2019年3月24日 (日)

2019年3月24日(日) 四旬節第三主日礼拝 説教「『もう一年』、とりなす園丁」 大柴 譲治

2019年324日(日) 四旬節第三主日礼拝 説教「『もう一年』、とりなす園丁」 大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 一 10:1−13

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。(13節)

ルカによる福音書 13:1−9

「園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」(8-9節)

「三年間も実を実らせないいちじくの木」のためにとりなす園丁

 本日の福音書にはイエスによるとても印象深いたとえが語られています。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください』」(6-9節)。

 三年間も実を実らせることのないイチジクのためにとりなす園丁の姿勢とその言葉とが読む者の印象に残ります。「どうか、もう一年待ってください。実がなるために色々と工夫して世話をしてみます」と執り成して下さるのは、悔い改めの実を結ばない私たちのために一生懸命とりなしてくださる主イエス・キリストの姿を現していましょう。「実を実らせないイチジク」とは「神の前に悔い改めようとしない神のイスラエルの民」のことを意味しています。その民に何とか悔い改めに相応しい実を実らせようと肥料をやって懸命に努力してくださるお方がいる。それが私たちの主イエス・キリストなのです。

人間の誕生とその成長の背後にあるもの〜赤児の成長を信じて執り成してくれる者の存在

 最近小さな赤ちゃんを見ていろいろと思わされることがあります。赤ちゃんには成長する力が最初から備わっていて、親や周囲の大人は、その備わった力を十分に引き出すことができるように周りから手助けするだけではないか、と。最初は首を上げることもできなかった新生児が、次第に首が据わり、手もいろいろと動かすことが出来るようになり、お祈りのポーズや、やがて寝返りも打てるようになる。笑顔を見せるようになってきて、やがて声を出すようにもなるのです。当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、一つひとつが大変に不思議で、神秘に満ちた成長のプロセスがそこにはあります。人間は常に成長してゆく力を持っていて、時に応じてそれを守り、支え、執り成し、導いてゆく、そのような役割と責任とが親や大人にはあるのだということを強く感じます。

 実のならないイチジクに「もう切り取ってしまえ」と怒る主人(神)に対して、「もう一年世話をさせてください」と申し出る園丁の姿。そこにはそのようなイチジクの中にも必ず実を実らせる力があるのだということを信じて疑わない園丁(イエス・キリスト)がいます。彼はそれはただ条件が整わないだけかもしれないと考えているのです。もっと土を耕して肥料をやって水を注げば、必ず実が実る時が来るはずだとイチジク本来の力を信じているのです。そのように考えてくると、私たち自身にも、その成長を信じて執り成してくれた存在がいたことを思い起こすのではないでしょうか。私たちに真剣に関わってくれた両親や祖父母、家族や恩師、友人や同僚などです。そのような存在を得て初めて私たち人間も、肉体的にも精神的にも社会的にも、そして霊的にも成長して実を実らせてゆくことができるのだと思うのです。「人間は必ず成長する。人は必ず変わりうる」。私たちはそう信じることができるし、そのように促されているでのす。そのためには時間がかかります。どこまでも相手の成長を信じて待ち続ける忍耐が必要になります。子どもたちもそうですが、振り返って見ると私たち自身も、何度も同じように失敗を繰り返しながら、試行錯誤しながら、少しずつ上手く事柄を行ってゆくことができるようになっていったはずです。私たちのために背後で執り成してくれた方々のことを心に覚えたいと思います。

メジャーリーガー・イチロー選手の引退

 先週21日に、米国のメジャーリーグで19年間もプレーを続け、前人未踏の記録を達成したイチロー選手が現役を引退しました。45歳でした。日本でのプレーは9年間、合わせて28年間の野球人生でした。弱肉強食のメジャーリーグで19年!気が遠くなります。そのお話しをテレビで聞きながら、打撃や守備、走塁の職人としてコツコツと自らの腕を磨き続けたイチロー選手の姿勢に、改めて深い感動を覚えた次第でした。皆さんの中にも同じ気持ちでテレビを見た方も少なくなかったことでしょう。大リーグに移った最初は「おまえはなんで日本から来たのか」とか「日本に帰れ」とか言われたこともあったということでしたが、ジッとそれに耐えながら、コツコツと鍛錬し続けたイチロー選手。スランプに陥った時にも、来年こそは結果を出すと信じてたゆまぬ努力をし続けた一人の真摯で謙遜な人間の姿がそこにはありました。自分は人ほど頑張ることはできない。ただ少しずつ自分にできることを積み重ねてゆくことしかできないと思いつつ長年に渡ってすばらしい結果を出し続けたのです。イチロー選手の姿は、国籍や民族や思想信条、主義主張の違いを超えて、多くの人々の心を感動で満たし、信頼と尊敬を受ける存在となりました。スポーツの世界だけでなく、若い世代の中には本当にすごい人が確かに世界にはいるなということを私自身は知らされた思いがしています。彼は、チームやファンや米国人から愛されて、惜しまれながら現役引退という人生の節目の時を迎えたのです。ネットワークの中で輝き続けたのです。彼がチームメイトたちと抱き合って感謝を現す姿は、そして人々からの惜しみないスタンディングオベーション(拍手)を受けながらはにかむ姿は、私にとっては最も感動的なシーンでした。そのような一人の日本人メジャーリーグ選手がいたこと、そのような人と同時代に生を受けて生きることが出来たことを感謝したいと思います。イチローに限らず、またスポーツの世界に限らず、多くの領域で世界中に出て行って現地の人々と共に、コツコツとよい仕事を積み重ねている人々が大勢います。その事実を知ると励まされます。

私たちが実りを実らせると信じてくださるお方イエス・キリスト

 そのことを思いながら、本日の、実のならないイチジクのために「もう一年」ととりなす園丁の姿を思い起こしました。イチローをはじめ、世の中で役立つ仕事を成し遂げる者の背後にいて、彼らを育てた親の存在に思いを馳せました。子供を信じ、子供の持つ無限の可能性を信じ、未来の実りを信じて、どのような時にも「もう一年」と執り成し続けた親や周囲の大人たちがそこにはいたのです。そしてそのような熱い執り成しの祈りの中で、それに答えるようにコツコツと努力を積み重ねていったアスリートたちがいるのです。白血病のため闘病生活を始めた競泳の池江璃花子選手(18歳)は1コリント10:13の言葉を引用しておられ驚きました。本日の使徒書の日課でしたね。ここを愛唱聖句とされている方も少なくないことでしょう。「(神は、あなたがたを)耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。その「逃れの道」こそキリストです。

何よりも私たちを信じて私たちのために「もう一年待ってください」と執り成しをし、土を耕し、肥やしを蒔き、水を注ぎ、一生懸命世話をしてくださるお方がいる。このお方こそ私たちの救い主イエス・キリストです。私たちの成長と変化、悔い改めと未来とを信じてくださるお方がいる。このお方の愛と執り成しの中で私たちは、自分の本当の姿と使命を知り、コツコツと努力をして自らのなすべきことを積み重ねてゆくことができるのです。一人の人間は多くの人々の執り成しの祈りと絆の中で成長してゆきます。人は信頼されること、愛されることを通して成長し、変化し、苦難を耐えながらも豊かな愛の実りを実らせてゆくことができるのです。

イエスが十字架への道を歩まれたのは、私たちの執り成しのためでした。主イエス・キリストが私たち一人ひとりを信頼し、愛し、成長と実りを信じて執り成してくださることを覚えながら、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりたいと思います。 お一人おひとりの上に神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年3月17日 (日)

2019年3月17日(日)四旬節第二主日礼拝説教「ああ、エルサレムよ、エルサレム」

2019317日(日)四旬節第二主日礼拝 説教「ああ、エルサレムよ、エルサレム」 大柴 譲治

ルカによる福音書 13:31−35

エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。(34節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

「ああ、エルサレムよ、エルサレム」〜エルサレムのために嘆かれるイエス

 本日の福音書にはイエスの悲しみに満ちた言葉が記されています。エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった34節)。

私はこの「ああ、エルサレムよ、エルサレム」というイエスの嘆きの言葉を読むたびに、同じくルカ福音書19章がイエスのエルサレム入城に続けて記録している「イエスの涙」のことを思い起こします。これは4福音書中でルカだけが記録している涙です。それはこうです。エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである』」19:41-44)。滅びゆく神の都エルサレムのために、その救いのため、その悔い改めのためにイエスは涙を流されたのです。しかしエルサレムは、イエスを十字架に架けて殺すことになってゆくのです。そしてエルサレムは、イエスの嘆きの通りに、紀元70年にローマ帝国によって徹底的に滅ぼされてゆきます。神に立ち返ることなく失われてゆく都のためにイエスはハラハラと涙を流されたのでした。

