2022年10月2日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

2022年102日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「からし種一粒〜すべてを神に頼る信仰」

大柴譲治joshiba@mac.com

○ ハバクク書 1 : 1-4、2: 1 – 4

見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。(4節)

○ ルカによる福音書 17 : 5 - 10

使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 (5-6節)

 

< 「神に従う人は信仰によって生きる」 > (以下、下線は大柴が記す)

 本日の第一日課のハバクク書はこう告げています。「幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(2:2-4)。「神に従う人は信仰によって生きる」。これが本日の主題です。

 この主題は実は聖書の中では繰り返し宣言されています。特に使徒パウロはこのことを強調しました。たとえばローマ書の117節が有名です。彼はハバクク書を引用しながらこう語ります。「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(新共同訳,1987)。新共同訳聖書は「初めから終わりまで信仰を通して」と意訳していますが、それはギリシャ語原文で読むと「ピスティスからピスティスへ」とある。「ピスティス」とは通常「信仰」と訳される語ですが、実は初めの「ピスティス」は「神のピスティス(真実・真理)」を、後ろの「ピスティス」は「人間の(応答としての)〈まこと〉」を意味する。新共同訳のようにそれを「初めから終わりまで」と訳すとそれが消えてしまう。最新の聖書協会共同訳(2018)では次のように訳し分けられています。「神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです」。

 パウロは、ガラテヤ書3章では「信仰の父」と呼ばれるアブラハムを引きながら次のように言っています。「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」。そして続けるのです。「だから、信仰によって生きる人々こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい」(7節)。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています」(9節)。「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」(11節)。「正しい者、神に正しく従う者」は「神のピスティスによって生きる」のです。

 

< では「ピスティス」とは何か 〜 それは「神ご自身の、真実・忠実・まこと」のこと >

 これまでも申し上げてきたことですが、私たちはここでも注意しなければなりません。「信仰」という日本語は「礼拝」という語と同じく、人間の行為が主体となっている語です。「人間が(神を)信じて仰ぐ」ことが「信仰」であり、「人間が(神を)礼拝らいはいする」ことが「礼拝れいはい」となっているのです。確かにそのような側面もありますが、それでは事柄の半分も表現し切れていない。もともと「ピスティス」というギリシャ語(その形容詞は「ピストス」)は「真実・真理・まこと・忠実」という意味を表す語です。旧約聖書のヘブル語では「エメト」(真実・真理)が「エムナー」(信頼・信仰)となり、私たちが祈りや讃美歌の最後に唱える「アーモーン/アーメン」(まことに・真実に)という語につながっていきます。

 そしてこの「ピスティス」「エメト/エムナー」という語は人間の行為に先立って、実は神の側の行為を意味する言葉なのです。このことはとても大切です。神の行為が先にあって人間がそれに応答してゆく。イニシアティブは常に神の側にある。これが聖書が繰り返し告げている事柄です。人間が神を探し求めるのではなく神が人間を捜し求め、人間に呼びかけてくださっているのです。それを私の恩師である小川修先生は、「第一義のピスティス」と「第二義のピスティス」とキチンと厳密に区別しています。「神の真実/〈まこと〉」「第一義の〈まこと〉」が先にあって、それに対して私たち人間が「第二義の〈まこと〉」「人間のピスティス(信仰)」をもって応答するのです。「ピスティス」という語が出てくる際には人間の次元だけを考えるのではなく、神との次元を、神と人との相互関係を考えなければなりません。

 

< 私たちの中に働く「からし種一粒ほど」の「神のピスティス」 >

 本日の福音書の日課では、弟子たちがイエスに問うところから始まっています。「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』」(ルカ17:5-6)。

 この弟子たちの質問の背後には、何年経ってもなかなか自分たちの信仰が強くならないという実存的な悩みがあったことが想像できます。私たち自身もそのように思う面があるためによく分かります。「自分は洗礼を受けてずいぶん年月が経つけれども、自分の中に信仰が深まってきているという実感がない。もしかすると自分は信仰者失格なのではないか」というような深い疑いや迷いが私たちの中にもあるのです。特に受洗者の姿を見るととてもまぶしいような気がする。確かに自分も同じ気持ちだったはずなのに・・・。弟子たちがイエスに「私たちの信仰を増し加えてください」と願い出たことには、そのような思いが透けて見えてきます。

 16章で「不正な管理人のたとえ」と「金持ちとラザロのたとえ」を聞き、17章の最初にはさらに厳しいイエスの言葉を聞いて、彼らは自分たちがその厳しさに耐えられるだろうかと不安になったのでしょう。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17:1-4)。弟子たちは自分が「躓きをもたらす不幸な者」ではないか、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまうような者」ではないかと怖くなったのです。「自分は七回も赦し続けることができない」と感じたかも知れません。イエスの言葉に従うことの困難さを身に沁みて分かっていたから、どうか自分たちの中に信仰を増し加えてくださいと彼らは願い出たのに違いないのです。自分にはさらなる確固たる信仰が必要だと思ったからです。この意味で弟子たちは正しいと思われます。私たちもまた弟子たち同様に、常に、信仰を増し加えてくださいとイエスに願い出る者、祈り求める者であるのですから。

 

< イエスによる神のピスティスの勝利宣言 〜 「あなたの信仰があなたを救った。」 >

 「ピスティス(信仰)」とは実は人間の行為ではないと先に申し上げました。ヘブライ書11:1には信仰の定義が次のように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。有名な言葉です。しかしこれには補足が必要です。信仰とは、「神が私において望んでいる事柄を確信し、見えない神の恵みの事実を確認することなのだ」と。繰り返しますが、「ピスティス」とは人間の行為ではなくて私たちにおいて働く神の主体的な行為です。

 イエスは新約聖書の中で繰り返し告げています。「あなたの信仰があなたを救った」と。調べますと、この言葉は福音書の中に7回も繰り返し記されている。①マタイ9:22、②マルコ5:34、③マルコ10:52、④ルカ7:50、⑤ルカ8:48、⑥ルカ17:19、⑦ルカ18:42。特にルカが一番多くそれを記録していることが分かります。このうち①と②と⑤は12年間出血が止まらずに苦しんできた女性がイエスに後ろから近づいてそっとその衣に触れると癒された場面で語られ、③と⑦はエリコの近くで癒された盲人についての並行箇所で告げられていますので、厳密に言えば四つの奇蹟の出来事においてイエスは語っていることになります。「奇蹟」とは「神の憐れみの行為」であることを心に留めておきたいと思うのです。いずれにせよこの「あなたの信仰があなたを救った」というのは、イエスによるピスティスの勝利宣言であると言えましょう。信仰とは人間の行為ではなく、私たち人間の中に働く神の行為です。そこからこの言葉を再度読み解くならばそれはこのような宣言になる。「あなたの中に働く神のピスティス(真実・真理・〈まこと〉)があなたを救った」。

 実はイエスの「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」という言葉もそこから理解してゆかなければなりません。「桑の木が自ら歩き出して海にまで動いていって根を下ろす」ということは物理的には無理な話です。桑の木には足はないのですから。その前半の「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」という語が大切なのです。イエスは次のように告げておられるのです。「あなたがたの中には実は既に、『からし種一粒』のように、それは小さく見えるのでどんなに努力して見ようとしても見えにくいのかも知れないが、『神のピスティス』が確かに働いているのだ。そのピスティスは莫大なエネルギーを有している。桑の木が海の真中に移って根を降ろすように、神が願うことはそれが不可能に見えたとしても必ず実現する。あなたの中に働く神の〈まこと〉が必ずあなたを守り、導き、救いの御業を実現するのである。人間にはできないことであっても神にできないことはないからだ」。神の恵みの働きからもれてしまう人間はどこにはいないのです。これが福音です。

 私たちはご一緒に、私たちの中に働く神の真実・真理・〈まこと〉の御業を見上げてゆきたいのです。

 お一人おひとりの上に主の祝福をお祈りいたします。 シャローム。

2022年9月24日 (土)

2022年9月25日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ラザロを深く省みられる神」

2022年925日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「ラザロを深く省みられる神」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ テモテの手紙 一 6 : 6 – 19

もっとも、信心(エウセベイア)は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。なぜならば、わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。(6-8節)

○ ルカによる福音書 16 : 19 - 31

しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』(25-26節)

 

< 『金持ちとラザロのたとえ』 >

 本日のルカ福音書16章には「金持ちとラザロのたとえ」が登場します。これはルカ福音書に固有なたとえです。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』(19-26節)

 生前には裕福な暮らしをしていた金持ちと極貧で惨めな暮らしをしていたラザロが、あの世ではそれが不可逆的に逆転するのだとここでは宣言されています。だからこそ生前に手遅れにならないうちに、神に喜ばれるキチンとした生き方をしなければならないということが告げられている。それは一言で言えば「憐れみ深い生き方」「愛に満ちた生き方」でありましょう。そこでの裁き手が「信仰の父」である父祖・アブラハムであることも印象に残ります。

 死後の世界で金持ちは自分の生き方を早く悔い改めればよかったと悔やみます。悔やんでも悔やみきれない。しかしどんなにジタバタしてももう遅いのです。そこで自分の5人の兄弟のために使者の派遣を申し出ます。しかしアブラハムは答える。「『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」(29-31節)。これまた恐ろしい情景です。C・ディッケンスの『クリスマスキャロル』に出る強欲な金貸しのスクルージではないですが、私たちは手遅れになる前に生き方を悔い改めて神の前に回心する必要があるのです。

 

< 映画『最高の人生の見つけ方』〜 関本剛 『ガンになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方、考え方』>

