2018年12月 4日 (火)

2018年12月2日(日)待降節第一主日礼拝説教「いつも目を覚まして祈りなさい」

2018122日(日) 待降節第一主日礼拝説教「いつも目を覚まして祈りなさい」    大柴 譲治

ルカによる福音書21:25〜36

「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。・・・しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(32-33, 36節)

 

待降節(アドヴェント)第一主日に

 本日私たちは待降節第一主日の礼拝を守っています。実は教会で用いられている暦(「教会暦」と呼びます)が今週から一年が新しく始まるのです。いよいよクリスマスの四週間前、アドヴェントが始まりました。典礼色は悔い改めの色であり、王の色でもある「紫」です。アドヴェントクランツが点されましたが、クリスマスまでの期間、私たちは私たちに近づいてこられる主の到来に備えて自らを省みてその備えをしてゆくのです。

 

「オリエンテーション〜「義の太陽」が昇る方位(=東)に向きを定める

 教会暦において私たちは、一年の始まりをイエス・キリストに向けて身を向け、心を整えるところから始めます。「オリエンテーション」という言葉がありますが、もともとこれは「オリエント(東方)」の方向を確認して自らの方位を東に向けるという意味の言葉です。歴史的に見ると、教会の建物は通常東を向いて建てられています。ドイツのブラウンシュヴァイクの大聖堂もそうでした。そうでない場合にも、教会の正面を「東」と呼ぶ習慣がありました。そうです、「東」は太陽が昇ってくる方向で、私たちの「義の太陽」であるキリストが昇ってくる方向に向けて教会は建てられているのです。私たちもまた毎週の主日礼拝において東方を向いてキリストを仰いで礼拝を守っているということになりましょう。方向を指し示すコンパスが地球の地磁気に反応して北を向いてピタッと止まるように、私たちの魂は神さまの方向を向いてピタッと止まるように最初から造られているのです。アウグスティヌスは『告白』という本の最初の部分でこう言っています。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。ですから私たちの魂は、あなたのうちにやすらうまで平安を得ることはできないのです」と。

 本日の旧約の日課であるエレミヤ書33章はそのような私たちの魂が神の方向を向いて造られているということを示しながら選ばれているのだと思われます。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる。 その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める。その日には、ユダは救われ、エルサレムは安らかに人の住まう都となる。その名は、『主は我らの救い』と呼ばれるであろう」エレミヤ33:14〜16)。

 

「世界の終わり」の預言

 本日与えられている福音の日課には「終末」の預言がなされています。この世界はやがて終わりを迎えることが告げられているのです。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」25-27節)。読んでいると私たちが不安になるような言葉です。しかし、イエスは逆のことを言います。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」28節)。そしてイエスはいちじくの木のたとえを話されるのです。「それから、イエスはたとえを話された。『いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」29-31節)。「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」32-33節)。私たちには天地が滅びようとも決して揺るぐことのない足場(「キリストの声/神の言」)が与えられているということを告げているのです。「はっきり言っておく」とは「アーメン(然り/真実)、わたしは言う」という言葉です。

 続いてイエスは弟子である私たちにも警告しています。「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」34-35節)。心が鈍麻しないように、ボンヤリしないように気をつけなさいと言うのです。そして言われます。「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい36節)。「人の子」とはイエスがご自身を呼ぶときの特別な称号です。「あなたがたはどのようなことが起ころうとも、キリストの前に立つことができるように準備をしていなさい。いつも目を覚まして祈りなさい」とイエスは私たちに命じておられるのです。

 「祈る」ということは「神の方向に心を向ける」ということでありましょう。「いつも目を覚ましている」とは、ちょうど礼拝堂が東を向いて建てられていて私たちがキリストの方向に身を向けるように、神の方向に私たちが身を向けて(「オリエンテーション」)、自らを吟味しつつ、主の到来に向けて備えをするということだと思われます。

 

「第一のアドヴェント」と「第二のアドヴェント」の間を生きる

 「アドヴェント」とはラテン語で「到来すること、向こうからこちらに近づいてくること」を意味しますが、聖書では主の二つの到来が告げられています。一つは二千年前にベツレヘムで起こった主イエス・キリストの降誕の出来事です。クリスマスの出来事ですね。それを私たちは「第一のアドヴェント(到来)」と呼ぶことができましょう。もう一つは「終わりの日のキリストの再臨」です。これが主の「第二のアドヴェント(到来)」です。私たちは今ここに「第一のアドヴェント」「第二のアドヴェント」の間の時を生きていることになります。

 未来を「待つ」ということ、「待望する」ということはとても大切な事柄です。入学や卒業、就職や昇進、結婚や出産、健康の回復などの「グッドニュース(福音)」を私たちは待ち望みますし、それらの上に神さまの祝福が豊かにあるようにと私たちは祈ります。私たちは周囲には厳しい現実があることを十分知っているからこそ「よいニュース」を待ち望むのです。ある一定の方向(キリストの方向)に身を向けながら、「希望」をもって「未来」を待ち望むのです。万物が揺らぐとも、キリストという私たちの基盤は決して揺らぐことはありません。北半球ではクリスマスが闇の一番深く寒い冬に祝われることも、意味あることなのでしょう。「冬来たりなば、春遠からじ」なのですから。闇が深ければ深いほど、その底に届いた神の救いの光は尊いものに思われます。万物流転のこの世にあって、決して揺らぐことのない神の救いの光に向かって、いつも目を覚まして共に祈り続けたいと思います。

 お一人おひとりの上に天からの祝福が豊かに注がれますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年11月25日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝説教「真理に属する人とは」

20181125日(日) 聖霊降臨後最終主日礼拝説教 「真理に属する人とは」   大柴 譲治

ヨハネによる福音書 18:33〜37

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」(38ピラトは言った。「真理とは何か。」)(37-38節)

 

聖霊降臨後最終主日「王であるキリストの日」に

本日私たちは聖霊降臨後の最終主日の礼拝を守っています。実は教会で用いられている暦(「教会暦」と呼びます)が今週で一年の終わりを迎えます。次週からはいよいよクリスマスの四週間前、アドヴェントが始まります。そのアドヴェントから教会では新しい一年が始まるのです。

教会暦の終わりの主日には「王なる(王である)キリストの日」という別名が与えられています。聖霊降臨後の最終主日である本日は、「私たちの王であるイエス・キリスト」について思いを馳せる日なのです。キリストが私たちにとって「どのような王であるか」に思いを馳せながら、共にみ言葉に聴いてまいりましょう。

本日はイエス・キリストが、当時ローマ帝国からユダヤ地方に派遣されていた総督「ポンテオ・ピラト」(在位A.D.26-36年)とのやりとりを通して「真理」について語る場面が与えられています(ヨハネ福音書18章)。このやり取りの結果、ピラトはイエスに何の罪も認めることができなかったにもかかわらず、「イエスを十字架に架けよ」と叫ぶ民衆が暴動を起こすのを恐れて結局イエスを十字架に架けてゆくことになるのです(ヨハネ19章参照)。私たちの王であるキリストは「茨の冠」をかぶり、「紫の衣」をまとい、「十字架という玉座に着座された王」なのです。

 

「真理」とは何か

 第四福音書にはいくつもの重要なキーワードが出て来ますが、「真理(アレーテイア)」という語もその一つです。ヨハネ福音書の中からよく知られている三つの例を挙げてみましょう。