 

「愛の反対は憎しみではなく、無関心」(マザーテレサ)

 インドのコルカタで貧しい人々のためにその全生涯を捧げられたマザーテレサにこういう言葉があります。「愛の反対は憎しみではありません。無関心です。無関心と比べたらまだ、憎しみはその人を真剣に思っている分だけ愛に近いのです」。これは私が神学生の時に聞いてなるほど確かにその通りであると思わされた言葉でもありました。無関心、無関係、無感覚、無感動。その人と関わりを持とうとしないこと。これが愛の対極にある生き方でありましょう。今私たちは四旬節(レント)の期間を過ごしていますが、それは悔い改めの期節でもあります。ともすれば周囲に対して無関心、無感覚、無感動、無関係になりつつある私たち自身の心を覚醒させてゆくことが求められているのでしょう。『人は感情から老化する』とも言われています(和田秀樹著、祥伝社新書、2006)。自分を守るためには固い殼に引きこもる必要もあるかもしれません。しかし私たちキリスト者は、みずみずしい感性をもって、涙や憤りや喜びといった喜怒哀楽を深く味わいながら、日々を大切に、他者と共に歩む者でありたいと願います。

 

39日(土)にるうてるホームで「シュッツ合唱団」の合唱を聴いて

 ヨハネ福音書11章でイエスは、マルタの兄弟ラザロの死のために涙を流されています。そこからラザロのことをどれほどイエスが大切に思っていたかということが分かります。「イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った」(ヨハネ11:33-36)。人間を非人間化する死と悪の力に対してイエスは憤られたのでした。「キリストの涙」を聖書から示されるときに私たちは同時に、私たちの人生において自分のために泣いてくれた人々のことを思い起こすのではないでしょうか。私のことを大切に思って涙を流すほど真剣に関わってくれた者たちの声とまなざしとその姿勢とを私たちは魂に刻みつけるようなかたちで覚えているのだと思います。ある人は自分の両親を思い出されるでしょうし、ある人は祖父母を思い起こされる方もおられましょう。あるいは、万感の思いを残して先立ってゆかれた家族や恩師、学友などを思い起こされる方もおられましょう。

昨日の朝、私は東京の一人の女性からお電話をもらいました。私が前に牧していた教会で関わりを持っていた方で、その方のお嬢さまが、昨年の7月から体調を崩し、ガンのために128日に32歳の若さで天に召されたというお電話でした。突然のことでしたので驚きました。1214日にむさしの教会でご葬儀をしていただいたそうです。15年前に配偶者を突然大動脈瘤破裂で亡くされた方でした。15年前には中学生、高校生だった三人のお子様方ももう立派な社会人となり、皆がその将来を楽しみにしていたところでした。お嬢さんは緩和ケア病棟に入りながらも、最期まで希望を捨てずに凛として頑張り続けたということでした。わが娘に先立たれたお母さまの無念な思いはいかほど深いものであったことでしょうか。ただただ慰めを祈るような思いでお話しを伺いました。エルサレムのために泣かれたキリストの涙を思い起こしながら。

先日の39日(土)には、シュッツ合唱団がるうてるホームで合唱を披露してくださいました。讃美歌312『いつくしみ深き』298『やすかれわが心よ』などにまじえて、坂本九ちゃんの『上を向いて歩こう』や美空ひばりの『川の流れのように』、震災復興ソングである『花は咲く』や『ふるさと』などを聞いたり一緒に歌いながら、皆さんこれまでの大切な思い出を思い起こしておられました。昔を思い起こしながら涙を流しておられた参加者もおられました。終わった後に、皆さんの笑顔はすべてとても素敵でした。音楽の力、歌の力、声の力、言葉の力、つながりの力などを感じながら、とてもよい時を持つことができたと思います。自分に真剣に関わってくれた者の大切な思い出を思い出しておられたのだと思います。

「ああ、エルサレムよ、エルサレム」と、神の都エルサレムのために涙を流されたイエス・キリスト。主イエスは私たちが罪の中に滅びることをよしとされませんでした。私たちの存在が失われてはならないとここに涙をもって訴えてくださるお方がここにおられるのです。このお方は私たちを罪と死と滅びから救うためにあの十字架に架かってくださったお方です。「あなたは滅びてはならない。あなたは死ではなく、いのちを選ばなければならない。あなたはわたしの目には価高く、尊く、わたしはあなたを愛しているのだから」と言ってくださるお方なのです。今日もこれから主の聖餐に与ります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これは罪の赦しのため、あなたと多くの人々の流すわたしの血における新しい契約」と言って、ご自身のすべてを私たちに差し出してくださったイエス・キリスト。このお方の愛が今もなお私たちの上には注がれ続けています。

このお方の真剣な熱い涙を覚えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2019年3月10日 (日)

2019310日(日) 四旬節第一主日礼拝 説教「40日間の荒れ野の誘惑」   大柴 譲治

ルカによる福音書 4: 1−13 

イエスはお答えになった。「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」8節)

 

新しいエクソドス(出エジプト)

 先週の水曜日の「聖灰水曜日」から「レント(四旬節)」が始まりました。40日間(プラス日曜日が6回ありますので、合計で46日間です)、イエスの十字架の歩みを覚え続ける期節です。レントの典礼色は(アドヴェント同様)悔い改めと悲しみの色、王の色である「紫」。礼拝式文からは「グロリア」が外され、「ハレルヤ唱」は「詠歌」となります。先週私たちは山上の変容の出来事から、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる出来事が、旧約聖書に預言された「人間のための究極的な罪と死からの解放の出来事」「新しいエクソドス」であるということを学びました。

 

40年間」と「40日間」の荒れ野の試練/誘惑

 モーセによって導かれた出エジプトの出来事の後には40年間の荒れ野の旅」が続きました。それと同様、新しいモーセであるイエスにおいて行われる「新しい出エジプトの出来事」の後には40日間の荒れ野の誘惑」が続きます。イエスは洗礼の後すぐに「聖霊」によって荒れ野の中を引き回されます。さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられたとある通りです(1-2節)。マルコ福音書には誘惑の内容は記されておりませんが、マタイとルカにはその三つの誘惑が記録されています。二番目と三番目の順番はマタイとルカでは逆になっていますが、今年はルカを読んでいますので、ルカの順番で取り上げてみたいと思います。

最初に悪魔は空腹になったイエスを「パン」についての誘惑で試みます。悪魔①:「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」。イエス①:「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」(申命記8:3)。第二は「権力」についての誘惑です。悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて言いました。悪魔②:「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」。イエス②:「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(申命記6:13)。第三には、悪魔は巧妙にも聖書から詩編の言葉(91:1112)を引用してイエスを誘惑します。イエスをエルサレム神殿の屋根の端に立たせてこう言うのです。悪魔③:「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。『神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。』また、『あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える』」。イエス③:「『あなたの神である主を試してはならない』と言われている」(申命記6:16)。

三つの誘惑はそれぞれ「食欲」「権力欲」「宗教欲」に関する誘惑と呼べるでしょうか。悪魔は人間にとって本能的に弱いところを突いてくるように思います。しかしイエスは、三度とも申命記の言葉でその誘惑を退けられたのです。つまりイエスは、モーセの第一戒の「あなたはわたし以外の何ものをも神としてはならない」という戒め、即ち「まことの神のみを神とせよ」という戒めを申命記の言葉をもって身を賭して守り抜いたのです。私たちはイエスのようには誘惑には耐えられません。イエスに拠り頼む以外にはありません。

13節には恐ろしい言葉も添えられています。「悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた」と。一時悪魔はイエスを離れたが、もう一度時が来ればイエスを試みることになるというのです。そしてルカは実際にイエスの最後の晩餐の直前である22章にこう記しています。祭司長や律法学者たちがイエスをどのように殺すか謀っていた場面です。しかし、十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った3節)。荒れ野での誘惑を終えて一時イエスを離れたサタンが再びユダの中に入ったのです。このような悪魔の描写はルカだけがしています。そしてルカは次のように続けます。「ユダは祭司長たちや神殿守衛長たちのもとに行き、どのようにしてイエスを引き渡そうかと相談をもちかけた。彼らは喜び、ユダに金を与えることに決めた。ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた4-6節)。出エジプトの後の荒野の40年」が人間の一生を表していたように、イエスが悪魔(サタン)に試みられた40日間」は、やはりイエスの生涯がすべて悪魔の誘惑であり、悪との格闘であったということを意味しているように思われます。私たちの人生も生涯がすべてそのような格闘なのです。

