードとして四福音書すべてに記録されているのです。イエスは私たち自身の神との関係を正すために、私たち自身の「心の宮清め」のために来てくださったのだと受け止めることが許されましょう。神との破れていた関係を修復し、もう一度私たちを神との生き生きとした関係の中に招き入れるために主はこの地上に降り立ち、十字架の苦難を背負って歩んでくださったのです。

 

「うるさい親ほどあったかい」

 しばらく前のことですが、テレビのコマーシャルで「うるさい親ほどあったかい」というものがありました。覚えている方もおられることでしょう。インターネットで調べてみたら、それは1980年代の作品で、俳優の武田鉄矢が登場していた公共広告機構のCMでした。私の中にこの言葉は強い印象を残しています。その言葉は同時に、私の中ではマザーテレサの言葉と重なっています。マザーはインドのコルカタで貧しい人々のために全生涯を捧げられたカトリックのシスターです。その言葉の中に「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」というものがあって、それを聞いた時にハッとさせられました。「愛の反対は無関心」。確かにそうでありましょう。憎しみや怒りといったものはまだ一生懸命相手に関わろうとするだけ愛に近いということになります。それに対して無関心は向かい合う人に関わりを持とうとしない態度であり、愛の対極にある態度であると言うことができる。先の「うるさい親ほどあったかい」という言葉も、真剣に子供のことを思えばこそ、うるさいほどしつこく関わり続けようとする親の強い愛情を感じることができましょう。親を看取ってみて初めて親のありがたみが分かるもののようです。確かに、親に限らず、私たちの成長の過程で、自分と真剣に向かい合ってくれた者のまなざしと声、態度というものは、私たちの心に深く刻まれています。旧約の日課で言われている神は「熱情の神(口語訳では「ねたむ神」となっていました)」という言葉も私はそのような意味で捉えたいと思っています。

 

しかし、本当に「うるさい親ほどあったかい」のか? 〜 放蕩息子の父親のケース

本日の説教題は「うるさい親ほどあったかい」と題されていますが、最後にクエスチョンマーク「?」を付けさせていただきました。「そうは言っても本当にそうなの?」というような問題意識からです。「あったかい親が、必ずしもうるさいとは限らないのではないか」と思う気持ちが私の中にあるからです。愛にも様々なかたちがありましょう。温かい温もりを感じさせるような「沈黙の寄り添い」といったものもあると思うからです。むしろ、ボロボロになって自信を喪失したような時には、ルカ福音書15章にある「放蕩息子」のように「自分は息子失格だ」と深く自身を恥じるような時には、戻ってきた息子を父親が遠くから見初めて走り寄りヒシと抱き留めてから祝宴を開いたように、ありのままの姿を受容し包み込んでゆく大きな愛が必要なのだと思います。放蕩息子の父親はうるさくはなかったのです。

先日息子夫婦が私たちの誕生日に合わせて夕食に招いてくれました。その時にこれまでのことを振り返って、息子が大学3年の時に一年間米国留学をした後で、貧乏旅行になるけど世界一周をして日本に帰りたいということを言った時のことが話題になりました。「危ないことに巻き込まれないように、くれぐれも気を付けるように。祈っているから」と言って許可を出したのですが、その時に息子は私にこう言ったのです。「もちろん、注意するよ。でも、もしものことがあったら、その時はゴメン」。私は黙っていました。言葉が出なかったからです。「可愛い子には旅をさせろ」と昔から言われています。さすがに妻にはこのやり取りを伝えることはできなかったのですが、その時には旅立ってゆく息子を送り出す放蕩息子の父親のような気持ちがしたわけです。祈るような気持ちで送り出し、三ヶ月ほどだったでしょうか、世界中を旅して息子は無事に帰ってきました。ホッとしました。よい出会いと、忘れられない体験をしたと思っています。今は大学を卒業して社会人となって5年目を迎えようとしています。ある意味、子育ては「祈り」です。親は祈る以外に、それほど多くのことはできないと思うのです。そのような体験から振り返ってみるならば、私自身も日本を離れて海外体験をした時、私の親も同じような気持ちだったのではなかったかと思います。子供を黙って信じて、祈るような気持ちで旅に出る許可をくれたのだと思います。私は最近、「国境なき医師団」や災害救援、紛争解決のために世界各地で身体を張って頑張っている方たちのことを思う時、その背後に彼らのために祈っているその家族や友人たちのことを思います。そのような熱い祈りが彼らの日々の働きを支えているのだと思うのです。