 917日〜18日に私が所属する日本臨床死生学会の学会がオンラインでありました。その中で一人の緩和ケア医・関本剛医師(神戸在住、43歳)が自ら末期ガンになったことを通して考え体験してきたことについてユーモアを交えてお話しくださり心に響きました。関本医師は『ガンになった緩和ケア医が語る「残り2年」の生き方、考え方』(20208月、宝島社)という本を出版し、現在Amazonではベストセラー一位となっています。

 中でも私の心に残ったのは、関本医師が末期ガンになって改めて、『最高の人生の見つけ方』という米国映画を参考にして自分に残されている時間のためにやりたいことをリストアップし、それを一つひとつ実践してゆこうとしている姿でした。その映画の原題は “The Bucket List”(バケツリスト/「棺桶リスト」?)で、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンという二人の個性派性格俳優の主演で2007年に製作されたものです。末期ガンを患う二人の人間(一人は億万長者でもう一人はしがない高齢の労働者)が生きているうちにやっておきたいことをリストアップして一緒に世界中を旅して回るという内容の映画で、皆さんの中にもご覧になられた方もおられるかもしれません。なかなか面白い映画でした。関本医師はその映画を参考に自分のしたいことをリストアップするのです。「自分が生きた証を残す」ということをメインに据えながら、「動けるうちにしたいこと」「動けなくなったら」という二つの領域に分けて記す。たとえば「動けるうちに」には次のようなことがありました。「できるだけ稼ぐ(自分が楽しむために&家族が路頭に迷わないために)」「家族と一緒に過ごす時間を楽しむ」「自分が生きた証しを残す(書籍・動画)」「自分の葬式の段取りをする」「大切な人に出来るだけ多くのメッセージを残す(動画)」「大切な人に直接感謝を伝える」「『もしもの時に家族が困らないセット』を準備する(動画)」「友人、知人に感謝を伝える」「良い酒(ワイン)を飲む」「スキーを楽しむ」「キャンプを楽しむ」「音楽(バンド活動)を楽しむ」。「動けなくなったら」にリストアップされていたのは、いかにも医師らしいと思いましたが、「意識がはっきりしていれば」と「意識がはっきりしていなければ」の二つの領域でした。前者には「撮りためた海外ドラマや一日中見続ける」「家族と一緒の時間を楽しむ」「大切な人に直接感謝を伝える」、後者には「妻や子どもたちのしたいように・・(負担にならぬよう)」とありました。最後には次の言葉がありました。「生殺与奪はその時の家族の気持ちにまかせる(症状緩和がなされているのが条件)」。私たちにとっても大いに参考になるのではないかと思ってここにご紹介させていただきました。

 

< 使徒書の日課〜「神に望みを置き、善行に富み、物惜しみせず、喜んで分け与えるように」 >

 マタイ福音書の25章には「終わりの日」の「人の子(=イエス・キリスト)」の再臨が予告されています。その時に一人ひとりが問われるのは、「信仰」を持っているか否かではなくて、飢えている人や喉の渇いている人、旅人、裸の人、病人、獄中の人など「最も小さい者の一人」に対して(意識せずに)行った「憐れみ/愛の行為」です(マタイ25:31-40)。 

 本日の第二日課の1テモテ6章にも神に喜ばれる具体的な生き方が勧められています。それは「金持ちとラザロのたとえ」に出てくる「金持ち」に決定的に欠けていたものでした。そして逆に、映画『最高の人生の見つけ方』の大富豪に豊かに備えられていたものでした。「神に望みを置き、善を行い、善い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるよう」生きることで、その大富豪は得がたい生涯の友を得ることができたのです(ルカ15章の放蕩息子もそうすべきでした)。

 

< ラザロを深く省みられる神 〜 神の憐れみの中に今ここを生きる >

   この金持ちとラザロのたとえを別の観点から見てみましょう。生前貧しいラザロは確かに不遇な人生を歩んでいました。しかしそれは、何も誇るべきものを持たないにもかかわらず、神によって省みられた人生、神の豊かな憐れみに祝福された人生でした。さらに言えばそれは「キリストと共なる人生」「キリストご自身の人生」だったのです。キリストは常に「慈しみ深き友」であるからです。インマヌエルの主はその貧しさや悲しみの中でラザロと共におられました。それはこの世的に見れば、イエスご自身がそうであったように、孤独で苦難の多く、誰からも理解されない「神によって呪われた人生」に見えたかもしれない。しかしラザロはラザロなりに信仰を全うしたということが死後明らかになる。主の憐れみに生きる他なかったラザロ。逆説的ですがそれは地上で最も祝福された人生だったと言うことができましょう。 

 ここで私たちが目を向けるべきことは、貧しいラザロを深く省みられる「神の憐れみ」です。神は常に私たちのすべてを見ていてくださいます。私たちはそのことに信頼しなければなりません。どんな小さな愛の行為をも神は喜んでくださる。先日私は松本義宣先生と一緒にルターの町であるドイツのアイスレーベンに足を運びました。その地はルターの誕生の地であると同時に亡くなった場所でもある。数百メートルも離れていない場所に生誕と逝去という二つの家があり、それぞれが資料館になっていました。特にルターが逝去した家には彼の最後の言葉が刻まれていました。それは「私たちは神の乞食(物乞い)である。これは真実だ」という言葉でした。私たちはラザロと同様、神の前では何も持たない者なのです。すべては神の恩寵の中で与えられます。この私が私として生を与えられ、神によって生かされ、そして死んでゆく。神の恩恵なしには片時も生きえない。それがそのルターの最後の言葉に明らかにされていた真実です。今ここで神の豊かな恩寵に生きる。神の前に誇るべきものを何も持っていないことを知ることで、それが明らかになります。

  お一人おひとりの上に主の守りと祝福とが豊かにありますようにお祈りいたします。  アーメン。

2022年9月17日 (土)

2022年9月18日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「不正にまみれた富で友達を作れ」

2022年918日(日)聖霊降臨後第15主日礼拝 説教「不正にまみれた富で友達を作れ」

大柴 譲治joshiba@mac.com

○ ルカによる福音書 16 : 1 - 13

主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。(8-11節)

 

< 「抜け目のない管理人のたとえ」 >

 本日のルカ福音書15章には「不正な管理人のたとえ」が登場しています。これはなかなか印象的なたとえで、主人の借金帳を書き直して負債者たちに恩を売ろうとする「抜け目のない(賢い)管理人」が出てくるのです。彼は雇い人の中で「管理人」になるほど能力に長けた人物でした。しかし彼には敵対する者がいた。彼を主人に告発する者がいたのです。「この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。おそらく彼はこれまで、金持ちである主人の管理人になるためには手段を選ばなかったのでしょう。人は必ず自分の蒔いたものを刈り取ってゆくことになるのです。「財産を無駄使いしている」ということに関しては全く反論していないことから、彼にはそのように告発されても仕方のない事実があったと思われます。また彼は自らの非を認めて弁解や謝罪をするということもしていません。

 主人は彼を呼びつけて言います。「お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない」。会計報告を出せばすべては一目瞭然となる。彼は悪知恵を用いて、自分が首になったらどうすればよいのか懸命に考えます。彼の「土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」という自己理解はなかなか冷静でシビアな観察です。自分の立場を最大限利用して将来のためにできることは何かと全力を尽くす。彼は全く後ろを振り返ろうとはしない。「そうだ、借金証書を書き換えて負債者たちに恩を売ろう」と思いつき、すぐさまそれを実行に移します。倫理的には正しいとは言えない行動であるとしても恩を売るのには効果的なやり方でした。

 このたとえの解釈には色々あって、「借金を帳消しにした部分」はもともと「利子だった」「管理人の取り分だった」「管理人に自由に負かされていた部分だった」と整合的に説明する人もいます。なるほどとは思いますが、それではあまり面白くありません。聖書の後ろに記されている度量衡によると、「油100バトス(2300ℓ)」を半分にするということは1150ℓも減らすということになりますし、「小麦100コロス(23000ℓ)」を「80コロス」にというのはその20%を返済しなくてよいことになり、両方とも膨大な量となる。負債者たちに恩を売るためには半端ではなく十分すぎるほどの量でした。負債者たちは多いに助かったに違いありません。管理人に対して忘れ難い恩義を感じたことでしょう。彼は確かに「ヘビのように賢い」。彼は自分の立場を最大限利用することで、何一つ自身は損をしていません。損をしているのは主人だけです。もし書き換えた量が「利子分」であるとすれば、当初の契約は履行されないとしても主人も実際は損をしていないことになる。「不正な管理人」のしたことは違法行為スレスレか分際を越えていたのかも知れませんが、それによって負債者は大いに得をするし、管理人自身も恩を売ることで大きな利を得ることになるのです。

 

< イエスのおおらかさ 〜 「ヘビのように賢く、ハトのように素直であれ」(マタイ10:16)>

 イエスはその不正な管理人を非難することはせず、それを認めるようなかたちで大らかにもこう言いました。「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(8節)。ここで「主人」と訳されている語は「キュリオス」。それはイエスご自身を指しているとも受け止めることができます。「抜け目のない」と訳されていますがそれは「賢い」という語。マタイが言うところの「ヘビのような賢さ」です(10:16)。不正な管理人の賢いやり方をここでほめているのは主人であると共にキリストご自身でもあるのです。私たちもまた、しぶとくしなやかに、賢く、諦めず、この世の現実に対処してゆかなければなりません。

