2017年7月15日 (土)

2017年7月9日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝説教「重荷を負う者を招く主」

201779日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝説教「重荷を負う者を招く主」  大柴 譲治

マタイによる福音書 11:16〜19,25〜30  (第一日課:ゼカリヤ書9:9〜12)

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(28-30節)

 

重荷を負う者を招く主

 本日の福音書には聖書の中でも一番よく知られているイエスのみ言葉が記されています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、私自身も毎週の礼拝の聖餐式の最初の部分で招きの言葉として語っている言葉でもありますし、大阪教会の新しい案内リーフレットでもど真ん中に書かれている言葉です。これまでどれほど多くの人々がこの招きの言葉から深い慰めを受けてきたことであろうかと思わされるのです。
 私たちはイエスの声に繰り返し耳を傾け続けることが大切なのだと思います。イエスの招きの声が聞こえてくるように耳を澄ませるのです。
「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。このような主の招きの言葉は、味わい知れば知るほど、信じる者たちの拠って立つ足場を支え、信仰者たちに「休み」と「安らぎ」を与えてくれていることが分かります。

 

イエスの「柔和と謙遜」、そして「軛」の意味

 この部分の意味を少し解説しておきたいと思います。イエスはご自身を「柔和で謙遜な者」と呼んでおられます。これは本日の第一日課ゼカリア書9章の預言の成就にも関わる表現なのですが、イエスのエルサレム入城の場面を思い起こしていただければよいでしょう(マタイでしたら21:1-11です)。力を象徴する軍馬ではなく、柔和と謙遜さを象徴するロバの子、チイロバに乗ってイエスは神の都エルサレムに入城されました。「ホサナ(今、救ってください)」と叫んで棕櫚の葉や衣を道に敷くイスラエルの人々の熱狂的な叫びの中でただ黙って神の平和の都に入場してゆかれたのです。何がそこで起こるのかを明確に意識しながら。イエスは神が備えた救いの玉座に着き、王の冠をいただくために。その玉座とはゴルゴダの十字架でしたし、その王冠は茨の冠でした。イエスはチイロバに乗ってエルサレムに入城してゆかれるのです。高きに上ってゆくのではなく、低きに、最も低いところに降ってゆかれたのです。人々に軽蔑され、見捨てられ、苦しめられ、十字架を背負わされて、殺されてゆくために。しかしその傷によって私たちの罪は赦され、私たちには癒やしが与えられたのでした。そのことは「苦難の僕」としてイザヤ書53章に預言されていたとおりです。「わたしは柔和で謙遜な者であるから」というイエスの言葉は、私たちのために十字架に架かってくださったイエスの「柔和と謙遜」を表しています。

 「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは何を意味するか。「軛」というのは、私は実際に見たことはないのですが、農作業などで二頭の牛や馬、ロバ等を並べ、その二頭の首にかけて鋤や鍬、荷物などを引くための道具です。「キリストの軛」とは、私たちが背負っている重荷をイエスが私たちの隣に並んで、肩を貸してくださり(あるいは肩代わりし)、一緒に背負ってくださるということです。ちょうど「キレネ人シモン」がイエスの十字架を肩代わりして背負ったように(マタイ27:32)、イエスは私たちの十字架を共に重たい軛として負って背負ってくださるというのです。もっともシモンの場合にはたまたまエルサレムに巡礼に来ていたのでしょう、倒れたイエスの代わりにローマの兵卒たちに無理矢理にその十字架を背負わされたのですが、イエスは自ら進んで私たちの十字架を背負ってくださいました。そのことを通してシモンはやがて初代教会のメンバーになっていったと伝えられています。マルコ15:21「アレクサンドロスとルフォスの父」とありますので、彼らは初代教会ではよく知られていたのでしょう