 

「神の聖霊の宮」としての私たち

イエスは宮清めの出来事を通して、私たちが神に向かって祈るべき存在であることをはっきりと示されました。神の神殿が「神の祈りの家」(イザヤ56:7)と唱えられるべきであるように、パウロの表現を借りれば私たち自身、「生ける神の神殿」2コリント6:16)であり「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」1コリント3:16-17, 6:19)なのです。「主の祈り」でいつも私たちは「み名があがめられますように。み国が来ますように。御心が天でなるごとく、地でもなりますように」と神の御心の実現を祈ります。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛されました。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。神は、私たち一人ひとりに徹底的に寄り添い、共にいてくださる「インマヌエルの神」であり、「熱情の神(ねたむほどに私たちを愛してくださる神)」(出エジプト20:5)なのです。そのような神の熱い思いを私たちにはっきりと示すためにイエスは宮清めを行い、十字架への道を一歩一歩、歩んでゆかれます。今はレント(四旬節)。私たちの心を主の十字架の歩みに向けながら、今朝もご一緒に主の食卓(聖餐式)に与ってまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

 

2018年3月 3日 (土)

2018年2月25日(日)四旬節第二主日礼拝説教「己を捨て、己の十字架を負え」

2018225日(日)四旬節第二主日礼拝説教「己を捨て、己の十字架を負え」大柴譲治    

マルコによる福音書 8:31〜38                   

それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(34-35)

 

最初の受難予告

四旬節(レント)第二主日に与えられた福音書の日課では、イエスの十字架へと踏み出す決意が強く感じられる言葉が告げられています。その直前に起こった出来事はペトロのキリスト告白でした。「あなたは、メシアです」29節)というペトロの告白に続き、イエスは弟子たちにとっては全く理解できない言葉を、メシアにあるまじきことを語り始めるのです。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった31-32節)。「はっきりと」とは「すべての言葉を率直に、明白に、公然と」語ったという意味です。隠さずダイレクトに、率直にイエスはご自身の受難と復活について語りました。これがイエスによる最初の受難予告です。この後すぐ続いて「山上の変貌」の出来事が起こりますが、あと二回(9:30-3210:32-34)、計三回、イエスによる受難予告が共観福音書には記録されています。しかしこの受難予告は弟子たちの理解を遙かに超えることでした。復活が起こってから振り返って見て初めて、その意味が分かったのでしょう。その時にはそのイエスの言葉は全く理解できませんでした。それを聞いたペトロが「イエスをわきへお連れして、いさめ始めた」32節)とありますし、3回目の受難予告後にはゼベダイの子ヤコブとヨハネが自分たちをイエスの一番弟子・二番弟子にして欲しいと願い出ているくらいですから(10:35-45。なお、マタイ20:20-28の並行箇所では彼らの母親が願い出たことになっています)。彼らにとっての「メシア像」はどこまでも、「無力なまま十字架上に惨めに殺されて行くような『苦難の僕』的なメシア像」ではなく、「力と権威とを持った栄光のメシア像」なのです。しかし彼らに、そうした栄光のメシア像を抱いてはならないと言うのは酷でありましょう。私たちが抱く「苦難からの解放者」のイメージは常に後者の、力に満ちたものであるからです。しかし、神の思いは人の思いを遙かに超えています。私たちの思いは神の思いによって、具体的にはイエスの言葉によって打ち砕かれてゆく必要があるのです。

 

「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

イエスはペトロを厳しく叱責しますが、その場面はこう描かれています。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」33節)。「弟子たちを見ながら、ペトロを叱った」とあるのは弟子たち全員がペトロと同じように考えていたからでありましょう。ペトロだけが厳しく叱責されたのではないのです。この場面を読む私たち自身も実は、このイエスの厳しい言葉の前に置かれています。それにしても、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている!」とは何と鋭く痛い言葉でありましょうか。しかもペトロは「あなたこそ生ける神の子キリストです」と正しくキリスト告白をしたにもかかわらず、その直後にイエスによってそのようにいさめられています。事柄としては正しく信仰告白しながらも、間違った思い(「サタン」)に捕らえられていることもあるというのですから大変厳しい言葉です。

