2020年7月12日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝 説教「置かれた場所で咲きなさい」

2020年712日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝 説教「置かれた場所で咲きなさい」 大柴 譲治 joshiba@mac.com

〇 イザヤ書 55:10-13

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(11節)

〇 マタイによる福音書 13: 1- 918-23

良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。(23節)

 

< 聖霊降臨後第六主日にあたって〜「『種を蒔く人』のたとえ」>

私たちは本日、福音書の日課からイエスの「『種を蒔く人』のたとえ」を聴いています(3-9節)。イエスご自身がそれを日課の後半(18-23節)で解き明かしておられますので、大変分かり易く明快であると思います。そこでは蒔かれた種が「四つの場所」に落ちます。三つの悪い場所と一つの良い場所です。昔パレスチナでは大変に大らかな種まきの仕方をしていたようで、畑に種を蒔くというよりもまず先に種を蒔いてからそこを耕していたようです。ですからそのたとえは人々にとって大変身近で、よく分かるものだったと思われます。

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、①ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。②ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。③ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、④ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」(3-9節。番号の付与は大柴)。種が落ちた地は①「道端」②「石地」③「茨の地」④「良い土地」の四つです。結果は明らかです。

イエスご自身も18節から23節までで解説しています。「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」。

 

< “The Second Sin” = 責任転嫁という罪 >

しかしこのたとえを「福音の種」が「蒔かれた場所」に応じて実を結ぶか結ばないかが最初から決まっていることとして理解されるとすれば、おそらくイエスの主旨を間違って受け止めていることになりましょう。もしそうであれば「やはり、自分が福音の実を結ばないのは、蒔かれた場所が悪かったのだ」とか、あるいは「種が落ちた場所が悪かった。それは蒔いた人の責任だ」ということになってしまう。人は容易に責任転嫁をしてしまう存在ですから、「場所」のせいや「蒔いた人」のせいにしてしまいがちです。アダムとエヴァの昔から「責任転嫁」は英語で「The Second Sin(第二の罪)」と言います。神から「取って食べるなと命じた木から取って食べたのか」と問われて、アダムとエヴァの二人は謝りもせず、アダムは「あなたが与えた女のせいだ」と言い、エヴァは「あなたが造ったヘビのせいだ」と責任転嫁をする。そのどちらも「自分は悪くない。実はすべて、神であるあなたが悪いのだ」と言っているのと同じです(創世記3章)。聖書は実によく人間を捉えています。このような「責任転嫁」をする人の心の動きは私たちもよく分かります。私たちもまた、自分を守るためにこれまで多くの責任転嫁をしてきましたし、されてきたからでもありましょう。そう考えて来ますと、私たちは知っているのです。私たち自身が「道端」であり「石地」であり「茨の地」であるということを。先週の第二日課であったローマ書7:24の「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」というパウロの叫びは、私たち自身の叫びでもあります。

イエスがこのたとえで言いたいことは「土地の良し悪し」という次元ではありません。むしろ私はこう理解します。「福音そのもの」には蒔かれた土地をも「造り変えてゆく力」があるのだと。そこではみ子なる神と聖霊なる神が働かれるのです。福音が本来持つ「神の力」によって「道端」であっても「石地」であっても、はたまた「茨の地」であっても、それは必ず「良い土地」へと変えられてゆくのです。その証拠にルカ福音書13章には「実のならないいちじくの木」のたとえが記録されています。「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(6-9節)。この園丁こそイエス・キリストです。イエスは、私たちの中に蒔かれた福音の種が豊かに実を結ぶために、一生懸命に世話をしてくださるお方です。「道端」であっても「石地」であっても「茨の地」であっても、それをイエスは必死に耕すことによって必ず「良い土地」にしてくださる。そこで「福音の種」を育ててくださるお方なのだと私は信じています。それが「十字架」でした。

 

< 渡辺和子シスター『置かれた場所で咲きなさい』(2012、幻冬舎) >

 渡辺和子というシスターがおられました(1927-2016)。シスターのお父さまの陸軍教育総監であった渡辺錠太郎氏は、2.26事件(1936/2/26)、雪の降り注ぐ荻窪の町で、9歳だった彼女の目の前で銃で撃ち殺されたのでした。後に渡辺和子氏はシスターになって、倉敷にあるノートルダム清心女子大学の学長や理事長を長く務められました。マザーテレサを日本に紹介したりする務めを果たされたのも渡辺シスターでした。たくさんの本を書かれてよく読まれていますが、その中に『置かれた場所で咲きなさい』(2012)というタイトルの本があります。230万部が出版されるというベストセラーになりましたので、ご存知の方も少なくないことでしょう。今では文庫版も電子書籍版(Kindle版)もありますが、その帯には次のような説明が付されています。「置かれたところこそが、今のあなたの居場所なのです。時間の使い方は、そのままいのちの使い方です。自らが咲く努力を忘れてはなりません。雨の日、風の日、どうしても咲けないときは根を下へ下へと伸ばしましょう。次に咲く花がより大きく、美しいものとなるように。心迷うすべての人へ向けた、国民的ベストセラー。新シリーズ! こころの文庫」。

 

< 神の恵みの選び >

 種も植物も花も、足があって動けるわけではありませんので、置かれたところで美しく咲く以外にはないのです。私たちは動き回ることはできますが、神さまが置いてくださった場所に「自分」として咲く以外にはないのでしょう。考えてみれば、「私」はこの「私」として今この時代に生を与えられていることはとても不思議なことです。私たちは自分で自分を選んだ訳でもありませんし生まれる場所や時代を選んだわけでもない。親を選んだわけでもありません。気がつけば私は私として、この時代に、このアジアのこの地域に生を与えられていたのです。しかし聖書は告げています。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と(ヨハネ15:16)。そして聖書の中にはその根底において「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声が響き続けています。私が私として今ここに生かされていることの背後には神の恵みの選びがあると聖書は告げている。私たち一人ひとりの人生には「意味」があり、神が与えてくださった「使命」がある。そのことを本日の「種を蒔く人のたとえ」は私たちに告げています。「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである」(マタイ13:23)。そこでは主によって豊かな収穫の祝福が約束されています。

 また、本日の旧約の日課イザヤ書55章がこう告げていたことを想起します。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」のだと(11節)。そのことを深く味わいながら、私たちも各自、イエスと共に神によって「置かれた場所で咲くこと」ができるように新しい一週間を共に踏み出してまいりたいのです。

 主の祝福をお祈りしています。 アーメン。

2020年7月 5日 (日)

2020年7月5日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝 説教「重荷を負うもの、われに来たれ」

2020年75日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝 説教「重荷を負うもの、われに来たれ」大柴 譲治 joshiba@mac.com

  • ローマの信徒への手紙 7:15-25a

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。 ▲ わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。(24-25節。▲は大柴が挿入)

  • マタイによる福音書 11:16-1925-30

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(28-30節)

 

< 聖霊降臨後第五主日にあたって〜「疫病」(感染症)という「重荷」 >

私たちは本日、聖書の中でも最もよく知られているイエスの言葉を聴いています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)。多くの教会の看板にはこの言葉が示されています。それほどこのイエスの言葉は温かく、私たちの心に強く迫ってくる力を持っています。逆に言えば、どれほどこの人生が重荷に満ちているかということかもしれません。私たちは人生の重荷でホトホト疲れ果てている現実を抱えている。特に今回の「新型コロナ禍」とも呼ばれるCOVID-19の状況下ではそうだと思います。いつ終わるか分からない重たい状況が続き、一喜一憂する状況が続いています。諸外国の例や首都圏の感染状況の報告を見聞きすると、どうやらこれは長期戦になるということは分かりますが、いつトンネルの出口を抜けることができるのか見えてこない。果たして「出口」などあるのかとも思います。

聖書の時代にも「疫病」という言葉はありました。「感染症」です。たとえば、長く「ハンセン病」と見なされてきた病気が実は誤解であったことが分かり、「重い皮膚病」(新共同訳)とか「規定の病い」(協会共同訳)という別の訳語に代えられています。「感染症」は原因不明でしたので、その拡大を防ぐためにはこうした隔離策を取る他ありませんでした。最近でも「都市閉鎖」とか「人と会うことを8割自粛するように」と言われました。「密閉」「密集」「密接」という「三密を避ける」というのも一つのゆるやかな隔離政策でもありますね。「離れてつながる」という語もありました。しかしそれは基本的に、サバイバルのため期間限定で取られた政策であるとしても、「他者と親しくつながる」ことを大切に考えて来た私たち人間の価値観をその根底から覆すような非人間的なインパクトを持っていると思います。突然上から「分断・分離主義者(ファリサイ化)になること」を命じられているようなものだからです。