 

8年目の3.11を前にして

 私たちは明日、8年目の3.11を迎えます。東日本大震災からもう8年が経ちました。昨日も、テレビやインターネットのニュースなどでは8年前のあの津波と原発事故のこととそれ以降の変化を繰り返し放映していました。大切なものを突然奪われた多くの人にとっては、時計はあの日あの時から止まったままです。私たちも胸が潰れるような思いをもって繰り返し津波の映像や原発事故の出来事を目の当たりにしました。特に幼い子供たちが大勢津波で命を奪われました。こんな不条理なことが起こってよいのか。なぜ神はこのようなことをお許しになるのか。私たちは重たくにがい憤りと不安の中でそのような沈黙の問いかけの中に取り残されたのです。2018910日の時点で、死者と行方不明者が18,432名、建築物の全壊・半壊は併せて402704戸となっています。私は当時東教区長でしたので、被災者救援のただ中に置かれました。JELCは青田勇副議長を救援活動の長に任命し、全体教会と東教区とが全力を挙げてJLER支援活動を展開しました。四ルーテル教団の協力もありました。日本各地や全世界からも祈りと支援金が集まり、支援の輪が拡がったことを思う時、目頭が熱くなります。本当にありがたいと思いました。また全国から大勢の方々がボランティアとして馳せ参じました。黙って集まり、自分にできることを黙々として、黙って帰っていったのです。中でも若い人々が少なくなかったことは私の印象に残っています。まだこの世は捨てたものでも無いと思わされました。悲しみを背負いながら、一人ひとりが精一杯のことをしたのだと思います。3.11を契機として東北大学を中心として臨床宗教師の働きも始まりました。今でも継続的に関わり続けている方々が大勢います。先週私は東京でM.T.さんという大阪教会出身の看護師さんとお会いしました。8年間、毎月休まず岩手県の釜石に足を運び、カリタスジャパンとの関わりの中でボランティアをして来られた方です。あと2年間カリタスジャパンは釜石での活動を継続するということでした。私たちは、その悲しみや嘆きを忘れずに担い続けてゆくのです。そのように私たちも40年間、40日間の荒れ野の苦しみと嘆きの十字架を担い続けてゆくのです。

 

十字架を通して復活に至る〜「七転八倒」と「七転び八起き」

「復活」という言葉をどのような日本語に訳すのがよいだろうかと考えてきたのですが、私は最近それを「七転び八起き」と受け止めています。「復活(アナスタシス)とは「再起」という意味だからです。Stand up again!です。たとえ「七転八倒」するような苦しみが私たちを襲ったとしても、復活の主が私たちと共にいてくださる。だから私たちはキリストのゆえに、何度も繰り返してダルマさんのように起き上がることができる。再起することができる。それはイエス・キリストという「揺るぐことのない愛と希望の源泉」「レジリエンス(逆境力)の源」が私たちと共におられるからです。パウロが言うように、わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、 途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされないのです(2コリント4:8-9)。イエス・キリストが十字架の上に罪と死と滅びからの突破口・脱出路を開いて下さいました。そして40日間の荒れ野の誘惑を神のみ言をもって退けてくださったからです。私たちのためにです。だからこの「勝利者キリスト」が、どのような時にも、どのような場所でも、どのような状況にあっても、私たちと共にいてくださる。このお方が、まことの羊飼いが私たちを本当のいのちへと導いてくださいます。ここに新しいエクソドスがある。そのことを覚えつつ、新しい一週間を大胆に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神さまからの祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年3月3日(日)主の変容主日礼拝説教「栄光に輝くイエスの姿」 

201933日(日) 主の変容主日礼拝 説教「栄光に輝くイエスの姿」  大柴 譲治

ルカによる福音書 9:28−36

祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。29-31節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。

 

山上の変容の出来事:新しい「エクソドス(出エジプト)」(突破口、脱出路)

 本日は主イエス・キリストが山上でその姿が真っ白く光輝くものとされた場面が記されています。山上の変貌(変容)の出来事です。今日で顕現節は終わり、今週の水曜日の「聖灰水曜日」からは、「レント」と呼ばれる「四旬節」(以前は「受難前節」と呼ばれていました)が始まります。40日間(プラス日曜日が6回ありますので、合計で46日間となります)、イエスの十字架の歩みを覚え続ける期間が始まるのです。本日の典礼色は神の栄光を現す「白」ですが、次週からは悔い改めと悲しみの色、王の色でもある「紫」となります。次週からは礼拝式文から「グロリア」が外され、「ハレルヤ唱」「詠歌」となります。目で見るかたちで悔い改めが求められてゆくことも、大切な私たちルーテル教会の礼拝のあり方なのです。

 実はこの山上の変容(変貌)の出来事はマルコにもマタイにもあるのですが、三つを比較してみるとルカにしかない部分があります。旧約聖書の律法を代表とする「モーセ」と預言者を代表とする「エリヤ」が表れてイエスと親しく語り合うところは共通なのですが、ルカ福音書だけは三人が何を話合っていたかを明確に記しています。31節です。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期」について三人は話していたのです。ここで「最期」と訳されている語はギリシャ語で「エクス・ホドス」という語です。英語で表せばexodus(エクソドス)」となります。その英語を聞いてピンとこられる方もおられるでしょう。exodusとは実は旧約聖書の「出エジプト記」の題名なのです。正確には、「エクス」「外に向かって」という意味の接頭辞で「ホドス」が「道」を意味しますから、その言葉は「脱出路」「突破口」と訳すことができます。モーセがイスラエルの民を引き連れて、真っ二つに割れた紅海の海を通って、乳と蜜との溢れる神の約束の地に向かって、エジプトの奴隷状態を脱出したのが「エクソドス」の出来事でした(紀元前1250年頃と推定されます)。イエスがエルサレムで遂げようとしておられる出来事は具体的には「十字架の出来事」ですが、それは旧約聖書が預言していた「人間のための究極的な罪と死からの解放の出来事」「新しいエクソドス」なのだということをルカ福音書はここではっきりと宣言しているのです。モーセとエリヤとイエスが三人並んで登場するのは、旧約聖書とイエスの出来事とが密接な関連を持っていることを示しています。

 

トンネルの出口

 体験的に私たちは、人生の中で「希望」を保ち続けることがどれほど大事なことであるかを知っています。苦しみや悲しみのトンネルには必ず出口があり、それは必ず終わりを迎えるのだということを期待することができなければ、私たちは途中で絶望してしまうでしょう。苦難を担ってゆくことはできなくなってしまうのです。たとえば自分が突然不治の病いであるということを宣告されるとします。余命数ヶ月と言われると私たちは、出口のない孤独の闇の中に投げ込まれたように感じて絶望的な気持ちになります。しかしその時に医療従事者がもし、「辛いお気持ちであると拝察いたしますが、可能な限り私たちも手を尽くして治療を行いますので、一緒に頑張ってゆきましょう」と一言添えることができるならば、その人の希望は支えられてゆくことでしょう。驚きや悲しみや憤りを、安全に、安心して表出することができる時間と場があれば、私たちはそのことによって支えられてゆきます。私たちはネットワーク(12弟子たちの中には漁師がいて、「網仕事」が大切であることは以前にも触れました)の中で支えられてゆくのです。私たちの教会はそのような相互に希望を支え合うネットワークの構築が求められています。

 

十字架を通して復活に至る〜そこに隠されている神の栄光

二週間前の217日(日)の午後に、この教会の建っている大阪会館の屋上に十字架が立てられました。大野一郎さんを中心として教会員の手で(方向としては)北に向かって十字架が立てられたのです。これはシンボリカルな行為です。それは、二年前に教会の北側に出来た「大阪国際がんセンター」に向けて、ここにキリスト教会があることを示すためでありました。言わば、そこはがんと闘う「戦場」でもありますが、私たちがそこに深い関心を持っていること、そのために祈っていることを、屋上に「復活の十字架」を立てることで表現したかったのです。「すべて重荷を負って苦しんでいる者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とキリストは言われました。キリストが十字架を通して私たちの悲しみと嘆きに「エクソドス」を、すなわち突破口、脱出路を開いて下さったからです。