 「そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(9-11節)。9節の「富」はギリシャ語で「マモン(お金)」。ルカ福音書は実は「この世のマモンの正しい用い方」についてこれまでも繰り返し触れていました。この後に記されている1619節からの「金持ちとラザロのたとえ」も19章の「徴税人ザアカイのエピソード」もそこに関わっています。15章の終わりには有名な「放蕩息子のたとえ」があり、これもまた「マモンの正しい使い方」についての教訓を含んでいました。「放蕩息子」は父親から得た財産を自分の欲望を満たす放蕩だけのために用いたのですが、実はそれを「友」を作るために用いるべきでした。しかし彼はそれを自らのためにしか使おうとしなかったため、飢饉が起こった時にせいぜい「ブタの世話」を紹介してくれるほどの知人しか得ることができませんでした。誰も助けてくれなかったのです。どん底に落ちて初めて彼は「我」に返ります。「そうだ、お父さんのところに帰ろう」と。自分が帰るべき場所にようやく思い至ったのです(ルカ15:17)。

 

< 私たちが立ち帰るべき場所 〜 父と子から示された永遠の恩義 「いつくしみ深き 友なるイエスは」 >

 イエスがこのたとえでほめたのは、その管理人が自分を助けたい一心であったとしても、恩義を売ることによって将来のために自分の友を作ろうとした点にありました。困ったときに頼りになるのは真に「忠実な友」です。今日の日課には「小事に忠実な者が大事にも忠実である」というイエスの言葉が出ています。この「忠実な」という語は、第二日課にも出て来ていたのですが、大事なキーワードでもあります。ギリシャ語では「ピストス」という形容詞でその名詞形は「ピスティス」。「真実な」「忠実な」「誠実な」「信頼に足る」「信仰的な」「まことの」という意味の語であり、「愛(アガペー)」という語と同様、聖書では神の本質を表す重要な言葉でなのです。

 管理人はそのように証書を書き換えることで恩を売って「忠実な友」を得ることができました。困ったときに恩を示されるという出来事は私たちの魂に深く刻まれます。「恩恵」という語にも「恩」という字が含まれていますが、私たちは恩義を受けるとそれを容易に忘れることはできません。私たち自身の人生をそれぞれ振り返って見てもそうでありましょう。親の恩、親族の恩、恩師や親友による恩、見ず知らずの人から示された小さな恩に至るまで瞬時に思い起こせます。借金を減額してもらった人々は、その額は50%であれ20%であれ、膨大なものでした。心の底から有り難いと恩義を感じたことだった。「不正にまみれた富」を用いて「恩義を忘れない忠実な友を作ったこと」になります。イエスの言う通り、「そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」ことになるのです。

 さらにこのことに関して大切なことがあります。それが最も重要と私は思うのですが、私たちを「永遠の住まいに迎え入れてくださる」のは神です。それは独り子を賜るほどこの世を愛された真実なる神なのです。十字架の道を歩まれた御子イエス・キリストこそ、その天父の〈まこと〉に最も忠実に歩まれたお方でした。そこに、神の愛(アガペー)と真実(ピスティス)とがある。「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」(ヨハネ15:13)という自らの言葉の通り、イエスは自らの命を捨てるほどの真実な愛を示して、先週の日課にあったように「罪人の頭」(1テモテ1:15)でしかない私たちの友となり、その罪を贖ってくださった。十字架に示された父と子からの「恩恵」を受け止めることが求められています。

 先週礼拝後に持たれた召天記念会と納骨式で私たちは「いつくしみ深き、友なるイエスは」という讃美歌(教団讃美歌312番、教会讃美歌371番)を歌いました。この讃美歌は、葬儀でも結婚式でも、繰り返し歌われる教会で最も愛されている讃美歌の一つです。まさにここで歌われている通りの憐れみと愛と真実を「いつくしみ深き友」として主イエス・キリストは私たちに示してくださったのです。そのことを覚えつつ、すべてを捨てて友となってくださったお方の恩義に応えて、私たちのすべてを主に託してまいりたいと思います。 お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、

 罪とが憂いを 取り去りたもう。

 こころの嘆きを 包まず述べて、

 などかはおろさぬ、負える重荷を。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、

 われらの弱きを 知りて憐れむ。

 悩み悲しみに 沈めるときも、

 祈りにこたえて 慰めたまわん。

 

 いつくしみ深き 友なるイエスは、 

 かわらぬ愛もて 導きたもう。

 世の友われらを 棄て去るときも、 

 祈りにこたえて 労りたまわん。  アーメン。

2022年9月10日 (土)

2022年9月11日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「魂を探し求める神」

2022年911日(日)聖霊降臨後第14主日礼拝 説教「魂を探し求める神」 

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ 出エジプト記 32 : 7 – 14

どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。(13-14節)

○ テモテの手紙 一 1 : 12 – 17

以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 (13-15節)

○ ルカによる福音書 15 : 1 - 10

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」 (4-7節)

 

 

< 礼拝 = 神によって罪赦された「罪人たち」の祝宴 >

 本日のルカ福音書15章には「失われた羊」と「失われた銀貨」のたとえが出て来ます。どちらも大切な「神の民」のたとえですが、神の前に罪を犯して失われた者たちが再度見出された時には天において大いなる祝宴が開かれると言われています。7節にはこうあります。「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」。福音の基調音はどこまでも天の喜びなのです。

 このたとえは次のような状況で語られました。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした』」(1-2節)。当時のユダヤ教の律法から見ればイエスの食卓には「罪人たち」としか思えない人々が集まっていました。それが厳しく批判されている。それに対してイエスは、罪を悔い改めた者たちのためには天においては大きな祝宴が開かれるのだと宣言しています。同時にそこでは、イエスを囲むこの食卓が天の祝宴の先取りであり前祝いであることが告げられているのです。礼拝とは実に、神に罪を赦された者たちの祝宴なのです。そこで求められている大切なことは「罪の自覚」であり「罪の悔い改め」です。自分が道を見失ってしまっているということに気づく必要があります。

 

< 罪を忍耐される憐れみの神 >

 本日の第一日課である出エジプト32章には、偶像崇拝の罪を犯した神の民に対して怒りを燃やし厳しい裁きを与えようとする神の姿が記されています。「主はモーセに仰せになった。『直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ」と叫んでいる。』主は更に、モーセに言われた。『わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする』」(7-10節)。しかし結局、モーセが神をなだめたために神は怒りをもって裁きを下すことを「思い直された」のでした(14節)。先週の日課の申命記30:20にあったように、神は民に「死と呪い」でなくて「生と祝福」を選ぶことを望んでいるからです。私たちにもとりなしの役割が求められています。

 また、第二日課も再度読んでおきたいと思います。そこでパウロは自らを「罪人の頭」(口語訳聖書、聖書協会協同訳聖書)と呼んでいますが、それにも関わらず「神の憐れみ」によって救われたことが明記されている。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」(1テモテ1:13-15)。かつては神を冒涜し、迫害し、暴力を振るう者であったパウロ。彼を神は憐れみによって赦し、強め、選び立て、用いてゆかれるのです。「わたしを強くしてくださった、わたしたちの主キリスト・イエスに感謝しています。この方が、わたしを忠実な者と見なして務めに就かせてくださったからです」とある通りです(12節)。

 

< イエスのもとに集まった人々 〜 見失われていたのに見出された者たち >

 ある時にイエスはこう言われました。「健康な人に医者はいらない。いるのは病人である(医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である)」と(ルカ5:31)。その通りです。病気や障がいや様々な生きづらさ、痛みや苦しみ、悲しみを抱えている人が「魂の医者」であるイエスのところに集まったのです。その者たちをイエスは「飼い主のいない羊/見失われた羊」として深く憐れまれたのです(マタイ9:36)。それはイエスこそが、私たちの失われた魂の在処を探し求め、傷ついた魂を癒やし、救いを与えてくださる真の「魂の医者」であり、すばらしい「魂のカウンセラー」なのです。

 しかし前述のように私たちの最大の問題は、自分の罪、自分の傷、自分の失われた存在性に気づかないでいることです。それは「イエスは罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだしたファリサイ派や律法学者たちの姿勢に明かです。「自分は健康」と自覚している者の魂ほど絶望という死に至る病に犯されていると言えるかもしれません。自分が体調が悪く医者が必要と自覚している者は医者のところに足を運びますが、そのような自覚がない者たちはそれをせずに手遅れになってゆくのです。その意味で「罪の自覚」を持つということ、自分の魂のあり方に「これでいいのか」と違和感を持つということが大切です。弱り果て、打ちひしがれている自らの姿に気づくのです。

 では「罪」とは何か。「罪」と聞くと私たちはすぐに何か悪いことを「する」ことを連想します。法律に違反することを「罪を犯す」と言うからです。「あなたがたは罪人だ」と言われると私たちはそれを否定したい気持ちになる。法を犯してはいない、何も悪いことはしていないのですから。実は聖書では「罪」とは神と人間との破れた関係を表す関係概念です。真の神との正しい関係に入っていないことを「罪」と呼ぶのです。何か悪いことをするという行為Doingの次元ではなく、関係の破れという存在Beingの次元を表す言葉です。その自覚は、たとえば良心の呵責や罪責感情、羞恥感情のような違和感や痛みに現れましょう。痛みを感じる時に私たちは自分の身に何かおかしいことが起こっていると感じて医者に行きます。痛みがないと大変なことになってしまう。パウロはかつての自分が「罪人の頭」であり、「神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者」だったと告白します。これはかつてパウロがユダヤ教の若きエリートだった時にキリスト教の迫害者だったことを語っています。その時には彼には全くその自覚はありませんでした。ダマスコ途上で復活のキリストと出会うことでそれは劇的なかたちで生じました。そこにはキリストと出会うことを通して知った自らの罪の、それまでは真の神を神としなかったという深い痛み・苦しみ・反省・悔い改めがあるのです。

 

