2021年1月24日(日)顕現後第三主日礼拝 説教「初めに漁師が四人」 大柴 譲治 joshiba@mac.com
マルコによる福音書 1: 14-20
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(16-18節)
< 「十二人十二色」〜個性的な人もそうでない人もそれぞれの持ち味を生かして「人間をとる漁師」として用いるイエス >
本日は「顕現後第三主日」。典礼色は信仰の成長と希望を表す「緑」です。本日はマルコ福音書1章より最初の四人の弟子たちの召命(コール)の場面です。先週私たちはヨハネ福音書1章から最初の弟子としてフィリポとナタナエル(=バルトロマイ)の召命を読みました。それに対してヨハネ福音書以外の三つの福音書(「共観福音書」と呼ばれる)では最初の弟子は二組の兄弟たちと記されています。シモン・ペトロとアンデレ、ヤコブとヨハネです。彼らは皆漁師でした。その中でアンデレだけは、他の三人とは異なり、先週のフィリポ同様、あまり目立たないけれども周囲からの信頼が厚い穏やかな人物だったようです。ヨハネ福音書によればアンデレはイエスのところにその兄弟シモン、5つのパンと2匹の魚を持った少年、フィリポと一緒にギリシャ人らを連れてきた人物として描かれています。フィリポ同様、アンデレもまた伝道者としてのスピリットを持っていたと申し上げることができましょう。彼らは今風に言えば「癒やし系のキャラ」であったと思われます。それに対して、「岩(ケファ/ペトロ)」というあだ名を持つシモンと「雷の子ら(ボアネルゲス)」というあだ名を持つゼベダイの子ヤコブとヨハネは大変に強烈な個性を持っていた。だからそのようなあだ名がイエスによって付けられた。「十人十色」ならぬ「十二人十二色」であってみんな違ってみんな面白い!イエスは私たち一人ひとりをよく見ていて、各人の個性と賜物に応じて使命を与えてゆかれるのです。そのように私は思います。
< 初めの4人の漁師たちの召命 >
マルコ福音書はイエスの公の働きが洗礼者ヨハネの働きが終わったところから始まることを明確に告げています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(14-15節)。「時は満ちた」のです。洗礼者ヨハネは「荒れ野」に現れイエスの先駆者としての活動を始めました。ヨハネは人々に罪の赦しを得させるためにヨルダン川で「悔い改めの洗礼」を授けてゆくのです。ヨハネは自分は水で洗礼を授けるが「わたしの後から来られる方はわたしより優れた方」で聖霊により洗礼を施すと預言しています(1:8)。ヨハネに対してイエスは人々が住むガリラヤで宣教を始められました。神の国が近づいて来た様子が分かります。「悔い改めて福音を信じなさい」とは、神に立ち返り、神の備えてくださった福音(喜びの音信)を信じることを意味します。その基調音は「喜び」です。ともすれば困難なことばかりが目に入りますが、信仰者の生活の根底には通奏低音として喜びの和音/和声が響いているのです。私たちはこのことを忘れないようにしたいと思います。
<「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう。」>
イエスの呼びかけの言葉はとても端的でした。漁師であった彼ら四人には直接魂に深く響いたことでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。「人間をとる漁師」? 原語では「人間の漁師」となっています。謎のような言葉です。英訳聖書では「人間のための漁師」と訳すものもあります(NRSV)。シモンとアンデレの「二人はすぐに網を捨てて従った」とある(18節)。自分がこれまで大切にしてきた仕事道具をそれほど簡単に捨てることができるのか。ある意味で難しい決断を一瞬で彼らは行ったのです。「すぐに」とは「即座に」ということです。また、舟の中で網の手入れをしていたゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネも呼ばれたらすぐに「父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」のでした。「捨てて」とか「(後に)残して」とかいう言葉は凜とした響きがあります。しかし他方、実際にはベトサイダの村ではイエスと弟子たちはシモンとアンデレの家に泊まっていたようです。マルコ1:29-33によると、イエスはシモンのしゅうとめが熱を出したのを癒したり、その「戸口」(33節)に集まった大勢の苦しむ者たちを癒しました。漁師であった四人はすべてを捨てたわけではなかったのです。マルコは「すぐに」とここで二度記すことで何か大切なことを私たちに告げようとしている。それはそこに神の力が働いたということです。