ちなみに教会に掲げられる十字架には二種類あります。キリスト像のついた「受難の十字架」と、キリスト像のつかない「復活の十字架」です。両方とも大切で、それぞれに強調点が違っていて重要な意味がありますが、プロテスタント教会はそのシンボルとして復活の十字架を掲げることが多いのです。「復活の十字架」とはキリストが復活された後の十字架を意味します。キリストにあっては、死は終わりではなく、墓は終着駅ではないのです。

私は最近、「復活」ということを「七転び八起き」という意味で受け止めています。「復活(アナスタシス)とは「再起」ということです。stand againです。「七転八倒」する苦しみの中でも復活の主が私たちと共にいてくださる。だから私たちは、何度も何度も繰り返して、ダルマさんのように起き上がることができる。再起することができるのです。それはイエス・キリストという「揺るがぬ希望」を私たちが知っているからです。イエス・キリストが十字架の上に罪と死と滅びからの突破口を、脱出路を開いて下さったからです。十字架はそれを經て復活の勝利に至ります。復活のキリストが私たちを本当のいのちへと導いてくださるのです。ここに「新しいエクソドス(出エジプト)があります。今日の山上の変貌の出来事はそのことを示しています。

そのことを深く味わいつつ、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

 

2019年2月28日 (木)

2019年2月24日(日)顕現節第8主日礼拝 説教「『敵』を大切にしなさい」

2019224日(日) 顕現節第8主日礼拝 説教「『敵』を大切にしなさい」  大柴 譲治

○ 創世記 45: 3−11,15

わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。4-5節)

○ ルカによる福音書 6:27−38

しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。・・・あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。27-2836節)

 

神のアガペーの愛

 キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれます。神はその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったからです(ヨハネ3:16)。そしてそのことを知り、そのことを感謝し、それに応答して、私たちもまた「神を愛し、自分を愛し、隣人を愛すること」が求められてゆきます。そうです。キリスト教の中心には、「アガペーの愛」があるのです。

 聖書の説く「アガペーの愛」とはどのような愛なのでしょうか。私たち人間の愛は、価値あるものにしか向かわない「愛」です。それは、ギリシャ語で言えば「エロース」とか「フィリア」という単語で表現されるような愛です。私たち人間の愛は、自分にとって好ましいものにしか向かいません。真善美の価値を追求する愛です。それは真実なもの、善きもの、美しいものを求める愛です。古代ギリシャの哲学者プラトンは『饗宴(シュンポシオン)という本の中で「愛(エロース)について探求し、人間の愛は価値を認めるものにしか向かわないということを明らかにしています。今では「エロース」という語は男女間の性愛という意味で用いられることが多いですが、古代ギリシャでは「真理や善や美を求める愛」も幅広く「エロース」という語で表されていました。もう一つの「フィリア」という語も同じです。「智恵(ソフィア)を愛する(フィリア)」という意味で「フィロソフィー(哲学)」という語ができましたし、「兄弟たち(アデルフィア)を愛する(フィリア)という意味で「フィラデルフィア」という語が出てきます。米国の地名にもありますね。

 それに対して聖書は「神の愛」を表す言葉として、「エロース」でも「フィリア」でもなく、誤解されることを避けるようにあえて注意深く「アガペー」というギリシャ語を用いたのです。それは「神の無償の愛」を意味しています。分かり易くたとえるならば、ここに美しい花があるとします。私たちはその花の美しさに魅力を感じて愛します。これが「エロースの愛」です。しかしその花がしおれて枯れてしまったら、もうそこには愛を感じることがなくなり、その枯れた花をゴミ箱へと捨ててしまいます。そして次の対象を追い求めてゆくことでしょう。「価値あるものに向かう愛」と言ったのはそのような意味なのです。私たちの愛は価値判断を含み、そこに価値があるということを前提としている愛なのです。しかし「神のアガペーの愛」は全く違います。存在そのものをありのままに、自発的かつ無条件に、無償で愛するような愛なのです。花が美しく咲いていても、そしてたとえそれが枯れてしまったとしても、花そのものを無条件に愛してくれるような無償の愛。もっと言えば、「アガペーの愛」は、そこに価値を創造するような愛であるとも言えましょうか。それは言わば、「枯れた花をもう一度美しくよみがえらせるような愛」なのです。神は私たちが良い子にしているから愛してくださるのではありません。私たちのありのままをそのままで愛してくださっている。「親の子どもに対する無償の愛、自分を犠牲にしても子どもを守ろうとするような愛」というものに近いように思われます。

 このように聖書の告げる「愛」、キリスト教の説く「アガペーの愛」とは、価値あるものに向かう人間的な「エロースの愛」「フィリアの愛」とは全く異なります。繰り返しますが、聖書はそのような人間的な愛を表す語を注意深く避けている。ギリシャの時代には大切に意味を探求された「エロース」という語は聖書に一度も出て来ませんし、「フィリア」という語はたとえば「この世を愛する」などというような人間的な意味でしか使われていません。例外的にヨハネ福音書だけは「フィリア」という語を良い意味でも何度か用いています。たとえば21章には、復活のキリストが三度イエスを否んだペトロに対し「あなたはわたしを愛するか」と三度尋ねる場面が出てきます。ギリシャ語で読まないとその微妙なニュアンスは分からないのですが、イエスは最初の二回はペトロに「あなたはわたしを(アガペーの愛をもって)愛するか」と問うているのに対して、ペトロは三度とも「わたしは(フィリアの愛をもって)あなたを愛します」と答えるのです。三度目にイエスはアガペーの愛の次元がまだ分かっていないペトロに歩み寄って同じ地点に降りてきたかのように、「あなたはわたしを(フィリアの愛をもって)愛するか」と問うてゆきます。「はい、わたしは(フィリアの愛をもって)あなたを愛します」と言うペトロに対して「わたしの羊を養いなさい」と復活の主は新たな使命(ミッション)を与えてゆかれるのです。繰り返しますが、聖書が語る「アガペーの愛」とは、単なる人間的な「隣人愛」の次元を遥かに超えて、「敵をも(隣人として)愛してゆくアガペーの愛」なのです。

 

「あなたの『敵』を大切にしなさい」〜「敵」とはだれか

 本日私たちはルカ福音書6章からイエスの敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさいという言葉を聴いています(27-28節)。それは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というマタイ5章にある山上の説教の「愛敵の教え」のルカ版でもあります。「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである(マタイ5:43-45)。神がすべての人に対して「憐れみ深い(等しくアガペーの愛に満ちている)ように、私たちも人を選ばずに憐れみ深くありなさい、「敵味方を問わず、アガペーの愛をもって他者を愛してゆきなさい」ということでありましょう。

 「神の愛」という語が最初に日本語になった時にはどのように訳されたかご存知の方もおられましょう。それは「デウスの御大切(ごたいせつ/おたいせつ)と訳されました。「大切にする」。味わい深い名訳であると思います。「愛する」というと私たちの中には何か気恥ずかしいような、難しいような思いが生じてきますが、「大切にする」と言われると「ああ、そうなのか」とストンと私たちの腑に落ちます。釜ヶ崎で労働者たちと一緒に聖書を読み続けているフランシスコ会の本田哲郎神父は「神の愛」「神のご大切」と訳すべきと教えています。なぜか。「敵を愛しなさい」と言われると私たちの心の中には「敵を愛せない」自分の姿が影絵のように浮かび上がってきて、「どうしても自分は敵を愛せない」というネガティブな思いに捕らわれてしまします。しかし「敵を大切にしなさい」と言われると、不思議なことにそうはならないのです。「そうか、自分にできる範囲内で、相手を大切にすればよいのだ」と思うのではないでしょうか。

