2019年8月18日(日)聖霊降臨後第10主日忍ヶ丘聖餐礼拝説教「地に火を放つ者」(於るうてるホーム)

2019年818日(日)聖霊降臨後第10主日忍ヶ丘聖餐礼拝説教 「地に火を放つ者」(於るうてるホーム)   大柴 譲治

エレミヤ書 23:23-29 

夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと、主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる。(28-29節)

ルカによる福音書12:49-56

わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。(49-50節)

 

驚くべき主イエスの言葉

 本日私たちは驚くほど厳しいイエスさまの言葉を聴いています。そこからは激しい息遣いと、強い憤りが伝わってくるようにさえ感じられます。「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(49-50節)。イエスさまがこの地上に投じようとする「火」? それは何を意味しているのでしょうか。

 本日は旧約のエレミヤ書23章から第一日課が選ばれていますが、そこにはこのような言葉があります。「わたしは、わが名によって偽りを預言する預言者たちが、『わたしは夢を見た、夢を見た』と言うのを聞いた。いつまで、彼らはこうなのか。偽りを預言し、自分の心が欺くままに預言する預言者たちは、互いに夢を解き明かして、わが民がわたしの名を忘れるように仕向ける。彼らの父祖たちがバアルのゆえにわたしの名を忘れたように。夢を見た預言者は夢を解き明かすがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は、忠実にわたしの言葉を語るがよい。もみ殻と穀物が比べものになろうかと、主は言われる。このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」(25-29節)。

 そうです、神の言葉というものは、固い岩を打ち砕く槌のようなものであり、偽の預言(ここでは「夢」と呼ばれていますが)を打ち砕き、真のみ言による預言を告げ、それを精錬する火に似ているのです。そこから見ると、主イエスの「地上に火を投ずるためにわたしは来た」という言葉は、十字架の苦難と死を通してこの地上に、神を信じるまことの信仰の火を放つために来られたということを明らかにしています。しかし、その火はまだ燃えておらず、それが既に燃えていたらどんなによかったかとイエスは嘆いておられるのです。イエスの十字架の死と復活を通してしか、その火はこの地上に放たれることはなかったということです。

 

『地に火を放つ者〜双児のトマスによる第五の福音』

 三田誠広という芥川賞作家に『地に火を放つ者〜双児のトマスによる第五の福音』(トレヴィル、1992)という作品があります。「ディディモ(双児)」と呼ばれた「疑いのトマス」の視点から、イエスとその弟子たちの生涯を描いた作品です。これは700ページ近くにもなる純文学の書き下ろし長編小説で、人間イエスと弟子たちをクロスさせながら劇的に描いた力作で、私は偶然その本を書店で手にした時に大変面白く感じて、入手後にアッという間に読み終えたことを思い起こします(1993年のことでした)。

三田誠広はキリスト者ではありませんが、谷町にある大阪教会の近く、大阪城の隣にある大手門学院の小中、大手前高校を経て、早稲田大学に進み、そこで体験した学生運動を元に書いた『僕って何』という作品によって1977年に芥川賞を取っています。宗教(キリスト教と仏教)に造詣が深く、この本以外にも『空海』や『日蓮』など仏教的な作品やキリスト教や仏教に関する入門書も何冊も書いている作家です。早稲田大学で教えた後、仏教系の武蔵野大学の教授として長く務め、現在は名誉教授となっています。

『地に火を放つ者』から最後の場面を引用したいと思います。ディディモ(双児)と呼ばれた疑いのトマスが復活のキリストと出会うことで大きく変えられてゆく場面です。トマスは復活のキリストによって自らの心の中に消えることのない火を放たれたのです。ちょうどモーセに燃える柴の中から神が語りかけて、その柴が燃え尽きることがなかったように(出エジプト3章)。復活のキリストがこの地上に放った火は愛なる神のご臨在を証しして、燃え尽きることがありません。

 

(以下引用)

 

その日も、トマスは一人で湖岸を歩いていた。よく晴れた日だった。風もなく、穏やかな陽射しが、湖面をキラキラと光らせていた。

「トマス、トマス・・・」

どこからか声が聞こえた。不思議な声だった。初めて聞く声のようでもあったが、また親しみ深い、懐かしい声のような気もした。

 周囲を見回して見たが、人の姿は見当たらなかった。訝(いぶか)っていると再び、声が響いた。

「トマス、ここだ。おまえの頭の上だ」

はっとして、頭上を振り仰いだ。

真っ白な衣を着た人の姿が、空中の遙かな高みに浮かんでいた。陽射しが眩(まぶ)しくて、まともに空を見上げていることができなかった。顏の見分けもつかなかった。だが、空に浮かんでいるのが、男だということは、すぐにわかった。

「トマス、覚えているか。荒れ野で初めて出会った日、背丈より高く飛べたら、神として拝んでやる、とおまえは言ったな」

弾んだ声で、男が言った。どことなくいたずらっぽい感じの男の微笑が、目に見える気がした。いかにも自慢げに、男は言った。

「おれは、神になった」

トマスは湖岸の小石の上に跪(ひざまず)き、掌(て)を合わせて祈った。涙で目が潤み、何も見ることができなくなっていた。

「見ただけで信じるのか。おまえらしくないぞ」

耳もとで、声が聞こえた。瞬(まばた)きをして、目の前を観ると、手の触れるほどの近くに、男が立っていた。

男が手を伸ばして、トマスの手に触れた。

「さあ、触れてみよ。疑いのトマス。あまえは手で触れたものなら信じるだろう」

言われるままに、男の手を握り返したトマスは、びくっとして、目を瞠(みは)った。

男の手首に、深い穴が開いていた。十字架に打ちつけられた釘の痕に間違いなかった。トマスは自分の手首に、痛みが甦(よみがえ)るのを覚えた。思わず引っ込めようとしたトマスの手を、男が掴み、衣をはだけて、自分の胸のあたりに押しつけた。槍(やり)で穿(うが)たれた穴の痕があった。トマスはまるで、自分の手で自分の胸に触れた気がした。その胸の奥で、熱いものが、いまも燃えていた

何か言おうと思ったが、言葉にならなかった。トマスは息を喘(あえ)がせながら、男の胸に顏を埋めた。

男が、トマスの肩を抱き、顏を近づけた。男の吐く息が、トマスの顏にかかった。

「おれの口から、おれの息吹を吸え。おれはおまえになり、おまえはおれになる。そして隠されていたものが、おまえのうちに現れる。それがおまえの十字架だ」

声が、どこか遠くから響いた。トマスは慌ててあたりを見回した。男の姿は消えていた。穏やかな陽射しが頭上から降り注ぎ、ガリラヤ湖の湖面が、微(わず)かに波を立てていた。

幻を見たのか、とトマスは胸のうちで呟(つぶや)いた。

トマスは目の前に、自分の手を差し出した。痛みがあった。よく見ると、その手首に、傷痕のようなものがあり、うっすらと血が滲んでいた。

トマスは自分の胸を手で探った。そこにも傷痕があり、火のようなものが燃え盛っていた

これが自分の十字架なのだ、とトマスは思った。自分が体験したこの出来事を、一刻も早く、使徒たちに告げなければならない。

トマスは身を飜(ひるがえ)し、カペナウムの町に向かって、足を急がせた。

 

(『地に火を放つ者』P687-689より引用。なお下線は大柴が加筆。トマスの中にキリストの放った火が燃えたことが分かります。)

 

疑いのトマスのように私たちも人生の中でイエス・キリストというお方に出会うことを通して、聖霊の火を放たれてきたし、今もその火が心に燃え続けているのだと申し上げることができましょう。

お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年8月15日 (木)

2019年8月11日(日)聖霊降臨後第9主日聖餐礼拝説教「人生の午後の時間のために」 

2019年811日(日) 聖霊降臨後第9主日聖餐礼拝 説教「人生の午後の時間のために」    大柴 譲治 joshiba@mac.com

創世記 15:1-6 

主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(5-6節)

ヘブライ人への手紙 11:1-38-16

信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。・・・信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです。(1節、8節)

 

「信仰の父」アブラハムの信仰

 本日私たちは「信仰の父」と呼ばれたアブラハム(旧名アブラム)のエピソードを旧約聖書の日課から聞いています。そして使徒書の日課からは、あの有名なヘブライ書11章の「信仰の定義」を聞いているのです。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(11:1-3)。信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること! その通りです。しかし少し言葉を補っておいた方がよいと思われます。聖書を自分に引きつけて受け止めると聖書の意図とは少し違う意味になってしまことがあるからです。「信仰(ピスティス)」とは日本語では「信じて仰ぐ」という私たち人間の側の行為がそのまま漢字になっていますが、第一義的にそれは人間の業ではなくて神の御業です。私たちの中で働く神の御業、それが「ピスティス」なのです。そしてその神の御業に応答するのが私たちの側の信仰です。ですから、「信仰」とは、神が私たちに望んでいる事柄を確信し、神の見えない恵みの事実を確認することなのです。昔の人たちは、このような信仰のゆえに神に認められました。