それにしてもイエスの召し出しに彼らが即座に従い得たのはどうしてか。何も記されていませんが一つにはガリラヤでのイエスの評判が高かったことが考えられます。彼ら四人が漁師としての日々の生活に満足していたかどうかは分かりません。イエスは彼らの目の前に現れてまっすぐに見つめ、真正面から声をかけたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と(17節)。「人間をとる漁師」とは「人間をとらえて真の意味で生かす漁師」とも理解できます。それは人生の意義を端的に一言で示す言葉です。「わたしに従って来なさい」。この確かなイエスの言葉はあまりにも強烈で抗いがたいものであったと私は想像します。主の呼びかけの声の力が彼らの中に服従の行動を起こさせたのです。イエスこそにイニシアティブがありました。彼らには彼らで都合や優先順位があったと思います。しかし彼らはそれを置いてイエスの呼びかけに即座に応答し、イエスに服従してゆきました。「信仰(ピスティス)」とは、私たちを信頼して私たちに近づき、私たちを見つめ、確かな声で呼びかけてくださるイエスに服従してゆくことなのです。
<「人間をとる漁師」の意味 〜「神の道」を歩む喜びのネットワークに生きる >
信仰の詩人・八木重吉(1898-1927)に「神の道」と題される詩があります。「自分が この着物さえも脱いで 乞食のようになって 神の道にしたがわなくてよいのか かんがえの末は必ずここにくる」(『貧しき信徒』1929)。信仰には確かに、イエスの「神の道に従いなさい」という招きの言葉にすべてを捨てて応答しなければならない側面があります。イエスに服従する中ですべてが新しい光の中に輝き始めるのでしょう。マルコ10章には「金持ちの男」のエピソードがあります(10:17-31)。彼はイエスに「どうすれば永遠の命を受け継ぐことができるか」と問う。イエスが十戒を守るよう答えると彼はこう言うのです。「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(20節)。イエスは彼を「見つめ、慈しんで」言われます。「あなたに欠けているものがひとつある。行って持っているものを売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。あと一歩なのです。「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去ります。たくさんの財産を持っていたから」と言われます(22節)。財産の多さが服従を妨げたのです。イエスは続けます。「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」と(23節)。その言葉に驚く弟子たちにさらにイエスはこう告げられました。「金持ちが神の国に入ることよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(25節)。大変に厳しいエピソードです。弟子たちも互いに顏を見合わせこう反応します。「弟子たちはますます驚いて、『それでは、だれが救われるのだろうか』と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。『人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。』ペトロがイエスに、『このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました』と言いだした。イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(26-31節)。
私たちにはペトロの驚く気持ちが分かります。ペトロは私たちを代弁してくれている。しかしイエスはそのような私たちに「人間にはできることではないが、神にはできる。このことをあなたは信じるのか」と問うています。自分の力に頼ることを止めて、そこに働く神の力にあなたは委ねることができるのか。すべてを手放してあなたは神の道を歩むことができるのか。「自分が この着物さえも脱いで 乞食のようになって 神の道にしたがわなくてよいのか かんがえの末は必ずここにくる」(八木重吉)。自分の力ではできなくても、神の御業がこの身に現れるならばそれが可能となると信じます。
2018年10月にドイツのブラウンシュバイクを旅しました。釜ヶ崎活動50年ということでJELCとELKB宣教50年の節目を記念するために招かれたのです。その時、ドイツ人と結婚された一人の日本人女性から昼食時にこう問われました。「先生、どうしてイエスさまは最初の弟子として漁師をお選びになられたかご存知ですか。」「イエスさまは人間をとる漁師にしようと言われましたね。」「漁師は漁のために網を道具として使いますよね。」「そうですね。」「英語で言うと網はnet、仕事はwork。ですからイエスさまは弟子たちを網仕事(net-work)のために召し出したのだと思うのです。」「なるほど、確かにそうですね」。確かにイエスは私たちを「救いのネットワーク」の中に召し出してくださった。それは喜びの網仕事でもある。私たちが喜びの人生を送ることができるように。そのことを覚えて新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。 お一人おひとりに祝福をお祈りします。アーメン。