 では、「敵」とはだれのことを意味しているのか。それは、私たちに対して怒りや憎しみのような敵対的な感情(「敵意」)をもって向かい合ってくる「敵対者」を意味します。「私たちが苦手とする人」「私たちに痛みを与える人」と言い換えてもよいかもしれません。しかし「良薬口に苦し」という表現があるように、私たちはそのような人をも大切にしてゆくよう求められているのです。イエスは私たちに「目には目を、歯には歯を」「同害報復法」とも呼ばれる)復讐の次元を超えてゆくことを命じておられます。本日の旧約の日課には創世記45章のヨセフが自分を奴隷として売り渡した兄弟たちを赦す劇的な場面が与えられていました。ヨセフは言いました。「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」45:4-5)。ヨセフはここに辿り着くまでに七転八倒の苦しみと兄弟たちへの怒りとを味わってきたに違いありません。しかしその背後に働く神の御計画、神の恵み(アガペー)のみ業を知った時、彼は心から兄弟たちを赦すことのできる者に変えられていったのです。神を見上げる時、私たちの眼はある時パーンと「ウロコ」が落ちるように開かれてゆくのです。イエスの十字架が文字通り「敵を愛し、迫害する者のために祈る」究極的な自己犠牲の行為であったように、私たちもキリストに従って「アガペーをもって敵を大切にする生き方」へと招かれています。人間にはできなくとも、神にはできないことは一つもない。神の愛の霊が私たちに注がれる時、私たちは「主にある新しい存在」として再創造されてゆくのです。そのことを覚えつつ、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。 お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年2月17日 顕現節第7主日礼拝 説教「神による祝福と呪い」

2019217日 顕現節第7主日礼拝 説教「神による祝福と呪い」   大柴 譲治

エレミヤ書 17: 5−10

祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。7-8節)

ルカによる福音書 6:17−26

さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。」20-21節)

 

神による祝福と呪い

 本日私たちは、エレミヤ書17章とルカ福音書6章から、神による祝福と呪いの言葉を両方同時に聴いています。エレミヤ書はこう告げていました。主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである。それぞれの道、業の結ぶ実に従って報いる5-10節)。

主なる神を神として信頼し、神に従う者は祝福され、そうでない者、人間に信頼する者は呪われる(わざわいである/祝福を受けない)というのです。「水のほとりに植えられた木」のイメージは、水の乏しい中東の砂漠地方では極めて印象に残るイメージであったことでしょう。私たちは、神によって祝福される者の側にいるのでしょうか、それともそうでない者の側にいるのでしょうか。そしてそのことは何を意味しているのか。そのことが本日の主題です。

 

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。

ルカ福音書の6章ではイエスが神の祝福と呪いについて語っています。これはルカ版の山上の説教の冒頭部分(マタイ5:3-10「八福の教え」)でもあります(「平地の説教」ですが)。「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる」20-21節)。貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々、今迫害を受けている人々に、イエスは「おめでとう! 神の祝福はあなたがたと共にある!」と告げているのです。神の喜ばれることはこの世的な価値観とは全く真逆にあります。そしてイエスはこう続けています。後半の呪いの部分はマタイ福音書には記されておらず、それはルカにだけ記されています。「しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、あなたがたは悲しみ泣くようになる」24-25節)。「不幸である」とは「わざわいあれ」とも訳すことができる言葉で、神の呪い(祝福のなさ)を意味しています。「今富んでいる人々、今満腹している人々、今笑っている人々は、神に呪われよ」と言うのですからそれは強烈です。ユダヤ教の指導者階級に向けて語られた言葉でしょうが、このような厳しいイエスの言葉はそれを聴く者を縮み上がらせます。私たちはどちらの側に立っているのでしょうか。

 

エレミヤ書とルカ福音書をクロスさせることで見えてくる十字架〜木に架けられることで呪われた者となったお方

 エレミヤ書は神を信頼し、神に聴き従う者が幸いであると宣言していました。ルカ福音書では、イエスは「今、ここ」で貧しい者、飢えている者、涙を流している者は幸いであると告げています。両者をクロスさせると、神は貧しさや飢え、悲しみという困窮や苦難の中にある者たちの側に立ち、彼らを優先的にその憐れみによって選び、恵みをもって祝福するお方であることが分かります。なぜか。困窮/苦難の中にある者は、貧しさや飢え渇きや悲嘆というその具体的な困窮/苦難の中で、それゆえに打ち砕かれ、ただ神のみを信頼し、神のみに頼るしかないところに追いやられるからです。人は「逆境」の中でこそ自己の限界を知り、打ち砕かれ、神に目覚めるのです。マルコ福音書12章やルカ福音書21章には、貧しいやもめ(未亡人)がレプタ銅貨二つ(50円玉二枚ほどでしょうか)という僅かな献げ物を捧げたことが記されています。彼女は貧しい中でその生活費のすべてを神に捧げました。彼女は神の憐れみに自分のすべてを委ねたのでしょう。イエスはそれを見て「だれよりも多くを捧げた」と彼女の信仰を賞賛しておられます。

もちろん苦難や困窮という「逆境」が人の心を閉ざしてゆく、頑なな心がさらに頑なにされてゆくという側面もありましょう。人生の中で私たちには、自分を守るために固い殼の中に閉じこもる以外にはなし得ない時もあるからです。しかしその苦しみ嘆きの中で必ず打ち砕かれる瞬間、開かれる瞬間がある。トンネルを抜け出す時が必ずある。それはどういう時か。私たちのために十字架を背負ったイエス・キリストと出会う時であり、「貧しい者、飢えている者、涙する者はまことに幸いなり」と宣言してくださるお方と出会う時です。主は自らも貧しき者、飢える者、涙する者の一人としてこの地上を歩まれました。そして主は「呪われた者」として十字架という木に架けられて殺されました。「木に架けられる者は神に呪われる」(ガラテヤ3:13、申命記21:23)とある通りです。その苦難と死を通してイエスは、私たちを律法主義という「呪い」から解放すると共に、その呪いを「神の祝福」に変えて下さったのです。

 

「ただ神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9:3

ヨハネ福音書9章には生まれた時から目の見えない盲人をイエスが癒す場面が記されています。弟子たちはイエスに問います。「彼が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したせいですか。本人ですか、それとも、両親ですか」。イエスははっきりと答えます。「本人が罪を犯したせいでもなければ、両親が罪を犯したせいでもない。ただ神の業がこの人に現れるためである」と(ヨハネ9:3)。悪いことの原因を罪に帰そうとする因果応報的な考えは古今東西を超えて存在してきました。しかしイエスはここで私たちが捕らわれてきたその呪縛を断ち切っておられます。「ただ神の業がこの人に現れるため」と宣言し盲人の眼を開くことを通して、イエスは私たちの眼を「過去」「原因探し(罪)」にではなくて「未来」に向けさせているのです。因果応報の呪縛から解放するのみならず、その苦難/困窮を通して神が何をなそうとしておられるかという「神の目的」に目を向けるよう私たちを促しています。苦難には意味があるのです。

生まれた時から盲目であったその男性は、その両親と共に、周囲からは「罪を犯したために、神の罰(呪い)を受けている」とずっと長く後ろ指を指されてきました。傷口に塩を塗るようなかたちで「既成宗教」は苦難で苦しむ者に連帯するというよりも、彼を苦しめる者の側に加担してきました。しかしイエスは、その「人間解放宣言」とも呼ぶべき宣言によって、彼を闇の世界から解放すると共に、私たちの眼をも神の救いの御業に向けて開いて下さったのです。イエスはここで、神が常に苦しむ者の側に立たれる「インマヌエルの神」であることを教えてくださっています。

 

「キリスト讃歌」

 パウロの書いた手紙であるフィリピ書の2章には初代教会が歌ってきた「キリスト讃歌」と呼ばれる讃美歌が記録されています。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです6-11節)。十字架という苦難の死を遂げられた御子なる神イエス・キリスト。このキリストのへりくだり(謙卑)と従順とによって私たちの罪は贖われ、雪よりも白く私たちは清められています。神が心を探り、そのはらわたを究めるのは、主なるわたしである(エレミヤ17:10)と言われるように、神は私たちの魂の深み、心のすべてをその奥底まで知っておられます。私たちが心底打ち砕かれ、悔い改めてキリストを救い主として信じる時、神はその独り子を賜るほどの深い愛と豊かな憐れみをもって私たちの罪をすべて赦し、御子のゆえに呪いを祝福に変えて、御子の持ついのちのすべてを私たちに与えてくださるのです。この恵みと憐れみの神に心から信頼して、キリストのみあとに服従しつつ新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年2月15日 (金)

2019210日(日)顕現節第6主日礼拝 説教「弟子たちの網:ネットワーク」   大柴 譲治


イザヤ書 6: 1− 8

彼はわたしの口に火を触れさせて言った。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」そのとき、わたしは主の御声を聞いた。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか。」わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」(7-8節)


ルカによる福音書 5: 1−11

シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。(5-6説)。

 