イエスの「神のことを思わず、人間のことを思う」とは何を意味しているのでしょうか。意識的か無意識的かは別として、私たち人間は常に自分の求める「神のイメージ」を神に投影しています。それは私たちの祈りを聞いてくれる神のイメージです。それほどまでに私たちはどこまでも自己中心的です。自分が主であって神は従なのです。「神が何を私たちに求めているか」ではなく、「私たちが何を神に求めているか」がどうしても前面に出てきてしまう(主語/主体の違いにご注意下さい)。どこまでも「自己中心的な私」という牢獄から誰が私たちを解放してくれるのでしょうか。

「自我の肥大化の方向」に向かう現代社会〜①コンビニ時代、②テレビ多チャンネル時代、③インターネット時代

昨年1123日に私は、カトリックとルーテル両教会による宗教改革500年共同記念行事が長崎の浦上天主堂で行われた際に、約20年振りに一人のカトリック信徒にお会いしました。松隈康史さんという方で、カトリック中央協議会の広報部におられる方で、20年ほど前にはカトリック新聞の記者をしておられました。当時中央協議会で行われた「インターネットと教会」という内容の講演会に私は参加させてもらったのです。ちょうど前の教会ではホームページを立ち上げようとしていた頃でした。教会がインターネットを使って何ができるかということを考えていた私にとってはとても興味深い講演となりました。それは次のようなものでした。現代社会を特徴を三つ挙げるとすれば、それは①「コンビニ時代」②「テレビ多チャンネル時代」、そして③「インターネット時代」の三つではないかと松隈さんは語った上で、こうおっしゃられたのです。①「コンビニ時代」というのは(大阪教会の周りにも何と5つも6つものコンビニがありますが)、コンビニは24時間開いていて必要なものをいつでもすぐに手に入れることができるため、文字通り大変convenientな存在である。コンビニがない時代には夕方5時とか7時には店は終わってしまうため、時間を外したら店が開く次の日まで我慢しなければなりませんでした。しかし今はコンビニのお蔭で我慢する必要がなくなり、お金があれば欲しいものが欲しいタイミングで手に入る時代になっています。「テレビ多チャンネル時代」も③の「インターネット時代」も同様です。観たい番組はビデオ録画をしておけばいつでも観ることができますし、自分の興味の赴くままネットサーフィンすることができる。科学技術の進歩によって現代社会は人間が自己の欲望を満足させる方向に「進化」し、「自我が肥大化」してゆく方向に向かって進んできたと言えましょう。しかし、教会が宣べ伝えているキリストの福音は、そのような自我が肥大化して行く一線上で交わることがあるのだろうかという松隈さんの鋭い問いかけがそこにはありました。キリストの福音は私たちの肥大化した自我が打ち砕かれるところでこそ働くのではないかと言われたのです。それも人と人との具体的な「我と汝」の出会いを通して私たちは打ち砕かれてゆくのです。真実の出会いを避けては福音に触れることはできないのではないか。インターネットはコミュニケーションの道具としての役割は果たすことができても、最後にものを言うのは人と人との出会いであって、インターネットは人と人との出会いに代わることはないという内容だったと思います。

 

「己を捨て、己の十字架を負え」

今日の日課でイエスは群衆と弟子たちを共に呼び寄せてこう告げています。わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」34-37節)「己を捨て、己の十字架を負え」とイエスは言うのです。「自分が、自分が」という自分の欲望を満足させるような自我の肥大化を目指すこの社会の中にあって、「自分を捨てる」とは「自我が打ち砕かれること」を意味しているでしょう。そして「己の十字架を負え」とは、イエスご自身がそうであったように「苦難を負ってでも神の御心に従え。神に従順であれ」ということでしょう。本当の自由、本当の喜びは、自我の肥大化の方向にではなく、自分を捨て、神の与える己の十字架を背負ってイエスに従うという中で与えられてゆくのです。イエスと出会うことで、イエスを信じる者たちと出会うことで「自己/自我」という牢獄から解放されるのです。「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」とペトロとすべての弟子たちに向かって語られたイエスの言葉は、私たち自身が打ち砕かれ悔い改めて、自我が肥大化してゆく方向に歩のでなく、神の御心がこの私の身において実現する方向に歩むよう招いているのです。モーセの第一戒はこう命じています。「あなたはわたし以外のものを神としてはならない」。それは「真の神を神とせよ」ということです。今は四旬節(レント)。教会暦では主の十字架を見上げる時です。「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい」というキリストの確かな声を深く噛みしめながら、キリストのように、キリストに倣って、神の御心を自らの思いとするような生き方を祈り求めてゆきたいと思います。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