< 祝宴への招き〜「自分のような罪人の頭が天国に入れないとすれば、それはキリストの沽券に関わる」(鈴木正久) >

 私たちは今朝もこのキリストの食卓に招かれています。聖餐式こそ行われませんが、御言の祝宴に与っています。そのことを共に喜び祝いたいのです。私はかつて日本基督教団の総会議長だった故鈴木正久牧師の言葉をしばしば思い起こします。「私のような罪人の頭が天国に入れるかどうかということに関してですが、もし天国に入れないとすればそれはキリストの沽券に関わります」。鈴木先生は癌末期の闘病の中、最晩年の説教の中でそう言われました。録音テープが残っています。「沽券に関わる」とは古風な言い方ですが、「品格や価値、プライドや面目を保てないこと」を意味します。それはイエス・キリストは御自分の持つすべてを賭けて、私たちを必ず神の国・天の祝宴に招き入れてくださるという鈴木正久先生逆説的で確固とした信仰告白なのです。

 本日私たちは「神の礼拝」に与っています。この礼拝は天の祝宴の先取りであり前祝いです。この地上での礼拝は天における礼拝につながっています。今ここで、この瞬間にも私たちは天の祝宴に共に集っているのです。失われた一匹の羊が見出された時の大きな喜びがそこにはあります。神は私たちの魂を見出すためにその在処を探し求めてくださっています。神は「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」お方です。そのことを覚えて心より感謝したいのです。

 お一人おひとりの上に天よりの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

 

2022年9月 4日 (日)

2022年9月4日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「信従と断捨離」

2022年94日(日)聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「信従と断捨離」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

○ 申命記 30 : 15 – 20

わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。 (19-20a節)

○ ルカによる福音書 14 : 25 - 33

もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 (26-27節)

 

< はじめに >

  私はこの説教檀に立つのは87日(日)の平和主日以来ですので、今朝は久しぶりにホームグラウンドに立たせていただいている感があって嬉しく思っています。811日(木)に喉に違和感を感じ、12日に発熱してCOVID-19陽性となりました。そして821日(日)までの10日間、自宅療養となりました。814日と21日の二回の日曜日は、信徒による礼拝隣、私の説教を西田代議員が代読をしてくださるかたちになりました。そして先週の主日礼拝は、2018年以来4年振りにドイツ・ブラウンシュヴァイク州立教会に招かれて宣教会議に出席することになっておりましたので、信徒による礼拝となりました。犬飼代議員が奨励をしてくださいました。731日(日)には私が夏の休暇を取らせていただいたために、大阪教会はやはり信徒による礼拝で、西田代議員に奨励をしていただきました。このようなかたちで安定して信徒による礼拝が淡々と行われてゆくところにこの大阪教会の底力を感じたのは私ひとりではないと思われます。

 振り返ってみれば、2020年の2月からCOVID-19のパンデミックが始まり、私たち大阪教会でももしもの場合はどうすればよいかを検討し始めました。その結果、2020年は11回、昨年2021年は18回、今年は6回の主日礼拝を、それまでのようにこの会堂に集まるというかたちを止め、ごく少人数(結果としては毎回4-5人のみ)がこの会堂に集まって礼拝を行い、その礼拝をインターネットで中継するというかたちで守りました。礼拝を短縮し、讃美歌もヒムプレイヤーを用いて1節のみを歌い、それまでは毎週行っていた聖餐式や礼拝後の愛餐会も休止となりました。三密を避けることや換気に気を使うことなどなど、これまで体験したことのない状況に対処することになったのです。それまで私たちは礼拝堂で礼拝を守ることができるということが当たり前と思っていたわけですが、実はそうではなくて大きな恵みであることを私たちは体験してきました。教会で礼拝ができなくなるということ、これは大きなチャレンジでもありました。しかしインターネットのオンライン配信を通しても、神は働いてくださっているということを私たちは知ることになったのです。日本語で「礼拝」と言うと私たち人間の「礼拝(らいはい)」という行為に焦点が当たってしまいますが、ドイツ語では「礼拝」のことを「Gottesdienst」(神の奉仕/神による奉仕)と呼びます。英語では以前はやはり「Worship(礼拝/らいはい)」と呼んでいましたが、今は「神による礼拝」という意味で「Service」という語が用いられます。牧師の司式・説教による礼拝も信徒による礼拝も共に「神の礼拝」であることに違いはないのです。そこで働くのは神であり、神の聖霊です。対面のみの形態であっても、オンラインのみの形態であっても、あるいは両者が同時に行われる形態であったも、それは「神による礼拝」です。今から50年ほど前から福音宣教に関して「ミシオデイ」という言葉が用いられるようになりました。それは「神の宣教」「神による宣教」という意味のラテン語です。

 2020年にパンデミックが始まった時から、もし牧師がCOVID-19に感染した場合(陽性者になった場合)にはどう対処するかということも役員会では話し合いました。礼拝を短縮して、もし牧師が説教を作ることができるのであればそれを役員が代読する「代読説教」のかたちを考えました。それが適わない場合には、たとえば他の教会では『聖書日課』を読むという形態を取ったところもありますし、他教会のオンライン礼拝につながるという形態を取ったところもあります。いずれの形態を取るにせよ、参加者が少なくても多くても、礼拝は常に「神による礼拝」なのです。「聖霊」がそこでは天から吹き注がれています。

 

< 神の招き 〜「あなたは命と祝福を選びなさい。」>

  本日の第一日課には申命記30章からの言葉がありました。とても率直で明快な言葉です。

「わたしは今日、天と地をあなたたちに対する証人として呼び出し、生と死、祝福と呪いをあなたの前に置く。あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につき従いなさい。それが、まさしくあなたの命であり、あなたは長く生きて、主があなたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた土地に住むことができる」(19-20節)。

 神はここで私たちに「命と祝福」とを選ぶように求めておられます。神の御心は私たちが死ではなくて命を、呪いをではなくて祝福を選ぶことなのです。「神の礼拝(Gottesdienst/God’s Service)」に与るということは、神の恵みによって私たちが命と祝福を選ぶという行為なのです。そのことを私たちはいつも心に留めておきたいと思います。

 

< 本日の福音の日課が私たちに伝えていること 〜 キリストへの信従 >

 本日の福音の日課はルカ14:25-33。イエスによって大変厳しい言葉が語られています。その言葉はイエスについてくる大勢の群衆に対して語られています。「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。これまで弟子の心得として12弟子に語ってこられたことと同じでした(マタイ10:34-36)。「平和ではなく、剣を投げ込むためにわたしは来た」というイエスの言葉もルカ12:49-53にはありました(それは814日の日課でした)。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。イエスに従うということ、イエスを信じて従うという意味で私はそれを「キリストへの信従」と呼びたいのですが、「信従」においてはイエスを第一とすることが徹底的に語られます。地縁や血縁ではなく、キリストに聴従する。イエスに従う者にはそのような覚悟が問われている。続く27節にはさらに厳しい言葉が続きます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。「十字架を背負う」ということは「不条理なかたちの苦難と死であってもそれを覚悟する」ということです。既にルカ9章でイエスは弟子たちにはっきり告げておられました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)。日々、すなわち「毎日、自分を捨て、自分の十字架を背負え」というのです。

  28節〜32節は少し前後の脈絡からは分かりにくい言葉が挟まれています。「塔を建てるケース」と「敵と戦うケース」のことが言及されている。どちらの場合にも予めそれを成し遂げるための計算が必要ということでしょう。33節ではこう結ばれています。「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」。この33節は27節の言葉(「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」)に直接つながる言葉です。「自分の持ち物を一切捨てる」ということは、最近よく用いられる言葉で言えば「断捨離」ということになりましょうか。もともと「断捨離」とはヨーガで用いられている言葉で「不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想」のことを言います。「自分の持ち物を一切捨てよ」という意味ではないようですが、キリストに従う(信従する)といういことは「断捨離」という原意(断ち、捨て、離れる)よりもさらに徹底した、すべてを捨ててキリストに従うという覚悟がそこには求められています。

 私は一昨日までドイツに10日間滞在してきました。前半は宣教会議で、ブラウンシュヴァイクがパートナーとしているナミビアやインドからの代表と一緒でした。後半はルターのスタディーツアーでした。5年間交換牧師としてドイツにいた松本義宣先生に運転とガイドをお願いして、4日間、ウィッテンベルクやアイスレーベン(ルター生誕と召天の町)、シュトッテルンハイム(落雷の場所)などを訪ねることができました。私にとっては初めてのルターの足跡を辿る旅で、とても意義深いものであったと思っています。特にアイスレーベンでルターが亡くなった家が資料館になっていて、ルターの最後の言葉がそこに大きく刻まれていました。それはこういう言葉です。「私は神の乞食(こつじき)だ。これはまことだ」。生涯「神こそわが砦、わが強き楯」と語り続けたルターの言葉です。徹頭徹尾、自分は神の前に何も持っていないというルターの自覚がそこには現れています。ルターは、自分の持ち物を一切捨てて(否、最初から自分の持ち物などないのかもしれません。すべては神の持ち物なのですから)、ひたすらキリストを信じて従った一人の貧しき信徒でした。旅の詳細はまた別に機会に触れたいと思います。「聖書のみ、恵みのみ、信仰のみ」。大切なすべてはそこに帰着する。キリストに従う喜びがあれば、私たちにはそれだけでよいのです。

 共に「神の礼拝/神による礼拝」につながることで、その恵みを日々深く味わってまいりたいと思います。神こそわがやぐら、わが助け。どのような時にも共にいてくださる羊飼い。主において命と祝福を選ぶ者であり続けましょう。

 お一人おひとりの上に主の守りと祝福がありますようにお祈りいたします。アーメン。

2022年8月20日 (土)

2022年8月21日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」

2022年821日(日) 聖霊降臨後第11主日礼拝 説教「傷ついた癒し人」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 58: 9b-14

主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。(11節)

〇 ルカによる福音書 13:10-17

そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(11-13節)

 