 

< ゼカリア書9章とローマ書7章のコンテクストから >

 少し丁寧に見てゆきたいのです。「教会暦のコンテクスト」からまず見てゆきましょう。第一日課はゼカリヤ書9章。キリストのエルサレム入城の時に読まれることの多い聖書箇所です。そこでは「柔和な王なるキリスト」の到来によって「戦いの終わり」が宣言されている。「戦車」と「軍馬」と「戦いの弓」が「絶たれる」ことが宣言され、諸国民に対する究極の「平和」が宣言されているのです。そして、王の支配は「海から海へ、大河から地の果てにまで」、すなわち全世界にまで「及ぶ」と告げられているのです(ザカリア9:9-12)。

 第二日課であるローマ書の7章の終わりにはパウロの叫びが刻まれています。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(15節)とありますが、パウロは自己の中に分裂し統合することのできないものを抱えています。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(19-20節)。この言葉を個人的な次元だけで捉えることは無理かもしれませんが、これは自己の内に矛盾するものを抱えていて苦しんでいる私たちの現実の姿と重なります。パウロは正直に自己分裂を告白しているのです。「『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。▲ わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(22-25節)。24節は自己の内的な罪に悩むパウロの痛烈な叫びです。それはパウロだけではなく、アウグスティヌスやフランシスコ、ルター自身の叫びでもありました。それはまた、自分の内部に自分の力ではどうすることもできない重荷を抱えている私たち自身の叫びでもあります。私たち一人ひとりの苦しみの理由は違うでしょうが、「自分には生きる意味がないのでは」と救いを求めて苦しむ私たち一人ひとりの嘆きを正直に表しているのだと思います。それは十字架上の「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」と叫ぶ「神に見捨てられた者」イエスの叫びと重なります。後述しますが、実は「24節と25節の間(▲印を入れておきました)のジャンプ(飛躍)」がポイントです。

 

< 「すべて疲れた者、重荷を負う者は、われに来たれ。」 >

 次にマタイ福音書11章のコンテクスト。その日課はまず、人々に無理解に対するイエスの嘆きから始まります。「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。 『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。・・・しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである」(16-19節、24節)。イエスは嘆いています。しかしそれが25節からは、音楽で言えば突然転調したような神を讃美する響きに変わる。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません』」。そこでは、父と子との揺らぐことのない信頼関係の中で天地万物の主なる神に讃美が捧げられています。そして28節からは突然、イエスの招きの言葉になります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。ここには少し前後の脈絡を超越しているような感があります。①「人々の無理解に対する嘆き」→②「神への讃美」→③「重荷を負う者への招き」となっていて不思議な飛躍がある。

 イエスはご自身を「柔和で謙遜な者」と呼んでいます。苦しみや悲しみの最も深いところで私たちを忍耐強く待ち続けて下さるお方なのです。天では神と等しくあったお方が自分を捨て、無となり僕の姿を取ってこの地上に降り立って下さった。私たちの王なるキリストは、力の象徴である「軍馬」ではなく、柔和さと謙遜さの象徴である「子ロバ」に乗って、神の都エルサレムに入ってゆかれるお方です。人々の罪と死と苦しみを負って十字架を負い、その死を担うために。イエスは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」という私たちの叫びをすべてその身に負われたのです。しかし私はいつもこのローマ書7章を読むと感動します。24節では絶望的なのですが、その直後に続く25節ではパウロは神を讃美しているからです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と。このジャンプ(飛躍/転調)がすごいのです。この24節と25節の間には、私たち人間が飛び越えることのできない深淵があります。それはみ子イエス・キリストだけが乗り越えることができた深淵です。▲でパウロは「キリストの十字架」を見上げています。「軛」という語も大切です。「軛」とは二頭の牛、またはロバが、荷物を運んだり畑を耕したりするために首につける木製の器具です。牧師の礼拝時の「ストール」は「キリストの軛」を象徴しています。この軛の一方を私たちが担いますが、他方は主ご自身が担ってくださるのです。どのような困難や疲労や重荷があろうともそれをキリストが一緒に担ってくださる! だからこそ私たちには究極的な「休みと安らぎ」が与えられる。なぜか。「キリストの軛は負いやすく、キリストの荷は軽いから」です。そのことを覚えたいのです。どんな闇の中にあっても私たちの傍らにはキリストが共にいてくださる。私の重荷を一緒に担ってくださるのです。だから安心です。「すべて重荷を負うて苦労しているもの、われに来たれ」という主の招きには深い慰めと希望がある。私たちは今ここから、キリストと共に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。 お一人おひとりの上に主の祝福と平安とが豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2020年6月28日 (日)

2020年6月28日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝 説教「与える幸い 〜 神の報酬」

2020年628日(日) 聖霊降臨後第4主日礼拝 説教「与える幸い 〜 神の報酬」 大柴譲治

〇 ローマの信徒への手紙 6:12-23

あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。(22-23節)

〇 マタイによる福音書 10:40-42

はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(42節)

 

はじめに

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

聖霊降臨後第四主日にあたって〜「小さな者の一人に与えた冷たい水一杯に対する神の報い」

私たちは本日、「神からの報い(報酬)」ということについてイエスの言葉を聴いています。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(40-42節)。「はっきり言っておく」というのは「アーメン、わたしはあなたがたに言う」という語で、イエスが大切なことを語る時に告げる常套句です。ヨハネ福音書では「アーメン、アーメン、わたしは言う」と「アーメン」が二度繰り返されていて、新共同訳聖書では「(あなたがたに)はっきり言っておく」と訳されています。

 

イエスの言葉 〜 「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒言行録20:35

 「神からの報酬」ということで私がどうしても思い起こすのは使徒言行録の20章に記されているイエスの言葉です。これはパウロがエフェソの長老たちに別れを告げる場面で引用したイエスの言葉で、福音書にはなくてルカだけが使徒言行録に記している語です。「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました」(20:35)。

そうです、「受けるよりは与える方が幸いである」のです。私たちは通常「与えるよりも受ける方が幸い」であると、「人にあげるよりも人からもらう方が有り難いし、得だ」と考えがちですが、イエスはここでは逆のことを告げている。「受けるよりは与える方が祝福なのだ」と。「この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受けるのだ」というイエスの言葉は、私たちにあの有名なマタイ25章の言葉をも想起させてくれます。そこには、飢えていた時、喉が渇いていた時、旅をしていた時、裸でいた時、病気の時、牢獄にいた時に、「最も小さき者の一人」に愛の行いをしてくれたのはイエスご自身にしたことであり、終わりの日には皆がその行いに従って、ちょうど「羊」と「山羊」が右と左に分けられるように裁かれるのだと預言されていました。

実は日本語にも「情けは人のためならず」という表現があります。私はそれを「人に情けをかけることはその人のためにならない」というような意味であると誤解していた時期がありましたが、実はそうではありません。それは「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分自身に戻ってくる」という意味なのです。「情け深い行為」というものは結局長い目でみれば、人のためではなく自分自身のためなのです。「受けるよりは与える方が幸いである」というイエスの言葉は私たちに損得の次元を超えて愛の行為を勧めていますが、他者に与える者は必ず神によって報いを受ける。誰も見ていなくとも神だけはちゃんとすべてを見ておられるからです。

 

「利他的な行動」をすることで私たちの免役力は高まる 〜 愛情ホルモン・オキシトシンの効能

 以前にニューヨーク州立大学病院の予防医学を担当するあるお医者さんの本を読んだことがあります。ボランティアなど、一週間に一時間でよいから他者のために時間とエネルギーを使うとそれによってストレスも解消され、免疫力が高まり、幸福感も強くなるという内容のものでした。なるほどそうなのかと思わされました。「利己的な遺伝子」を持っているはずの私たち人間は、それにも関わらず「利他的に行動すること」で自らの「QOLQuality of Life)」を高めることができ、その結果長い目で見ると種の生存の可能性も大きくなるということなのでしょうか。

7月に発行される『るうてるホーム法人報』の巻頭言に私は、「笑う門には福来たる」という文章を書かせていただきました。最近は暗い話題が多いために、「ユーモアと笑い」が持っている力について書かせていただいたのです。

(以下は引用です)