2018年2月18日 (日)

2018年2月18日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」

2018218日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」  大柴 譲治    

創世記 9: 8〜17

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。(13節)

 

マルコによる福音書 1: 9〜15                   

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(9-11節)

 

四旬節第一主日

 本日から六週間の四旬節に入ります。先週の水曜日から聖灰水曜日(Ash Wednesday)ということで、教会暦では主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入りました。典礼色は悔い改めの色であり王の色でもある「紫」。日曜日を除く40日間を受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」は「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。身を慎んで主の十字架を覚えたいと思います。

 

< 二つの天からの声 >

先週は主の変貌主日で、高い山の上でイエスの姿が真っ白に輝き、旧約聖書のモーセ(父祖代表)とエリヤ(預言者代表)がイエスと親しく話す場面が与えられました。そして神顕現を顕す「雲」が彼らを覆い、雲の中から声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9:7)。いついかなる場合にも私たちが耳を傾けるべきは主イエス・キリストであることが明らかにされていました。

本日の日課はイエスの受洗の場面から始まります。ここでも天からの神の声が響き渡ります。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと押し出されてゆき、40日間そこで「悪魔の誘惑(試練)」を受けてゆくのです。そしてその誘惑に打ち勝った後、イエスはガリラヤで公に福音宣教を始められます。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。それは神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。無条件の存在是認と言ってもよいでしょう。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っているのです。

神のこのような私たちに対する確かな声が試練の中で私たちを支え守り導いてゆきます。「荒れ野」とは人間の力が無力であることがどこよりもはっきりと分かる場所です。そこは神に頼ることなしには人は生き抜くことができない場所なのです。それゆえそこは同時に「神顕現の場」でもあります。40日間」とはモーセが荒れ野で40年間さまよい続けたことを私たちに想起させてくれます。40は聖書では完全数で、一世代が次の世代に移り変わってゆく年月、つまり「人間の一生」を表しています。モーセも出エジプトの出来事を体験したイスラエルの人々も、荒れ野の旅の途中で「金の子牛」を神として拝んだという罪の罰を背負うかたちで「神の約束の地」には入ってゆけないのです。そしてその次の世代が「乳と蜜の流れる約束の地」に入ってゆくことになります。

映画『十戒』の中に、若き日のモーセがエジプトでイスラエル人をいじめるエジプト兵を殺してミデアンの荒れ野に逃げてゆく場面がありました。その荒れ野でモーセはとうとう力尽きて倒れてゆくのですが、そこに次のような印象的なテロップが入ります。「人の力が尽きたところから神の御業が始まる」と。祭司エテロの娘ツィポラが倒れたモーセを見つけて介抱してゆくのです。「人間の力が尽きたところから神の救いの御業が始まる」とは確かにそうであろうと思いますが、本当にそうなのだろうかとも私は思います。神の救いの御業は、いつも働いているのではないか。私たちが自分の力に頼って生きている時には、それがおそらく見えないのです。私たちが自分の力に頼ることができなくなって初めて、神の救いの御業に気づかされるのではないかと思えてなりません。私たちが自己に絶望して、徹底的に自我を打ち砕かれ、ボロボロになったどん底で神に拠り頼む時に、神の憐れみの御業が私たちにおいて既に実現していたことを知らされるのでしょう。その中心にイエス・キリストの十字架と復活という出来事があります。

 