①「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」1:14

②「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」8:32

③「イエスは言われた。『わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。』」14:6

イエスが伝える「真理」とは「父なる神から示された真理」であり、御子イエスご自身がその「真理」に至る「道」なのです。イエスはピラトに対してこう宣言します。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」。イエスは神の真理を告げています。どこまでも人間を恐れる政治家のピラトには、イエスの語る教えが真理であることを理解することはできませんでした。

 

ピラトとのやり取り

 ピラトはイエスにこう問いました。そのやりとりを逐語会話記録風に書くとこうなります。

P1:「お前がユダヤ人の王なのか。」

J1:「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」

P2:「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」

J2:「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」

P3:「それでは、やはり王なのか。」

J3:「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」

P4:「真理とは何か。」(38節。本日の日課は37節までなので、この節は日課外の言葉になります。)

 このように並べてみると改めて、神を畏れずに人間を恐れているピラトの言葉はイエスとのやりとりの中で右に左に揺れ動いており、そこには拠って立つ基盤(「真理」)がないことが分かります。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞くというイエスの毅然とした言葉に対して、本日の福音書の日課に続く次にあるピラトの言葉がそのことを明らかにしています。ピラトはイエスに(おそらく怯えて震えながら)問うのです。「真理とは何か」と(38節)。イエスが証しするために来た「神の真理」がピラトには理解できません。「真理に属する人は皆、イエスの声を聞く」のですが、できればユダヤ人のゴタゴタとの関わりは避けて政治的決着を図りたいと考えるピラトも、イエスを十字架に架けて殺そうとする民衆も皆、「真理に属していない」ためそのことが分からずにいます。ピラトは揺るぐことのないイエスの態度の中に尋常ではないものを感じたのでしょう。ピラトにはイエスを有罪とすべき証拠は見出せませんでしたので、何とかイエスを助けようとします。しかし最後は民衆の圧力に屈服してゆきます。それは最後まで毅然としていたイエスの態度と対照的でした。

 37節でピラトが「それでは、やはり王なのか」とイエスに問うた答えは、以前に私たちが親しんでいた口語訳聖書では次のように訳されていました。あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける。この下線部分は新共同訳になった時に私が最も驚かされた部分の一つでした。口語訳ではイエスが決然として自分が王であることを宣言したように訳されていましたが、新共同訳では「それはあなたの言うことだ」「それはあなたが勝手に言っていることに過ぎない」というような、どちらかというと否定的な意味に受け取られる訳になっています。訳によっては全く逆の印象を与えるのです。ギリシャ語を確認すると新共同訳の方が原文に近いことが分かります。確固とした基盤を持たないピラトは、このイエスの答えを聞いてさらに不安になったに違いありません。

 かつてイエスは弟子たちに言われました。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にすると(8:32)。神の真理はそれを知る者を真の自由へと解放してゆくのです。イエスの姿は神の真理によって自由とされた者の生き方を明らかにしています。そしてそのようなイエスの確かな声は、恐れとおののきの中に呪縛されていたピラトと同じような立場にあった者をも本当の自由の中へと解放するのです。私たちはどのような時にも、どのような場所、どのような状況の中にあっても、キリストの声に耳を傾けなければなりません。キリストは迷える羊を見つけるまで、その名を呼んで探し歩いてくださるまことの羊飼いなのですから。キリストの声こそ私たちを支える力です。

 

真理に属する人

 ピラトがイエスに問うた最後の問い、「真理とは何か」38節)という問いは、私たち自身が人生の中で常にそこに戻ってくるべき重要かつ根源的な問いでもあります。キリストの与える「神の真理」こそが、私たちを非人間化している諸々の束縛から解放し、私たちを生かし、私たちに人生に意味を与え、私たちの人生を正しく方向づけてゆくからです。ヨハネ福音書は告げています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と。これが真理であり、この神の真実に目が開かれることが私たちには求められています。「クリスチャン/キリスト者」とは「キリストに属する者」という意味ですが、私たちは「神の真理に属する者」でありたいと願っています。主ご自身がそのような者であり続ける力を私たちに豊かに与えてくださいますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年11月18日 (日)

2018年11月18日  聖霊降臨後第26主日礼拝 説教 「世界の終わりに」

20181118日  聖霊降臨後第26主日礼拝 説教 「世界の終わりに」   大柴 譲治

マルコによる福音書 13: 1〜 8

イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」5-8節)

 

教会暦の終わりを臨み見て

本日私たちは聖霊降臨後第26主日の礼拝を守っています。与えられた聖書のみ言葉には「世界の終わり」について預言されています。実は、教会で用いられている暦(「教会暦」と呼びます)が来週で一年の終わりを迎えます。二週間後からはいよいよクリスマスの四週間前、「アドヴェント(待降節)」が始まります。アドヴェントからは教会では新しい一年が始まるのです。教会暦の終わりには毎年、いつも世界の終わりについて思いを馳せるようなみ言葉が与えられています。

 

世界の終わりに

 聖書はこの世界の始まりと終わりについて言及しています。初めがあるものは必ず終わりもあるのです。この世界の始まりについては主として創世記などで記されています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた(創世記1:1-4。ヨハネ福音書の冒頭にも、創世記の冒頭に呼応するようなかたちで、「初め」についてのダイナミックな言葉があります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった(ヨハネ1:1-3。さらには、この世界の終わりについてはヨハネ黙示録だけでなく様々な場面で告げられています。本日与えられた旧約の日課であるダニエル書12:1-3もそうですし、福音書の日課であるマルコ福音書13章もそうです。このマルコの13章は「小黙示録」とも呼ばれる箇所でもあります。

 実はマルコ福音書が書かれたのは紀元70年〜80年と推測されていますので、エルサレムにあった壮麗な神殿は(弟子の一人はそれを見てイエスに「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう。」と言っているくらいです)、その紀元70年、ローマ帝国によってエルサレムという町そのものと共に徹底的に破壊され尽くされています。マルコが福音書を書いた時には神殿は完全に破壊されていました。イエスの「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」という預言の言葉がその通りになったことをマルコや初代教会は既に知っているのです。かたちあるものは皆滅びるのです。平家物語が歌っているように、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者栄華の理をあらわす」のです。

 イエスの言葉に驚いた弟子たちの四人(ペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレ)が、秘かにイエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」4節)。弟子たちもまた迫害の中にあったのでしょう。それに応えてイエスは話し始められました。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである」5-8節)

 身がすくみ、震えが来るようなインパクトのある言葉です。しかしまさにイエスが預言したことが現在、現実の世界の中で起こりつつあるように思います。今年の夏には天変地異が続きました。集中豪雨や地震、台風、猛暑など、いくつもの想定外の事柄が次々に起こったのです。逆走台風12号など見たことがありません。偏西風や海流が変動していることも報告されています。地球の温暖化で北極の氷が溶けてきているとも言われています。また、思想信条のぶつかり合いがあり、テロや紛争、争いが絶えません。巨大国においても自国の利益だけを考えるような保護主義的でナショナリズムを標榜する風潮がはびこっています。地球とその歴史が全体として加速度を上げて終わりに向かって走っているような感じがしてくるほどです。これは「終わりの始まり」なのでしょうか。これからこの世界はどうなってゆくのでしょうか。イエスさまの言葉もそのような現実の状況の中で聴く時、とてもリアルに感じます。

そして、そのことは「産みの苦しみの始まり」と位置付けられています。そのような天地が揺らぐような世界の中で私たちは何を頼りにすればよいのでしょうか。イエスはそのことを弟子たちに告げているのです。「あなたがたはしっかりと揺らぐことなく、神が据えた御言という固い基盤の上に立ち続けなさい」と。

 