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

 本日は、ルカ福音書5章から、漁師であった最初の弟子たちを主イエスが「人間をとる漁師」として召し出した場面が与えられています。先週は旧約聖書の日課で預言者エレミヤの召命の出来事(エレミヤ1:4-10)が与えられていましたが、今日は預言者イザヤの召命の出来事が日課として与えられています(イザヤ6:1-8)。そこには「天的な動物」である六つの翼を持つ「セラフィム」が神を讃えながら飛び交っています。聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う(イザヤ6:3)。そのような聖なる場面を見たイザヤは自らの汚れと罪に気づかされ、おそれとおののきの中でこう言います。「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(5節)。するとセラフィムがイザヤのところに飛んで来て、手に持った祭壇から火鋏で取った炭火をその口に触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(7節)。イザヤの罪は神によって赦されたのです。その時イザヤは、今度はセラフィムではなくて聖なる神の御声を直接に聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤはこう応答しました。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」8節)。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください!」 神のコール(召命)が起こる時には、私たちにはこれ以外の応答はありません。神に逆らった預言者ヨナも結局はそうなったのですから。

「預言者」とは、神によって選ばれ、聖別され、「神の言を預かる者」として立てられ派遣される者であると先週触れました。しかもそれは、預言者が生まれる前に「母の胎」にある時から、否、その遥か以前から、神の恵みによって定められている出来事であると聖書は伝えています。主なる神の言」が私たちに臨む時には、このような「召し出し(召命/Call/Beruf)」の出来事が必ず起こる。パウロもエレミヤの召命と自分自身のことを繋げて次のように言っていました。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたのだと(ガラテヤ1:15-16)。

 旧約の預言者であったエレミヤやイザヤがそうであったように、イエスの弟子たちも、そして使徒パウロも、神によって選ばれ、聖別され、「預言者=福音の宣教者」として立てられ、派遣されてゆく者とされてゆきました。そしてそのことは、今ここに集められている私たち自身も、たとえ様々な紆余曲折があったとしても、結局は同じなのだと聖書は証言しています。

 

「しかし、お言葉ですから」

 今日の最初の弟子たちの召し出しの場面を、ルカはなかなか味わい深い筆致で記しています。そのやりとりの中にも「紆余曲折」が感じられるのです。もう一度お読みしてみましょう。

イエスがゲネサレト(ガリラヤ)湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」1-3節)。問題は4節以下です。「話し終わったとき、イエスはシモン・ペトロに『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた」(4節)。「沖」とは「もっと深いところ」という意味ですが、もっと深いところに漕ぎ出して網を打てと命じておられるのです。それに対してシモンは渋々とイエスの命令を了承します。ペトロはこう言うのです。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えるのです(5節)。「湖を知り尽くした、プロの漁師である私たちが一晩中網を打ったが何も獲れなかったのです」、と言いたいほどに徒労と失望に落ち込んでいるペトロたちの姿がそこにあります。ところが、彼らがイエスの言うとおりにするとおびただしい魚がかかり、網が破れそうになります。ヨハネ福音書では少しコンテクストが違ってその最後の章になりますが、復活されたキリストが弟子たちに漁を命じ、153匹もの大きな魚が獲れた」ことが記録されています(ヨハネ21:11)。ここでもプロの漁師たちの度肝を抜くほど大漁に魚が獲れたのでした。ちなみに153という数字は地球上のすべての民族の数を表していると説明されます。

ルカ福音書の5章に戻りましょう。「そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった」(7節)。これを見たシモン・ペトロはイエスの足もとにひれ伏して、イエスの言葉を信じなかった自らの罪を告白します。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(8節)。とれた魚の量にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからです(9節)。これは、本日の第一日課にあるように、預言者イザヤがセラフィム(六つの翼を持つ天的な動物)が飛び交う聖なる場面に直面して「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は、王なる万軍の主を仰ぎ見た」(イザヤ6:5)と自らの罪を告白している場面と重なります。「聖なるもの」を前にしては、私たちはおそれとおののきの中で自らの汚れと罪深さを自覚し告白する以外にはありません。10節には「シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった」とありますので、彼らは皆、大同小異、五十歩百歩、自分たちの不信仰の罪を自覚したのでありましょう。これらのやりとりの背後にある彼らの気持ちの動きは私たちにはよく分かります。私たちももしその場に居合わせたならペトロや他の弟子たちと同じように感じ、行動したに違いないからです。すると、イエスはシモンに言われました。「『恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。』そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った」10-11節)。これが最初の弟子たち(3人または4人)の召命の出来事でした(ルカ福音書のこの場面にはアンデレの名前は出て来ませんが)。

 

弟子たちの網(ネット):ネットワーク

 昨年10月25日から9日間ほど、総勢14名の訪問団で、私は私たちのJELC教会とこの50年に渡って宣教協力関係を持ってきたドイツ・ブラウンシュヴァイクの教会(ELKB)を公式訪問させていただきました。その時にお会いした「アルバイツ・クライスト・ヤーパン」という日本宣教を支援してきたグループの方々と交流会と食事会を持ちました。その際に、その中にドイツ人の男性と結婚した一人の日本人女性(Mrs. Huwe)がいて、食事をご一緒のテーブルでさせていただきました。その時にその方はこう言われたのでした。「イエスさまがなぜ漁師たちを弟子にしたかお分かりでしょうか。漁師たちはその商売道具である網をいつも大切にして繕っています。網とは『ネット』のことです。だから私たちも日本(JELC)とのネットワークを大切にするのです」と。「なるほど!」と合点がゆきました。漁師たちの網仕事(ネットワーク)、それが私たちキリスト教会の仕事です。その語の大切さを私は今回のドイツへの旅で学び取ったのでした。私たちはこの「キリストのネットワーク」「福音のネットワーク」を拡げてゆくために神/キリストによって召し出されています。そのことを覚えて、ご一緒にこの新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年2月 4日 (月)

2019年2月3日JELC大阪教会総会(顕現五)礼拝説教「預言者:神の言を預かる者」

201923JELC大阪教会総会(顕現節第五)礼拝説教「預言者:神の言を預かる者」 大柴 譲治

エレミヤ書 14−10

主の言葉がわたしに臨んだ。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」4-5節)

ルカによる福音書 4:21−30

「これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」28-30節)

 

「神の預言者」=「神の言を預かる者」

 本日は大阪教会の総会礼拝です。2018年活動を振り返り、新しく始まった2019年の計画について祈りながら協議し、決定してゆく大切な日です。役員の選挙もあります。私たち大阪教会が何を基盤にして立(建)てられているのかということをしっかりとみ言葉から聴き取ってゆきたいと思います。

 本日は顕現節第五主日の旧約と福音書の日課を用いています。特に本日は「預言者」についてのみ言です。説教題も「預言者:神の言を預かる者」というタイトルです。

言者」という言葉の最初の字は、「予告」「予」ではなくて「預金」「預」です。

言者」
ではないのです。

言者」
とは「神の言を神から預かり、それを人々に語り伝える者」という意味なのです。

 旧約聖書の日課はエレミヤ書1:4-10の、預言者エレミヤの召命の場面が与えられています。これはとても味わい深いエピソードです。「主の言葉がわたしに臨んだ。『わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。』わたしは言った。『ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。』しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す』と主は言われた。主は手を伸ばして、わたしの口に触れ、主はわたしに言われた。『見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。見よ、今日、あなたに、諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるために』」。「主なる神」「言」が人に臨む時には、必ずこのような「召し出し(召命)の出来事」が起こるのです。アブラハム(まだアブラムと呼ばれていましたが)の場合もそうでした(創世記12章、ならびに15章)。モーセの場合もそうです(出エジプト記3章)。母マリアの場合もそうですし(ルカ1:26-38)、イエスの12弟子たちの場合もそうでした(ルカ5-6章)。

 パウロ自身もエレミヤの召命と自分自身のことを重ねて、手紙の中で次のように語っています。しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた(とき)と(ガラテヤ1:15-16)。若い頃のパウロはエリートファリサイ派の律法学者の独りであり、キリスト教の迫害者でした。使徒言行録の7-8章を読むと、彼は最初の殉教者ステファノの死にも関わっていたと言われています(使徒8:1)。しかしダマスコ途上で復活のキリストに呼びかけられて三日三晩目が見えなくなり、劇的な回心を遂げます。「キリスト教の迫害者」から「キリスト教の伝道者」へと、それも「異邦人への使徒」へと180度方向転換させられるのです。「メタノイア(悔い改め)」とは「神への方向転換」であり、「キリスト中心への主体のコペルニクス的転換」(コペルニクスは天動説から地動説への転換を主張)なのです。そこからパウロは「母の胎内にある時から神が自分を選び分け、恵みによって召し出してくださった」という根源的な原事実に気づく。キリストとの出会いによって文字通り「目からウロコが落ちた」のでした(使徒9:18)。