 ヘブライ書11章の8節から16節まではアブラハムについて記されています(引用略)。そこではアブラハムは「行き先も知らない」で神の命に従って出発したとあります。時間もなく、目的地が定かでないにもかかわらず出発しなければならなかったということは、よほどのことだったと思われます。様々な理由から故国を追われて避難する「難民」と同じです。しかもそれはアブラハムが75歳という高齢の時でした。そのことは創世記12章に詳しく記されています。

 私たちは75歳で、それまで慣れ親しんできた土地を捨てて、行き先も知らないで旅立つことができるだろうかと思います。しかも財産や家族を可能な限り守りながら、持ち物のかなりの部分は捨てざるを得ないという状況でありましょう。私はこの大阪に3年と5ヶ月前、59歳で着任しました。ある意味で、アブラハム同様に、行く先を知らないで旅立ってきたのかもしれません。人生にはそのような「転機」であり「節目」と呼ばなければならないような時があります。いや、実は私の場合は全く違っています。私の場合は、大阪教会に着任することを知って大阪に足を運んできましたが、アブラハムの場合はどこが目的地になるか分からない中で、そしていつその旅が終わるか全く分からない中で、神を信頼し、すべてを神に委ねて神の召しに従って第一歩を踏み出していったのです。目的地を知っているか知らないかでその覚悟は全然違います。財産を処分し、家族を連れてアブラハムは生まれ故郷のハランを捨てて旅立ったのでした。

 何か人間的な意味で必然があったのでしょうか。理由があったのでしょうか。聖書は人間的な事情については何も語りません。ただ端的にこう伝えているだけです。本日の旧約の日課である創世記15章です。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。『恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。』アブラムは尋ねた。『わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。』アブラムは言葉をついだ。『御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。』 見よ、主の言葉があった。『その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。』主は彼を外に連れ出して言われた。『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。』そして言われた。『あなたの子孫はこのようになる。』アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:1-6)。その神の約束が成就したのはアブラハムが100歳、妻のサラが90歳の時でした。故郷のハランを出て既に25年が経っていました。

 さらにアブラハムは、「イサクを捧げよ」という神の理不尽な命にも、即座に、黙って服従しています(創世記22章)。本当にアブラハムはすごい! 「信仰の父」と呼ばれるだけあると私は心底思っています。私たちにとって一つの信仰者のモデルがはっきりとそこに提示されています。では、アブラハムの信仰にどのような点で私たちは学ぶことができるでしょうか。

 

「人生の午後の時間」は「魂を豊かにしてゆく時間」

 スイス人の精神分析医でありフロイトの弟子でもあったカール・グスタフ・ユングという人がいます。彼は東洋的なものの研究も極めていて興味深い人です。ユングは面白いことをたくさん述べているのですが、その一つに「人生の正午」という考え方があります。人生を大きく四つに分けて、午前と午後の時間があるというのです。例えば人生を100年とすると、25年ずつ四つの時期に分けることができましょう。アブラハムは75歳でハランを旅立ったのですから、ちょうど第四期を旅をもって始めたということになります。人生を「春夏秋冬」という四期に分けたり、あるいは五木寛之のようにインドのヒンズー教の考え方から学んで、人生を「学生期(がくしょうき)」「家住期(かじゅうき)」「林住期(りんぎょうき)」「遊行期(ゆぎょうき)」といやはりう四つの時期に分ける考え方もあります。

 ユングの「人生の午後の時間」に戻りましょう。ユングは人生の午前中に私たちは、よく学び、よく遊び、よく仕事をし、家族を築き、子育てをし、社会的に責任を果たすなど、「行為(Doing)の次元」で頑張らなければならない時機を過ごすと言うのです。確かにその通りです。しかし正午を過ぎて午後の時間に入ると、それらDoingの次元は一段落し、今度は別の次元が始まるのです。彼は「人生の午後の時間」を「魂を豊かにしてゆく時間」と言うです。それまで行為(Doing)の次元で頑張っていたのを、今度は存在(Being)の次元でそれを豊かにするように務めなければならなくなるのです。魂を豊かにする、それが大事というのです。その通りであると私も思います。人生の午後の時間は、死を前にして自分の人生を統合し、まとめてゆかなければならない時間でもあるからです。自己の存在(Being)そのものを豊かにしてゆくことを通して、魂を豊かにするということを考えなければならない時なのです。私は神に徹底的に服従した「信仰の父」アブラハムを想起する時、どうすれば魂を豊かにしてゆくことができるのかについての有益なヒントがあると思うのです。

 創世記は私たち人間は「神のかたち(似姿/イメージ)」に創造されていると宣言しています。これは私たち人間が神との人格的な応答関係の中に生きるように最初から造られているということを意味しています。ちょうど方向を示すコンパス(磁石)が地球の弱い地磁気に反応して北を指してピタッと止まるように、私たちの魂も神さまの方を指してピタッと止まるように最初から定められているのです。それはアウグスティヌスが『告白』という本の最初にこのように語っている通りです。「神よ、あなたは私たちをあなたに向けて造られました。それゆえ私たちの魂(心)は、あなたのうちに安らうまでは魂の平安を得ることはできないのです」と。

 75歳になったアブラハムが神の命に従って行く先も知らないで出発したことも、イサクを捧げよという神の命令に服従したのも(主の山には代わりの備えがありましたが)、与えられた自分の人生を神の前に豊かに保つためでありました。神の命に服従すること、そこに人生を本当の意味で豊かにする生き方があると聖書はアブラハムの人生を通して私たちに告げています。そのことを覚えて感謝したいと思います。「信仰」とは「神が私たちにおいて望んでいることが実現し、神の見えない恵みの事実を確認すること」であるからです。75歳、85歳、100歳でも神は私たちを生かし、その救いのご計画の中で用いてくださいます。何とすごいことでしょうか。 お一人おひとりの上に神の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。アーメン。

2019年8月 5日 (月)

2019年8月4日(日)平和主日聖餐礼拝説教「平和の砦を築く」

2019年84日(日)平和主日聖餐礼拝 説教 「平和の砦を築く」    大柴 譲治 joshiba@mac.com

エフェソの信徒への手紙2:13-18

実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。(14-16節)

ヨハネによる福音書15:9-12

わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。(12節)

 

「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」

 8月という月は私たちにとっては特別な月でもあります。過去を振り返り、様々な歴史的な出来事を深い悲しみと共に思い起こし、私たちの心に刻む月だからです。毎年8月の第一日曜日を私たちの教会は「平和主日」として守ってまいりました。先の太平洋戦争は私たちの心に癒えることのない傷跡を残しました。「ヒロシマの日」である8月6日、「ナガサキの日」である9日、「敗戦の日」である15日。8月は私たちにとって「過去の出来事を想起して心に刻む」大切な月であり、戦争によって生命を奪われていった人々を覚える鎮魂の月なのです。

 私は特に最近足を運んだ二つの場所を思い起こしています。一つは、617日(月)〜19日(水)に西地域の教職退修会(=牧師会。12名)で福山を訪問したことです。もう一つは、78日(月)〜10日(水)にJELC教区長会(=人事委員会。8名)で沖縄を訪問したことです。沖縄訪問はなかなかスケジュール的にも内容的にもハードな平和学習セミナーとなりました。

 福山のことから話を始めましょう。福山は私の初任地で、33年前に神学校を卒業して三原教会での牧師按手の後、19864月から9年牧会した思い出深い場所でもありました。私の三人の子どもが生まれて七五三(歳)まで育った地でもあり、私の胸には様々な思い出が走馬灯のように去来しました。今回は牧師会でしたから、私を含めて福山教会歴代の歴代牧師たちが4人も一堂に会するという歴史的な瞬間でもありました。松木傑先生(1979-86)、大柴(1986-95)、鈴木英夫先生(1995-2000)、そして現任の加納寛之先生(2017-現在)の四人です。福山教会からも5人の信徒が集まってくださり、聖壇で歴史的な記念写真を撮りました。目に見えるかたちで、歴史を超えた「神の聖霊」による「複数共同牧会」の継承がそこに示されたのだと思います。

 そして福山教会の聖具庫で一枚の碑文のコピーを見つけました。1995年に私が残していったものでした。ヒロシマ平和公園に刻まれた「安らかに眠ってください 過ちは繰返しませぬから」というこの碑文です。当時西教区には「平和と核兵器廃絶を求める委員会」(略称「PND委員会」)という常置委員会があって、平和のために活動をしていたのです。毎年5月には広島平和セミナーを実施しましたし、8月の平和主日のための礼拝式文なども発行しました。丸木位里・俊画伯の平和祈念巡回展(1988)、韓国巡礼の旅(1991)など、10年間の活動の記録が1992年に報告書としてまとめられています。そのような平和活動を通して、戦争、特に原爆の犠牲者のことを覚えつつ、二度と戦争という「過ち」を繰り返さないという誓いを毎年新たにしていたのです。本日週報ボックスに入っている『るうてる』8月号の議長コラムでもそのあたりのことを書かせていただきました。