< 「安息日」の癒し >

 イエスは常に私たちに何が必要であるか、私たちが何を求めているか、私たちの切実な思いとニーズとをご存知です。そして一番必要なものを私たちに備えてくださいます。

今日の福音書には18年間も病気で苦しんできた一人の女性が登場します。場所はユダヤ教の会堂、安息日(土曜日)のことでした。このエピソードはルカにしか出てこない話です。

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治ったと言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。(10-13節)

「安息日を覚えてこれを聖とせよ」(出エジプト20:8)。これはモーセの十戒の第三戒です。安息日はユダヤ人にとって神の聖なる戒めとして厳守しなければならない特別な日でした。創世記の初めには神が6日間で天地万物を造り「七日目」に休まれたことが記されています。これが「安息日」(「サバス」=第七日。日本語の「安息」は意訳)の由来です。安息日は労働を止め、神を覚えて礼拝する日として定められたのです。ユダヤ人のアイデンティティに関わる事柄でした。

 しかし、イエスが禁を破って繰り返し人々を安息日に癒されたことが福音書に出て来ます。たとえばこのすぐ後の14章にも(ルカ14:1-6。これもルカに固有な記録)、イエスが安息日に水腫の人を癒したことが記されています。またルカ6章では、弟子たちが安息日に「麦の穂を摘む」(労働)ことが問題になっていますし(6:1-5)、すぐその後には「安息日に手の萎えた人を癒す」出来事が記録されています(同6:6-11。これもルカ固有のもの)。また、ヨハネ福音書5章には、38年間も病いに苦しんできた人がベトザタ(ベテスダ)の池でイエスに癒されています。ヨハネ9章では、イエスは生まれつき目の見えない人を安息日に癒されています。イエスが安息日の掟を守らないという批判が起こり繰り返し「安息日論争」が起こったのでしょう。その積み重ねの中でイエスが神を冒瀆している、自分を神の座に置いているという厳しい批判が起こってユダヤ人たちの怒りや憎しみを買うことになり、やがて十字架上で殺されてしまったのでした。

  考えてみれば病気に休日はありません。安息日であっても祝日であっても私たちは病気になる。ウィルスへの罹患も起こる。安息日であろうとなかろうとイエスは神の深い愛と憐れみの御業をもって苦しむ人々に向かい合ってゆかれたのです。神の憐れみは時と場所に限定されない。神の癒しの力をイエスは与えられていたのです。それは新しい神の創造の御業でもあったのでした。マタイには次のようにあります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイ9:36。マルコ6:34も参照)。イエスは私たちの真の羊飼いとして、私たちが弱り果て打ちひしがれているのを見て、深く憐れんでくださるのです。ここで「深い憐れみ」とは内臓を表す語に由来する言葉で「はらわたが痛むような断腸の思いをもって、私たちの苦しみ悲しみ嘆きを御自分の中心で受け止められる」という意味です。

 私たちも気をつけたいところですが、安息日論争になってゆくとユダヤ人たちは強いこだわりのゆえに大切なことが見えなくなってしまいます。そこで一番大切なことは何か。神の私たちに対する愛であり深い憐れみなのです。安息日は本来、人間が神に思いを向ける日として与えられました。私たちの現実の中に働いておられる神の憐れみを覚える日なのです。打ちひしがれ弱り果てている私たちの現実の中に、神が深い憐れみを持って介入してくださいます。本日の第一日課には次のようにありました。「主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる」(イザヤ58:11)。神の介入によりこの恵みの出来事が起こるのです。

 

< 「牧会」(英語:パストラルケア)「魂の配慮」(独語:ゼールゾルゲ) >

 日本福音ルーテル教会(JELC)は現在第七次綜合宣教方策を策定しつつあります、その中心には「牧会ぼっかい」というキーワードがあります。英語で言えば “Pastoral Care”、ドイツ語で言えば “Seelsorge(ゼールゾルゲ)です。前者は「牧羊」「羊の世話をする」という意味の語で、後者は「魂の配慮」という意味の語です。ヨハネ21章には、復活の主がペトロに対して三度「私を愛するか」と問うて「愛します」というペトロに対して「私の羊を養いなさい」「私の羊の世話をしなさい」と命じる場面があります。復活の主は弟子たちに人々の魂の世話をするように命じられたのです。プロテスタントでは聖職者のことを「牧師pastor」と呼ぶのもそこに由来します。特にルーテル教会では「全信徒祭司性」を強調しますので、信徒一人ひとりに牧会的な使命があるということになります。相互に魂のケアをするという相互牧会の役割ですね。

 本日の福音に戻るならば、18年間の長きに渡って背中が曲がるという恐らく痛みを伴う病気に苦しみ続けてきた一人の女性は、イエスによって身体的に癒されただけではなく霊的にも「全人的」にも癒されたのです。ルカは医者でしたから病気の人の気持ちに敏感です。彼女が18年間も「病の霊」に取りつかれていたことに言及しながら (11節)、イエスの言葉を記します。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」(18節)。この言葉は何と深い愛情に満ちていることか。このイエスの言葉を聞いた女性はどれほど深い喜びに捉えられたことでしょうか。自分をこれほど真剣に思って大切にしてくれた人は今までいなかった。「私も神の救いの中にある一人のアブラハムの娘なのだ。主は私をそのように大切に見ていてくださった」と。

 彼女においては病気の癒しだけではなく「病の霊」にがんじがらめに縛られていたところからの霊的な解放が起こりました。救いはいつも神との「全き関係の回復」によって起こります。ルカ福音書15章にあるように、失われた者が見出された時には天上では大きな喜びの宴が開かれてゆくのです。それらはすべて神とイエスの深い憐れみによる御業でした。その女性の18年間の痛み苦しみをご自身のはらわた(中心)で受け止め、ご自身の味わわれた断腸の思いを通して彼女を悪しき力の束縛から解放したのでした。それが彼女の救いでした。「イエスはその女を呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った(=「解放された/解かれた」という語)と言って、その上に手を置かれた」(12-13a節)。このエピソードでは「会堂長」もまた神の憐れみに触れて解放されるべき存在として描かれていますが、そこに今回は立ち入らないことにいたします。

 

< 牧者キリストのリアリティ〜『傷ついた癒し人』(ヘンリ・ナウエン)>

 この出来事はイエスがエルサレムに向かう途上で起こりました。その前後には次のように記されています。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)。「イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムに向かって進んでおられた」(同14:22)。13章の終わりにはイエスがエルサレムのために嘆いたとも記されています。エルサレムで起こることはイエスが弟子たちにも見捨てられて十字架の苦難と死を背負う出来事でした。

 ヘンリ・ナウエンというカトリック神父が『傷ついた癒し人』という本の中で正しく指摘しているように、その出来事はイエスがご自身が被った十字架の傷を人々の癒しのために用いられたということです。イザヤ書53章にはこうあります。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(4-5節。下線は大柴)。

 悪しき霊によって18年間も苦しめられてきたこの一人の女性を救うために、そして私たちすべての者を救うために主はこの地上に降り立たって最も低いところを歩まれ、そして十字架の上ですべてを与えてくださったのです。その主が背負われた苦しみと傷によって私たちは癒されています。これこそイエスご自身が私たちに示された「牧会」であり「魂の配慮」です。主こそが私たちのために天からこの地上に派遣された真の「傷ついた癒し人」なのです。苦しみや悲しみ、痛みの中にある人々の上に、主の深い憐れみと慰め、解放と救いの御業がなされますように。

 お一人おひとりの上に主の守りと祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

2022年8月13日 (土)

2022年8月14日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「地上に火を投じるイエス」

2022年814日(日)聖霊降臨後第10主日礼拝 説教「地上に火を投じるイエス」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 エレミア書 23:23-29

夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうか、と主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。(28-29節)

〇 ルカによる福音書 12:49-56

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。(49節)

 

< 「地上に火を投じるイエス」>

 先週私たちは「キリストこそ私たちの平和」(エフェソ2:14)というみ言葉に聴きつつ「平和主日」を守りました。しかし本日の日課でイエスは全く逆のことを告げておられるように感じます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。このことをどのように理解すればよいのか、そのことが本日の主題となります。もう一度福音書の日課の初めの三節をお読みさせていただきます。

「わたしが来たのは、地上にを投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」。(49-51節、下線は大柴記)

 大変に緊迫したイエスの言葉です。たたみかけるようにして厳しい言葉が重ねられています。ここには「火」「洗礼」「平和/分裂」という三つのキーワードがあって、それらが深いところではつながっているように思われます。

 本日の第一日課のエレミア書には次のような言葉がありました。

「夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと、主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」。(23:28-29

 神の言葉が「火」のように真実を精錬し、それを公に明らかにしてゆきます。それは単なる「夢」ではないのです。

 

< 精錬する「火」の持つ力 〜 林三兄弟のこと >

 「火による精錬」ということを考えるたびに私は、長くこの大阪教会員であられた林鉄三郎(1929-2020)さんのことを思い起こします。鉄三郎さんは二年前の622日に91歳の天寿を全うされました。COVID-19によるパンデミックが既に始まっていましたので、残念ながら私たちもお見舞いなども思うままにできない状況でした。鉄三郎さんは21歳の時に大阪教会で稲富肇牧師より洗礼(1950/12/23)を受けた筋金入りの信仰者でした(1950年の大阪教会はまだ真法院町にありました。今天王寺教会がある場所です)。そのことは皆さんの方がよくご存じかも知れません。その「鉄三郎」というお名前の由来をご本人から伺ったことが忘れられません。