(「ガンの生きがい療法」で有名な倉敷の柴田病院を訪問して)もう一つ印象に残ったことがあります。「死の準備教育」で高名なデーケン神父も笑いとユーモアの効用を強調されますが、そこに集まった人が最近腹を抱えて笑ったことを順番に分かち合っていたことでした。仏教の「無財の七布施」という教えには「和顔施(笑顔施)」という語もあるそうです。確かに「笑顔」は私たちの心を慰めてくれる。懐かしい方々を思い起こす時に、私たちが思い出すのはその笑顔と笑い声ではないでしょうか。それほど「笑顔とユーモア」は大切なのです。

現在ホームでは「RO委員会」が始動しています。「るうてるをおもしろくする」という意味で命名された委員会です。この夏からはホームのウェブサイトが新しくなることも楽しみの一つです。ご一緒に笑顔とユーモアを分かち合いたいのです。「笑う門には福来たる」のですから。

(引用おわり)

「利他的に行動する」ことで私たちの中に深い喜びが生じることを、「愛情ホルモン」とも「幸せホルモン」「抱擁ホルモン」とも呼ばれる「オキシトシン」という神経伝達物質が出るためであると説明する医者もいます。このホルモンは、例えば「飼い主とイヌが触れ合うことで両者に互いにオキシトシンが分泌される」という実験によっても分泌されることが分かっています。その意味では、今回のCOVID-19の感染拡大によって身体的な接触の機会が少なくなりましたので、私たちの中で分泌されるオキシトシンの量が激減したとも言えることでしょう。私たちのQOLの質が、生きる喜びが小さくなってしまったとも言えます。免疫力も必然的に下がってしまったに違いないのです。だからこそ私たちは、自らの免疫力を高めるためにも楽しいことを考え、他者のために尽くすことを考えなければなりません。もちろんバランスもあるでしょうが、ボランティア活動や他者を利する行動をコツコツと実践してゆきたいのです。

私は今回のCOVID-19のことで自分に課した一つの実践課題があります。簡単なことです。毎日正午に医療従事者や福祉従事者、エッセンシャルワーカーのことを覚えながら、その方々のために「主の祈り」を祈るということです。イエスは言われました。「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」と。また、「受けるよりは与える方が幸いである」と。私たちは自分の事も大切にしなければなりませんが、他者のために自分ができることを行うことも大切です。そこには確かに「神からの報酬」が、「神の祝福」が約束されているからです。十字架の上で自分のすべてを他者のために捧げることを通して「神の大いなる救いの御業」に参与することで、イエスご自身も大きな喜びに充たされていたに違いありません。そのことを覚えながら新しい一週間を過ごしてまいりましょう。

お一人おひとりの上に救い主イエス・キリストの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2020年6月21日 (日)

2020年6月21日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝 説教「畏怖=恐れと信頼と」

2020年621日(日) 聖霊降臨後第3主日礼拝 説教「畏怖=恐れと信頼と」 大柴 譲治 joshiba@mac.com

ローマの信徒への手紙 6: 1b-11

恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。・・・このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。(1b-211節)

マタイによる福音書 10:24-39

体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 (28節)

 

<聖霊降臨後第三主日にあたって〜「人々を恐れるな。神を畏れよ。」>

先週私たちはイエスがはらわたがよじれるほどの「深いあわれみ」をもって私たちに接して下さることを学びました。しかし本日は一転して、イエスの大変厳しい言葉が与えられています。身も魂も震撼させられるような言葉です。「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」という34節の言葉は別の機会に譲りたいと思います。本日は26節と28節に焦点を当てます。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」(26節)。そして28節。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」。一言で言えば「人間を恐れるな。神を畏れよ」ということです。ここで注意していただきたいのは、「おそれる」という際の二つの異なる漢字です。「人を恐れる」という場合の「恐れ」は「恐怖する」の「恐」ですが、「神を畏れる」という場合の「畏れ」は「畏怖」あるいは「畏敬の念を持つ」という場合の「畏」です。私は二つの語を使い分けたいのです。「畏怖」とは神の前だけで感じる思いです。その意味ではこうなるでしょうか。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を畏れなさい」と(下線:大柴)。

 

<「畏怖 = 恐怖と信頼と」〜 私自身の個人的な「畏怖」(ヌミノーゼ)体験>

 ルターの小教理問答の十戒には、第一戒について次のような言葉があります。

第一戒:「わたしはあなたの神、主であって、あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」

問い:「これはどんな意味ですか。」

答え:「わたしたちは、なにものにもまして、神を恐れ、愛し、信頼すべきです」。

 そしてこの答は第二戒以降も繰り返し反復されてゆくのです。ここに『小教理問答』がありますが、これは大阪教会ともご縁の深かった内海季秋先生が1951年に訳されたものです。私は小教理クラスではこの「恐れ」という語を「畏れ」という語に読み替えて説明をいたします。私自身のこだわりかもしれませんが、恐怖を抱きながら同時に神を愛し信頼することは難しいからです。しかし、恐怖ではなくて畏怖の念、畏敬の念を抱きながらなら神を愛し信頼することはできる。そもそも私たちの信じる神は「その独り子を賜るほど、この世を愛してくださったお方」なのですから(ヨハネ3:16)、なおさら「恐怖する」ではなく「畏怖する」という語が相応しいように私には思われるのです。

 少し個人的な体験について語ることをお許しください。不思議なことに、私はこれまで大きな舞台で重要な役割を果たすことが少なくありませんでした。たとえば1993年に熊本で開かれたJELC宣教100年記念大会。その記念聖餐礼拝で最初の部分の司式を私は担当しました。若手の代表だったと思います。また、20171123日(木)の宗教改革500年記念礼拝。長崎のカトリック浦上天主堂で前田万葉大司教と共に共同司式者としての役割を果たしました。しかし何よりも思い起こすのは20141130日(日)。東京の目白にある聖マリア大聖堂、それは丹下健三という建築家が設計し1964年に完成した大聖堂で、2011年の東日本大震災でもビクともしなかった建物です。ここでカトリックと聖公会、そしてJELCの合同礼拝が行われました。説教者はルーテルの徳善義和先生。その大聖堂はとても大きくて千人は軽く入るスペースがありました。詰めれば二千人は入るでしょうか。大阪の聖マリア大聖堂も大きいですが、東京は天上も高くてその比ではありません。何倍も大きく感じさせる壮大な建物なのです。その大聖堂で、私はカトリックの岡田武夫大司教と聖公会の大畑喜道主教と三人で共同司式をさせていただきました。それは忘れることのできない体験でした。聖壇の一番高い所に立って三人で司式をする際に私の全身を「畏怖の念」が捉えたのです。言葉で説明することは難しいのですが、突然電気ショックが走ったような衝撃でした。聖なるお方の存在を全身で感じ取ったのかも知れません。ルドルフ・オットーの言う「ヌミノーゼ」体験です。イエスの中に聖なるお神を感じて「私から離れて下さい。私は罪深い者なのです」(ルカ5:8)と告白したペトロと同じような気持ちになったのだと思っています。

 ルカ5章にはイエスが漁師を最初の弟子たちとする場面が印象的に記されています。夜通し苦労したのに全く何も獲れなかった漁師たちにイエスはこう命じられます。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4節)。ペトロがしぶしぶとそれに応えます。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」。そこには「ガリラヤ湖のことをトコトン知り尽くしているプロの漁師である自分たちが苦労しても全く取れなかったのに、素人が何を言うのか」というような思いがペトロの言葉には透けて見えてきます。すると不思議なことが起こる。「漁師たちがその通りにすると、おびただしい魚がかかり、網が破けそうになった」のです(6節)。もう一そうの舟に助けを頼むと、二そうの舟は魚でいっぱいになって、沈みそうになるくらいでした。それを見たシモン・ペトロは、イエスの足下にひれ伏してこう言うのです。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。彼は聖なるものに触れたのです。ルカはこのように書いています。「とれた魚に指紋も一緒にいた者も皆驚いたからである。シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」。イエスはシモンに言われました。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10節)。「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」とあります(11節)。ルカはギリシャ語の達人で、息を飮むような場面を見事に描いています。

 イエスの言葉を信じようとしなかったペトロの罪深さが、聖なるお方の前で明らかになった。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」。私たちは「罪人」ですから、聖なる神の前に立たされる時には「恐れとおののき」に充たされます。このような自分は聖なる神の前に立つ資格はないと思わされるのです。「畏怖の念」に囚われるということはそういうことなのです。おそらく皆さんも、人生の中でこれと似たような体験を持っておられるのではないかと想像します。そのような経験は決定的です。一度体験したら忘れることができないほどに決定的なのです。