 沖縄ではさらに具体的な戦争の現実と向かい合うことになりました。大阪教会の前牧師で現在JELC事務局長の滝田浩之先生は琉球大学の卒業ですので、沖縄のプログラムはすべてお任せしました。宜野湾セミナーハウスを拠点にして、丸木位里・俊画伯の『沖縄戦の図』が収められている佐喜真美術館を訪問したり、辺野古の埋め立てに反対をしている現場に実際に足を運んでお話を伺ったり、普天間基地の前でオスプレイの配備に反対する「沖縄ゴスペルを歌う会」に参加させていただいたり、オスプレイの部品らしいものが空から園庭に落ちてきた普天間パブテスト教会の牧師で付属緑ヶ丘保育園の園長でもある神谷武宏先生のお話しを伺ったり、1945年に住民139名中82名の集団自決(集団死)事件が起こったチビチリガマに足を運んだり、大変にハードで心が痛む重たい三日間を過ごしてきたのです。沖縄では24万人の人々が貴い命を奪われています。

 そのような場で、今日、私たちはエフェソ書2章の言葉を聞いています。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(2:14-16)。キリストこそ私たちの平和であって、十字架によって「平和」と「和解」を実現し、「敵意」を滅ぼしたと宣言されています。

 「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない」。これはユネスコ憲章(1946年)前文の冒頭の言葉です。私はヒロシマとナガサキを訪問するたびに、そして今回オキナワ訪問を通して、再び過ちを繰返さないためにも、心の中に「平和の砦」を打ち立てるべき決意を新たにさせられます。自分がそのためこれまで何ができたのかと振り返る時、何もしてこなかったのではないかという忸怩たる(恥ずかしい)思いにもなりますが・・・。粘り強く平和と和解のための祈りを捧げてゆきたいのです。

 ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世は、1981225日にヒロシマを訪れて『ヒロシマ平和アピール』を公にされました。「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」という言葉で始まる平和アピール、その中で教皇は繰り返し「過去をふり返ることは、将来に対する責任を担うことです」と語られました。そうです、私たちは新しい未来を築いてゆくために歴史を思い起こし、過去の過ちを忘れぬように、自分自身の心に刻み続けるのです。今年の11月にはフランシスコ教皇が来日され予定と聞いています。教皇はやはりヒロシマとナガサキを訪問することになるようです。教派や宗教、思想や立場の違いを越えて、私たちも和解と平和のために相互に連帯をし、祈りと力を合わせてゆかなければなりません。

 

剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とするために

 愛の乏しい現実の世界の中で、キリストの十字架が立ち続けています。十字架はキリストの真実の愛と平和のシンボルです。そして今、私たちがキリスト者として立てられているということは、神の愛を実現してゆくために立てられているのです。それは私たち人間の力でできることではありません。キリストの愛の力が私たちを捉え、私たちを変え、私たちを押し出してゆくときに実現してゆくのです。しかしそれはまた、人間の力なしにできることではありません。キリストがその愛を実現するための手足として、道具として私たちを用いてくださるのです。ミカ書やイザヤ書が預言するように、この地上で、この現実の世界の中で、具体的に私たちは神によって「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」ために用いられてゆくのです。

 イエスは言われました。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と(ヨハネ15:12)。十字架によって人間の敵意は滅ぼされています。主はひと言も自分を十字架に架ける者たちに対して復讐の言葉、呪いの言葉を発せられませんでした。むしろこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか知らないでいるのです」(ルカ23:34)。このような本物の愛に触れて心揺さぶられない者はいないでありましょう。「キリストこそ私たちの平和」、という宣言は、キリストの愛がすべてに対して勝利したことを伝えています。愛は憎しみよりも、死よりも強いのです。たとえどのような苦しみ悲しみが私たちを襲おうとも、私たちをキリスト・イエスにおける神の愛から引き離すものは何もないのです。

 

聖餐への招き

 今日も私たちは聖餐式に招かれています。これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約。そう言って十字架に架かられる前日に弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれた主イエス・キリスト。「わたしの愛にとどまりなさい」と言ってくださったキリストの愛が私たちの心の中に、そして私たちの間に、「平和の砦」を築いてくださいますように。そのことを覚えながら、ご一緒に聖餐式に与ってまいりましょう。お一人おひとりの上に平和の主の祝福が豊かにありますように。アーメン。

2019年7月28日(日)聖霊降臨後第7主日礼拝説教「祈り、父の愛」

祈り、父の愛             竹田大地

 

ルカによる福音書 11:1−13

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。 2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。 3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。 4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」 5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。 6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』 7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』 8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。 9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。 11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。 12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。 13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

祈りは、キリスト者の生活において欠かすことのできないことがらです。その私たちに欠かすことのできない大切なことである祈りについて教えてくださっているのが、今日与えられている御ことばです。イエスは、弟子たちにこう祈りなさいと語られた後に、譬え話を通して祈りにおける私たちの姿勢、在り方について教えられています。

 

主イエスは、「彼の図々しさに、彼は起き上がって、彼の求めるものをいくらでも与えるようになるだろう」と語られました。神に祈る時、「厚かましく」「厚顔」「図々しく」、英語であれば「shamelessness」であれと主イエスは語られるのです。このことに驚かされるのではないでしょうか。なぜならば、私たちは祈りというと、心を静めて、品行方正に神の御前にあって、言葉においても細心の注意を払いながら祈らなければならないと考えているからです。また、私は、あの人よりも信仰的にも、信仰歴的にも乏しいので、あの人みたいに祈ることはできない。また、祈祷当番に相応しい人は、役員、毎週礼拝に来ている人だと考えていないでしょうか。

 

しかし、主イエスはむしろそういった事がらとは真逆のことを教えています。神の御前で恥知らずであること、厚顔無恥であることが示す御心とは何でしょうか。恥ずかしい人間でありなさいという主の御ことばに聴きながら、神と人という関係性に思いを向ける時、私たちはまさに神の御前に恥ずべき存在であることに気が付かされます。アブラハムは、そのような人間の本性を承知していました。だからこそ神に「塵あくたにすぎないわたしです」と告白しながらも「あえて、わが主に申し上げます。」と神にソドムへの滅びの御手を思い直すように願い求めました。

 

ここに神に祈ることの本質が示されています。私たちは、天地創造に示されているように塵から形づくられた者でしかありません。天地創造には「土の塵で人を形づくり」とありますが、「土の塵」です。すべての生物が踏みしめる土です。その土の塵です。最も小さなものを集めて神は私たちを形づくったのです。この真実を見つめるならば、私たち人間の高慢さ、傲慢さは計り知れません。自然をコントロールできると思い込んでいます。未知のエネルギーすらもコントロール下にあるから安心してほしいと宣います。社会においても、上下関係、損得勘定などの中で、人が人を蹴落としたり、陥れたりしている姿を目の当たりにします。

 

そのような世の姿を見つめながら、神が私たちに望んでいる姿がどのような在り方なのかを知らされています。そして、これを客観視するのではなく、お一人おひとりが自戒と自己批判をし、この神の御心に沿えていない現実を見つめ、本当に人間が立つところは、最も低い所であることを覚えたいと思うのです。

 

詩編136編には「6主は高くいましても/低くされている者を見ておられます。遠くにいましても/傲慢な者を知っておられます。」という御ことばが記されています。主は見ておられる。主は、高慢な私を知っておられる。いと小さき私を見つめ、私の罪深さを知っておられる神が在る。その神に、願いを聞き入れてもらうにも価しない私だけれども、その恥を承知で、図々しくも神に祈る者であるのです。信仰深いからでも、信仰歴が長いからでも、礼拝出席の出席率が良いから、祈ることが出来るのではありません。

 

祈りは、いつでも罪深く、高慢で、厚顔無恥な私ですという実存を投げうって大胆に神に「神よ」「主よ」と語り掛けることなのです。詩編を今、毎週の聖研で学んでいますが、まさにそのような人間の大胆な祈りがそこかしこに記されています。罪の闇の中から、もっとも低い所から叫ぶ者の祈り、願い、感謝が滔々と、切なる声、祈りがそこかしこに記されているのです。

 

ですから「塵あくたにすぎない」「図々しさ」とは、ただ単にそういう存在であるということではありません。この事がらに示されていることは、神の御前においての真の謙遜からあふれ出る在り方だということです。その人間の在り方を知らされて、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」という御ことばが真実であることに気が付かされます。

 