 私は林さんの告別式の説教の中で次のように語らせていただきました。

 「林さんは金太郎、銀次郎、鉄三郎という三人兄弟の三男として大阪市西成区に生を受けて育ちました。単に『太郎、次郎、三郎』でよいはずなのに、それに加えて『金、銀、鉄』という味わい深い名前を息子さんたちに付けた親の思いを深く思わされます。命名というのは祈りの行為でもあるからです。オリンピックでは『金メダル、銀メダル、銅メダル』ですが、そうではなくて『金、銀、鉄』という三種類の金属の名を付けられた親御さんの慧眼を思うのです。それぞれの金属には金属の個性がある。金には金の、銀には銀の、鉄には鉄の個性があり、存在意義があるのです。『モオツァルト』や『無常ということ』で有名な小林秀雄という評論家がいます。講演のテープなどが何本も残されているのですが、ある講演の後の質疑応答の中である学生に対してこう小林秀雄は語っていて印象的です。『君は君自身でいたまえ』。『君は君自身でいたまえ』とは、何と味わい深い言葉でしょうか。『みんな違ってみんないい』という金子みすゞさんの詩も最近よく引用されますが、私たちは皆『自分が自分自身であってよい』のです。金は金、銀は銀、鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよいのです。鉄にしかない深い味わいを持っているのですから。林鉄三郎さんは自分だけに天から与えられた生き方を最後まで貫かれました。イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時の場面としてこうマルコ福音書には書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(1:10-11)。天からの神の声です。『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』。天からの究極的な存在是認の声、存在義認の声です。林鉄三郎さんはイエス・キリストと出会い、21歳で洗礼を受ける中で、この天からの確かな声を聴き取ったのです。『鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよい』のだという声を。

 鉄はそのままだと酸化しやすい、さびやすいという性質を持っていますが、しかしほんの少しの炭素をそこに加えて火で精錬すると鋼(はがね)になる。堅く、しぶとく、しなやかになるのです。鉄三郎さんは鋼のようなしなやかでしぶとい信仰を神さまから信仰を通して与えられ、それを最後までそれを貫かれたことになります。しかし信仰のしなやかさ、しぶとさだけではない。昨夜も申し上げましたが、鉄三郎さんが多くの方に慕われてきたのは、その温かい人間味であり、困っている人を見たら放っておけない、自分のことのように、いや、自分の事よりも先にその人を守り助けようとするその『よきサマリア人』のような熱い心、深いあわれみの心であったと思います。それはその独り子を賜るほどにこの世を愛して下さった天の父なる神の深いあわれみでもありました」。

 

< キリストの受けられた十字架という苦難と死という「洗礼」によって >

 鉄を火で精錬すると鋼になる。神のみ言葉という「火」の力は私たちの信仰を鋼のように強くしてくれるものです。主は言われます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」。その火は主ご自身によって点されてゆくべき火なのです。「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」。それは主イエスの苦しみの「洗礼」、すなわち「十字架の苦難と死」によってもたらされました。主はオリーブ山で神に「父よ、御心なら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈りながら(ルカ22:42)、汗が血の滴るように地面に落ちるほどもだえ苦しんだことが記されています(22:44)。主が受けられた十字架という洗礼によって、神の愛の火が地上に投ぜられたのです。生ける「神の言」(エレミア23:29)としてイエス・キリストは、私たちのために隠されているこの地上における「神の真実」を「火」のように精錬して、それを私たちの目の前で公に明らかにしてゆくのです。

 

< 「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない」>

 三つ目の「平和/分裂」についてです。主は言われました。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(51-53節)。大変に厳しい言葉です。イエスを救い主として信じるということは「平和」ではなく「分裂」をもたらすというのです。これは初代教会がユダヤ教の側からもローマ帝国の側からも厳しい迫害の中に置かれていた背景を想起させる言葉です。私たちの現実においても、実際にキリスト教の洗礼を受けるということで家族の中で分裂や対立が生じるということもありましょう。そのことで苦しんで来られた方もおられることでしょう。

 しかし私は思います。家族や人間関係におけるキリストのもたらす「分裂・対立」は、本当の家族の絆がどこから与えられるのかという神の真理を明らかにするための「火」なのだということを。私が私自身であるということを含めて、私たちの出会いや「地縁」や「血縁」という絆の背後には「聖霊縁」「キリスト縁」と呼ぶべき神による御心と結び合わせとがあるのだということを明らかにしているのです。

 「人は独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」。この神の決意のもとでアダムとエヴァは出会ってゆきます(創世記2:18)。ここで「助け手」とは、上下関係のある「アシスタント」ではなく、対等な関係の「パートナー」を意味します。夫婦に限らず、すべての人々の出会いの背後には神のそのような意図があるのです。そのような神の御心の中に私たちの出会いや絆は祝福されている。「鉄は鉄であってよい。否、鉄は鉄がよいのだ」という自己受容は、ただ神を見上げることによってのみ与えられます。私たちの家族の絆、地域の絆、出会いの背後には、私が私であるのと同じように、神の御心があり、豊かな祝福が注がれているということを主の言葉は私たちに教えています。

 イエス・キリストに結びつけられ、聖霊の炎/火によって精錬された私たちの人間関係を、パウロは「聖なる者」と呼んでいます(ローマ1:71コリント1:2、同6:112コリント1:1など多数)。教会は「聖徒の群れ」であり「キリストによって聖とされた者たちの群れ」なのです。その真理を明らかにするために主イエスはこの地上に降り立ち、十字架の苦難と死という「洗礼」を受けることによって地上に「火」を投じられました。そのことを覚えながら共に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。祝福をお祈りいたします。

2022年8月 6日 (土)

2022年8月7日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」

2022年87日(日)平和主日礼拝 説教「キリストの平和〜非暴力不服従」

大柴 譲治joshiba@mac.com

〇 ミカ書 4: 1- 5

主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。(3節)

〇 エフェソの信徒への手紙 2:13-18

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(14-16節)。

 

< 聖書がその最初に宣言していること 〜「『光あれ!』 すると光があった。」>

 創世記は神が混沌の闇で最初に光を創造したことを伝えています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(1:1-3)。光は今もなお闇の中に輝き続けています(ヨハネ1:5)。

 本日は平和主日。毎年8月の第一日曜日を私たちは平和を祈念しながら「平和主日」として守っています。聖書は「キリストこそ私たちの平和」であり、敵対する者たちの間にある「敵意(=憎しみ)」という「隔ての中垣」を十字架において廃棄し、二つのものを一つにするという神の前での究極的な和解を成し遂げてくださったことを高らかに宣言しています。私たちはこのキリストの平和のもとに今ここで一つに呼び集められていることを最初に覚えたいのです。私たちに与えられているのは和解の務めです。分断のための壁を作ることではなく、相互に橋を架けてゆくことなのです。

 このエフェソ書の言葉は、本日第一日課として与えられているミカ書の預言の成就です。キリストの十字架の愛によって敵対する者たちは互いに「剣を打ち直して鋤賭し、槍を打ち直して鎌とする」ことができるようになるのです。イエスは十字架上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)。ヨハネ福音書は「人が友のために自分の命を捨てる。これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉を伝えていますが(15:13)、マタイ福音書はそれをさらに徹底させるイエスの言葉を記録します。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(5:44)。その言葉通り、イエスは十字架上で自分を殺そうとする敵のために神に赦しを祈り、自分のすべてを捧げてゆかれたのです。ここに本当のアガペーの愛がある。この愛に触れるときに私たちの目は開かれ、私たちは心の底から自分自身を新たにされてゆくのです。パウロは言っています。「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17。ガラテア6:15をも参照)。「キリストによって新しく創造される」とはミカ書の言葉を借りるならば、「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直すという平和の働きに召し出されるということ」なのです。敵意や憎悪という隔ての中垣(壁)によって分断されたこの世界に、たゆまず努力をして和解の橋を架けてゆくことです。なぜならばキリストがそのような和解の働きへと私たち一人ひとりを召し出しているからです。敵意によってバラバラになり、もはや自分の力では結び合うことができない私たちのこころを、イエスの真実な祈りは打ち砕き結び合わせます。これこそ神の聖霊の働きです。闇の中にキリストの十字架と復活によって揺らぐことのない光が創造されたと聖書は告げています。私たちはこの光のもとに集められ、闇の中に輝いている光を証しして生きるのです。光や暗闇の中に輝き続けています(ヨハネ1:5)。

 

< 「ルーテル教会 = 悪魔の教会」>

 しかし、私たちの現実はこれとはほど遠いところにあります。721日(木)の午後、私は東京四谷にある麹町聖イグナチオ教会での「シノドス(「共に歩む道」の意)」についてのヒアリングとカトリック教会・日本聖公会・JELC・日本キリスト教協議会NCCの合同礼拝に与ることを許されました(それはYouTubeで公開されていて週報にも掲載してあります)。

 1980年615日、目白にある東京カテドラル聖マリア大聖堂でエキュメニカルな「第11回教会音楽祭」が開かれルーテル神大の聖歌隊として参加しました。主題は「よろこびの声をあげよう」。そこに参加した教派は、日本基督教団、カトリック、聖公会、JELC、バプテスト連盟の5団体。その大聖堂は東京オリンピックと同じ年である1964年に、丹下健三という日本を代表する建築家によって設計され完成された壮大な建築物。その巨大さと壮麗さに圧倒されました。

 そのリハーサル時に、一人のカトリックのシスターが私たちルーテル神大の聖歌隊に向かってこう言ったのです。「ルーテル教会、悪魔の教会!」。耳を疑いました。まさかそのような言葉をそこで聞くことになるとは思ってもいませんでした。シスターは真剣でした。そう言わずにはおれない何かがあったのでしょう。私たちは言葉が出ませんでしたが、それはとても悲しい体験でした。互いに罵り合った500年前の宗教改革の再現のようでもありました。確かにその中では互いに行き過ぎた面もあったと思います。しかし私たちはこの現実の中で再度対話を始めなければならないと強く思わされました。これが私自身のエキュメニズム運動の原点となっています。それは20171123日の長崎の浦上天主堂においてカトリックとJELCとは歴史的な「宗教改革500年共同記念」の機会を持つことができました。これは世界的に見ても画期的な出来事であったと自負しています。これまでの地道な対話の努力が実を結んだのです。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、今日私たちは(神の備える真の未来に向かって)リンゴの木を植える」のです。