「低い自己肯定感」の上にかけられた「虹」のしるし

現代社会では、特に若い世代において「自己肯定感(自尊心/自尊感情)」が乏しいというような声が聞こえてきます。「あなたは自分を好きですか」という問いかけに対して「嫌いです」とか「大嫌いです」と即座に答える若者が最近増えていると言われています。自己肯定感が低く、そこから必然的に「生きづらさ」を抱えてゆくことになるのでしょう。「生まれてきてすみません」という内向的で恥ずかしい気持ち(shame)が強くなってしまうのです。若い頃に私たちは「根拠のない自信」を自分の中に培う必要があると思われます。そのためにも私たちは自らに対する「無条件の存在是認の声」を必要としているのです。旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)の12章に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」1節)という言葉があります。文語訳では「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」と訳されていました。実はこれも私は、私たちが幼い頃から「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの声に触れて生きるように促す言葉であると私は思っています。私たちの魂は、赤ちゃんがその母親からの無条件の存在是認を必要とするように、神からの無条件の存在是認の声を必要としているのです。特に、エリク・エリクソンという乳幼児発達心理学者は1歳までの母親との関係が赤ちゃんの成長過程の上で決定的に大きな影響を与えることを明らかにしました。人間や自分自身に対する「基本的な信頼感(Basic Trust)」を得ることができるかがこの時期の発達課題である言うのです。

「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声は、私たちの魂がその根底において求めている根源的な声であり、私たちが人生で繰り返し困難に陥った時にそこへと戻ってゆくべき「原点」でもありましょう。このような声を告げてくれる人と出会うことができた人は幸いです。では、戦争や災害など時代的な状況や家族環境的な制約のゆえに親から豊かな愛情を注がれる体験が乏しい人、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という自己肯定的な存在是認の声を聴くことができなかった人はどうなるのでしょうか。私たちはどれほど愛情を注がれてもそれに満足することができず、飢餓感を持つ存在なのかも知れません。井上陽水が歌うように「限りないもの、それは欲望」なのです。生きる構えとしての「基本的信頼感(Basic Trust)」を生育歴の中で獲得できなかった人はどうなるのか。1歳までが大切だと言われてももう遅いではありませんか。私たちはもう1歳を遙かに過ぎてしまっているのですから。そのような時にはどのようにすればよいのでしょうか。

大丈夫です。「聖書は神さまからのラブレター」(キルケゴール)ですから、聖書からその声を聴き取ってゆけばよいのです。私たちは繰り返し声に出して「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という言葉を自分の耳に入れる必要がある。他の人から繰り返しそのような確かな声を聴く必要があるのです。他にそう言ってくれる人がいなければ、自分で自分に向かってその言葉を言い続けてもよいのです。あるいは音楽でも美術でも映画でも、そのようなメッセージを自分に伝えてくれるものを身近に持っておけばよい。主日礼拝に出てみ言葉を聴き、聖餐式に与り、祝福を受けて派遣されてゆく。このこと自体が神からのI Love You! あなたはわたしの大切な人。わたしの心に適う者」という「無条件の存在是認の声」を受け止めるということだからです。十字架への歩みを始められたイエスもまたそのような天からの声に生かされ続けた方でした。私たちもキリストに倣いたいと思います。常に(あるいは人生の要所要所で)天を見上げて、天からの声に生きる者でありたい。そう願っています。それが私たちに示された神からの「契約のしるし」としての「虹」なのだと信じます。ご一緒に虹を見上げて歩んでまいりましょう。

お一人おひとりの上にそのような神さまの愛における祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2018年2月16日 (金)

2018年2月11日(日)主の変容主日礼拝説教「『啓示の光』体験」

2018211日(日) 主の変容主日聖餐礼拝 説教「『啓示の光』体験」     大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 4: 3〜 6

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(6節)

マルコによる福音書 9: 2〜 9                   

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2-4節)

 

主の変容(変貌)主日

 本日は「主の変容主日」。「変貌主日」とも呼ばれますが、高い山の上でイエスの姿が栄光に輝いたという出来事を覚える主日です。今週の水曜日から「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」ということで、教会暦では主の栄光が諸国民に顕現した(顕された)ということを覚える「顕現節」が終わり、いよいよ主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入ります。今日は典礼色は神の栄光を顕す「白」ですが、次週からは悔い改めの色であり王の色でもある「紫」が用いられてゆきます。日曜日を除く40日間受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ、「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。

 いつも顕現節の一番最後に来るのが本日の山上の変貌の出来事です。主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三名の弟子を連れて「高い山」に登り、そこで弟子たちは不思議な光景を目の当たりにします。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」2-3節)。 そして、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていたということが起こるのです(4節)。三人の弟子たちは、イスラエルの歴史の中でも特に重要な使命を果たした父祖の代表である「モーセ」と、「炎の戦車(Chariot of Fire)」に乗って生きたまま天へと挙げられた預言者を代表する「エリヤ」とが、イエスと三人で語り合う姿を見るのです。この出来事はイエスがこれから果たそうとすることが「旧約聖書の預言の成就」であり「神の御心に適うこと」、そして「神の栄光」に満ちた出来事であるということが示されています。しかしその「栄光」とは「隠された栄光」でもありました。