真に私たちは悪、罪人です。しかし、父が子を愛し、子に良い物を与えるように、ましてや神は求めるものに、「聖霊」とあるように、神ご自身を賜ってくださるのです。等価交換ではありません。私たちのどんな献げ物、祈りの言葉よりも貴く、価高い宝を私たちに与えてくださるのです。それが十字架の贖いと復活の救いです。祈りにおける私たち自身の在り方を見つめながら、その神との対話の応えは、余りある、溢れるほどの恵みと救いの確かさが与えられているという真実に気が付かされます。

 

祈る者に資格はいりません。等しく私たちは神の御前に「塵あくた」最も小さき者でしかありません。取るに足らない、救いに値しない私の「救われたい」「救ってください」という切なる心からの祈り、叫びを神は聴きいれてくださっています。この罪人の図々しい祈りを神は聞き届けてくださったからこそ、御子イエスを遣わし、この祈りを現実に聴き入れ、成し遂げてくださったことを十字架の死と復活によってお示しくださったのです。

 

そういう意味で、礼拝においてこうして神と出会う出来事に与ることは大切なことです。はじめに礼拝出席率がなんだは関係ないと言いましたが、それでも礼拝において神と出会うことがなければ祈りは与えられないでしょう。なぜならば、礼拝で与えられる御ことばを通してこそ、私たちは、罪深さ、傲慢さを思い知らされるからです。この神との出会いは、礼拝でこそ感得されるものです。普段の生活で、私たちは神を忘れます。神と出会っているはずの日常に神を見出すことが出来なくなってしまうのです。それもまた私たちの罪がそうさせています。

 

そのことを御ことばを通して知らされて、罪人であるという真実に打ちのめされながら、「図々しく」も神に祈る幸いを与えられています。そして、祈りを神は無価値な私であるにも関わらず、本当に貴く、価高い賜物によって生かしてくださっています。神から賜る善きもので満たされている命の日々であることに喜びと希望をもって参りましょう。大胆に神に祈る者として新しい日々を歩んでまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

2019年7月21日 (日)

2019年7月21日(日)聖霊降臨後第六主日礼拝説教「マルタとマリア」

2019年721日(日) 聖霊降臨後第六主日礼拝説教「マルタとマリア」     大柴 譲治

ルカによる福音書 10:38−42

主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41-42節)

 

マルタとマリア

 本日は有名な「マルタとマリアのエピソード」です。これもまた一度聞いたら忘れることができないほど印象的なエピソードで、必要な言葉を用いて事柄を明確にするイエスさまの力量がよく示されている話であります。この出来事は先週与えられた「よきサマリア人のたとえ」同様、ルカ福音書だけに出てくるエピソードです。特に「よきサマリア人のたとえ」が「あなたも行って(サマリア人と)同じようにしなさい」という明確な愛の命令を含んでいましたので、その直後にこのマルタとマリアのエピソードが置かれていることは、バランスというものを考えるためにも、とても意味深いものであると思われます。

 

二人の対照的な姿

本日の福音書の日課に登場するマルタとマリアという一組の姉妹は、ある意味対照的な存在でした。姉のマルタは、いかにも長女らしく、イエスをもてなすためせわしなく立ち働いています。マリアはと言えば、主イエスの足もとに座ってじっとイエスの話に聞き入っていました。最初はマルタも気にしなかったのですが、次第にそれがいかにも度が過ぎると感じたのでしょう。奉仕をしないマリアを不公平と思ったのでしょう、マルタはイエスのそばに近寄ってきて言います。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。私たちはこのマルタの気持ちがよく分かります。自分だけ忙しくしているのに、マリアは何もしていない。こんな不公平があってよいのだろうか。マリアにも手伝ってもらいたいのに。

それに対する主の答えはマルタをハッとさせるものでした。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41-42節)。主が「マルタ、マルタ」とその名前を二度も繰り返して呼んでいるところに、イエスのマルタに対する慈しみの深さを私たちは感じます。それは優しく諭すような言い方であって、決して彼女を非難するような口調ではなかったに違いありません。

 

「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」

私はこのエピソードを読むたびに、自分の中にはいつもマルタとマリアの二人がいて、自分は両者の間を行きつ戻りつしているのではないかという思いになります。マルタだけ、マリアだけが、どちらか片方だけがいるのではありません。両者が同居している。それが大事なのではないかと感じています。信仰者には、①「一生懸命に他者のために奉仕しようとするマルタ的な部分」と、②「要所要所でイエスのみ言にキチンと聽いてゆこうとするマリア的な部分」の両面が求められていると思うからです。要はバランスなのかもしれません。私たちは、マルタ的になるとマリア的なものを忘れてしまいがちになりますし、マリア的になるとマルタ的な部分を忘れてしまいがちになってしまいます。「正反合という弁証法」(「守破離」とか「序破急」という語もありますね)ではないですが、マリア的なものとマルタ的なものを同時に行きつ戻りつしながら、ある意味ではバランスよく、それらを統合してゆく弁証法的な生き方ができればと思っているのです。ちなみに

特に先週の「よきサマリア人のたとえ」では、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という垂直方向の神に対する第一の戒めと、「隣人を自分のように愛しなさい」という水平方向の隣人に対する第二の戒めの二つを、バラバラに引き離してしまったことが問題でした(祭司とレビ人)。「よきサマリア人」とは私たちを深く憐れんでくださるイエス・キリストご自身の姿を表していますが、イエスはここで「隣人を自分のように愛すること」の中に「すべてを尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」という垂直な戒めをクロスさせるよう私たちに命じているのです。「神を愛すること」「永遠のいのちを得ること」は、具体的に日々の生活の中で「隣人を自分のように愛すること」抜きには、そこから切り離されては成立しないとイエスは宣言しておられるのです。目に見える隣人を自分のように大切にすることが、目に見えない神を大切にすることでもあるのです。

マルタとマリアのエピソードも同じです。イエスのみ言にひたすら耳を傾けるマリアの姿と隣人愛の奉仕に精を出すマルタの姿は、バラバラなのではなく、キチンとクロスして結び合わせられる必要があるのです。マリアとマルタは、一人の信仰者の生き方の両面を表しています。コインの表と裏が区別はできても分離はできないのと同じように、私たちはマルタ的な生き方をしていても繰り返しみ言に聴こうとするマリア的な生き方へと呼び戻されるのです。私たちが週の初めの日にこのように主日礼拝に集うということはそのようなことでもありましょう。

 

インドのマザーテレサの修道会での「9-5時」と「5時-9時」

 今浜松教会で牧師をしている渡邊克博先生が神学生の頃、るうてるホームに住み、この大阪教会でインターンをされました。彼は神学生の時代に三度も、インドのマザーテレサの修道会を訪ねて、ボランティア体験をしています。今回も米国のサウスカロライナシノッドを訪問するメンバーの中に渡邉先生もおられたのですが、それはなかなか凄い体験であったと思います。貧しい人々のために徹底的に仕えてゆく修道女たちの姿は、私たちの心に響きます。しかしそんな体験をした渡邉神学生が神学校の中で面白いことを伝えてくれました。シスターたちは実は献身的に奉仕をするのは浅野9時から夕方の5時までだそうです。その姿勢には本当に頭が下がるのだそうです。しかし夕方5時になると、「では皆さん、また明日の朝にお会いしましょう」と言って、修道院の重たいドアをバタンと閉めて、修道院に入ってしまうそうです。そしたら翌日9時までは、どんなことがあってもそこから出てこないのだそうです。「9時から5時まで」は貧しい隣人に徹底的に仕える生活をするのですが、「5時から9時までは」自分のための祈りとミサとみ言の生活をするのです。「外的奉仕のための内的集中の時間」(ボンヘッファー)ということになりましょう。「9時5時がマルタ的、5時9時がマリア的」と言ってもよいかもしれません。マリア的な自分を見つめて自分に力を与えられる時間があればこそ、マルタ的な隣人への奉仕をし続けることができるのです。このことは対人援助職についている人にとても大切なことを教えてくれているエピソードだと思います。「隣人に仕える外的奉仕の時間」と、「み言に聴き、自分自身をケアするための内的集中の時間」とのバランスが求められているのです。私たちは「隣人を自分のように大切にしなさい」という戒めを聞いています。隣人を大切にするためにも、自分自身を大切にしなければならないのです。

イエスはこうも言われています。「だれでもわたしに従って来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」と(ルカ9:23)。そのことは「自分を粗末に扱ったり」「自分をいじめたり」「自暴自棄になる」こととは全く違います。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛されたのです。イエス・キリストを派遣するほどこの世を愛し大切にされたのです。その無条件で無償、無限である神の愛を知り、その愛が自分に豊かに注がれていることを知る時に、私たちは喜びの中で他者とそれを分かち合いたくなるのです。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。このイエスの言葉は私たち自身のために告げられている言葉です。多くのことに思い悩み、心を乱してばかりいる私たちかも知れません。しかしそのような中にあっても私たちにはみ言を通して「なくてならぬただ一つのもの」を示され続けるのです。それは生ける神の子であるイエス・キリストに聴き続けることであり、主の確かなみ声に耳を傾け続けることです。そのことを思い巡らせつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。  お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