 私たちは礼拝の最初に「罪の告白」をします。前に私のいた教会には「ルーテル教会の礼拝には罪の告白があるからすばらしい」と言ってわざわざ他の教団から移ってこられた方がおられました。本当にその通りであると思います。私たちは聖なる神の前に立つことはできない。聖なる神の前に立たされる時、まばゆい光に照らされると自分の影がくっきりと映し出され、自分が聖なる存在とははるかにほど遠い「汚れた者、罪深い者」でしかないことを知るのです。

 しかしそのように感じた罪深いペトロが、そして自分の罪と不信仰を自覚させられた私たちが、その自覚のただ中でそのままでイエスに招かれている。イエスは私たちに向かって「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われるのです。実に不思議な召し出しです。よく申し上げることですが、「罪の告白」と「信仰の告白」とはコインの表と裏のような関係にある。それは表裏一体で、区別はできても分離はできない。自分自身の内面を見る時には「罪の告白」しかできない者が、神によって「信仰の告白」をする者へと変えられてゆく。トランスフォームです。

 私の聖マリア大聖堂でのヌミノーゼ体験も、既に牧師になって28年が経っていましたが、そのようなキリストからの「召し出し(call/召命)」の体験であったと思っています。本日は「畏怖=恐れと信頼」という説教題を付けさせていただきましたが、聖なるお方の前に立たされる時、私たちは「畏怖体験」が与えられるのです。ルター自身もそのような体験を持ちました。その言葉を想起して終わりにします。「わたしたちは、なにものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼すべきです」。私たちは、いついかなる時にもどこにおいても、たとえ死の影の谷を行く時も、「なにものにもまして、神を畏れ、愛し、信頼する」ことができる。なぜか。それは神がその独り子を賜るほどに私たち一人ひとりを愛してくださっているからです。 

 お一人おひとりの上にイエスの祝福が豊かにありますよう祈ります。  アーメン。

2020年6月14日 (日)

2020年6月14日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝 説教「イエスの深いあわれみ」

2020年614日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「イエスの深いあわれみ」大柴 譲治 joshiba@mac.com

マタイによる福音書 9:35-10:8

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(35-36節)

 

< 聖霊降臨後第二主日にあたって〜イエスの深いあわれみ>

本日も、このようなかたちで礼拝に集うことができましたことを感謝します。また同時にインターネットでの礼拝配信を通して、それぞれの場で祈りを共に合わせておられる方々もおられます。お一人おひとりの上に神さまの祝福を祈りつつ、ご一緒にみ言葉に耳を澄ませてまいりましょう。

先週の「三位一体主日」から教会暦の後半に入っています。教会暦は、前半はキリストのご生涯を振り返る半年間で、後半はキリストの行いと教えから学ぶ半年間になっています。本日は聖霊降臨後第二主日。典礼色は信仰の成長を表す「緑」となりました。これから半年ほどは緑の期節が続きます。主が私たちの羊飼いとして「みどりの牧場、いこいのみぎわ」(詩編23)に伴なってくださることを覚えながら共に礼拝を守ってまいりましょう。

本日はマタイ福音書9章の終わりの部分。イエスが精力的に町や村を「残らず」回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されたということが記録されています。その36節にはこうあります。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。 そこで、イエスは弟子たちに次のように言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(37-38節)。そして10章でイエスは12弟子たちに「汚れた霊を追い出す権能」を与えて、派遣してゆくのです。それは「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった」(1節)。イエスは12人を派遣するにあたり次のように命じられています。「異邦人の道に行ってはならない。また、サマリア人の町に入ってはならない。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい。行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(5-8節)。ここでは「『天の国は近づいた』と福音を宣言すること」と「病人を癒やし、死者を生き返らせ、重い皮膚病で苦しむ者たちを清くし、悪霊を追い払うこと」が不可分なこととして告げられています。「福音宣教」と「医療的な癒し」とがコインの両面のように一つのこととして語られているのです。イエスの弟子たちによって、人間を苦しめるものからの全人的な解放がなされてゆきます。

 すべては「イエスの深いあわれみ」によって始まったことがそこには明確に示されています。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、イエスは深く憐れまれた」のです。この「深いあわれみ」という語が本日のキーワードであり、ギリシャ語で「スプラングニゾマイ」という「内蔵、はらわた」を意味する語に由来しています。「あわれみ」と聞くと私たちは「同情、憐憫」という語を連想しますが、聖書はそれとは違います。日本語に「断腸の思い」という語がありますが、イエスはご自身のはらわたでもって、はらわたがよじれるほどの痛みをもって、人々の痛み苦しみをご自身の中心で受け止められたということです。

 

< るうてる7月号の議長コラム〜「胃がビクビク動く」? >

 日本福音ルーテル教会(JELC)の機関誌『るうてる』に毎月「議長室から」というコラムを書かせていただいています。このコラムは前任議長の立山忠浩先生の時から始まったものですが、いつも一ヶ月前に脱稿することになっていますので61日に書き上げたものです。ちょうど7月号に「胃がビクビクと動く?」と題して本日の主題である「深いあわれみ」に関連する記事を書きましたので、それをご紹介させてください。紙面として公になるのは75日ですのでまだ三週間ほど速いですが、議長を抱える大阪教会の先取り特権ということでどうぞお許しください。

 

(以下は引用です。)

るうてる議長コラム (20207月号) 「胃がビクビク動く」?      大柴 譲治

   「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」(詩編103:8

最近これまで自分を覚醒させてきた言葉を思い起こしています。1985年秋、神学生時代に築地の聖路加国際病院で臨床牧会教育(Clinical Pastoral Education)という3週間の訓練を受けた時のことでした。それはインパクトの強い訓練でした。私はそこで与えられた実存的な課題とそれ以来ずっと格闘してきたような気がしています。病院チャプレンでありCPEスーパーヴァイザーでもあった聖公会・井原泰男司祭が休憩時間に何気なくこう語られたのです。「僕はね、患者さんと話をしていても大切なところにくると胃がビクビク動くんだよね」。

胃がビクビク動く? 人の話を「頭」でしか聞こうとしていなかったそれまでの私にとって、それはにわかには信じることのできない言葉でした。そのような聴き方が本当に人間に可能なのか。確かに「腑に落ちる」とか「断腸の思い」という言葉はありますが、相手の思いを自分の「はらわた(ガット)」で受け止める次元があるとは衝撃的ですらあったのです。「ガットフィーリング」ですね。

聖書の中には「深い憐れみ」という重要な言葉が出てきます。それは神やイエスに用いられている語です。例えば詩編103:8(上述)やマルコ6:34。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」。ヘブライ語では「ラハミーム」、ギリシャ語では「スプラングニゾマイ」。前者は「子宮、胎」という語に、後者は「はらわた、内臓」という語に由来します。「憐れみ」と聞くと私たちは何か「同情」とか「憐憫」という日本語を連想しますが聖書ではもっと具体的で動的であり、「はらわたがよじれるほどの産みの苦しみを伴う深い共感」という意味になります。イエスは自分の中心でもって相手の苦しみを受け止められたのです。さぞかし胃が痛かったに違いないと想像します。医者であったルカは「よきサマリア人のたとえ」や「放蕩息子のたとえ」など印象的なイエスのたとえを記録していますが、そこでもこの「深く憐れむ」というキーワードが出てきます(10:3315:20)。

果たして私の胃がビクビク動くようになったかというと、恥ずかしながらそこまでは至ってはいません。まだ途上です。しかし、「頭」(ヘッド)だけでなく「心」(ハート)だけでもなく、「はらわた」(ガット)でも聽くという姿勢を大切にしたいと念じています。  

(以上で引用を終わります。)

 

< イエスによる「魂の配慮(牧会)」 >

 前述のように、「飼う者のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々」に対するイエスの「深いあわれみ」がすべての出来事の発端でした。そのような深いあわれみをもってイエスは私たちに弟子たちを派遣し、「天の国は既にあなたがたのすぐ近くにある」と福音を告知し、病いや苦しみから全人的に、まるごと解放することを通して牧会(魂のケア)をしてくださるのです。「牧会」とは「パストラルケア」と言いますが、「羊飼い」が「羊の世話をすること」です。「主こそわが牧者」なのです。私たち一人ひとりに向けられているイエスの「憐れみの深さ」はどれほど強調しても強調しすぎることはないと思われます。COVID-19感染拡大という現実世界の厳しい現実の中にあっても、イエスは胃がビクビク動くような、はらわたがよじれるような深い思いをもって私たちの困窮を理解し、「安心しなさい。天の国はあなたがたのものである」と宣言することによって私たちの魂を配慮し、必要な癒しを備えてくださるのです。お一人おひとりの上にイエスの深いあわれみが豊かに注がれますようお祈りいたします。 アーメン。