本当の礎石

 すべてが揺れ動く中で私たちは自分の小ささ、無力さを知らされます。世界の終わりを迎えるときに、あるいは自分の余命がいくばくもないということが宣告されるときに、私たちは改めて知らされるのです。それまで私たちを支えてきた自分の経験や体験、知恵や知識、信念(ビリーフ)や価値観、地位や財産、人々との絆や信頼関係など、すべてが色褪せてしまい、世界の終わりに当たっては頼ることができないものであったことを。世界の滅び、死を前にしたときに、いったい私たちに何ができるというのでしょうか。

唯一私たちにできることがあるとすれば、死を超えられた復活者イエス・キリストに信頼して、そこに自分を託してゆくことではないかと思われるのです。イエスも言われました。「『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる』」(ヨハネ黙示録21:6-7。午後から納骨式が行われる岡愛子姉の愛唱聖句でもあります)。聖書は私たちに確固としたものに足場を据えた生き方を示しています。「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」1ペトロ1:24-25)。

 生ける神の言であるイエス・キリストの上に私たちはすべてを置いて生きることです。イエスご自身が語っておられる通りです。「わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。しかし、聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。川の水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」(ルカ6:46-49。神の言という揺るぐことのない土台の上に人生の礎/基盤/土台を置いて、私たちはそれを行いつつ生きるのです。

 

「たとえ明日世界が滅びようとも、今日わたしはリンゴの木を植える。」(マルティン・ルター)

ルターの言葉として伝えられているものの中に有名な言葉があります。「たとえ明日世界の終わりが来ようとも、わたしは今日リンゴの木を植える」。よく知られた言葉です。私たちの多くは自分が明日までのいのちと知るとパニックになって揺れ動くことでしょう。しかしルターはここで徹底して神の働きに信頼しています。彼はそこから、たとえ全世界が揺れ動いても、明日その滅びが来たとしても、「本当の終わり」はその向こう側、神の中にこそあると看破し、それを見据えているのです。だからこそキリスト者はこの世界の滅びを越えて本当の未来、真の明日に向かって神に与えられた日々の務めを果たしてゆくことができるというのです。ルターはまた「世界を動かす力は希望である」とも言っていますが、確かに人間は「希望」がなければ生きてゆけません。本当の終わり、本当の未来、真の希望は神の中にある。これに目を向けたいと思います。イエスは言われました。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と(マルコ13:31ほか平衡箇所)。それはイエスが、「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)という「父なる神(アッバ)の言」に徹底的に信頼していたからです。そのような信仰を私たちは神にいただいて生きるのです。そのことを味わいながら新しい一週間を、主と共に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年11月11日 (日)

2018年11月4日(日) 全聖徒主日礼拝 説教「キリストの涙」

2018114日(日) 全聖徒主日礼拝 説教 「キリストの涙」       大柴 譲治

ヨハネによる福音書 11:32〜44

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(32-35節)

 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

全聖徒主日にあたって

本日私たちは「全聖徒主日」を守っています。別名で「召天者記念主日」とも呼ばれますが、召天された方々を覚えて本日は礼拝を守っているのです。この一年間で私たち大阪教会は五名の兄弟姉妹を天に見送りました。2/11にはK.正一兄を92歳で、②8/23にはY.玲子姉を80歳で、③8/24にはI.靖兄を59歳で、④9/4には O.愛子姉を82歳で、⑤10/8にはW.憲一兄を73歳で見送りました。特にこの二ヶ月余りのうちに四名を天へと見送ったことになります。天上はさぞかし賑やかになったことでしょうが、地上はたいへん寂しくなりました。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りいたします。皆さまにおかれましても、この一年で親しい者を天へと見送られた方々が何人もおられることでしょう。私たちはいつも生老病死という四つの大きな苦しみと悲哀の中に置かれているのです。それを避けることはできません。それをどのように受け止め担うことができるか。聖書はそれを担う一本の確かな道を示しています。それは私たちのために十字架にかかり、死して復活してくださったお方、イエス・キリストを信じるキリストの道です。

 

怒るイエスの姿

 本日の福音書には、感情をとても強く表現しているイエスの姿が描かれています。特にそこに表されているのは「憤り」であり「怒り」です。そこには「怒るイエスの姿」が記されているのです。そして涙を流すほどまで怒り狂われるイエスの姿がそこにはあります。ある意味で私たちはそのようなイエスの姿にショックを受けるのではないかと思います。

登場するのはマルタの姉妹マリアです。マリアは、マルタ同様、弟のラザロを亡くして深く嘆き悲しんでいます。

マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、『主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに』と言った。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った32-34節)。そして35節にはイエスが涙を流されたことが端的に記されています。イエスは涙を流された」。本日の説教題である「キリストの涙」はここから取られています。本日は主が流されたこの「涙」に焦点を当てて、その意味を味わいたいと思います。

キリストの涙を見てユダヤ人たちは二つの反応をします。イエスの涙を見て、彼らは二つの解釈をしたと言ってもよいでしょう。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた」36-37節)。そして38節でも再度イエスは深い憤りを表しています。どうしようもなくイエスは怒っているのです。「イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた」。人間を非人間化する「悪」「死」の力に対してイエスは怒りつつ向かい合っているのです。

今日の日課の前の部分ですが、イエスは既にマルタに対してこう告げられました(25-26節)。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。この言葉が真実であることを、イエスはここでラザロを死からよみがえらせることを通して明らかにしています。そしてやがてイエスは、ご自身の死からの復活によってその真実性を証言してゆかれるのです。

私たちはこの「キリストの涙」を、人間をどこまでも非人間化しようとする「罪と死の力」に対して流された「怒りの涙」「闘いを宣言する涙」として受け止めたいのです。私たちの苦しみをご自身のはらわた(中心)で受け止められるイエスです。私たちを死からいのちへと取り戻そうとして死と闘うために感情のエネルギーを出しておられるのです。イエスはご自身の「われは復活なり、いのちなり。あなたはこれを信じるか」という宣言と問いかけを力あるものとして実践するために私たちのところに来てくださったのです。神と等しくあられたお方が私たちの救い主としてこの地上に派遣された。そのお方は私たちのためにその十字架の苦難と死とを背負ってくださったお方です。私たちのために、私たちと共に、熱い涙を流してくださるお方です。

 

祝福の涙

本日も私たちは聖餐式に与ります。礼拝堂の聖壇部分の中心に置かれているのはキリストの食卓です。「あなたはこの杯が飲めるか」というイエスのみ言葉を私たちは二週間前に聞きました。この「キリストの杯」は苦難と死の杯でもあると共に、喜びの杯、復活のいのちの杯でもあります。神のいのちの喜びが私たち一人ひとりを満たして下さいますように祈ります。この食卓を中心として、目に見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っています。キリストは生者と死者の両方の救い主であり、私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬからです。私たちは生きるとしても死ぬとしても主のものだからです。ここには私たちの生と死を超えた、この世の苦しみと悲しみを超えた「復活といのち」があります。今ここで、永遠なる神とつながっている「永遠の今」があります。その意味で教会は「天国に一番近いところ」であると言えましょう。

本日の第二日課であるヨハネ黙示録21章は次のように宣言しています。「そのとき(新しい天と新しい地が実現するとき)、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」(黙示録21:3-5)。もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない、そのような世界が復活のキリストによって約束されている。そのように信じる者にとって、キリストの流された「涙」はもはや怒りの涙ではありません。それは私たちの嘆きの涙を喜びの涙としてくださるキリストの涙であり、私たちの人間性を回復し、私たちの涙を感謝と讃美の涙に変えてくださる「祝福の涙」なのです。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