 

隠された栄光

「隠された栄光」というのは、それはイエスの復活の時まで誰にも分からなかったからです。フィリピ書2章には初代教会で歌われた讃美歌「キリスト讃歌」として記録されています(6節〜11節)。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。神の身分であり、神と等しいものであった栄光のキリストが、自分を捨て、無となり、奴隷の姿となって人間としてこの地上に降り立たれたのです。キリストはこの地上で、十字架の死に至るほどのへりくだりと神の御心に従った従順とを示されました。天上にあった時の神の御子としての栄光の姿は、その生前は唯一回、本日の山上の変貌の出来事においてのみ、明らかとされたのです。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、高い山の上で特別な「『啓示の光』体験」をしているとも言えましょう。三人は驚き恐れます。5-6節にはこう記録されています。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのであると。ヤコブとヨハネもペトロと同じ気持ちだったでしょう。まばゆい聖なる神の光の中に立たされた時に、私たちはおそらく、我を忘れて彼らと同じような気持ち、同じような言葉を語るのでありましょう。

次の場面はこう記されています。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」7節)。「雲」は神がご自身のご臨在を顕わされる時に神が用いられる道具でもあります。「これはわたしの愛する子。これに聴け」。神の声ははっきりと、私たちがいついかなる時にも耳を傾けるべき人を指し示しています。それは私たちの救い主、羊飼いである受肉と十字架と復活の主イエス・キリストです。

この神の声は私たちにイエスの洗礼の場面を思い起こさせてくれます。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと送り出されてゆき、40日間サタンの誘惑」を受けることになります。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っています。それに対して、この山上の変貌の出来事の中で聞こえた神の天からの声は、「これはわたしの愛する子。これに聴け」というように、イエス自身に対してではなく、弟子たちに向かって、イエスの周囲にあってイエスに従う者たちに向かって発せられています。この言葉は私たちに、どのような時にもイエスの御心を求めてゆくようにと促しています。イエスの中に神の御心が明らかとされているからです。そこでは、ヨハネ福音書が繰り返し強調しているように、イエスと父なる神とは一つなのです。

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」8節)。三人は、夢を見ていたような気持ちになったことでしょう。イエスも栄光にまばゆく光輝く姿から、もとの普通の姿に戻っておられました。しかしペトロとヤコブとヨハネの三人は、それを人々に話してはならないと口止めされます(9節)。一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」。復活後にようやく彼らはその出来事を話すことを許されるのです。その山上の変貌の出来事がキリストの勝利の栄光を顕す出来事であったということのすべては復活の光の中で明らかにされるのです。

 

「啓示の光」体験

 この主の変容の出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。私たちが日常生活の中で主の栄光の姿が隠されているということを知るということでしょうか。地上の悲しみや怒りに満ちた惨めで救いようがないような日々の出来事の中には、全く隠された栄光を見出すことができないのではないかと思われます。私はこの世に起こるすべての出来事を主の復活の光の中で見てゆくということを教えているのだと思います。

昨日私は日基教団天満教会を会場として開かれた21世紀キリスト教社会福祉実践会議第11回大会」に参加させていただきました。そこでは「貧困・差別とたたかうキリスト教社会福祉」という主題の下に、釜ヶ﨑で「こどもの里」というこどものための居場所作りに1970年から50年近く関わってこられたカトリック信徒の荘保共子(しょうほともこ)さんと、「聖公会生野センター」で総主事として長く働いてこられた在日大韓教会信徒の呉光現(オ クァンヒョン)さんという二人の方々の実践報告を受けました。お二人の実践に裏打ちされたお話しを伺いながら私は、どのような困難の中にあっても、どれほど大きな怒りや悲しみ、徒労や失望を味わい続けたとしても、決して諦めることなく、再び起き上がってゆかれる(「復活」とは「再起」を意味します)姿を通して、すべてを復活の光の中で見てゆくとはこのようなことなのだと改めて教えられたように思います。「これはわたしの愛する子。これに聴け」という神の声の通り、私たちはキリストに耳を傾けることを通し、いついかなる時にあっても希望の光、復活の光、神の啓示の光を見上げてゆくことができるのです。そのためにも今私たちに与えられているネットワークを大切にしたいと思います。それが私たちにとって「神の隠された栄光に与る」ということであり、「『啓示の光』体験」ということになるのです。