2020年6月 7日 (日)

2020年6月7日(日)三位一体主日礼拝 説教「三位一体の神を信ず」

2020年67日(日) 三位一体主日礼拝 説教「三位一体の神を信ず」   大柴 譲治 joshiba@mac.com

コリントの信徒への手紙 二 13:11-13

主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。(13節)

マタイによる福音書 28:16-20

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。(19-20節)

 

< 教会歴の構造〜「三位一体主日」にあたって >

  先週私たちはペンテコステ、天から聖霊が降って教会が誕生した日を共に集まることを通して祝うことができました。こ本日も、インターネットでの礼拝配信を通して祈りを合わせておられる方々もおられます。神さまからの祝福を祈りつつ、み言葉に耳を澄ませてまいりましょう。

  教会歴の中でも本日は、聖霊降臨後第一主日は「三位一体主日」と呼ばれる特別な日です。一年間に52回の日曜日がありますが、その中で今日がちょうどほぼ真ん中にあたる日です。教会歴はアドヴェントから始まりますが、前半はキリストのご生涯を振り返る半年間になっています(アドヴェント、クリスマス、エピファニー、レント、ホーリーウィーク、イースター、アセンション、ペンテコステ)。後半はキリストの教えを学ぶ半年間になっています。その最初に「キリスト教の教理」を学ぶ主日として本日の「三位一体主日」が置かれているのです。

 

< キリスト教の二つの教理〜「三位一体論」と「キリスト両性論」 >

 キリスト教の教理は二つあります。それらは、確かに「神の神秘」ではありますが、私たちが思っているほど難しいものではありません。洗礼や転入準備の際に私たちのルーテル教会ではルターの『小教理問答』を用いて教理を学びますが、それは①「三位一体の教理(=三位一体論)」と②「キリスト両性の教理(=キリスト両性論)」の二つです。これはキリストの教会が異端的な教えと格闘する中で、「私たちはこのように信じます」と信仰を告白してきたところの、私たちの信仰の「核心部分」にあたるものであり、信仰の「骨格(バックボーン)」にあたるものです。これをはずしたら正統的なキリスト教の信仰ではなくなってしまう。その意味でこの二つは、「正統」と「異端」とを分ける分水嶺のような働きを果たしてきました。

 内容は簡単に言うとこうなります。まず、①「三位一体の教理(=三位一体論)」。私たちは「父なる神、み子なる神、聖霊なる神を信じます。しかし神が三人おられるわけではなく、父と子と聖霊という三つのペルソナ(仮面)を持つただひとりの神を信じます」。「三つで一つ、一つで三つ」というのは私たちの理性や理解を超えた「神の神秘(ミステリー)」です。二週間前に私たちは、復活の主が聖書を悟らせるために私たちの「心の目」を開いてくださることについて学びました。「心の目」というのは「理性」(ヌース)のことです。

 

< ①「三位一体論」と②「キリスト両性論」について >

 本日の福音書の日課であるマタイの28章には、復活の主が弟子たちを全世界に派遣した「大宣教命令」と呼ばれる箇所が与えられていました(18-20節)。この復活の主の命令に従って福音宣教は進展していったのです。

 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(下線は大柴による)

ここでイエスは「父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」と命じています。「父と子と聖霊」とは「三位一体の神」の名です。この命令に従って教会は、二千年に渡り、忠実に「父と子と聖霊のみ名」によって洗礼を行ってきました。私自身もそうですし(生まれて一月半ほどでの幼児洗礼でしたから全く自覚も記憶もありませんが)、皆さんお一人おひとりもそうです。「父と子と聖霊のみ名」によって洗礼を授けられてきたのです。そして主日礼拝が「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉で始まるのも、また最後に祝祷が「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉で終わるのも、すべては「三一の神の名」の前に私たちがあることを意味しています。①「三位一体論」が最初から最後まで一貫して貫かれているのです。

  5月17日の第一日課は使徒言行録の17章で、それはパウロのアテネにおける説教でした。「知られざる神に」という祭壇があることを知ったパウロが、その神について教えようと語った説教です。パウロはその中に二つのギリシャ詩人の詩を引用していました。「我らは神の中に生き、動き、存在する」という言葉と、「我らもその子孫である」という言葉です(17:28)。その言葉と重ねて理解するならば、私たちはすべからく皆、「父と子と聖霊なる三位一体の神の中に生き、動き、存在している」のです。

 もう一つの教理は②「キリスト両性論」と呼ばれるものです。ニケア信条に告白されているように、「イエス・キリストはまことの神にして、まことの人である。完全な神性と完全な人間性とを併せもっているお方である」という教理です。教会はそのように二つの本性を持つ「み子なる神」を信じたのです。

「キリスト教的な異端」と呼ばれる宗教があります。それらはこの二つの教理、特に①の「三位一体の教理」を否定します(例えば創始者が再臨のキリストであるというような四位一体的な教えです)。それらがどれほど「キリスト教的」に思えたとしても、「キリスト教」の装いを持っていたとしても、「キリスト教」ではなくて「別の宗教」であると言わなければなりません。

 

< 安心してジタバタして死んでゆける「信仰」 >

 このように言うと、私たち自身も恐ろしい気持ちになるのではないかと思います。自分は果たしてこれらの教理を本当の意味で信じているだろうかと思うからです。確信がなくなってしまいます。しかし考えてみれば、そもそも私たちの「信仰の確信」とはどこにあるのでしょうか。自分を見つめた場合に、自分の信仰のなさ、信仰の不徹底さ、信仰の弱さなどが、次から次へと目白押しで目に付いてしまい恥ずかしくなってしまいます。

 もちろんそこで私たちは、自分自身を見つめるのではなく、私たちを捕らえて放さないキリストを見上げるべきなのでありましょう。ルカ福音書18章に祈るためにエルサレム神殿に上った二人の人のたとえが出て来ます。「『ファリサイ派の人』と『徴税人』のたとえ」です(9-14節)。神に向かって神殿で自分の信仰深さを誇るファリサイ派の人に対して、徴税人は神殿から離れた遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながらこう言うのです。「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と。「義とされて家に帰ったのはこの人の方であった」とイエスは宣言しておられます。私たちの内に誇るべきものは何もないのです。「信仰」という日本語は「信じて仰ぐ」という人間の行為が言葉になっていますが、実はこれが誤解を与えるのです。その原語は「ピスティス」というギリシャ語ですが、第一義的にそれは「神の信/信実/まこと」を意味します。その神のピスティスに対しての私たちの応答が二義的な私たちのピスティス(「信仰/まこと」)です。どこまでも神の側にイニシアチブがあるのです。「信仰」とは私たちにおいて働く神の業なのです。私たちは人を誇るのではなく神を誇ります。自分自身は打ち砕かれ続ける必要がある。それこそルターが「キリスト者の全生涯は、日ごとの悔い改めである」(『95ヶ条の提題』)と言ったことの真の意味です。

 キリスト教作家の椎名麟三は、無神論者であった時に洗礼を受け、次のように語ったと伝えられています。「ああ、これでオレは、安心してジタバタして死んでゆける」と(森勉牧師より)。椎名麟三らしい逆説的な信仰告白の言葉です。「安心してジタバタして死んでゆける」!? これは論理的には矛盾した表現です。通常、安心している時にはジタバタしませんし、ジタバタしている時には安心できていない。どのように理解すべきなのでしょうか。生きることの意味や罪の問題、死の問題を前にした時にジタバタせざるを得ない私たちを、神は洗礼と聖餐というサクラメントにおいてしっかりと捕らえてくださっている。だからこそ私たちは安心であり、その三一の神との関係は天地が揺らぐとも決して揺らぐことはない。安心してジタバタしてよいのだという意味なのです。味わい深い表現ですね。

 お一人おひとりの上に三一の神の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

2020年5月31日 (日)

2020年5月31日(日) 聖霊降臨日礼拝 説教「真理はあなたたちを自由にする」

2020年531日(日) 聖霊降臨日礼拝 説教「真理はあなたたちを自由にする」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