 浦上には1300人の参加者が集いました(現在でもYouTubeで閲覧が可能です)。半分がカトリック、半分がルーテルです。その時のシンポジウムの最初の発題者であった長崎教区の橋本勲神父は、「自分たちの教会では先週バザーが行われ、その時『免罪符』を売っていたらさらに収益を伸ばすことができたはずで、失敗しました」と最初にユーモラスに語っておられたことが印象的でした。どのような時にも私たちはユーモアを忘れずに対話の努力を積み重ねてゆきます。今年の平和主日にあたって、そう強く思わされています。

 今回の721日(木)の聖イグナチオ教会での合同礼拝で一番私の印象に残ったのは、前田万葉カトリック枢機卿を中心にして5人の補司式者たち(菊池カトリック大司教、高橋聖公会主教、𠮷髙NCC議長と私)が大きな復活のキャンドルから小さな五つのキャンドルに火を移してその五つを聖書の前に置いて分かち合ったことでした。どちらを向いても深い闇しか見えないような中で、その光は希望の光に見えたのです。私たちは決して独りきりではない。孤立してはいないのです。このような信仰の仲間、友がいることを深く実感として与えられ幸いでした。特に前田先生とは玉造での一致祈祷会で毎年ご一緒させていただいていますし、5年前の浦上天主堂では共同司式をさせていただきました。人生は出会いですね。その温かいお人柄とお話しとは大変魅力的に感じます。

 

< 「非暴力不服従運動」 >

 機関誌『るうてる』の8月号の議長コラムに少し書かせていただきましたが、インドの独立運動のリーダー、マハトマ・ガンジーの非暴力不服従運動には私たちが学ぶべき点が多々あると思います。

マハトマ・ガンジーの「非暴力不服従」運動が大きな成功を収めたのはそれが英国人の「良心」に強く訴えたからでした。映画『ガンジー』でも壮絶な場面として描かれていますが、何も持たずまっすぐ自分たちに向かってくる無抵抗な民衆を英国兵は次第に銃撃できなくなってゆきます。若くして英国に留学したガンジーは英国人の良識/良心を信じ、それに訴えるかたちで抵抗運動を展開したのです。相手がAI兵器のように良心を持たないマシンだったらそれは功を奏することはなかったでしょう。8月の平和月間に私たちが「良心」について考えることは意味あることと思います。私たち一人ひとりが神と人の前で自らの良心に従って生きることができますように祈ります。地上に平和が来ますように。s.d.g.

 相手の中にある良識/良心を信じて、信じ抜くこと。これがマハトマ・ガンジーがその抵抗運動の中心に据えていた根本的な理念でした。この真実が人々の心を強く打ち、良心を呼び覚まして連帯させ、敵意という隔ての中垣を打ち壊して、世界を動かし、独立を勝ち取っていったのです。

 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」。この主の十字架の祈りもまた私たちに力を注いでくれる祈りだと思います。主は私たちの悔い改めを信じてくださっているのです。告別の説教で主はこう語りました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)。キリストが私たちの中に残された平和、キリストが与えてくださる平和こそが私たちの希望であり、力の源、私たちを困難の中にあっても動かしてゆくのです。敵意/憎悪という隔ての中垣をあの十字架において廃棄して、二つの敵対する者たちを一つとし、神と和解させてくださったこのキリストの愛の力を信じて、私たちは自分に与えられた「剣を鋤に、槍を鎌に打ち直してゆく和解の努め」を果たしてまいりたいと思います。壁で人々を隔てるのではなく、対話と愛と赦しを通して、傷ついた魂と共にキリストの癒しに与れるように力を尽くしてまいりましょう。 アーメン。

2022年7月23日 (土)

2022年7月24日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝 説教「父よ、御国が来ますように」

2022年724日(日)聖霊降臨後第七主日礼拝 説教「父よ、御国が来ますように」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 創世記 18:20-32

主は言われた。「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう。」アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、四十五人いれば滅ぼさない。」・・・アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」(26-28, 29節)

〇 ルカによる福音書  11: 1-13

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。』 (1-2節)

 

 

< ある教会員の憤り 〜 「どうしてこのような悪が地上には満ちているのですか?」>

 二週間前のことです。礼拝後に一人の教会員の青年が私のところに来てこう語られました。「どうしてこのような悪が地上には満ちているのですか? 神はなぜ沈黙しているのですか。神はどこにいて何をなさっておられるのですか?」と。それは深い悲憤に満ちた声であり表情でした。この世で現在起こっていることを思う時に、本当にその通りだと思います。その気持ちが私たちには痛いほど分かります。どこを向いても暗い現実ばかりなのですから、ある意味で悲憤を持つことは当然でもある。その時の話の中で私は本日の主題でもある「主の祈り」について言及しました。

 

< 「主の祈り」=「世界を守る祈り」>

 本日の福音書には主の祈りが与えられています。私たちは毎週の主日礼拝の中でこのイエスがお教え下さった主の祈りを祈りますし、毎日の生活の中でも繰り返し祈ります。私はCOVID-19になって以来、毎日正午にこの主の祈りを祈るようにしています。この祈りは「世界を包む祈り」であり「世界を守る祈り」でもあると信じるからです(H・ティーリケ)。特にその最初の三つの願い、「天にましますわれらの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にも成させたまえ」という最初の三つの願いは、神の御心の実現を祈る祈りです。これはイエスが教えてくださらなければ私たちの中からはなかなか出てこない祈りかと思っています。私たちはともすれば自分のことしか祈らないからです(もちろん、自分のことを祈ってよいのですが)。主の祈りもまた私たち自身のことを祈ります。後半の四つの願いはこうです。「われらの日ごとの糧を、今日も与えたまえ。われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ。われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」。私たちは主の祈りを通して、まず神の御心の実現を祈る中で私たち自身の願いも祈るのです。この順番が大切です。「かたちからはいる」という語がありますが、主の祈りを繰り返し祈ることの中で不思議なことに私たちの心の中の祈る姿勢は整えられてゆくのです。

 ドイツのルーテル教会の牧師である神学者のヘルムート・ティーリケは次のようなことを言っています。「この主の祈りは今この瞬間にもどこかの国で祈られ続けている祈りです。世界には24時間の時差があるため、これはいつも誰かが世界のどこかで祈っている祈りです。その意味でこれは、『世界を包む祈り』であり『世界を守る祈り』なのです。この祈りがあるから世界がこれ以上悪くならないように守られていると言えましょう」。まことにその通りと私も思っています。この世界は十分に悪に満ちていて既に十分に悪くなってしまっているように思いますが、さらに悪くなっていかないようにこの祈りが守っていると言うのです。新約聖書の一番最後に置かれているヨハネの黙示録も「ジグザクのようにこの世界はドンドン悪くなってゆく。そのどん底において突然終わりの日が来る」ということを預言しています。

 今日の旧約の日課である創世記18章には、アブラハムがソドムのために執り成しの祈りを神に捧げる場面が出てきます。それは「執り成しの祈り」というよりもむしろ凄まじいばかりのアブラハムの神との「執り成し交渉」であり「格闘」とも呼べるような場面です。私などは創世記32章に出てくるペヌエルでのヤコブの神との格闘を思い起こします。「もしソドムに50人の正しい者がいるとしたら、神よあなたは、その50人をソドムと一緒に滅ぼすのですか」とアブラハムは神に問いかけます。「50人の正しい者がそこにいたら、ソドムを滅ぼさない」と神は答えます。「45人では?」「40人では?」「30人では?」「20人では?」「10人では?」とアブラハムは粘り続けます。神は根負けしたようにアブラハムに答えるのです。「その十人のためにわたしは滅ぼさない」(創世記18:32)。

 このアブラハムと神とのやりとりは圧巻です。アブラハムの粘り強い執り成しの祈りに神は動かされている。結局ソドムは「10人の正しい者」がいなかったために滅ぼされてしまいます。アブラハムの甥のロトの家族は、振り返ってはならないという戒めに逆らって後ろを振り返り「塩の柱」になってしまったロトの妻を除いて(創世記19:26)助かるのですが、その数も結局10人に満たなかったということなのでしょう。アブラハムのソドムのためのこの執り成しの祈りは私たちの心の中に深く響き続けます。

 

< 「10人の正しい者(=神にとりなす者)」になる >

 私は思います。「父よ、御国を来たらせたまえ」と祈ることは、ルターが小教理問答の中で告げているように、私たち自身を「神の道具」として差し出すことだと。ルターは次のように語っています(『小教理問答』)。

 

  第二の願い  「み国が来ますように。」

   これはどんな意味ですか。

  答 ― たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

   それはどうして実現しますか。

  答 ― それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

< 「父よ、御国が来ますように」と祈る = 私たちがそのための「神の道具」「地の塩・世の光」になる>

 「神の国(バシレイア・トゥ・セウー)」という語で私たちは、領土的・空間的な国土のようなものを連想するかも知れません。しかしそれはむしろ関係を表すところの「神の統治」「神のご支配」という意味の語なのです。私たちが神との信頼関係・主従関係に生きる時、そこには既に「神の国」が実現していると言うことができる。ルターが「それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世においても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します」と言っている通りなのです。

 創世記の18章のみ言葉と重ね合わせてみるならば、私たちが「10人の正しい者」としてこの地上に生きる時に、神が「ソドムをその10人のゆえに滅ぼさない」と言われたように、神の御国が私たちを通して実現するのです。そのために何ができるのかは私たち一人ひとりが置かれた場で祈りながら考えてゆかなければなりません。主は言われました。「あなたがたは地の塩、世の光である」と(マタイ5:13-16)。私たちをそのように見て宣言してくださるイエス・キリストがおられるのです。