 

 

2018年10月21日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「わたしの飲む杯が飲めるか」

20181021日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「わたしの飲む杯が飲めるか」大柴譲治

第一日課:イザヤ書 53:4〜12

彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ。彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。(4-5節)

福音書:マルコによる福音書 10:35〜45

二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」(37-38節)

 

「あなたの一番弟子と二番弟子にしてください。」〜ヤコブとヨハネの願い

 本日の福音書には、12使徒の中のゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに自分たちを一番弟子、二番弟子にしてくださいと願い出る場面が描かれています。三回目の受難予告のすぐ後です。つい先日(四週間前)も「だれが一番偉いか」で弟子たちが論争していた場面を読みました(923日、マルコ9:30-37)。二番目の受難予告のすぐ後の出来事でした。イエスが語ることと弟子たちが考えていたことのすれ違いはなかなか埋まることはなかったのです。福音書記者マルコは弟子たちの人間的な思いをイエスの受難予告に結びつけることで、いかにイエスが(そしてイエスに従うことが)私たちの日常の上昇志向的な価値観と異なっているかを明確にしようとしているのでしょう。神の御旨はイエスの言葉、および本日の第一日課であるイザヤ書53章に明白です。イエスは弟子たちを呼び寄せて言われました。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである42-45節)。「人の子」とはイエスがご自身を呼ぶときの言い方です。私たちに「キリストに倣え」というのです。キリストはイザヤ書53章に預言されていることを実現するために神によってこの地上に派遣されてきたのです。彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた53:4-5)。そして10-11節にはこうあります。病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは、彼の手によって成し遂げられる。彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」。

話をもとに戻しましょう。他の10人の弟子たちはヤコブとヨハネに出し抜かれたと感じて大いに腹が立ったと記されています。この二人だけではなく、12人全員が一番弟子、二番弟子を狙っていたからでした。かの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。41節)。イエスは繰り返し弟子たちには「一番になりたい者は、最も低い姿を取ってすべての人々に仕える生き方をしなさい」とか、「自分を捨て、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさい」と教えてきたにもかかわらず、彼らは何を学んできたのでしょうか。人間は自分が聞きたいことだけを聞こうとするものなのです。イエスは何も分かっていない(分かろうとしていない)弟子たちの鈍さと頑なさに、頭を抱えたのではなかったでしょうか。特にゼベダイの二人の子らは「ボアネルゲス(雷の子ら)」というニックネームがイエスによって付けられていました。それくらい気性が激しく短気だったのでしょう。一言で言えば二人は「わがまま」だったのです。ゼベダイには雇い人たちが何人もいたようですから、漁業も成功していた資産家であったに違いありません。彼らの父親のゼベダイはカファルナウムでかなりの顔役だったに違いありません。恐らくペトロ以外は、そのような気性の激しく、豊かな財産を持つゼベダイ家の彼らに対して面と向かってはなかなか正面からは言えなかったのかも知れません。マタイ20章の並行箇所では、イエスに「二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は座れるとおっしゃってください」と申し出たのは彼ら自身ではなく、彼らの母親であったと記されています。「この母にしてこの子あり」と言いましょうか、「子を思う母は強し」と言いましょうか。その姿に思い当たる節は私たち自身にもあるのかもしれませんね(苦笑い)。

 

「わたしが飲む杯が飲めるか。」

 しかしイエスはそれらが父なる神の決定に属することであると明言し、このように言われました。二人に、そして弟子たちに鋭く問われたのです。「『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。』彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ』」38-40節)。

イエスが今飲もうとされているのは十字架の苦難と死という「にがいにがい苦しみの杯」です。「わたしが飲む杯が飲めるか」。この言葉は、「自分を捨て、自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と言われた私たち一人ひとりに向けて語られた言葉でもあります。しかし同時に私たちは、イエスの飲もうとされた「杯と洗礼」は、イエスお一人のためのものではなかったということを知っています。それによって「多くの人」が救われるためだった。「彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた5節)わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った(同11b)。多くの人々の贖いのため、救いのためにその「苦しみの杯」「死の洗礼」は必要な事柄でした。私たちがイエスによって「あなたはわたしが飲む杯が飲めるか」と問われる時、私たちが飲もうとする苦しみと涙の杯は、イエスのそれがそうであったように、自分だけのためではなく、そのことを通して多くの人々が幸せになるためのものなのです。ちょうど家族のために身を粉にして外で働くようなものかもしれません。その働きを通して家族は生活してゆくことができる。そう思うと私たちは頑張れます。そのように「杯と洗礼」とを受け止めるとき、私たちはイエスの飲まれた杯を飲み、イエスの受けられた死の洗礼を不思議な平安と喜びの中に受け止めてゆくことができるのではないか。そう思えてなりません。

中野信子という脳科学者が著書(『脳科学から見たい「祈り」』)で次のようなことを語っていて強く印象に残りました。「十字架の苦難を背負ったイエスは決して苦しみだけを感じていたのではなかったのではないか。自分が背負っている苦難が人々のためにどうしても必要な苦難だと思う時に、そこには大きな喜びも同時に与えられていたのではなかったか」。自己のためだけではなく、他者の幸福を思い、利他的に祈り行動することこそ、脳に大きな喜びと平安を与えるのです。人間とはそのように最初から造られている生物だというのです。実際にヤコブは、イエスの預言の通り、やがて剣で斬り殺されて殉教したことが知られています(使徒12:2。紀元44年頃)。そのように受け止めてゆく時、殉教するほど熱心にイエスに従った者たちの、信仰の持つ喜びの次元が少し見えてくるように思います。

「わたしが飲む杯が飲めるか」。本日も私たちは聖餐式に与りますが、このキリストの杯は「苦難と死の杯」でもあると共に、「喜びと感謝の杯」であり「復活といのちの杯」でもあります。キリストの杯とキリストの洗礼を通して、神の愛といのちの喜びとが私たちを豊かに満たして下さいますようにお祈りいたします。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。 アーメン。

2018年10月20日 (土)

2018年10月14日 聖霊降臨後第21主日礼拝 説教「天に宝を積むために」

20181014日  聖霊降臨後第21主日礼拝 説教「天に宝を積むために」    大柴 譲治

マルコによる福音書 10:17〜31

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(21節)

 

永遠の命を受け継ぐためには、何をすればよいか

 本日の福音書には、一人の男性とイエスとの、「永遠の命」を巡る大変に興味深いやりとりが記されています。逐語会話記録風にまとめるとこのようになります。

おとこ1:「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

イエス1:「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟=十戒)をあなたは知っているはずだ。」

おとこ2:「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました。」

イエス2「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれ

ば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(彼を見つめ、慈しみながら)

おとこ3:・・・(この言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去る。理由:たくさんの財産を持っていたから。)

 このやりとりでイエスが告げていることは明確です。「あなたは十戒を心から守りなさい。十戒に示されている神の御心を大切にして生きなさい」ということです。その男性が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言うと、イエスは彼を温かい慈しみのまなざしで見つめます。ここで「慈しんで」と訳されている語は「愛して(アガパオー)」という言葉です。実際その人は子どもの頃から誠実に、忠実に、心から十戒を大切にして守ってきたのでしょう。彼にはしかし十戒を守ることだけで「永遠の命」を得ることはできないように感じていたと思われます。これでいいのだろうかと何か物足りないものを感じていたのです。「おとこ2の言葉は、その男性がイエスの答えに対して多少の失望感を持ったようにも私には感じられます。イエスが十戒に言及されたことに少し驚きを覚えたのかも知れません。「十戒は子供の時から守ってきました。それでも私は何か足りないような気がするのです。永遠の命を受け継げるという実感がありません。主イエスよ、私に何が足りないのでしょうか。どうかそれを教えてください」。そのようなひたむきで誠実で一生懸命にまっすぐに生きようとしてきたその人の人柄が伝わってきます。だからこそイエスは彼のその誠実さを愛し慈しんで語られたのでしょう。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。永遠の命を受け継ぐためには、すべてを捨ててキリストに従うことが必要だと言われるのです。これが天に宝を積むために「なくてならぬこと」「決定的なこと」とイエスは言われるのです。様々なものを所有して生きている私たち自身の生き方が根本から問われているように感じます。イエスの声にはいつも覚醒作用があるのです。