使徒言行録 2: 1-21

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

ヨハネによる福音書 7:37-39

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」(37-38節)

 

<はじめに>

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

< 聖霊降臨日の礼拝再開にあたって >

本日はペンテコステ(聖霊降臨日)。天から聖霊が降って教会が誕生した日です。私たちの教会は、31日と8日に礼拝堂に集まるというかたちでの主日礼拝の公開を休止し、14日と22日に再開。329日からは再び公開を休止いたしました。毎週オンラインで配信するかたちで礼拝を守り続けましたが、結局主日礼拝を11回、二ヶ月少しです、教会に集まるかたちではお休みしたことになります。今日このペンテコステの日に、注意深くではありますが、この場所で礼拝を再開できることを心から感謝しています。換気に気をつけるということで、恐らくこの礼拝堂が建って初めて、天窓を開けての主日礼拝となっています。今日私たちは、天からの風を感じつつ、礼拝堂の中に空気の動きを感じながら礼拝を守っているのです。聖書で「聖霊」とは「風」とも「息」とも訳せる語であることを覚えます。

依然として新型コロナウィルスの感染拡大は終息していないため、今後どうなってゆくかは誰にも分かりません。しかし今日私たちはこの礼拝堂に集められています。今この時も、ネットワークの配信を通してそれぞれの場所で祈りを合わせておられる方々もおられます。今しばらくはこのような状況の中で私たちは過ごしてゆくことになります。もしかすると私たちに馴染みのあった「新型コロナウィルス以前の世界」には戻ることができないのかもしれません。悲観的にすぎるかもしれませんが、私にはそのようにも感じられるのです。注意深く言わなければなりませんが、これは「終わりの始まり」のようにさえ思えます。私たちは覚悟して、神の御言葉に立ち続けなければならないのです。

 

< ヨハネ黙示録が預言する「終わりの日」 >

新約聖書の一番終わりには預言の書である『ヨハネの黙示録』が記されています。黙示録には神の定めた「終わりの日」が必ず到来することが預言されています。それは私たちが思い描くようなプロセスを経てではないということが書かれています。私たちの中には、「明日」という字を「明るい日」と書くように、人間の持つ未来に対するポジティブな可能性や希望を信じたいという楽観的な思いがどこかにあります。だからこそ、どんなことがあっても頑張って再び立ち上がってゆくことができるのでしょう。しかし黙示録には全くそのようなプロセスは書かれていない。黙示録が記しているこの世の現実は、どんどん悪くなってゆくというものです。しかも、徐々に次第に悪くなるというよりも、ジグザグにガクンガクンと悪くなってゆくと書かれている。そして最悪の、言わば「最底辺」「ドン底」に至った時に終わりが来る、主の再臨があると予告されているのです。聖書が描くこの世の終わりに向かってゆく歩みは救いようがないものです。暗澹たる思いにさせられます。それほど初代教会の置かれた迫害の現実は凄まじいものだったのでしょう。しかし、終わりの日の希望はただ神にのみある。ただ再臨のキリストだけにあると聖書は告げています。

しかし、そのようなこの世の過酷な現実の中に、私たち人間の現実の中に、天から聖霊が降って教会が誕生したというペンテコステの出来事が刻まれているのです。一つのところに集まっていた人々には、天から「炎」のようなものが降って、突然様々な言語で人々が語りはじめたことが使徒言行録2章に記されています。人々はそれによって大きな喜びに充たされて、「キリストの福音」について口々に大胆に語り始めたのです。これが「教会の誕生」の出来事です。以来二千年を超えて、時が良くても悪くても、キリストの救いの出来事が言葉や文化や主義主張や歴史の壁を越えて宣べ伝えられてゆきました。イエス・キリストにおける「福音」、「神の言葉」に立ち続けることが私たちにとって唯一の道なのです。そこに神の聖霊が働いているからです。実際に初代教会のキリスト者たちは、300年以上にも渡って迫害の時を過ごしてまいりました。紀元313年にローマのコンスタンティヌス帝の出したミラノの勅令によってキリスト教はローマ帝国の公認宗教とされ、ユリアヌス帝の弾圧の時代を経て、紀元392年、テオドシウス帝によってコーマの国教に位置づけられてゆくのでした。順境の時も逆境の時も、そこに働いていたのは神の聖霊でした。

 

<「聖霊行伝」(間垣洋助)>

私の神学校時代の恩師のお一人、新約聖書学の間垣洋助先生は『使徒行伝』の授業の中でこう言われました。新共同訳聖書(1987)はまだ出版される前でしたから「使徒言行録」ではなく「使徒行伝」と呼ばれていました。「使徒行伝には前半はペトロの働きが、後半はパウロの働きが中心的に記録されている。しかしその本当の主人公はペトロでもパウロでもなく、彼らを捉え、使徒として立て、派遣した神の聖霊こそが主人公である。だから使徒行伝は本来は『聖霊行伝』と呼ばれることがふさわしいのだ」と。真にその通りであると思います。そして間垣先生はその時もう一つ大切なことを語られました。「使徒行伝(使徒言行録)は28章まで書かれている。しかし聖書はそれで閉ざされて終わっているわけではない。それに続く29章以下は、神の聖霊があなたたち一人ひとりを捉え、立て、派遣する中で書き加えられてゆくものなのである」と。これまたインパクトのある言葉でした。その通りです。私たちは「アーメン」と唱和する以外にはない。二千年に渡って「聖霊の炎」はこの地上に降り、人々を捉え、キリストの福音を信じる大きな信仰の喜びを充たし、それを多くの人々に宣べ伝えるようにと働いてきました。二千年を超えた教会の歴史がそれを明らかにしています。

 

<「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)>

イエスはヨハネ福音書8章でこう語っています。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31-32節)。キリストにおける神の福音の真理はそれを知る者を自由にする。神の御言葉はそれを信じる者に真の自由を与えると約束されているのです。「福音」とは本来「喜びの音信」のこと。キリストの福音の中にこそ人間を自由にする解放の喜び、希望が与えられてゆく。天から降った神の聖霊の「炎」はそのことを証ししています。それは決して燃え尽きることない炎です。だから、どのようなドン底にあっても、どのような行き詰まりや混沌の中にあっても、大丈夫。キリストにおける神の聖霊が私たちを自由にするからです。だれもこの真理が告げる自由から私たちを引き離す力をもったものはありません。

このところ、礼拝に集うことができるということは決して当たり前のことではなく、神の恩寵であるということを私たちは身に沁みて体験してまいりました。第二、第三の感染の波が来ると言われていますが、私たちは心に刻みたいと思います。神の聖霊が確証している神と私たちとのこの縦の関係、垂直の関係は、どのようなことがあっても決して揺らぐことはないということを。実際にこれまでも様々な危機的な状況を人類は体験してきましたが、教会はそれをくぐり抜けて、聖書のみ言葉に立ち返ることを通して存続し続けて来たのです。それが私たちを捉えて放さない神の聖霊の働きです。たとえ何年かかったとしても、七転び八起き。私たちキリストの教会は、日々聖霊からの力と勇気とをいただいて困難の中でもそれを担いつつ、キリストの日に向かって立ち上がり(復活し)続けてゆくのです。

お一人おひとりの上に聖霊なる神の守りと導きと祝福とが豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

 

<おわりの祝福>

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

2020年5月24日 (日)

2020年5月24日(日)主の昇天主日礼拝 説教「心の目を開くイエス」

2020年524日(日)主の昇天主日礼拝 説教「心の目を開くイエス」  大柴 譲治 joshiba@mac.com

  • 使徒言行録 1: 1-11

こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。(9節)

  • エフェソの信徒への手紙 1:15-23

どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。(17-18節)

  • ルカによる福音書 24: 44-53

そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」(45-46節)

 

<はじめに>

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

< 主の昇天主日の礼拝にあたって >

本日も「無会衆礼拝」、大阪教会としては11回目となります。次週31日(日)はペンテコステ。イエスを信じる者たちが集まっているところに、天からの聖霊が降ってきて教会が誕生した日です。聖霊に満たされた人々は口々に、様々な言語を語りながら、大きな喜びに捕らえられて、キリストの福音を宣べ伝え始めました。教会の誕生日です。