 ルカ福音書はこのところ毎週のように「神のアガペーの愛をもって隣人を愛すること」を繰り返し私たちに告げています。アガペーの愛をもって私たちが生きる時に神の御業がこの地上において現れるのです。そのようなコールとミッションが私たちキリスト者一人ひとりにキリストご自身から与えられていることを心に刻みたいと思います。「天の父よ、私たちを通してこの地上にあなたのみ国が来ますように」と祈りながら、新しい一歩を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に憐れみ深い主イエスのアガペーの愛が満ち溢れますようにお祈りいたします。

 アーメン。

2022年7月16日 (土)

2022年7月17日(日) 聖霊降臨後第六主日礼拝 説教「ディアコニアの原点〜マルタとマリア」

2022年717日(日) 聖霊降臨後第六主日礼拝 説教「ディアコニアの原点〜マルタとマリア」

大柴 譲治 joshiba@mac.com

 

〇 ルカによる福音書 10:38-42                                        

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42節)

 

< 「マルタとマリア」 >

 先週の福音書の日課はルカ福音書にしか出てこない「良きサマリア人のたとえ」でした。本日はマルタとマリアについてのエピソードで、これまたルカにしか出てこない話です。マルタとマリアの二人はヨハネ福音書11章にも登場しますが、おそらく同一人物でありましょう。姉妹であっても二人は性格的に対照的でした。マルタは働き者、イエスをもてなすために心を砕いて頑張っています。ここで「もてなし」とはギリシャ語で「ディアコニア」、給仕することです。対照的にマリアはイエスのもとに座って一生懸命その言葉に耳を傾けています。マルタはそのような中でイエスにマリアにも手伝うように言ってくださいと申し出るのです。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。

 私たちには状況が手に取るように分かります。マルタの気持ちがよく分かるのです。おそらく日常的に私たちの周囲では現実にそのようなことがしばしば起こるからでありましょう。マルタに対するイエスの言葉は聴きようによっては、やんわりとはしていますが、冷たく拒絶的なものに響きます。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41-42節)。確かにマリアは一生懸命にイエスに耳を傾けることを選んでいる。「必要なただ一つ」の「良い方」を選んでいるのです。それはマリアから取り上げてはならないことでした。

 不公平だと思っていたマルタにはそれはショッキングな言葉でもありました。マルタも早く食卓の準備を終えてイエスに耳を傾けたいと思っていたことでしょう。だからマリアにも手伝って欲しかった。ですからマルタはそれまでも何度か直接マリアに手伝うように声かけやサインを出していたのかも知れません。でもマリアは重い腰を上げようとしなかった。ですからマルタはイエスに直接申し出たのでしょう。イエスの答えは彼女にとって思いもよらないものでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)。ここでイエスが慈しむように二度マルタの名を呼んでいるのはマルタに対する深い愛情が表れていると思われます。漢字で「忙しい」とは「心を亡ぼす」と書きますが、忙しいと私たちは大切なことを忘れてしまいがちなのです。マルタは、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いている」中で、「もてなしの心」「ディアコニアの心」を見失ってしまいました。そこでイエスに近寄ってそのように不平を言ったのです。イエスのこの答えにマルタはハッとして自らを振り返ることができたでしょうか。そうであったことを期待します。イエスの言葉は常に私たちに自らの罪や至らなさに気づかせ、私たちを神へと立ち返らせてくれるからです。福音の言葉は常に私たちをハッとさせホッとさせるのです。

 

<「雑用というものはありません。用を雑にしているかどうかなのです」(渡辺和子)

 前にもご紹介したことがありましたが、『置かれた場所で咲きなさい』という本で有名な渡辺和子シスター(1927-2016)の若い頃のエピソードです。シスターは若い頃米国の修道院に留学をしていました。しかし修道院では来る日も来る日も食堂で皿洗いばかりをさせられて、ある日我慢ができなくなって修道院長に「なぜ私に皿洗いという雑用ばかりをさせるのですか」と文句を言ったそうです。すると修道院長はニコニコと笑いながら、「シスター和子、雑用というものはないのですよ。用を雑にしているかどうかだけなのです」と答えたということでした。和子シスターはその言葉にハッとします。よく見ると、美味しい食事を心を込めて作ってくださる方がいて、それをきれいに洗われたお皿に美しくもりつける方がいて、そして美味しく食べてくださる方がいる。お皿を洗うという仕事もそう考えるとなくてはならない大切な仕事だということが見えてきたのです。それ以降シスターは心を込め祈りを込めてお皿を洗うことができるようになりました。このエピソードを私は初任地の福山で市民クリスマスにシスターから伺い、確かにそうだとハッとしました。まあ、私たちは分かってはいるけれども忙しさの中で「もてなし(ディアコニア)の心」を忘れて、不満が頭をもたげてくることがあるだろうと思います。「雑用という仕事はない。用を雑にしているかどうかである」という言葉に繰り返し戻ってくる必要があるのでしょう。

 私の前任地の東京・阿佐ヶ谷にある「むさしの教会」にはかつて5本のサクラ・ソメイヨシノの大木がありました。1958年に鷺ノ宮の神学校から現在地に新会堂ができて移ってきたときに植樹されたサクラです。四季折々にそのサクラは美しい姿を見せてくれました。しかし正直に言わなければなりません。秋の落葉掃きは私にとってはなかなか楽ではない「修行」でした。その時に支えになったのが「雑用という仕事はない」というこの言葉でした。来る日も来る日も山のような落ち葉を掃きながら、しかしその落ち葉が最高に美しく感じる日がある。それを過ぎると落ち葉は次第にみずみずしさを失って枯れてゆく。不思議な「神のカイロス(時)」に立ち会うことができました。

 私たちには忙しさの中でイエスにグチをこぼしたマルタの気持ちがよく分かります。でもマルタはイエスに対峙した点で正しかったのだと思います。イエスに向かっていつでも私たちはグチをこぼしてよいのです。イエスはマルタの気持ちを受け止めておられる。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。これはマルタの思いを汲んでマルタにも必要なことに気づくよう促したイエスの温かな言葉でした。詩編150編のうち4割は嘆きの詩編です。神に向かって嘆いてよい、グチをこぼしてよい。神はそれらを受け止め必ず聴き取ってくださるのです。

 

<「9時〜5時、5時〜9時」〜「マルタ」:「マリア」:「ジョージ」=1:1:1

 マルタとマリアは姉妹として描かれていますが、私はこの二人をどうしても自分の中にある二つの部分として見てしまいます。私たちの中には確かに「マルタ的な部分」「マリア的な部分」の両方があり、また両方が必要であると思います。大切なことは両者を行きつ戻りつする「バランス」なのです。

 かつてインドのマザーテレサの修道院を三回訪れた神学生がいました。浜松教会の渡邉克博牧師です。彼から「9時〜5時、5時〜9時」という言葉を聞いたことがありました。シスターたちは朝の9時から夕方5時までは貧しい人々のために献身的に尽くします。しかし夕方5時になると「ではまた明日お会いしましょう」と言って修道院に戻って、バタンと扉を閉めて翌朝の9時までは決して出てこないのだそうです。「9時〜5時」の8時間は他者に仕える時間、いわば「マルタ的な時間」。それに対し「5時〜9時」の16時間は、自分自身のためのマリア的な時間とも言えましょう。それは、祈りの時、み言の時、ボンヤリしている時であり、ゆっくりと食事を取って安息し、眠る時でもあります。そのような「自分をケアするための時間」があるからシスターたちは働き続けることができる。それはどうしても必要な「自分を愛する(大切にする)ための時間」なのです。これはマルタにもマリアにも必要です。

 私は「常時大暇」(北陸での学生時代に私がいつも暇そうにしているのでそのように呼ぶ後輩がいた)というあだ名をサークルの後輩からもらったことがあります。よほど暇そうに見えたのでしょう。仮にジョージ的な部分として「ジョージ」と呼ぶとすれば、マルタとマリアとジョージのバランスを取るということが求められるのではないかと思うのです(彼らにはラザロという弟がいましたがその名を使うのはラザロに気の毒ですので、ぼんやりと何もしていない時間を仮に「ジョージ的」と呼ぶことにしておきましょう。皆さんはそこに自分の名前を当てはめてください)。

 ペンテコステの日に突然私は「突発性難聴」になりました。皆さまには色々とご心配をかけすみませんでした。またお祈りをありがとうございました。迅速な治療とアドヴァイス、お祈りのおかげで、左耳のザーッと言うホワイトノイズも一週間ほどでほぼ治まりました。異次元の聖霊体験(パウロの言うところの「第三の天に上げられた」のような体験)だったように受け止めています。その際に教会員の耳鼻科の医師から「安静にしてください」というアドヴァイスをいただきました。その通りですので素直に「ハイ」と答えました。しかし妻から「安静、安静」と言われると、やましい気持ちがあるためか、なぜかそれが「反省、反省」に聞こえました。笑い話のような本当の話です。

いずれにせよ、この「安静に」という言葉によって気づかされたことがあります。「もてなすマルタ」と「イエスに聴くマリア」の他に、私たちには「ボンヤリとしてキチンと休息と睡眠を取るジョージ」が大切だということです。先ほどの「9時〜5時、5時〜9時」も「1:2」の割合でした。マルタとマリアとジョージは恐らく「1:1:1」の割合でバランスよく受け止めてゆくことが大切なのでしょう。簡単ではないでしょうが、「安静、安静」と「反省、反省」という二重の天の声を聴きながら、日々の生活を大切に歩んでゆきたいと思います。

 皆さまに天よりの祝福をお祈りいたします。

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