 

「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。」(ヨブ1:21

 ヨブ記の言葉を思い起こします。義人のヨブは神に祝福された人生を送っていましたが、突然にすべてを失ってしまいます。強盗たちの略奪や突然の天からの火によって「全財産(羊7千匹、らくだ3千頭、牛500くびき、雌ロバ500頭、非常に多くの使用人)」を失います。また 突風が吹いて家が倒れ、一つに集まって祝宴を開いていた「子供たち全員(息子7人、娘3人)」が死んでしまいます。そして ヨブ自身も突然「ひどい皮膚病」になることで全身をかきむしるようになり、さらには周囲からは④「罪を犯して神に罰せられた者」と言われて「義人」としての名声も失い、挙げ句の果てには妻から「あなたはまだ無邪気にも神を信じているのですか。神を呪って死になさい」という言葉さえ投げかけられて徹底的な孤独を味わうのです。言わば「五重苦」です。そのような一連の苦難のプロセスの中でヨブはこう告白します。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪われる。主の御名は誉め讃えられよ」(ヨブ1:21)、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(同2:10)と。ヨブは苦しまなかった訳でも悲しまなかった訳でもありません。深い嘆き悲しみの中からこのような言葉をうめくように語っているのだと私は思います。この言葉は「神の御心が成りますように。あなたの僕(しもべ)ヨブはあなたの御心にどこまでも服従します」というヨブの信仰告白なのです。

 私たちは確かに裸で生まれ、裸で死んでゆきます。どれほど資産に恵まれていたとしても、栄誉や名声、業績や家族、賜物やエネルギーに恵まれていたとしても、死ぬ時にはそれを何一つ持ってはゆけない。すべてを置いてゆくのです。何も持たずに裸で母の胎を出た私たちは何も持たずに裸で死んでゆく。その意味では、「永遠の命」を受け継ぐためにはこの世的な財産の多い少ないは関係ありません。財産が大切ではないと言っているのではありません。次元が違うのです。この世を生きるためには財産はどうしても必要なものでありましょう。しかしそれは欠けてはならぬ唯一のものではない。永遠の命を受け継ぐために必要なものはただ一つだけなのです。イエスは言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。イエスは持ち物をすべて貧しい人たちと分かち合えと命じるのです。すべては神から与えられた恵みだからです。その恵みは自分一人のものではなく、多くの人々と分かち合うために神から私たちに託されている、管理を委ねられているものなのです。ここ数年「断捨離」という言葉が流行っています。必要最低限しかモノを持たない生き方です。物質的に豊かになることで大切なことが見えなくなってしまうことが少なくない中、私たち自身の生き方がそこでは見直されているのでしょう。守るべきモノが多いと私たちはそれに捕らわれてしまい不自由になってしまいます。私たちは「裸で母の胎を出て、裸でかしこに帰る」定めです。しかし私は思います。たった一つだけ持ってゆくことができるものがある。それは何か。私たち自身の「豊かな心」であり、「満ち足りた魂」です。その独り子を賜るほどこの世を愛して下さった神に対する信仰、信頼であり感謝です。

 

「ありがとうと言って死のう〜悲しみの乗り越え方」(高木慶子シスター)

 今月23日(火)の午後2時からるうてるホームでは職員のためのスピリチュアルケア研修会が行われます。教会の入口にもポスターが貼ってありますが、今回の講師はカトリックの高木慶子シスター(上智大学グリーフケア研究所)です。高木先生の講演の主題はズバリ「ありがとうと言って死のう〜悲しみの乗り越え方」です。確かに私たちは死ぬ時には何も持たないで死んでゆくのですが、一つだけ持ってゆくことができるとすればそれは「豊かな心」「感謝の心」です。それが持てたら笑顔でこの地上の生涯を祝福のうちに終えてゆくことができるということになります。

 イエスはある時「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ8:34)と言われました。文字通りにはイエスと同じように十字架と死を背負うことを意味していましょう。しかし今回の「永遠の命」を得ようとイエスのもとに来た一人の男と重ねるならば、彼にとってそれは自分の全財産を貧しい人に施して捨ててからイエスに従うということなのです。そこに永遠の命を受け継ぐ道があるとイエスは宣言している。十戒を守ることを延長線上には「すべてを捨ててイエスに従う」という実践があるのです。そしてそのことは「イエスの慈しみの眼差し」の中で起こる。この男性は自分の財産の多さに目を向けて「気を落とし、悲しみながら」イエスのもとを立ち去りました。自分にはそのようなことはできないという絶望的な思いに心打ち砕かれたのでしょう。その悲しみの中で彼はイエスの慈しみに満ちた眼差しに気づきませんでした。もう一歩だったのに・・・。本当はイエスのみ顔を仰ぎ見てイエスに従うという「未来」に向かって目を向けるべきだったのに、自分が持っている財産と十戒を守ってきたという「過去」の歩みの方に目を向けてしまったのです。残念至極です。イエスにはそれが最初から分かっていたのでしょうか。本当の自由、本当の未来は、おそらく私たちが何も持たなくなったとき、私たちの死の床で明らかになるのでしょう。「永遠の命を受け継ぐ」とは具体的には「ありがとうと言って死ねるか」ということです。そのことは私たちがイエスを見上げる時、私たちに向けられたイエスご自身の愛と慈しみの眼差しに気づく中で起こるのです。それは私たちに永遠の命を与えようとするキリストの眼差しです。そのイエスの眼差しに信頼し、その眼差しの中で、私たちは主に従って歩んでまいりたいと思います。それが「天に宝を積むこと」であり、今ここで、この地上において天とつながって宝を味わいながら生きるということです。その独り子を賜るほどに私たち一人ひとりを愛して下さっている神を覚え、私たちもまた「神さま、ありがとう。皆さま、ありがとう」と言って感謝と平安の中に死にたいと思います。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2018年10月07日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神が結び合わせてくださったもの」

2018年10月07日 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神が結び合わせてくださったもの」 大柴 譲治

○ 創世記 2:18〜24

主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」(18節)

○ マルコによる福音書 10:2〜16

「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(6-9節)

 

「結婚」=「神が結び合わせたもの」

 本日は結婚についてのみ言葉が与えられています。「結婚は神からの恵みの賜物、尊い贈り物である」ということが明らかにされているのです。しかし結論を先取りして言うならば、私たちはそれを拡げて理解し、「私たちがこの地上で経験する出会いのすべては神の恵みの賜物である」として受け止めてゆきたいと思います。