2019年7月14日 (日)

2019年7月14日(日)聖霊降臨後第五主日礼拝説教「友として選ばれる」

2019年714日(日) 聖霊降臨後第五主日礼拝 説教「友として選ばれる」   大柴 譲治

ルカによる福音書 10:25−37

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」 そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(36-37節)

 

「よきサマリア人のたとえ

 本日は有名な「よきサマリア人のたとえ」です。これは一度聞いたら忘れられないほど印象的な話で、ストーリーテラーとしてのイエスの力量がよく示されています。このたとえはルカによる福音書だけに出てくるエピソードで、マタイ、マルコ、ルカを一年毎に読む現在の三年周期の日課によれば三年に一度登場するたとえになります。ルカ福音書にはこの他にも「マルタとマリアのエピソード」(10章)や「放蕩息子のたとえ」(15章)、「金持ちラザロのたとえ」(16章)や「徴税人ザアカイのエピソード」(19章)など、印象に残る記事がたくさん出て来ます。ルカは医者でしたから優れたギリシア語で、弱い立場に置かれた者に対して深く共感的な記事をたくさん記録しているのです。

 

「対話の名人」としてのイエス

 本日の「よきサマリア人のたとえ」は、そのたとえに至るまでの前段階があります。25節から28節までです。それは一人の律法の専門家(律法学者)とイエスとのやりとりです。イエスは実に対話名人、やりとり名人であると言えましょう。それは「永遠の命」を巡る次のような問いかけから始まります。会話記録風に書くとこうなります。

 

専門家1:「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

イエス1:「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」

専門家2:「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、

また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」

イエス2:「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 これはこれで見事なやり取りであり、主題としては完結しています。当時のユダヤ教では律法の中で最重要の戒めは、その律法の専門家が言った二つに要約できると考えられていました。しかし彼の目的は「イエスを試すこと」でした。すなわち彼がイエスに近づいた目的は、イエスがどれだけ律法に通じているかを知って、同時にイエスの知識の限界を明らかにすることでした。イエスの語ることはいつもとても具体的です。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば(永遠の)命が得られる」(27節)。「ただ知識で知っているだけではダメだ。あなたは具体的にそのように生きなければならない」と命じているのです。ある意味で、自らの知識を誇っているその律法学者に対する痛烈な皮肉であり的確な批判です。しかしこのことは、律法学者のみならず、私たちすべての信仰者に当てはまる事柄です。「信仰」とは知識ではなく、生き方だからです。「愛する」とは「大切にする」と言い換えてもよい語ですから、そこでは「すべてを尽くして主なる神を愛しているか」「自分のように隣人を大切にしているか」が問われているのです。

 

「わたしの隣人とは誰か」

 すると律法の専門家も負けていません。「自分を正当化」しようとして、イエスにチャレンジし続けるのです。「では、わたしの隣人とはだれですか」(29節)。彼は「イエスの限界を明らかにするためには、我ながらいい質問だ」と思ったかもしれません。イエスがどのように答えるか恐らく予想はついていたのでしょう。しかし彼の予想は完全に裏切られました。そこでは全く意表を突いた「よきサマリア人のたとえ」が語られたのです(30-35節)。強盗に襲われて半殺しにされ倒れている人のところに三人の人が次々と通りかかります。祭司、レビ人、サマリア人の三人です。最初の二人は宗教家であるにもかかわらず(実は宗教家であればこそ「血を流すものや屍体など、汚れたものに触れてはならない」という厳格な律法の縛りの下にありました)、傷ついた旅人を助けることをしません。むしろ道の一番遠い所を通って通り過ぎて行くのです。少しでもその「けがれ」に近づかないようにでしょうか。しかしサマリア人は違いました。33節には彼は「その人を見て憐れに思った」とある。「憐れに思う」とは、単に「同情する」とか「憐憫の情を持つ」とは違います。それは「内蔵」を意味する語に由来し、字義通りには「断腸の思い」「はらわたのちぎれるような思いを持つ」ということです。その人の痛みを自分のはらわた(中心)で受け止めるということです。そして彼は傷ついた旅人を介抱します。医者ルカならではのきめ細やかな記述で報告されています。「近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(34節)。それだけではありません。翌日になるとデナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言うのです。「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います」(35節)。その介抱は徹底しています。しかし実は彼は無理してはいないのです。自分にできる範囲内で傷ついた旅人を介抱し、自分にできないことは宿屋の主人に託して自分の仕事に戻って行くのです。このことを心に留めて置きたいと思います。自分のできる範囲内でサマリア人はその人を助けています。

 ユダヤ人とサマリア人は、歴史的にはもともとは同族だったのですが、当時は既に近親憎悪的に犬猿の仲になっていました。ユダヤ人の間では「サマリア人」という言葉を口にするのもはばかられるという感じがあったのでしょう。「あなたはこの三人の中で、だれが追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」とイエスに問われ、その律法の専門家は「サマリア人」と言わずに「その人を助けた人です」と答えています(37a)。彼のその答え方自体からもいまいましい気持ちが伝わってきます。もしかしたら当時これと同じような出来事(あるサマリア人が一人のユダヤ人を助けたという出来事)が実際にあって、人々の話題に上っていたのかも知れません。

 

自分が隣人を選ぶのではなく、隣人に自分が友として選ばれるということ

 大切なことは、「では、わたしの隣人とはだれですか」という問いが、ここでは「だれがその人の隣人になったとあなたは思うか」という問いに変えられていることです。そこでは「私中心/自分中心の問い」から、「傷ついた人中心の問い」へと主体が転換しているのです。「隣人を選ぶ」のではなく、「隣人から選ばれる」こと、自分がニーズを持った人の「隣人となること」が求められているのです。「隣人となる」とは「友となる」と言い換える事ができましょうから、「その人から友として選ばれる」と言ってもよいでしょう。自分の価値観で隣人を選ぶのではなく、隣人によって友として選ばれるのです。そのような「憐れみと愛」に満ちた生き方が私たちにも求められています。イエスは言われました。「行って、あなたも同じようにしなさい」と(37b)。

 実はこの「よきサマリア人こそ」、傷ついて倒れた私たちのためにこの世に来てくださったイエス・キリストご自身を意味しています。私たちの現実を「はらわた」がよじれるほどの「深い憐れみ」をもって受け止めてくださり、それに深く関わってくださるのです。イエスは私たち一人ひとりのニーズに応えて、私たちに「近寄って、傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱」してくださる。飼い主のいない羊のような私たちの、迷子の羊のような私たち一人ひとりの魂のニーズ(スピリチュアルニーズ)を満たしてくださるのです。イエスこそ、私たちの「隣人」となって、私たちをその「友」として選んでくださるのです。「主は私の羊飼い、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴われる」(詩編23)。よきサマリア人であるイエスとその深い憐れみを覚えて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 憐れみに満ちた主イエス・キリストが、その憐れみをもって私たち一人ひとりを「緑の牧場、憩いの水際」に導いて下さいますようにお祈りいたします。 アーメン。

2019年7月 8日 (月)

2019年7月7日(日)聖霊降臨後第四主日礼拝説教「二人一組の派遣」

2019年77日(日) 聖霊降臨後第四主日礼拝説教「二人一組の派遣」     大柴 譲治

ルカによる福音書 10:1−11、16−20

1  その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。 2そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」 (1-2節)

 

「二人一組の派遣」

 本日の説教題は「二人一組の派遣」とさせていただきました。本日の福音書の日課にはイエスが72人の弟子たちを二人ずつ派遣したことが記されています。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。『収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい』」(ルカ10:1-2。下線:大柴)。本日の主題はこの二人一組というところに焦点を当て、そのことの大切な意味について思い巡らせてみたいと思います。

 

なぜ「二人一組」なのか

 それにしてもなぜイエスは弟子たちを「二人ずつ」派遣したのでしょうか。なぜ「二人一組」なのでしょうか。

72人の派遣に先立って、ルカ福音書の9章にはイエスが12弟子を同じように派遣したことが記されています。ここには「二人ずつ」という描写はないのですが、その平衡箇所であるマルコ福音書6章には実ははっきりと「二人ずつ組にして」と書かれています。「それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(マルコ6:6a-9、下線:大柴)。「二人ずつ」という語は福音書ではマルコ6:7とルカ10:1の二ヶ所にしか出て来ませんが、聖書の中では重要なキーワードでもあります。

旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)4章の中に次のような言葉があります。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい」(9-12節)。二人三脚で支え合い守り合う「友」や「仲間」や「家族」の存在は確かに大きいのです。「人」という字が二人の人が支え合って立っていることを意味しているように、二人一組であれば必要な時に相互に助け合い支え合うことができるからです。

 

ボンヘッファーの『共に生きる生活』

 第二次戦争中に、ディートリッヒ・ボンヘッファーというドイツ・ルター派の牧師がいました(1906-1945)。1943年にユダヤ人の亡命を支援したという罪で捕らえられ、ヒトラー暗殺計画に加担したという罪も明らかになって、194549日に39歳で強制収容所で処刑された人物です。彼の生前に出版された彼の「白鳥の歌」と呼ばれる『共に生きる生活』という本があります。それは牧師補研修所の所長として若き牧師補たちと生活を共にする中で書かれた書物で、キリスト者としての日々の生活や「霊性(スピリチュアリティー)」といったものをよく表している書物です。皆さんの中にもお読みになられた方がおられることでしょう。機会があればぜひ手に取っていただきたい本の一つです。その本の中には(要約ですが)次のようなことが書かれています。「キリスト者が他のキリスト者と共にいるということは自明なことではない。神の恩寵である。私たちの救いは常に私たちの外から来る(’extra nos’)。キリスト者は他のキリスト者の口を通して語られるキリストの言葉を必要とする。私の心の中のキリストは、兄弟姉妹の声(言葉)におけるキリストよりも弱いのだから」。味わい深い洞察であると思います。一人の信仰者は他の信仰者の具体的な言葉(=声)を通して支えられる必要があるというのです。

「レジリエンス」

 『るうてる7月号』が届きましたが、今回私は「議長室から」ということで「レジリエンス」について書かせていただきました。「レジリエンス」とは元々は「バネの復元力」のことを意味する言葉で、そこから「逆境力」とか「折れない心」とも訳されるようになりました。困難の中にあっても、めげない力、しぶとくしなやかにそれらを跳ね返す力を指しています。私はそれを「七転び八起き(する力)」だと思っています。レジリエンスの研究は米国で最も進んでいると言われますが、今から6年程前に埼玉県の大宮にある聖学院大学である米国の研究者の講演を聞いたことがありました。ご存知のように米国は銃社会です。護身用に銃を持っている人は少なくありません。自分の身は自分で守るという考え方が徹底しているのです。その方はこう話されました。米国では住民の70%の人が人生の中で一度は生命の危険を感じるほど怖い体験をするのだそうです。もちろん個々の事象によって差はあるでしょうが、皆その瞬間には大きな恐怖やショックを感じるのですが、調査してみるとそのうちの713%の人に精神的なトラウマ(傷)が残るそうなのです。「PTSDPost Traumatic Stress Disorder/心的外傷後ストレス障害」ですね。しかし、逆に言えば、8793%の人は、何とかその体験を乗り越えて通常の生活に戻ることができるというのです。そしてトラウマが残る人と残らない人のその違いはどこから来るのかということを調べるのが「レジリエンスの研究」なのです(もともとはベトナム戦争の時にその研究は始まったようですが)。日本でも1995年の阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災以降によくこのことは研究されるようになってきました。

 レジリエンスに関しては今では様々な研究の成果が報告されていますが、その先生はそこには三つの要因があると話されました。①「性格」、②誰か一人でもいいから自分の気持ちを聴いてくれる「友」を持つこと、③「温かい共同体に所属すること」、の三つです。確かにそうですね。①性格的に明るい人の方が、暗い人よりもレジリエンスが強いと言えましょう。落ち込んだとしてもあまりクヨクヨせずに、前を向いて、上を向いて歩いてゆこうとすることでしょう。②もその通りです。自分の中に沸き起こる様々な感情を安心・安全な環境の中で言葉として表現することができて、それを黙って(批判せずに)聴いてくれる人がそばにいるかどうかで大きな違いが出るのです。一人でいいのです。そのような信頼できる家族や友や恩師がいてくれるかどうかが重要なのです。イエスの「二人一組の派遣」も、その意味では相互にレジリエンスを高め合うための具体的な配慮であったと思われます。ドイツにはこういう諺があるそうです。「二人で分かち合えば、苦しみは半分になり、喜びは倍になる」。また、アフリカにはこういう諺もあるそうです。「早く行きたいのであれば、独りで歩きなさい。遠くまで行きたいのであれば、誰かと一緒に歩きなさい」。私たちにはパートナー、仲間が必要なのです。親子であっても兄弟であっても、夫婦であっても友人であっても、同僚であっても先輩後輩であっても、師と弟子というかたちであっても、どのようなかたちでもよいのです。③の温かい共同体に所属する人の方が、冷たく互いに裁き合う共同体に所属する人よりもレジリエンスは高いというのも体験的によく分かることです。「喜ぶものと共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」とパウロもローマ12:15で勧めています。何が起こるか分からない先の見えない社会の中で、何が起こったとしてもそれを共に担ってゆくためにも、キリストの教会はあたたかい共同体であることが求められています。

 

「ふさわしい助け手(パートナー/コンパニオン)を与えよう」(創世記2:18

 創世記2章には、アダムとエバの出会いに先立って、神ご自身が「人が独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」と決意する場面が出て来ます(18節)。「助け手」とは上下関係のある「アシスタント」ではなく、対等な関係の「パートナー」であり「コンパニオン(ラテン語で「パンを共に食する」の意)」ということです。その神の決意の下でアダムとエバが出会ってゆく。これは夫婦に限らず、親子や兄弟、友人、恩師、同僚と出会ってゆくことの背後には天の配剤があるということを明らかにしていると私は思います。人生は出会いですが、その出会いの背後には神の御旨があるのです。「二人一組の派遣」はそのような深い神の愛の御心を覚えつつ、イエスによって実践されたことなのです。そのことを覚えて私たちは、神によってこの大阪教会を通して与えられた、「地縁」でも「血縁」でもない、「キリスト縁」「聖霊縁」を大切にしてゆきたいと思います。お一人おひとりに祝福をお祈りいたします。

2019年7月 1日 (月)

2019年6月30日(日) 聖霊降臨後第三主日礼拝説教「迷いと覚悟」

2019年630日(日) 聖霊降臨後第三主日礼拝説教 「迷いと覚悟」      大柴 譲治

ルカによる福音書 9:51−62

イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(51節)

 

「迷いと覚悟」

 本日の説教題は「迷いと覚悟」とさせていただきました。「ためらいと覚悟」とした方がよかったかもしれないという思いもあります。福音書の日課には、エルサレムに向かおうとする「イエスの決意/覚悟」と、イエスに従おうとする者(弟子)の「迷い/ためらい/覚悟のなさ」が対照的に述べられていると思われるからです。福音書の最初にはこうあります。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(ルカ9:51)。断固たる「決意」をもって、十字架を引き受ける「覚悟」をして、イエスは神の都エルサレムに向かってゆかれるのです。場所はサマリア人の土地であり、サマリア人の村の近くでした。ガリラヤとユダヤの間の地域です。もともとユダヤ人とサマリア人は同族でしたが、ソロモン王の死後、紀元前922年に北王国イスラエルと南王国ユダに分裂します。サマリア人は、紀元前722年にアッシリアによって滅ぼされた北王国イスラエルの10部族の末裔でした。ユダヤ人は南王国ユダにつながる2部族の子孫のことです。イエスの時代にはユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲にありました。ユダヤ人にとってはエルサレムが神の聖地でしたが、サマリア人にとってはサマリアにあるゲリジム山が聖地だったのです。その意味もあってか、サマリアの村の住人たちはイエスを歓迎しませんでした。

その気性の激しさからでしょうかイエスによって「雷の子ら」と呼ばれたヤコブとヨハネが登場します。イエスの覚悟を感じ取って気持ちが高揚したのか、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」というような過激に高揚した発言をしてイエスに戒められています。彼らは神の権威と力とに満ちた「力強いメシア像」をイエスに期待していて、「無力なメシア像」を繰り返し予言するイエスとは対照的です。他の弟子同様彼らは、メシア像について大きな勘違いをしています。イエスがエルサレムで成し遂げようとしていることがどのようなことであるかを彼らは知りません。否、知ろうとしていないのです。イエスは既にルカ9:21279:43-45でご自分の死と復活とを予告しています。彼らは聞いても全く悟らない、悟ろうとしない。ある意味で無理もないことでありましょう。メシアが苦難を受け、十字架の上で殺されるというのですから。しかもその三日後に死人の中からよみがえるということは。人間の思いを遙かに超えた、理解することのできない事柄なのです。イエスはしっかりとした決意を胸に、エルサレムをまっすぐに見据えて進んでゆこうとされています。そのイエスの覚悟が印象的に残ります。

 