 実はパウロだけではなく、私たち一人ひとりもまた「母の胎内」にある時から、いや、胎内に造られる遥か以前から、神の恵みによって選び分けられ、神によって祝福され、聖別されていると聖書は告げているのです。これはとても驚くべき恵み(Amazing Grace!)です。神の恵みの選びが既に私たちがこの世に生まれる前からあるというのですから。私たちの人生は神と出会うためにあるのです。このような私たちの人生に備えられている「神の使命(ミッション)」を知ることが大切です。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスが与えられた天からの存在是認の声は、私たち一人ひとりに向けられているのです。江口再起先生はそれを「恩寵義認」と呼びました。イエス・キリストの受肉と十字架と復活という出来事を通して、その恵みは100%無代価で、無条件に私たちに恩寵として与えられているのです。私が神学生の時にある篤志家の献金によって「恩寵無限奨学金」という奨学金がありました。確かに神の恩寵は無限であり、それが私たちを義とするのです。神はその独り子を賜るほど、この世を愛してくださっているのですから(ヨハネ3:16)。

 

聖霊によって導かれるイエス、そしてイエスを拒絶するナザレの人々の「罪」

本日の福音書の日課はルカ福音書4章の21節から30節。洗礼の場面でも、荒れ野の誘惑の場面でも、イエスを聖霊が常に支え導いていることを私たちは聴いてまいりました。先週の日課にはこうありました(14節)。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」。しかし16節からはイエスの故郷であるナザレでは、人々から敬われなかったことが記されています。22節ではまだ人々はイエスの権威ある教えに驚いています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。しかしそのような郷里の人々に対して、イエスは厳しい言葉を投げかけています。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここ(ナザレ)でもしてくれ』と言うにちがいない」23節)。そして、続けて言われました。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」24節)。幼い頃からイエスを知る人が大勢いる故郷のナザレでは、イエスは人々に敬われることがなかったということが記されています。それどころか恐ろしいことに、イエスの言葉に激高した人々はイエスを崖から突き落とそうとまでするのです。幼い頃からイエスを良く知っているという思い上がった「人間的な知識」と自己中心的な「怒り」とが彼らの目を塞ぎ、イエスが持つ神の権威を見えなくしているのです。私たち人間はその罪のゆえにイエスの十字架を必要としたのです。

 イザヤ書の預言がイエスにおいて「今日、ここで」成就したという福音の喜びが頑なな彼らには全く見えてきません。なんともったいないことでしょうか。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ4:18-21)。イエスと出会うことを通して私たちは、母の胎内にある時から神によって祝福され、聖別されているという事実を知ることができる。その事実は、どんなに辛い状況が私たちを襲ったとしても、私たちを存在の根底から支え続け、守り続けるのです。その福音を全世界に伝えるための「預言者(神の言を預かる者)」としてこの私たちを選び、「母の胎内」にあるときから召し出してくださった。神はこの日本福音ルーテル大阪教会を、アブラハム同様、「祝福の基//器」として、これまでも用いてこられたし、現在も用いておられるし、これからも用いてゆかれるのです。そのことを信じ、ご一緒に味わいながら、2019年度の教会総会に臨み、新しい一年を主イエスに向かって踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年1月31日 (木)

2019年1月27日(日)顕現節第四主日礼拝説教「今日、実現した神の言」

2019127日(日) 顕現節第四主日礼拝 説教「今日、実現した神の言」    大柴 譲治

ルカによる福音書 4:14−21

「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。(18-21節)

 

「神の霊」によって満たされ、導かれるイエス

 本日は顕現節第四主日。本日はルカ福音書4章の14節から21節が与えられています。洗礼を受けた後、荒れ野でのサタンの誘惑に打ち勝たれたイエスは、自分のふるさとであるガリラヤに戻りました。その時の様子が最初の部分に記されています。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた14-15節)。「イエスは霊の力に満ちて」と書かれています。「霊」とは神の聖霊のことであり、「神からの命の息吹」「神からの風」のことです。その霊の力にイエスは満たされているのです。

実はルカはイエスの洗礼の場面と、荒野の誘惑の場面でも「霊」について言及しています。洗礼の場面ではこうなっています。民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた3:21-22)。荒野での誘惑を受ける場面はこうです。「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」1-2節)。

さて、話を聖霊に戻しましょう。洗礼を受けたヨルダン川からイエスは「聖霊に満ちて」お帰りになられました。それだけではない。荒れ野の中をによって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられたとある。「霊によって引き回され」というのは、新しく出たばかりの聖書協会共同訳では「霊によって導かれて」となっています。「引き回され」「導かれ」とではずいぶん印象が違って響きますが、大切なことはその主導権が神の聖霊にあったということです。神の霊がイエスを荒野に導き、40日間イエスはそこで悪魔の誘惑を受けたということです。40日」というのはモーセとイスラエルの民が、エジプトを脱出した後に、荒れ野で40年を過ごした事を私たちに思い起こさせます。聖書では40という数字は「完全数」とも呼ばれ、例えば40年」と言うとそれは「人間の生涯の全体」を、即ち「一世代」を意味すると考えられていたようです。モーセと一緒にエジプトを脱出したイスラエルの民たちが、モーセが民を離れてシナイ山で神から十戒を与えられている時に、不安になって「金の子牛」を作ってそれを拝んだことが出エジプト記32章には記されています。偶像崇拝の罪を犯したためにイスラエルは荒野で40年間を過ごさなければならなくなるのです。モーセもモーセの兄であったアロンも、民の罪を背負う形で荒野においてその生涯を終えてゆきました。そして「神の約束の地」に入っていったのはヨシュアとカレブに導かれた次の世代の者たちだったのです。「荒野の40年」とはそのような意味を持っていたのです。イエスの荒野での40日間の誘惑というものも、イエスの生涯全体がサタンとの闘いであったということを意味しています。

 「聖霊に満ちた」イエスが荒れ野の中をによって引き回され」、「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」というのは、それと同時に「私たちの人生を導くのもやはり神の聖霊である」ということをルカは明らかにしているのです。ルカは福音書の続編として「使徒言行録(使徒行伝)」を記しました。使徒言行録の前半はペトロの働きを中心に書かれ、後半はパウロの働きが書かれています。しかしその本当の主人公はペトロでもパウロでもなく、彼らを捉えて福音の宣教者として立てた「神の聖霊」なのです。その意味ではそれは「使徒言行録(使徒行伝)」と呼ばれるよりも「聖霊言行録(聖霊行伝)」と呼ばれる方が相応しいと言わなければなりません。そしてルカはそのことが「使徒言行録」においてだけでなく「福音書」においても同じであるということ、「神の聖霊(神の命の息吹)」がすべてを捉え、立て、動かし、導いている歴史の本当の主役なのだということを確信しつつ書いているのでありましょう。だからこのように記すことができたのです。イエスはの力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた14-15節)。

 

ユダヤ教のシナゴーグ(会堂)で聖書(イザヤ書)を読み説くイエス

 しかしそれに続くエピソードでは、幼い頃からのイエスを知る人が大勢いる故郷のナザレではイエスは人々に敬われることがなかったということが記されています。そのことは次週の日課ですのでその時に触れたいと思います。本日の日課は21節までです。イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」16節)。「いつものとおり」とはイエスが毎週、ユダヤ教のシナゴーグで安息日(土曜日)礼拝に参加していたことを記しています。そこでは「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった」17節)。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」18-19節)。「キリスト(メシア)」とは「神によって油注がれた者(=特別な使命のために立てられた者)」という意味です。そして「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」とあります20-21節)。これはイエスによって全く新しく、イザヤが預言していた通りの神の救いの新時代が始まったという重要な宣言です。

 

本日、日本基督教団大阪東十三教会からのゲストを迎えて

私たちの日本福音ルーテル大阪教会は1917年に宣教が開始されましたから、今年で宣教102年目となります。天王寺からこの場所に映ってきたのは195412月のことでした。当時の大阪教会牧師の稲富肇先生がメソジスト教会からこの土地を購入したのです。今私たちの教会があるこの場所には、戦前にはメソジスト教会と幼稚園とがありました。今から二年少し前の20161231日に、るうてるホームにおいて107歳で天の召しを受けられた糸長清子姉はそのメソジスト教会の幼稚園で長く先生をされていたと伺っています。本日はその教会と関わりのあった日本基督教団大阪東十三教会の方々がこの礼拝に出席されています。