旧約の日課である創世記2章を受けてマルコ福音書10章でイエスは結婚について次のように宣言しておられます。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない6-9節)。大変有名な言葉です。結婚式文の中でも宣言される重要な言葉でもあります。私が牧師になってこの西教区の福山教会に赴任した時、教区のある先輩牧師がこの部分を結婚式の中で間違えてこのように言ってしまったことがあると伺ったことがあります。最後の部分ですが、「神が結び合わせたものを、人が離してはならない」と言うべきところをうっかりと無意識に、「人が結び合わせたものを、神が離してはならない」と逆に言ってしまったということでした。その先生はすぐにその言い間違いに気づいて、「もとい! 神が結び合わせたものを、人が話してはならない」と言い直したと言うことでした。笑い話のような本当の話です。

 しかしこのエピソードは私たちに大切なことを考えさせてくれます。結婚というものは、確かに男と女との出会いがあって、そして相互の決断があって二人は夫婦になってゆくのです(恋愛結婚であるかお見合い結婚であるかは問いません)。その意味では結婚には人間が結び合わせてゆくという次元が確かにあります。それにも関わらず聖書は、結婚は人間が発明したものではなくて、神が人間の次元を超えたところから贈り物として贈り与えてくださったものであるということを創世記の1章と2章は繰り返し宣言しています。1章では天地創造物語の中に位置付けているのです。27節。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」。そして続けられています「神は彼らを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ』28節)。この「男と女に創造された」というのは「夫と妻に創造された」とも訳しうる言葉です。夫婦が「神の似姿」に、即ち相互に愛し合うように「神の愛(アガペー)のかたち」に造られていると聖書はその最初で宣言しているのです。人間が結婚して家庭を築き、家族と共に多くのことを分かち合いながらこの世の人生を生きてゆくことは、神の御心に適うことであり、そこには神の豊かな祝福が注がれているということが告げられています(28節)。この教会の牧師であられた石橋幸男先生は結婚カウンセリングの中で「結婚のことを古い英語では『procreation』と言うのだ」と説明しておられました。それはpro(前進させる)」という接頭辞とcreation(創造)」という名詞からなっていて、「結婚」「神の創造のみ業に参与し、それを前進させる役割を果たす出来事である」ということを力強く語っておられたことを私は思い起こします。結婚というものが神の創造のみ業につながるほど壮大なスケールを持っていることが分かります。

 

結婚〜神から与えられたパートナーシップ

イエスの言葉に戻りたいと思います。ファリサイ派の人々から結婚(離縁)についての論争をしかけられてイエスは次のように宣言しています。しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。神の合わせた結婚を損なうということは、モーセの十戒の第六戒「あなたは姦淫してはならない」を破るものとなるということをイエスは明確に断言しているのです。神の御心は結婚とそれに続く家庭生活を大切にしてゆくところにあります。血縁関係で結ばれている家族の中で唯一血縁関係ではない関係があります。それが夫婦の関係です。しかしそれは「約束の関係」なのです。換言すればそれは「契約の関係」です。夫婦の契約関係が家族の中心に置かれていることは重要な事柄であると思います。子どもは両親の相互関係を見て育ちますから、そこが安定しているかどうかは子どもに大きな影響を与えてゆきます。人間が「神のかたち」に創造されているということは、神と人間とが相互に愛し合う契約の関係の中に置かれているように、夫と妻とが互いに愛し合う約束(契約)の関係の中にあることを意味しています。そしてそれは神が定めたもの、神が結び合わせたものです。創世記の2章には「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」18節)という神の言葉が記されています。「助ける者」とは「上下関係のあるアシスタント」のことではありません。「対等なパートナー」を意味します。この神の決定が先にあって、アダムとエヴァが出会ってゆくのです。古来日本ではその神秘を表現するために「赤い糸に結ばれていた」というように言ってきましたが、聖書もまた夫婦はその出会いに先立って神の決意があることを宣言するのです。私は結婚式の説教で必ずこのように語ります。「これからはお二人の愛が結婚を支える以上に、神の定めた結婚がお二人を支えてゆかれることになります」と。人生山あり谷ありですが、人生の要所要所で夫婦は共に神を見上げてゆくことが求められています。

 

「出会い」=「神が結び合わせたもの」

 そして実はそのことは夫婦関係に限るものではないと私は思わされています。人生におけるすべての出会いの背後には神の御心があるのです。「結婚」のみならず「人生における出会い」もまたすべからく「神が結び合わせたもの」なのです。考えてみれば、自分が自分であるということも実に不思議なことです。気がついたら私たちはこの自分として生きていました。自分で自分を選んで生まれてきたという人はおそらく存在しないことでしょう。この時代、この場所、この両親の下に、この自分として生を受けて生きる。これは私たち自身が選んだことではありません。言わば「向こう側から選ばれたこと」なのです。私たちを超えたところで、神ご自身が選んで、この私を私として生を与えて下さったのです。今この時代に70億を超える人間が地球上に生きているとされています。自分が自分であるという確率は70億分の一」です。自分が自分であるということも不思議なことですが、この自分が今隣に座っている人と出会うという確率は70億分の一」かける70億分の一」という天文学的な数字になります。実に不可思議な奇蹟のような出来事です。その背後には神の決意があると聖書は告げています。

若い頃にファリサイ派の律法学者であったパウロはキリスト教の迫害者でもありました。しかしキリストと出会うことを通してパウロの目は開かれ、次のように告白する者へと変えられてゆきます。わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたと(ガラテヤ115-16)。パウロはここで「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」と語った預言者エレミヤを明白に意識していると思われますが(エレミヤ15)、生まれる前に既に神の圧倒的な恵みがパウロを選び、彼を捉えて放さなかったと言うのです。そして彼はその神の決定に忠実に従って人々にキリストの福音を宣べ伝えてゆきました。キリストと出会うことでパウロは、人生の出会いがすべて神によって備えられたものであり、神によって結び合わされたものであることを知ることができたのです。この新しい一週間も神の恵みの光に照らされて歩みたいと思います。主が私たちと共にいてくださいます。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

2018年9月30日 (日)

2018年9月30日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教「地獄とは愛のないところ」

2018930日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教「地獄とは愛のないところ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 9:38〜50

もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。(47-48節)

 

嵐(台風24号)のただ中で

 台風24号が日本列島を直撃する中で、本日私たちは主日礼拝を守っています。このような中でもこの礼拝に足を運ぶ方々がおられるということは、私たちがどれほど礼拝を大切に思っているかということを明らかにしていると思います。諸般の事情で本日は礼拝に来ることができないで、たとえばインターネットを通して祈りを合わせ、礼拝に参加しておられる方もおられることでしょう。ある意味私たちは、本日この場に来ることができない人たちの代表・代理としてもこの礼拝に与っているのだと思います。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。

 

地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」〜「地獄」に思いを馳せる

 本日は大変厳しいイエスの言葉が繰り返されています。48節の地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。という言葉です。しかもこれがある写本によると三度も繰り返されているのです(44節と46節。新共同訳聖書では†の印がついて省略されていますが)。本日は「地獄」ということについて焦点を当てて、神の御心に思いを馳せたいと思います。48節に続く49節には「人は皆、火で塩味を付けられる。という言葉が続きます。「地獄の火(業火)」によって燒かれることを通して、「地獄のような現実の苦難」を通して私たちの魂は精錬され、私たちが真の人間として生きるために必要な「塩味」を付けられるということなのでしょうか。塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい」50節)。私たちがどこから塩味を与えられるのか心に留めながらみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