2018年2月 4日 (日)

2018年2月4日(日)総会聖餐礼拝説教「主に望みをおく人は〜ランニングハイ」 

201824日(日)総会聖餐礼拝説教「主に望みをおく人は〜ランニングハイ」 大柴譲治 

イザヤ書 40:21〜31

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」30-31節)

 

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31) 

 ピョンチャンの冬季オリンピックの開幕が9日に近づいてきました。楽しみにされている方もおられることでしょう。また、2年後の2020年には東京オリンピックも予定されています。先週の日曜日(28日)には大阪国際女子マラソンが行われましたが、本日の総会礼拝にあたって私は本日のイザヤ書40章のみ言葉と重なる一つの映画を思い起こしています。それは1924年のパリ・オリンピックを描いた『炎のランナー』という1981年製作のイギリス映画です。この映画は、作品賞をはじめアカデミー賞を四つも受賞した映画で(他に衣装デザイン賞と脚本賞、そして作曲賞)、ヴァンゲリスが作曲し演奏するシンセサイザーのテーマ曲もヒットしました。原題は“Chariot of Fire”(炎の戦車。以前に「シャリオ」という名前の車がありましたがそれです)。それは旧約聖書列王紀下2:11から取られ、預言者エリヤが「炎の(一人乗り)戦車」に乗って地上を見下ろすシーンが回想されるという意味のタイトルでした。

 

映画『炎のランナー』〜1924年のパリ・オリンピックでの実話

 物語は今からほぼ100年ほど前に遡ります。1924年のパリ・オリンピックが映画の舞台で、実在の人物がモデルとなっています。映画を御覧になられた方もおられるかもしれません。映画は短距離走で競い合う二人の青年を主人公に据えて、その二人の歩みを丁寧に追ってゆきます。一人は大富豪の息子、ケンブリッジ大学の学生であったユダヤ人青年のハロルド・エイブラハムス(1899-1978。聖書的に呼べば「アブラハム」ですね)。ユダヤ人として差別に苦しんできた彼はオリンピックの金メダルを取って真の英国人になろうとします。プロのコーチにもついて必死です。もう一人は、神の栄光のために走るスコットランド人宣教師の息子のエリック・リデル(1902-1945)。彼は競技場で皆に求められると聖書の解き明かしをしたりもするのです。彼もまたスコットランド人として英国では中心ではなく周縁に置かれてきた人物でした。オリンピック後にエリックは父と同じように宣教師になって中国に派遣され、そこで日本軍に捉えられて収容所で脳腫瘍のために43歳の短い生涯を終えてゆくことになるのです(ネットを読むとその後の彼の物語も出てきます)。エリックのランナーとしてのフォームは、ある意味頭をのけぞらせ手を振り回すという独特(滅茶苦茶)なのですが、彼は走っているうちに不思議な喜びに満たされて最後は天を仰ぎながら満面笑みを浮かべて皆の先頭でゴールしてゆくのです。彼は自分のためにではなく、神の恩寵を讃えてその栄光を顕すために走るのです。まさにその姿は本日のイザヤ書の言葉に合致します。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31。彼らは二人とも100m200mの英国代表選手として選ばれてゆきます。英国という国はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという四つの国の連合したUnited KingdomUK)です。結局エリックは100m走の予選が日曜日に行われるということを知り、自らの信仰の立場を貫いてそれに参加することを拒否します。しかし、400m走の選手が機転を利かせてエリックと交代し、結果としては100m走に出たハロルドと、400m走に出たエリックと共に優勝して金メダルを英国に勝ち取ることになります。ユダヤ人とスコットランド人という生粋のイングランド人ではない二人の青年が、それぞれのアイデンティティーを賭けて、「炎のランナー」としてパリ・オリンピックで走るのです。原題の“Chariot of Fire”(炎の戦車)というタイトルはもしかして、その二人の地上の人生を描きながらも天上から神の祝福をその対照的な二人に注ごうとしている炎の戦車に乗ったエリヤの姿を浮かび上がらせていたのかも知れません。