調べてみますと、今教会があるこの場所は不思議な神の歴史(これまた「聖霊言行録」です)に導かれていました。1895(明治28)年、ここにメソジスト教会と牧師館が建築されました。それは「南美以教会(アメリカ南メソジスト監督教会)大阪東部教会」という名でした。1895年に既に神によって聖別されたキリスト教会がこの場所に建築されていたのです。日本基督教団大阪東梅田教会のホームページに下記のような記述があります。1895年に、大阪市東区(現中央区)内本町1丁目谷町西ヘ入ル(現在ホテル・ザ・ルーテルがある場所)にて教会堂と牧師館を3120円で建設する」。しかしその礼拝堂は1905103日の夜に英学校のランプが落下して火事となり全焼。二年後の1907年4月28日にレンガの会堂として再建されています。1941年、太平洋戦争が始まると「日本基督教団」に組み入れられ、1942年にはその名称も「日本基督教団大阪大手前教会」と改称されました。1945615日、空襲のため教会は全焼します。それはどれほど大きな打撃だったことでしょうか。そしてその後、同じ年である1945年の11月に大阪YWCAにおいて祈祷会が行われ、翌1946年1月から戦後の焼け跡の中で日本基督教団に属する4つの教会の合同礼拝が始まりました。日本福音ルーテル教会においても事柄は同様でした。19531128日に稲富肇牧師の時にこの土地をメソジスト教会から購入し、195412月5日に新会堂の献堂式が行われました。真法院町にあった大阪教会は何とか焼失を免れたようですが、谷町に礼拝堂を建てた後もしばらくは牧師館はまだ天王寺の真法院町にあったということです。この場所を通して、そのような神の霊の守りと導きの中で粛々と福音の宣教は行われてきました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」とイエスが言われた通り、イザヤ書の救いの預言が今日それを聴く私たちにおいて実現しているのです。そのことを深く味わいつつ、ご一緒に主の食卓に集ってまいりましょう。

皆さまの上に神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年1月20日 (日)

2019年1月20日(日)顕現節第三主日礼拝説教「水を極上のワインに変えるお方」 大柴 譲治

2019120日(日)顕現節第三主日礼拝説教「水を極上のワインに変えるお方」 大柴 譲治

ヨハネによる福音書 2:1−11

イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。(7-8節)

 

カナの婚礼

 本日は顕現節第三主日。典礼色は(神の栄光を表す)「白」から(希望と成長の色である)「緑」に戻りました。先週はイエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことを覚えてみ言に耳を傾けました。本日はヨハネ福音書2章のガリラヤのカナでの結婚式のエピソードです。このカナの婚宴でのイエスが水を極上のワイン(ブドウ酒)に変えられたという出来事が、ヨハネ福音書では七つの奇蹟のうちの「最初のしるし(奇蹟)」として記録されています。「ブドウ酒」は旧約聖書の中ではメシア時代における「神の愛と恵み、民の幸福」を意味する比喩として繰り返し用いられています(エレミア31:12、ホセア14:8、アモス9:13-14など)。それは「神の祝福」を表しているのです。結論を先取りして言うならば、イエスが水を極上のブドウ酒に変えられたというのは、神の祝福が信じる者の上に豊かに注がれて、その人生が喜びと慰めに満ちたものとなるということを表しています。福音書記者ヨハネはこのエピソードを最初の奇蹟として記すことで、私たちのイエスを救い主として信じるこの人生は、「カナの婚宴」のようにどのようなピンチ(ブドウ酒が足りなくなる事態)がそこに生じたとしても、イエス・キリストのゆえに「セレブレイション(祝宴)」に変えられてゆくのだというヨハネ福音書全体の主題を提示したかったと思います。

 

最初のしるし(奇蹟)

 もう少しこの出来事を細かく見てゆきましょう。カナはガリラヤ地方の村です。イエスが育ったナザレから北に向かって14キロほど上ったところにあります。ガリラヤ湖畔の漁師町カファルナウム(イエスたちが主として活動したところ)からは西に向かって20キロと少しほど行ったところです。そこで開かれた婚宴にはイエスの母マリアも招かれていました。マリアの親族でしょうか、その地方ではなかなか有力な人だったのでしょう、イエスや弟子たちもまた招かれていたのです。

 しかしそこでブドウ酒が足りなくなるという危機的な状況が生じます。母マリアは(「マリア」という固有名はヨハネ福音書には出てこないのですが)イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と伝えます。それに対するイエスの言葉は極めて冷たく、どこか他人行儀的に響きます。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」4節)。イエスはそのように言うことで自分の母との人間的な関係を退けているように感じます。単に考えが違うということを言っているわけではありません。「わたしの時」「神の定めた時」は未だ到来していないということを人々に示しています。そう言うことでイエスは人々に神を見上げさせ、その救いのみ業を覚えさせているのです。何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時があると言われています(コヘレト3:1)。その「時」とはいつを指しているのでしょうか。それはイエスが自らの死によって神の栄光を顕す「十字架の時」なのでしょうか。あるいは、水を極上のワインに変えるというカナの奇蹟が完成する「終末の時」なのでしょうか。

イエスの母はイエスの言葉にひるむことなく、何事もなかったかのように召し使いたちに言います。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」。80-120リットルもの水がはいるほどの「大きな石の水がめ」が六つ置いてありました。ユダヤ人は生活の中でも清めの水を大切にしました。石ですからそれらは極めて重かったことでしょう。召使いたちの懸命な奉仕によってその水がめに水が注がれました。それがイエスの命によって宴会の世話役のところに届けられました。実に不思議なことに水は極上のワインに変わっていたのです。その背後には水がめに水を汲み、世話役のところにそれを運ぶという奉仕の業がありました。人生においてイエスに出会うということは、イエスにおける神の祝福を通して水が最高のワインに変えられたように、私たちの人生がイエスによってそのようなものへと変えられてゆくということを意味しています。そこには多くの人たちの執り成しの奉仕があることも覚えたいと思います。

 イエスは別のところで「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われました(マタイ5:13)。「地の塩になりなさい、世の光になりなさい」というのではありません。「あなたがたはそのままで地の塩、世の光なのだ。わたしの目には(神の祝福と恵みの中で)そのように見えている」と宣言してくださっているのです。私たちの耳には、先週聞いたみ言葉の「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というイエスの洗礼時の天からの声が、そこでは繰り返し聞こえてくるように思えます。「あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している。恐れるな、わたしはあなたと共にいる。水の中を通るときも、火の中を歩くときも、わたしはあなたと共にいる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ43:1-4、大柴要約)という声が。

 

美しい水の結晶〜真実の愛の業

 水の研究をしている江本勝という研究者が書いた『水は語る』という本があって、それを最初に読んだ時には少なからず驚かされました。著者はその本の中で様々な場所の水道水や湧水を採種して、特殊な仕方でその水の結晶の写真を撮って、それを比較して解説しているのです。そこには美しい結晶を見せる水もあればそうでない水もありました。塩素の含有量などで変わるようですが、さらに驚かされたことは同じ水でも「ありがとう」という良い言葉をかけるとその結晶が美しくなり、「ばかやろう」という悪い言葉をかけると結晶が崩れてゆくのです。実に不思議な出来事でした。確かに牛やワインにモーツァルトとの音楽を聴かせるとより美味しい牛乳が取れたり、味がよくなるということは聞いたことがありました。言葉そのものの持つ波動の力というのでしょうか、人間の身体も多くの水分によって構成されていますから(一般には人間の水分含有量は、胎児9割、赤ちゃん8割、子ども7割、大人6割、高齢者5割と説明されます)、良い言葉かけをしてもらうと私たちの体内でもより良い結晶が生じるということなのかもしれません。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とか、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」とか、「わたしはどのような時にもいつもあなたと共にいる」というような温かい言葉を聞くと、私たちが深く慰められ、支えられ、励まされてゆくのもそのことから説明することもできるのかもしれませんね。

水を極上のワインに変えられたお方は、私たちの人生をも味わい深いものに変えてくださると信じます。そのことを通して、アブラハムが神の恵みの選びによって「祝福の基/源」(創世記12:2とされたように、「土の器」である私たちをも「祝福の器」として用いてくださるのです。そのことを覚えて新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりに神の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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