「ここはまだ地獄じゃない。地獄とは愛のないところなのだから」

 カトリック作家の遠藤周作に『女の一生』(朝日新聞社、1982)という作品があります。長崎とアウシュビッツを舞台にした作品で、その『第二部 サチ子の場合』にはポーランド人のコルベ神父が出てきます。コルベ神父は1930年、ゼノ修道士などと共に長崎に来日し、1936年にポーランドに帰国。そして1941年にアウシュビッツ収容所に入れられ、やがて一人の囚人の身代わりになって殺されてゆくのです。ナガサキの大浦天主堂に隣接する元神学校跡の建物の中にはコルベ神父の生涯を記念する展示室も設置されていました。遠藤周作はそのコルベ神父のアウシュビッツでの姿を印象的に描き出しています。コルベ神父自身は無力で、ボロボロになった姿をした囚人の一人なのですが、その収容所の現実の悲惨さの中で「ここは地獄だ」とつぶやく囚人の一人に対してこう語ったのです。「ヘンリック、ここはまだ地獄ではない。地獄とは愛のないところだ。でもまだここには愛がある」と。愛のないところが地獄なのです。ここにはまだ愛がある。神の愛が生きている。だからまだ地獄ではない。コルベ神父はこう言って自分の僅かなパン切れを倒れている人に分かち合ってゆくのです。大変に印象に残る場面です。

 1941年7月、アウシュビッツ収容所では脱走者が出たことで、10人が選ばれて餓死刑に処せられることになりました。囚人たちは無作為にその番号で呼ばれて選ばれてゆきましたが、そこで自分の番号を呼ばれたフランツィシェク・ガヨフニチェクという男が「私には妻子がいる」と突然叫びだしたのです。10人が連行されようとした時に、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出たのです。ナチスでは反カトリック、反聖職者的な雰囲気が強かったためにすぐさまこの申し出は特別に許可されました。コルベ神父と9人の囚人は地下牢に押し込められます。通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通でしたが、コルベと9人は互いに励まし合いながら死んでいったといわれています。最後まで彼らは「愛」の中に生きることができたのでした。時折牢内の様子を見に来た看守は、「牢内から聞こえる祈りと歌声によって、餓死室は聖堂のように感じられました」と証言しているほどです。2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、薬物を注射され殺害されてゆきました。

戦争やテロなどにおける人間の罪深さ、自己中心性、残虐さなどを思う時に、私たちは恐ろしくなります。私たちの中にもそのようになる可能性があるのです。人間は悪魔にもなり得れば、天使にもなり得るのです。信仰者・文学者として人間の心の闇を徹底的に見つめたロシアの作家ドストエフスキーの言葉に次のようなものがあります。「神と悪魔が闘っている。そして、その戦場こそは人間の心なのだ」(『カラマーゾフの兄弟』)。 然り! ドストエフスキーは人間の闇の深淵の奥の奥底までも見つめて、それを言葉に表現しようとしています。なぜか。彼は、人間の持つ闇の絶望的な暗さ・深さを明らかにすると共に、同時にその闇の底に届いているキリストの救いの光をも明らかにしたかったからだと思います。「神と悪魔とが鬪っている戦場」としての私たちの人間の心の中に、私たちを救うために降り立ってくださったお方。それが私たちの主イエス・キリストであり、その十字架への歩みは悪魔との闘いを意味しています。キリストがその苦難と十字架と復活とを通して悪魔に勝利してくださった。だから私たちは知っているのです。キリストの愛が届かないような闇はないということを。


「地獄にもキリストがおられるのだから。」(ルター)

「ヘンリック、ここはまだ地獄じゃない。地獄とは愛のないところだが、ここはまだ愛がある。」と言って、自分が持っていた一切れのパンを倒れている人に差し出していったコルベ神父。私たちはその姿の中に今も生きて働いておられる復活のキリストを見ることができるのだと思います。歴史の中には、おそらくこのような無数の愛の行為があったことでしょう。その多くは人々に知られることなく、忘れ去られているように思われます。しかし、神はそれをきちんと覚えていて、忘れずにその心に刻みつけていてくださるのです。なぜなら、「愛と慈しみがあるところubi caritas et amorには神がおられるからです。そこに私たちに対する神の祝福が豊かに備えられていることを覚えたいと思います。何よりも神はその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださいました。それは御子を信じる者が、神の愛を分かち合うことの中で、一人も滅びないで永遠の命を得るためでした(ヨハネ3:16)。ルターはある時にこう言いました。「もし私が地獄に落ちなければならないのであれば、喜んで地獄に落ちよう。なぜなら地獄にもキリストはおられるからだ」。私たちを贖うためにキリストは地獄にも降りたって下さった。ここに私たちに本当の意味の塩味を与えて下さるお方がおられます。キリストの愛こそが私たちを生かす塩なのです。

 私たちにいのちを与えてくださる主イエスが嵐の中でも私たちと共にいてくださいます。この主に従って私たちはともにこの一週間をご一緒に踏み出してまいりたいと思います。どれほど嵐がひどくとも、私たちをキリストの愛から引き離す力をもったものは何も存在していないのですから。

お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

2018年9月23日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「だれが いちばん えらいか」

2018923日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「だれが いちばん えらいか」 大柴 譲治

マルコによる福音書 9:30〜37

彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」34-35節)

 

「サタン、引き下がれ!」〜イエスの真剣な、そして厳しい叱責の言葉

 先週はマルコ福音書の8章の終わりから、イエスに対して正しくキリスト告白をしたペトロが、イエスご自身の苦難の預言を聞いた途端イエスを脇にお連れしていさめ始めたため、イエスから「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と叱責された場面を読みました。弟子たちは自分のメシア像をイエスに投影していたのです。

 本日の日課にもイエスと弟子たちの意識の違い、次元の違いが明かにされています。一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。それは弟子たちに、『人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する』と言っておられたからである。弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった930-32)。イエスはまっすぐに、そして真剣にエルサレムの苦難(それは「十字架」ですが、まだ十字架という言葉は出て来ません)を見据えていますが、弟子たちは怖くてそれを尋ねることができなかったのです。イエスは神の御心に従うことを真剣に考え覚悟しています。それに対してまだ弟子たちはボンヤリとしていて、イエスにその意味を尋ねるとペトロのように再び「サタンよ、退け。あなたは神のことを思わないで、人間のことを思っている」とイエスに厳しく叱責されるに違いないと思って怖れていたのでしょう。

 

「だれが いちばん えらいか」

 それどころではありません、イエスが二度目の受難予告をしているにもかかわらず、弟子たちの関心は「だれがイエスの一番弟子であり、二番弟子であるのか」というところにあったのです。「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、『途中で何を議論していたのか』とお尋ねになった。彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである」33-34節)。だれが一番偉いか! これは少しでも力ある地位を求めようとする私たち人間の主要な関心事です。苦難と恥との道を踏み出そうとするイエスの関心とは対極にあるものでした。弟子たちは全く神のことを思わず、人間のことを思っていたのです。しかし今回はイエスは「サタンよ、退け!」とは叫びませんでした。イエスは座り、かんで含めるようなかたちで12人を呼び寄せてこう言われたのです。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」35節)。そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げてこう言われました。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(37節)。

 

「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」

 イエスがその弟子たちに求めるものは「へりくだり(謙遜)」であり、「柔和」であり、「寛容」であり、「忍耐」なのです。幼子のような小さき無力な者を受け入れ、自らもそのような者となってゆくことです。言い方を変えて言うならば、「屠り場にひかれてゆく羊」のように、神によって自分に与えられた苦難の十字架を黙って担ってゆくあり方なのです。徹底的に神の御心に対して「御意(然り/イエス)」と言って、それに服従して生きる生き方なのです。そこにこそ本当の生きる喜び、本当の慰めがある。