大阪も非常事態宣言が先の週521日に解除されましたので、注意深くではありますが、次週31日(日)に、ほぼ2ヶ月ぶりに教会に集うかたちでの主日礼拝を再開してゆきます。礼拝に集うことができるということは当たり前のことではなく、神の恩寵であるということを私たちはこの3ヶ月、身に沁みて体験してまいりました。今後も第二、第三のウィルス感染拡大の波が来ると言われていますので、私たちは心したいと思います。神とつながる私たちの縦の関係、この垂直の関係は、どのようなことがあっても決して揺らぐことはないということをこの体験は教えてくれました。そのことを示すために、イエスは天から降り、人間の姿を取ってこの地上に降り立ってくださったのです。しかも、この地上の最底辺、ドン底をイエスは黙々と歩んでくださった。それはドン底にあって自分は神に見捨てられてしまったと思っている人々とイエスが共に歩むためであり、神が「インマヌエルの神」であるということ、いついかなる時にも、彼らと共にある神であるということを証しし、小さくされた人々を神のもとに招き、神の民として取り戻すためでもありました。

 

< 「昇天の主」が天においてしていること〜 それは、「私たちへの祝福」 >

本日は「主の昇天主日」。復活後40日間に渡って弟子たちにその姿を示されたイエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられたことが本日の日課のルカ福音書24章と使徒言行録の1章には記されています。両者ともルカの記録です。私は必ず毎年、昇天主日に当たって一つ質問をします。「天に昇られたイエスさまは、天で何をしておられるのでしょうか」という問いです。答えはその昇天の出来事の中に示されています。ルカ24:50-51はこう記しています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」と。そうです。「手を上げて祝福する姿のまま、弟子たちを離れて天に上げられた(すなわち姿が見えなくなった)」のです(使徒言行録にはそのことは記されていませんが)。昇天されたイエスは天においても両手を上げて私たちを祝福してくださっているのです。礼拝の最後には「祝祷」がありますが、それはイエスが天で私たちを祝福していてくださっていることを目に見えるかたちで表しています。主の祝福が常に天から私たちに注がれているのですから、どのような時にもどこにおいても、私たちの人生は神の恩寵に充ちたものであるということです。

 

< 「心の目(ヌース=理性)を開いて」 >

 本日は特に、昇天される前に語られたイエスの「心の目」という言葉に焦点を当てて、聴いてみたいのです。

 

イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目(ヌース=理性・知性)を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて。あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(44-49節)

 

イエスは「聖書を悟らせるために」彼らの「心の目(ヌース=理性・知性)を開いて」言われたのです。ここで「心の目」と訳されているのはギリシャ語で「ヌース」(理性/知性/理解力)という語です。新しい協会共同訳(2018)では「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、言われた」と訳されています。イエスご自身が私たちの「心・理性・知性」を開いてくださるので、私たちは聖書の御言が理解できる、悟ることができるというのです。これこそが昇天の主の「祝福」であると私は思います。聖書に書かれていることが、私たち自身の救いのためであるということ、私の救いのためであるということが、自身の理性においてもストンと分かるということ。これが大切です。そのことの重要性を今日の日課は伝えているのです。その意味で私たちの信仰は、常に「知解(理解)を求める信仰」(アンセルムス)でもあります。

もう一つ、イエスの言葉を思い起こします。「心(カルディア=ハート)を尽くし、精神(プシュケー=魂)を尽くし、思い(ディアノイア=「理性(ヌース)を通して」)を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(マタイ22:37)。私たちは「心(カルディア=ハート)」と「精神(プシュケー=魂)」と「思い(ディアノイア=「ヌースを通して」)」のすべてを尽くして、神である主を愛するよう求められています。前述のように、その時に私たちの「理性」「心の目」を開いて下さるのは天上のイエスからの祝福でもある。私たちは「ハート(心)」と「ソウル(魂)」と「ヘッド(理性)」の三つそれぞれを十分に用いて、それら三つを同時に大切にしながら、キリストに従ってゆきたいのです。

私たちが「聖書を悟るため」、お一人おひとりの上に昇天の主の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

 

<おわりの祝福>

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2020年5月16日 (土)

2020年5月17日(日)復活節第六主日礼拝 説教「最強の弁護者」

2020年517日(日) 復活節第六主日礼拝 説教「最強の弁護者」    大柴 譲治 joshiba@mac.com

ヨハネによる福音書 14: 15-21

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者(パラクレートス)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(16-17a節)

 

 

< 「弁護者」=「真理の霊」の派遣の約束 >

本日も「無会衆礼拝」というかたちで礼拝を守っています。これで10回目となります。カメラの向こうには今、少なからぬ方々が祈りを合わせてくださっています。物理的な距離は離れていても、霊的な距離はすぐ近くにあります。

本日の日課には、イエスによって弟子たちに「弁護者を派遣する」という約束が記されています。この「弁護者(パラクレートス)」とは「傍らに呼び出されて、一緒にいてくれる存在」という意味の言葉です。どこにおいてもこの「パラクレートス(傍らにいてくれる最強の弁護者)」によって、私たちもまた互いに一つに結び合わされているのです。

ヨハネ福音書14-16章は「イエスの告別説教」とも呼ぶべき話が記録されています。それは十字架の苦難と死を前にした「イエスの遺言説教」です。そして17章は「イエスによる告別の祈り」となっています。ここでイエスは、自分をこれから見ることができなくなる弟子たちのことを深く案じています。父と子と聖霊なる神が弟子たちと共にいるのだということを繰り返し約束し、弟子たちに安心するように告げているのです。ある意味でイエスは、ここで親のように我が子を「弁護者」である「真理の霊」に託しているとも言えましょう。「天、共に在り」です。

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(15-17節)

 

< 傍らに呼び出された「最強の弁護者」(ワンダフル・カウンセラー)>

私自身はこれまで裁判に一度も関わった経験がありません。皆さんはいかがでしょうか。自分を弁護するため弁護士が立てられ、自分のために、自分に代わってその弁護士が弁論を展開してくれるという体験をしたことがない。しかしその逆の体験ならあります。自分が思っていることを十分に語ることができず、悔しい思いをしてしまうということを幼い頃から私たちは何度も体験してきたのです。「沈黙は金」と言われますが、人生にはしばしばそうではない時があります。自分を弁護することが、自分の思いと意図とをキチンと周囲に説明するということが求められることがある。それが上手くできない時に私たちは悔しい気持ちになります。正直に言えば、その悔しさがこれまで私たちにとっての勉学や向上心のモティベーションになってきたようにも思うのです。それは単に「弁論術」に長けるということではありません。自分や隣人の気持ちを本当の意味で理解し、受け止めるということが大事なのです。するとそこでは信頼関係が培われてゆく。英語で「弁護者」とは「カウンセラー」と呼ばれます。牧師の大切な仕事の一つにこの「弁護者(カウンセラー)」としての働きがあります。相手の思いを理解し、弁護し、支え、守ってゆくという働きがある。それは牧師だけでなく、キリスト者の役割であるかもしれません。メシアの誕生を予告したイザヤ書9章の5節にはこうあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」。ここで「驚くべき指導者」と訳されている語は、口語訳では「霊妙なる義士」となっていました。「霊妙なる義士」? 少し意味が分かりにくいですね。英語ではそれは「Wonderful Counselor」と訳されていて、ヘンデルの『メサイア』などでも歌われています。「ワンダフルカウンセラー」なら分かりますね。メシアこそ「最強のパラクレートス」なのです。

< 映画『フィラデルフィア(兄弟愛/友愛)』(1993)>

私はこのことに関して必ず思い起こす映画があります。それは『フィラデルフィア』という米国映画です(1993年)。そこではトム・ハンクスとデンゼル・ワシントンというアカデミー賞を受賞した二人の優れた俳優が共に弁護士を演じています。エイズとゲイにまつわる偏見を、法廷闘争を通して覆してゆくという内容の映画でした。主役の二人もそうですが、登場人物は弁護士ばかりです。トム・ハンクス演じる弁護士アンドリュー・ベケット。彼は同性愛者でありエイズ患者でもあったのですが(その相手役はアントニオ・ヴァンデラス)、そのために不当解雇されます。自分が所属していた弁護士事務所を訴えてゆくのです。訴訟相手は先輩の有能な弁護士たちです。誰も自分の弁護を引き受けてくれないという孤独の中で、黒人弁護士ジョー・ミラーがたった一人、弁護を引き受けてくれました。ミラー自身も最初は同性愛とエイズに対して偏見を持っていましたが、ベケットと親しくなってゆくなかで次第にそれらは打ち砕かれ、人間としての魅力に触れて次第に友として親しくなってゆく。私はちょうど1995年にフィラデルフィアにあるルーテル神学校に留学することが決まっていましたから、その町のことも知りたくて、その映画のタイトルにも惹かれてそれを観ました。福山教会時代の最後の時のことです。その物語は実際にあった物語でした。それ以来、何度もその映画を見直しましたが、観る度に深く感動し続けています。「優れた弁護者(カウンセラー)」と出会うということはまさにこのようなことなのだということを深く知らされた映画でもありました。