弟子の覚悟

 福音書の後半(57-62節)には「弟子の覚悟」という小見出しが置かれています。本来小見出し自体は聖書本文にはないものですが、読む者にとっては内容を把握しやすいように置かれています。「弟子の覚悟」とはこの部分の内容をうまく要約していると思います。

 ここには三人の人が登場します。三人とも「覚悟の足りない人物」として描かれています。イエスとは対照的ですね。最初の人はこう言います。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従ってまいります」。服従の覚悟がありますという言葉ですが、イエスはそれが真実なものかどうかを問いかけます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)。「人の子」とはイエスがご自身に神から与えられた特別な使命を指して呼ぶ特別な呼称ですが、「メシア」と読み替えてもよい言葉です。「人の子は枕する所もない」というのは「片時も安心して休むところがない」という意味でありましょう。イエスは「どこへでも従ってまいります」と言ったその人に対して、「あなたはこのような私に、地上では安住の地を持たないこの私に従ってくることが本当にできるのか。そのような決意/覚悟を持っているのか」と問うているのです。彼はそのイエスの厳しい言葉を聞いてどうしたのでしょうか。それは記されていません。イエスに従うこと、イエスの弟子になることはそのような厳しい覚悟が求められるのです。

 二番目、三番目の人物に対してイエスは「わたしに従いなさい」と呼びかけられます。しかし彼らはそれぞれ固有な事情を述べて躊躇するのです。「主よ、まず父を葬りに行かせてください」(59節)。もう一人はこう言います。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」(61節)。どちらももっともな物言いです。自分の父親の葬儀があるなら、モーセの十戒に「あなたの父母を敬え」とあるように子としての責任を果たすことが求められることもよく分かります。また、家族が心配しないように、イエスに従うことをキチンと説明をし、別れを告げることも大切な事柄でありましょう。しかしいずれの場合にもイエスは、躊躇なく、即座にイエスに従うことを求めておられます。ちょうどイエスの最初の弟子となった四人が、イエスの呼びかけに応えて「すぐに網を捨てて従った」ように(マルコ1:18-20)。

 イエスの彼ら二人に対する言葉は明快です。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」(62節)。決断は「今、ここ」なのです。ためらう必要はないのです。何よりも大事なことは、今ここでの主イエスの呼びかけに応えてイエスに従って前に進んでゆくことなのです。ルカ10章の終わりに記されているイエスがマルタに告げた言葉を思い起こします。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(10:41-42)。

私たちはこの世の人生を生きる上では様々な迷いやためらいが生じます。優先順位をどうすればよいか、重要な決断を迫られることも少なくありません。しかしそのような中で、キリストの弟子であることを第一のものとする、真の神を神とする、そのような弟子としての覚悟が私たちには今ここで問われているのです。

 

イエスの覚悟

繰り返しになりますが、イエスご自身はエルサレムの十字架を見据えて目を離しません。イエスは、山上の変貌の出来事の中で、旧約を代表するモーセとエリヤと話していた「最期のこと(エクソドス)」(ルカ9:31)をまっすぐに見据えているのです。それは私たちの罪を贖い、私たちを滅びの闇から救うためでした。十字架を担うことが人間を救うための神の御心であることを知り、徹底的に神の御心担ってゆこうとするイエスの覚悟を覚え、それに倣いたいのです。

 

「我ここ(み言)に立つ。神よ、助けたまえ」(ルターの覚悟)

 私たちの日々の生活は迷いと行き詰まりと躓きばかりです。そのような中でどうすれば私たちはイエスの弟子であることを貫いてゆくことができるのでしょうか。自分の力に頼っているだけでは片時も立ち得ないでありましょう。ルターはウォルムスの国会で自説を撤回するように迫られた時、次のように言い切りました(15214月)。「聖書と明らかな理性によって罪を悟らない限り、自説の撤回はできない」としたのです。「わたしの良心は神のことばに捉えられています。わたしは取り消すことはできませんし、取り消そうとも思いません。なぜなら、自分の良心に反して行動することは危険だし、正しくないからです。わたしはここに立ち続けます。神よ、わたしを助けてください」と(JELC『悩み多き人生に答えはあるのか?』2017、p75。下線:大柴)。ルターの有名な言葉です。最後は私たちもこのように言うほかはない。神の言に捉えられているがゆえに、み言の力の中に置かれているがゆえに、私たちもまた「我ここに立つ。神よ、助けたまえ」と告白することができるのです。それは私たちの力によるのではありません。神のみ言が私たちを捉えているからこそそれは可能となるのです。私たちの側の迷いやためらい、躊躇を超えて、そこには神の真理の力が働いているからです。

 十字架と復活の主が私たち一人ひとりを救うためにエルサレムに向かう決意を固めてくださったように、主の覚悟が私たちを支え、守り、正しい道に導いてくださいますようお祈りいたします。  アーメン。

2019年6月29日 (土)

2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日礼拝説教 「神の業を伝える」

 

2019年6月23日 聖霊降臨後第2主日 (緑)  於:大阪教会   説教者:竹田大地

説教題「神の業を伝える」

 

私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。

 

今日与えられている福音の御ことばは、非常に強烈な印象を与えられると同時に、本当にこんなことがあるだろうかと思わされる出来事です。

一人の男が登場します。彼は悪霊に取りつかれ、衣服も着ず、家に住まないで墓場を住まいとしていたとありますし、また鎖、足枷につないでいたにもかかわらず、それを引きちぎって、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていたのです。現代の医療に照らすならば、何かしらの精神的な病を抱えていたかもしれません。しかしここでそれが何なのかと検証することは、意味がないでしょう。むしろ、この男とイエスの出会いによって起こった出来事そのものに目を向けていくことで福音の恵みを見出すのではないでしょうか。今日は、そのような点に着目しながら、神の御心に共に聞いてまいりたいと思います。

 

彼は墓場に住んでいたとありますから、律法に照らすならば、死体との関わり、死とのかかわりの中に生きていたわけです。それは汚れている状態を意味していますから、彼は律法に照らすならば罪人の一人でした。誰もが忌み嫌う状況の中で生きざるを得ない、そこでしか生きることができない状況に人が陥っているということは、彼の悩みの深さ、痛みと苦しみの激烈さを思うのです。彼が自らであろうと、そうでなかろうと彼はそういった状況の中で生きねばならなかったのです。

 

それは、彼だけに言えることではありません。私たち一人ひとりもこの男であるということを覚えなければならないでしょう。この御ことばに触れて、こんな悲惨な状況にある人が在るのだと、どこか客観的に見てはならないということです。私たちも死の中に生きています。よく言われることですが、この世に生まれた瞬間から、私たちは誰しもが死に向かって生きているのですから、私たちの命は常に死という力が働いています。

 

この男性のように激烈な危機的状況の中に実は私たちの命が在るということです。そして、その死の力の源は「罪」です。なぜならば、罪の報酬は死だからです。罪は、私たちを死に至らしめるのです。パウロが「罪は掟によって機会を得、わたしを欺き、そして、掟によってわたしを殺してしまったのです。」(ロマ7:11)と証しされている通りでしょう。私たちは、「生まれながらにして罪深く」と式文のざんげの所で告白しますが、それはまさに私たちの命が罪に囚われているということであり、本来であれば私たちの命は死の力に飲み込まれている現実を露にするのです。

 

そういう現実の中で、では私たちはどのように歩めばいいのでしょうか。もうそういう者なのだからと諦めるほかないのでしょうか。それとも何とかして足掻いて生きることでしょうか。

この悪霊に取りつかれた男性は、そのような中で鎖と足枷を引きちぎったとありますが、それは言うなれば市の力に対して何度も抵抗した姿とも取れないでしょうか。それをしたとき、繋がれている身体は傷ついたに違いありません。痛みを伴ったと想像できます。人は死に囚われながら、死に抗い、そこから離れようとします。しかしそれでも囚われ、逃れることができないのだという現実を味わうことが沢山あります。

 

そのようにして罪に囚われ、あがき、傷つき、痛んでいる命に対して主は「2反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に/絶えることなく手を差し伸べてきた。」と語り掛けています。罪は死へと誘いますが、神はその私たちの命の暗闇、深淵に臨んでおられるのです。私たちが神から離れ、罪の力に囚われてしまっていても「絶えることなく」神は私たちに憐れみと愛をもってそこに来てくださる方であることを聖書は語っています。

 

私たちの滅ぶ命に対して、神はこの御業によって滅びることのない永遠の命を着させてくださるのです。衣服も着ずに、裸のままで死の力と生きねばならなかった私たちのために神は、永遠の命の恵み、自分の存在を脅かす力、悩みの淵に来られるのです。

このことは、堕罪の出来事にも、アダムとイブが蛇の誘惑に陥り、取って食べてはならない木から取って食べて、罪を犯したとき裸でいることを恥じて、木の間に隠れていた時に、神が「皮の衣を作って着せられた」と記されているように世の初めから神の救いの御手は示されていたのです。