その映画の冒頭は砂浜を走るイギリスのオリンピックチームの練習の姿で始まり、最後は同じく砂浜を走る練習風景で終わります。その場面にヴァンゲリスのシンセサイザーの曲が重なるという、様々な意味で深い余韻を残した優れた映画だったと思います。ぜひ御覧になっていない方は御覧になっていただきたいと思います。イギリスの名作映画100選の中にも19番目に選ばれている名作です。

 

「ランナーズハイ」

 イザヤ書40:31の言葉は私たち信仰を持つ者が生きるための根源的な力をどこから得るかを明らかにしています。主(なる神)に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」のです。今はマラソンブームで、先週もこの教会のすぐ横で大阪国際女子マラソンがありました。皆さんの中にも走ることが好きな方もおられるかもしれません。しかし「主に望みをおく人」は本当に疲れないのかと言うと、私はそうではないと思います。信仰者であっても走れば息が切れるし、長く歩けば足が疲れるのです。30節にある通り、若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れるのです。信仰者であっても同じように弱りもすれば疲れもする。しかしただ一点違いがあるとすれば、恐らく私たち信仰者はどん底にあっても神から見捨てられることなく、希望を持ち続けることができる。私たちは主イエス・キリストから新たな力を得ることができるということを知っているのです。「信仰」(ピスティス)とは私たち人間の業ではありません。私たちは自分の力に頼って神を信じているということではない。それは神の恵みの御業であり、「神の〈まこと〉(ピスティス)」(小川修)なのです。神が私たちを捕らえ、私たちにおいてそのみ業を実現してくださる。「神の〈まこと〉」が私たちの中に応答としての「人間の信仰」を生起させるのです。

 最近「ランナーズハイ」という言葉がしばしば使われます。お聞きになったことのある方もおられましょう。走っていて苦しいけれどもそれをひたすら我慢して走り続けると、ある時点を超えると急に楽になって不思議な陶酔感や恍惚感、喜びに満たされるという現象が起こります。それを「ランナーズハイ」と呼ぶのです。そこでは脳内にリラックスした時に出る脳内にα波という脳波と「脳内麻薬」とも呼ばれる快感ホルモンのβエンドルフィンという物質が出て、走っているランナーたちをハイにして「至高感(至福感)」を与えてゆくのだということが次第に分かってきました(2015年以降、その原因物質は「内在性カンナビノイド」(通常は大麻に含まれる)という別の物質であるという新説も出ているようです)。同様に登山家たちが登山の途中に感じてゆく「クライマーズハイ」や、最近ではホスピスの看護師などに見られる「ワーカーズハイ」という現象も報告されています。「苦難を通して歓喜に至る」のですね。

私たちキリスト者はどのような場合にも主イエス・キリストを見上げてゆきます。そこにはもしかすると、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とイザヤによって預言されているように、「ビリーバーズハイ」とも呼ぶべき現象が生起するのかも知れません。しかしそれは陶酔感や恍惚感というよりも、キリストが私たちを救うためにこの世の闇のどん底まで降りてきて下さったことを覚えて深く慰められ、心に深く平安を与えられるという「静かな幸福感」であると思います。そしてキリストのゆえに、キリストと共に、私たちは自分に与えられた苦しみや悲嘆を、己を捨て、己の十字架を担ってキリストに従ってゆく力が上から与えられてゆくのだと信じます。聖餐式で私たちが感じるようなキリストのリアリティが日々私たちを支えるのです。

 今日は大阪教会の定期総会です。昨年一年間を振り返り、新しいこの一年について協議する大切な日です。その日に与えられた聖書のみ言葉であるイザヤ書40:31は、牧師報告にも掲げさせて頂きましたが、まことに時に適ったみ言葉であると思います。私たちは聖書のみ言葉から、主イエス・キリストの言葉、その独り子を賜るほど私たちを愛して下さっている神の言葉によって日ごとに「新たな力」を得てゆきます。主が共にいましたもうがゆえに(「インマヌエル」!)、私たちは走っても弱ることなく、歩いても疲れない。私たちと共にいてくださる主が私たちを支えて下さるからです。そのことを覚え、主の上に私たちのすべての「望み」を置きながら、ご一緒に本日の総会を経て、新しい一年をご一緒に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に天よりの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

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