弟子たちは「だれが一番偉いか」と道々議論していました。イエスは自分に与えられるしんどい道をしっかりと歩み出そうとしておられます。極めて対照的な姿です。「だれが いちばん えらいか」。「えらい」という語の意味が少し変わりますが(「一番ステイタスが高い」という意味ではなく「一番重荷を背負う」という意味です)、それはしんどさにおいて「一番えらい」のはイエスです。この時点に至ってもイエスの思いと決意は誰からも理解されませんでした。

イエスは弟子たちに言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。天からこの地上に降られたみ子なる神イエス・キリストは私たちに、逆説的な言い方ですが、「下に昇る生き方」「上に降る生き方」を示されたと申し上げることもできましょう。大いなるお方(神)の御心に服従し、神にすべてを委ねて生きること、人々に仕えるために自分を差し出して生きることの中には、私たちが様々な生活の領域の中で「ボランティア精神」をもって生きる時と同じですが、そこには大きな喜びがあり、充実感があります。そこには神の豊かな祝福がある。それは一番損をしているように見えて、実は一番得をする生き方なのです。生と死を超えた神による喜びの生がそこには準備されているのです。

 

「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり。」

福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の言葉をも想起します。「天は、人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と云えり」。これは西洋を視察した諭吉が、キリスト教から深い影響を受けてきた西洋の文化と社会、その価値観を一言で言い表そうとした的確な言葉であり、含蓄のある言葉であると思います。私たちには「天」を見上げたときに初めて見えてくる「神の前での平等」という真実があるのです。「だれが一番偉いか、一番優れているか」という力を競い合う生き方ではなく、神の前にコツコツと自分に与えられた使命を果たしながら誠実に生きる。そのような生き方が求められています。そしてそのような神に対する服従の生き方を貫かれたお方が主イエス・キリストでした。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」という自らの言葉の通り、キリストは生きられたのです。そのことを覚えて、私たちもまた「イミタティオ・クリスティ(Imitatio Christi)」、キリストにならいて、謙遜と柔和、寛容と忍耐とをもって新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

本日の第二日課であるヤコブの手紙からの言葉を引用して終わりましょう。あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。ねたみや利己心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがあるからです。 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(3:13-18)。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます4:8)。そしてヤコブ4:10にはこのような言葉があります。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」。

お一人おひとりの上に天よりの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2018年9月22日 (土)

2018年9月16日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「サタン、引き下がれ!」

2018916日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「サタン、引き下がれ!」 大柴 譲治

○ イザヤ書 50: 4〜9a

主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。4節)

○ マルコによる福音書 8:27〜38

しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」(32-33)

 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

「あなたは、メシアです。」

 本日の福音書の日課では、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」というイエスの問いに対して、弟子たちが答えています。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」。続けて「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」イエスに問われるかたちで、ペトロが使徒たちを代表して、「あなたは、メシアです」正しくキリスト信仰を告白する場面が描かれています。見事なやり取りです。イエスは神が定めた「時」が来るまでそのことが明らかになることを望まれませんでした。するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」のです(30節)。

 

「サタン、引き下がれ!」

しかしそれだけで事柄は終わりません。問題はその次です。「あなたこそキリスト(メシア)です」(口語訳聖書)と告白したペトロたちは、各自が自分の中に「確固としたメシア像」を持っていて、そのイメージをイエスに投影していました。イエスには「苦難を受けて無残にも殺されてゆくような無力なメシア像」ではなくて、「ダビデ王のように力ある英雄的なメシア像」を期待していたのです。他の皆もペトロと同じだったでしょう。彼らは皆、等しくイエスのメシアの受難予告に躓いてしまうのです。それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった31-32節)。イエスは何一つ隠そうとはせず、明確に公然として、自らの受難と死と復活とを公言し始めたのです。弟子たちはその意味が分からずに大いに驚いたことでしょう。ここでもペトロが弟子を代表して行動します。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた」38節)。「イエスをわきにお連れして」とは、公然と話すイエスに対して秘かにペトロは語ろうとしたということです。「イエスは振り返って、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている』」39節)。イエスはイエスをいさめ始めたペトロを公衆の面前で叱りつけます。しかし同時にそこには「弟子たちを見ながら」という一言が付加されています。イエスはその言葉を弟子たち皆に伝えているのです。そこには例外はありません。サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っているというイエスの叱責は、私たちすべての信仰者に告げられている言葉です。私たち信仰者が陥りやすい罠がそこにはあるのでしょう。「神のことを思わず、人間のことを思う」というのは神が求める信仰ではありません。「わたし以外の何ものをも神としてはならない」とモーセの第一戒が命じているように、「ただまことの神を神とする信仰、神以外のものを神としない信仰」、それが私たちには求められているのです。そのことが明らかになるためにはイエスは容赦しません。信仰を告白する中でもサタンが働くことがあって、イエスは私たちの中におけるそのようなサタンの働きを徹底的に打ち砕かれるのです。これも本当の意味で私たち生かすための神の恩寵と言うべきでありましょう。私が神学生の時に「恩寵無限奨学金」という名前の奨学金がありました。私たちに注がれている神の恩寵は確かに私たちの思いを遙かに超えて無限なのです。

 

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」

「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。それは神から私たちの思いを引き離そうとする「悪魔(サタン)のしわざ」だとイエスは言います。しかもそのことが、正しいキリスト告白、信仰告白がなされた直後に起こっている点に私たちは注目したいと思います。神の思いは人智ではとうてい計り知ることができないほど深く、広く、高く、神秘に満ちているのです。メシアは多くの苦難を受け、ユダヤ教の指導者階級(「長老、祭司長、律法学者たち」)によって排斥され殺され、三日目に復活する。これがイエスの語った預言です。「メシアにそのようなことがあってはなりません。そのようなことがあるはずがありません。そのようなことを神がお許しになるはずがない」と愚直にもペトロはイエスをいさめたのだと想像します。もっともなことです。しかし、ペトロの考えはイエスによって打ち砕かれる必要がありました。私たちも皆同じです。ただまことの神を神とする、神以外のものを神としない。絶対者はただお一人で、それ以外のものを絶対化してはならない。そのためにも、私たちは自分の中で思い込んでいることを相対化してゆく必要があるのです。私たちには、各自が自分の宗教的なイメージを信仰の中に持ち込んで、神の事を思わずに人間のことを思うというようなところがある。自己のイメージの実現を求めるようなところがあります。しかもそのことを無自覚的に、意識せずに行ってしまうようなところがあるのです。根深く闇が存在している。それをイエスはストレートに明らかにします。「サタンよ、退け!」というイエスの言葉は、私たちを心底からハッとさせ、私たちが何をどのように信じているか、覚醒させてくれます。「神のこと」即ち「神のご計画やその御心の実現」を思わずに、「人のこと」即ち「人間的な期待や欲求、人間的な計画の実現」を思っているというのです。イエスはペトロを叱責していますが、弟子たちの一人ひとりを見ながらそのように語っていました。そこでは弟子たち全員が同じことを告げられているのです。「サタン、引きさがれ!」と。この言葉は私たちの心に、魂に深く響きます。これは、私たちに悔い改めを迫る言葉です。いつの間にか知らないうちに神から離れてしまっている私たちをもう一度神へと引き戻すイエスの恵みの言葉です。そのことを覚え、ご一緒に深く味わってまいりたいと思います。

本日の旧約の日課であるイザヤ504の言葉で終わります。「主なる神は、弟子としての舌をわたしに与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとにわたしの耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてくださる。」 皆さまの新しい一週間の歩みの上に、神からの恵みと守りと導きとが豊かにありますように。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

«2018年9月9日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「しぶとく しなやかな信仰」