 

罪が露わにされることによって、私たちはこの神の御手、御業に気づかされます。罪は、私たちを滅ぼす力ですが、同時に神の御業を顕すのです。死に囚われているからこそ、神の救いの御業の鮮やかさが示されるのです。この命の深き深淵にあって、悩み、痛み、悲しみを抱えねばならない私、時に「石で自分を打ちたたいたり」(マルコ5:5)して、自らの命を傷つけずにはおられないほどの暗闇の中で生きなければならない状況に神は来られるのです。

 

私が罪と死の力に勝利したから、神の御業の鮮やかさ、驚くべき神の御手の偉大さに触れるのではありません。それは初めから私たちに齎されています。神自らが私たち一人ひとりのために働いて下さっているのです。私が仕え、崇め、贖わなければならないと思っていた事がらに逆転が起こっていることに気が付かされます。神が私の救いのために働いている。この一点にこそ救いの確信を与えられるのです。

 

神は、私たちに語り掛けます。「もう、あがかなくてよい。もう、自分を傷つける必要はない。初めから私はあなたのために御手を伸ばし、あなたを救っている」と。

この神に信頼して歩んでいきたいと思うのです。この神のみが私の命の深淵、暗闇から救い出し、私の命に光を射し、輝かし、闇の中を闇雲に生きる者ではなく、神の光の内に歩む平安を与えてくださる方なのです。

 

この男性は、この神の救いに見えて、主イエスに従い生きることを望みました。しかしイエスは、「自分の家に帰りなさい。そして、神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい。」と命じられました。「自分の家に帰りなさい」です。教会、信仰者の群れの中で生きることではなく、ただ単に自分の家に帰るということではなく、自分が置かれている所に行きなさいという派遣の言葉です。そこで神の救いを証ししなさいとイエスは命じられているのです。

 

私たちは今日、この礼拝堂から派遣をされます。それはまさに「自分の家に帰りなさい」というイエスの御ことばが、私たちに臨んでいるということです。そこで神の救いを証しする証し人として、私たち一人ひとりは召されているのです。それが宣教です。この主イエスの御ことばに押し出されて、行った人々によって福音宣教は紡がれているのです。この歩みの内に私たちもあることを覚えながら、神がこの私になさってくださったことをことごとく宣べ伝えてまいりましょう。

 

人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。

 

2019年6月13日 (木)

2019年6月9日(日)聖霊降臨日礼拝説教「神からの風によって」

2019年69日(日)聖霊降臨日礼拝説教「神からの風によって」        大柴 譲治joshiba@mac.com

使徒言行録 2: 1−21

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

ヨハネによる福音書 14: 8−17

わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。(16-17a節)

 

< 聖霊降臨日(ペンテコステ)にあたって >

 三週間ぶりにこの説教台に立たせていただいて、久しぶりにホームグラウンドに帰ってきたような気がしています。528日(火)から66日(木)まで米国サウスカロライナとシカゴを訪問して、木曜日の午後に無事帰国し帰阪いたしました。米国では大変な歓迎を受け、530日〜61日まで開かれたサウスカロライナの教区総会に総勢9名で出席をしてきました(牧師8名、信徒1名。男性7名、女性2名)。先週の日曜日にはサウスカロライナのレキシントンというところにある「ピルグリム(巡礼)ルーテル教会」で共に主日礼拝を守りました。9時の礼拝と11時の礼拝で礼拝説教をさせていただきました。

 実はサウスカロライナと日本では(夏時間のため)時差が13時間ありますので、土曜日の夜9時半に、インターネットのYouTubeを通して行われている大阪教会のライブ中継を観るという不思議な体験ができました。世界中のどこでもインターネットの環境さえあれば大阪教会の生の礼拝に参加することができるのです。先週の滝田先生の説教を米国で聴くことができました。実にありがたいことであると思いました。逆に言えば、本日、今ここでの礼拝が世界中につながっているということでもあります。すごい時代になりましたね。

 今日はペンテコステ。聖霊降臨日です。主イエス・キリストの復活後、40日間は復活されたキリストはご自身の姿を弟子たちに表されたのですが、先週には「主の昇天主日」を守りました。弟子たちの見ている前で主が両手を挙げて祝福する姿で天へと昇ってゆかれたのです。今も主は天から私たちを祝福して下さっています。昇天から10日経って、ちょうど復活から数えると50日目の日曜日、今度は天から聖霊が降ってキリストの福音を様々な言語で伝えるためのキリスト教会が誕生したのです。言うなれば本日は「教会の誕生日」であり、教会の誕生を祝うために私たちはこのセレブレイションに集められています。

 

< 米国訪問旅行2019

 今回の米国訪問旅行は、1892年に二人の宣教師を日本に派遣した米国福音ルーテル教会(ELCA)のサウスカロライナシノッド(教区。150の教会があり、4万人の信徒がいて、JELCとコンパニオンシノッド関係を結んでいます)との交流を深めるための訪問でした。特に若い牧師たちを6名連れてのミッションスピリットに触れるための未来志向の旅でもありました。80人いるJELCの現職の牧師の10%が訪米していたことになります。

 サウスカロライナに一週間滞在し、シノッドアセンブリー(教区総会)にも参加させていただきました。二年前に来日されたBishop Herman Yoos先生からも皆さま方にくれぐれもよろしくということでした。サウスカロライナでは、ジェリー・リビングストン元宣教師ご夫妻(1958-2000来日)、初代宣教師の一人であったピーリー宣教師や、慈愛園やベタニアホームを作られたモード&エーネ・パウラス宣教師、スタイワルト宣教師の子孫にもお会いすることができ、歴史的な貴重な時を持つことができた次第です。

 最後の二日間はシカゴを訪問し、ELCAの事務局(10階建てのビルに300人の職員が働いています。ELCAの総教会員数は410万人で、日本のJELC200倍の大きさで、65の教区に分かれています)でELCAPresiding Bishop(総監督)であるElizabeth Eaton先生にもお会いすることができました。ELCA1892年以来、宣教師夫人や短期宣教師を含めると500人以上もの宣教師を日本に派遣してきたことになります。一方JELCで按手を受けた牧師は(先日の33日に生まれた三人の牧師で)309人となります。いかに多くの宣教師をELCAは世界中に派遣してきたかということが分かります。サウスカロライナシノッドも、日本だけではなく、アフリカのタンザニアや南米のコロンビアともコンパニオンシノッドとして宣教協力関係を結んでいます。2013年には三つの国から総会議長がシノッドアセンブリーに招かれ、JELCからも立山忠浩牧師(前総会議長)と浅野直樹牧師(世界宣教主日)の二人がSCを訪問しています。浅野先生は2005年から一年間、交換牧師としてSCに滞在されています。

 シカゴではグローバルミッション部門のフランクリン石田順孝先生にお世話になりました。石田順朗牧師のご長男でELCAの牧師でもあります。1年の三分の一はアジアを訪問しているとのこと。石田先生によると、グローバルミッション(世界宣教)はELCAの中でも最も人気の高い部門だそうです。「フロンティアスピリット(開拓者魂)」を大切にする米国ならではの傾向なのでしょうか。このようなネットワークの中に私たちが置かれているのも、二千年前のペンテコステ(聖霊降臨)の出来事があればこそです。

 

< 福音宣教の喜び >

 マタイ福音書の最後で復活の主は命じています。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18-20)。また預言者イザヤは言っています。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる」(イザヤ52:7)。イザヤの預言を受けてパウロもローマ書でこう言っています。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです」(ローマ10:14-15)。私たちにキリストの福音を伝えてくれた者がいたからこそ、私たちは主イエス・キリストと出会い、主を信じ、ここに集められているのです。ペンテコステには天からの霊が降って、大きな喜びが人々を捉えました。人々は多くの国の言葉でキリストの福音という一つの共通言語を語りはじめたのです。旧約聖書にある「バベルの塔の物語」(創世記11章)の正反対のことがペンテコステに起こったのです。神のようになろうとして思い上がって天にまで届くバベルの塔を建て始めたことで神の怒りに触れて、互いの言葉を混乱させられ、心が通じ合わなくなって全地に散らされたというあの物語です。依然として言葉の壁はありますが、聖霊によって心を主にあってひとつに結びあわされるということは、何と幸いなことかと思います。

 

< 神からの風(=息吹き)によって >

 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる』(使徒言行録2:17&21)。この天からの喜びの霊、神からの風(=息吹き)に満たされて、私たちはご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。主イエス・キリストを信じる喜びから私たちを引き離す力をもったものは、この世界には何もないのですから。福音に与ることができる幸いを深く味わいたいのです。

 主イエス・キリストがここに集められたお一人おひとりを豊かに祝福されますようにお祈りいたします。 アーメン。

«2019年5月26日(日)復活後第5主日礼拝説教「約束された力」 竹田大地牧師