本日の「最強の弁護者」という説教題も、与えられたヨハネ福音書の日課と共に、この映画のことをも思い起こしながらつけさせていただきました。「フィラデルフィア」という語はもともとギリシャ語で「兄弟愛」を意味します。私たちがどれほど社会的に弱い立場に置かれたとしても、必ずそれを理解し、支え、守り、弁護を担当してくれる「真理の霊(パラクレートス)」が神から派遣されるのだということがイエスによって私たちに約束されている。私たちはこのイエスの約束を信頼してよいのです。

映画の中で私が何よりも心を打たれた場面は主人公の年老いた父母や家族たちが皆、彼の生き方を認めて、それを理解し、支えてゆく姿でした。そのような家族の愛と理解、恋人の存在、弁護者のサポートに最後まで支えられて、主人公は自分の正義を全うしてゆくのです。勝利の判決が出た時に、彼は満ち足りた平安のうちに、大切な人々に出会えたことを感謝し、自分が自分であったことに満足しながら、この地上での生涯を終えてゆきました。この「兄弟愛(フィラデルフィア)」という名の町で実際にあった物語として、その意味でも、深く印象に残る映画でした。

本日の第二日課であるペトロの手紙には次のような言葉があります。

 

心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。(1ペトロ3:15-16

 

イエスによって約束されている「真理の霊」とは、ここにあるように私たちを「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明」してくださるお方です。このようなカウンセラーが私たちにはいつも共にいてくださるのです。「しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と言われている通りです(17節)。イエスは言われます、「わたしは、あなたがたを決してみなしごにはしておかない」と(18節)。この言葉をご一緒に深く味わいたいと思います。どのような時にも私たちには「最強の弁護者」が天から派遣されているのだという神の現実を。

お一人おひとりの上に「ワンダフル・カウンセラー」としての「パラクレートス」の祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2020年5月10日 (日)

2020年5月10日(日)復活節第五主日礼拝説教「キリスト道を歩む」

2020年510日(日)復活節第五主日礼拝 説教「キリスト道を歩む」     大柴 譲治  joshiba@mac.com

ヨハネによる福音書 14: 1-14

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 ・・・ わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(1, 5-6節)

 

< 復活節第五主日礼拝にあたって 〜 ディディモのトマス(その二) >

本日も「無会衆礼拝」というかたちで礼拝を守っておりますが、カメラの向こうには今、少なからぬ方々が祈りを合わせてくださっていることでしょう。物理的な距離は離れていても霊的な距離は近くにあります。どこにおいても私たちは復活の主によって一つに結びあわされていることを覚えながら、ご一緒に聖書に耳を澄ませてまいりましょう。

 本日の日課には12使徒の一人であるトマスが再登場しています。あの「疑いのトマス」と呼ばれた「ディディモ(双子)」のトマスです(ヨハネ福音書20章参照)。トマスは他の10人の弟子たちが復活の主と出会ったと喜んでいる中でただ独り、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言って一週間の間、実証主義的な姿勢を決して崩さなかった使徒でした(23節)。トマスは自分自身の罪がどうしても赦せず、そこにこだわり続けていたのではなかったかと私は説教をさせていただきました(419日)。そのように頑ななトマスに、復活の主はご自身から近づいてその姿を表し、その疑いを拒絶することなく受容するようなかたちでトマスに向かって十字架の傷痕(スティグマ)の残った手を伸ばし、脇の槍跡を示して言われたのでした。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)。トマスは主に答えます。「わたしの主、わたしの神よ」と(28節)。直接イエスに向かって「神」と呼びかけているという意味で、疑いのトマスは新約聖書中で最高・最大の信仰告白をする者へと変えられたのでした。復活のキリストのリアリティ、主のご臨在(リアル・プレゼンス)が私たちを大きな喜びで圧倒し、私たちのうちに「信仰の奇蹟」を起こしてゆくのです。信仰の基調音は喜びであることをまず確認しておきたいと思うのです。

 

< 「キリストの道」を問うたトマス >

 本日の箇所でトマスは大切な役割を果たしています。「キリストの道」について問うて、「わたしは道であり、真理であり、命である」というとても重要なイエスの答えを引き出しているのですから(6節)。実はトマスはヨハネ福音書ではもう1ヶ所登場しています。11章です。ラザロの死を知ったイエスがそこに足を運ぼうとする時にトマスはこう言っています。「すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、『わたしたちも行って、一緒に死のうではないか』と言った」(16節)。これは少し頓珍漢な発言のようにも感じられます。疑いのトマスには「石橋を叩いて渡る」というような懐疑的で慎重な側面と共に、ボーッと瞬時に燃え上がるような直情的傾向をも持ち併せていたように思われるのです。人間というのは本当にアンビバレントで、様々な意外な側面を併せ持っていて面白いですね。「ディディモ」という語は「双子」を意味しますが、同時に「ふたごころ」をも意味します。それを二極に分裂する人間の思いを示していると受け止めるのは深読みのしすぎでしょうか。

 本日与えられたヨハネ福音書14章のコンテクスト(文脈)はこうです。13章でイエスは、最期の晩餐の場面でやおら弟子たちの足を洗い始めます。そして「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えた直後、「あなたのためなら命を捨てます」とまで言ったペトロに対して「鶏が鳴くまでに三度、あなたはわたしのことを知らないと言うであろう」と予告をしているのです。ペトロはさぞかしショックだったことでしょう。なぜイエスに自分の思いが正しく理解されないのかと悲しくもあったことでしょう。彼は大いに混乱したと思われます。弟子たち皆も同じ気持ちであったことでしょう。そして本日の14章のやりとりが続くのです。

 

1「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。 2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。 3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。 4わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」(4-7節)

 

< 「わたしは道であり、真理であり、命である。」>

 イエスが歩もうとされている「道」が何を具体的に意味しているのか、混乱した弟子たちには全く分かりませんでした。それは人の思いを遙かに超えた「十字架への道」だったからでもあります。そして同時にそれは、神へと続く「真理の道」であり「命の道」でした。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。このイエスの言葉を私たちは今、改めて心(魂)に刻みたいと思います。私たちもまた、混沌としたCOVID-19の感染拡大という現実の中にあって、どこに向かって歩めばよいか分からない状況に置かれているからです。キリストの道はどこにあって、どこに向かって敷かれているのでしょうか。12弟子同様、私たちには分かりません。ただ分かっていることは、この道を先導してくださるのは主ご自身であるということです。そして共にイエスによって集められた者の群れがあります。その道は私たちがただ独りで歩く道ではないのです。

先週私たちは詩編23編を読みました。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしをみどりの牧場に導き、いこいのみぎわに伴われる」(口語訳)。先週の福音書であったヨハネ福音書10章には、イエスが羊飼いであり、一匹一匹の羊の名前を呼んで連れ出す様子が記されていました。「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(3-4節)。羊は羊飼いの声を聴き分け、その声だけに信頼して従ってゆくのです。

 キリストの歩まれる「道」が私たちの前には置かれています。私たちはただその道の上を、羊飼いのあとに従って歩めばよいだけなのです。主は道の途上で私たち一人ひとりの名前を呼んでくださる。どれほど私たちが混乱していても、どれほど状況が混沌としていても、不安と恐れがあっても、主は私たちを守り導いてくださいます。そのことを覚えながらキリストが用意してくださった神に至る救いの道、真理の道、永遠の命への道をご一緒に歩んでまいりましょう。そのための導きと力とは必ず羊飼いであるイエス・キリストご自身によって与えられます。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。その基調音は喜びです。

 本日の第一日課には最初の殉教者であるステファノについて記されていました。ステファノもまたキリストの道を歩み、父なる神のもとに行くことができた一人でした。「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた」(使徒7:59-60)。ルカが使徒言行録に描くステファノの最期は、ルカ福音書が記すイエスの十字架の最期の姿と重なります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。ここにこそ唯一の「罪の赦しの道」があります。これこそ十字架と復活の主が私たちのために命を賭けて勝ち取ってくださった「真理の道」であり「命の道」であり「真の喜びの道」なのです。お一人おひとりの上に人生の同伴者であるお方の恵みが豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

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