 そしてイエスは言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。「安らぎを得られる」というところには原語では「あなたがたの魂(プシュケー)において」という語が付されています。キリストの軛を負うことで私たちは魂に安らぎを得ることができるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という言葉は、キリストの軛が首にピッタリとフィットしてその重荷を軽くするような、私たち自身のために作られたようなオーダーメイドの軛であるということを意味しているように思われます。私の重荷(それは一人ひとりにとって異なる重荷でありましょうが)である「私の十字架」を負うためにイエスは私の隣に並んで立ち、その軛を背負って下さるというのです。だから私たちの重荷は軽くなり、担いやすくなるのです。「すべて重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」という主の招きの言葉は、私たちにそのようなかたちで重荷を共に担ってくださる主イエス・キリストの姿を提示しています。「わたしがあなたと共にあって、あなたの重荷を共に担う。だから安心しなさい。わたしはあなたを決して見捨てない」。そのように言ってくださるお方がいる。私たちが人生の中でこのお方に出会う時、キレネ人シモンの生涯が、十字架を背負うキリストとの出会いによってそれ以降劇的に変えられたように、私たちの人生も変えられて行くのだと思うのです。

 

「重荷を背負う」ということ

 私は牧師として様々な場面に関わらせて頂きます。特にグリーフケア、私たちの心の深い所にある悲しみや怒り、それは魂の悲しみであり、魂の怒りと呼んでもよいかも知れませんが、それをどのようにして私たちは担ってゆくことができるのか、それらを統べてゆくことができるのかということは具体的に大きな問題であると感じます。人生をまとめてゆこうとする時に、私たちは過去を振り返って顧みようとするのです。その際にグリーフ(悲嘆)やアンガー(怒り)をどう扱うか、とても難しい領域です。しかし生育歴やこれまでの人生の歩みを感情というものに焦点を当てながら振り返ることで、その時に未解決であった想い(重荷)を認め、それを誰か(イエス)と共に担ってゆくことが大切担ってゆくのだと思います。一人では重すぎて担えないことでも軛を共に負ってくれるような誰かと一緒であれば、担うことが出来る。

 アフリカの諺に「早く行きたいのであれば、一人で歩きなさい。遠くまで行きたいのであれば、誰かと一緒に歩きなさい」という言葉があることは以前にもご紹介しました。また、ドイツには「誰かと分かち合えば、悲しみは半分、喜びは倍になる」という言い方があるそうです。私たちは独りではないのです。一人で生まれて、一人で死んでゆくように感じるかもしれません。しかし独りではない。多くの方々との出会いと絆、繫がりの中に置かれているのです。先週の水曜日にるうてるホームで大阪教会員の中山フサ姉が天に召されました。この9月に100歳をお迎えになるところでした。物静かで微笑みを浮かべられたそのお顔のまま、安らかに息を引き取られたのです。32年間もるうてるホームの入居者の一員として、シルバーコーラスやサークル活動を楽しみ、影となり日向となって、日曜日の礼拝や毎日の礼拝のご奉仕など心を込めて黙々とし続けられた方でした。620日に病院を退院された後は、「延命治療をせずに自宅で最後を迎える」というご本人の強い自覚と決意のもので「看取りのケア」が始まったのです。るうてるホームは創立52年が経ちますが、中山姉はケアハウスでの最初の「看取りのケア」のケースとなりました。るうてるホームはそのために各事業所各スタッフが力を合わせ祈りを合わせて受入体制を整えてこれに当たりました。ご高齢のためにご兄妹も既に他界されていて、ご葬儀にご遺族は一人も参列することはできませんでしたが、るうてるホームの職員や友人、大阪教会員など50人を越える参列者がありました。フサ姉のことを「わたしのお母さん」と呼んでいたケアハウスの中村部長が喪主の役割を務められました。別離の悲しみだけでなく、多くの人が祈りと力を合わせることで、本当に不思議な愛の御業が起こるということが私たちの目の前に明らかにされたのだと思います。文字通り「るうてるホーム」「ルーテルファミリー」「神の家族」としての印象深いご葬儀となりました。キリストによって私たちにこのような出会い、ご縁が与えられていることを幸いに思ったのは私一人ではなかったと思っています。英語では「理解する」という語は「下に立つunderstandと書きますが、イエスは私たちの苦しみや悲しみ、重荷を私たちより下に立つことを通して背負ってくださったのです。十字架と茨の冠はその柔和と謙遜を表しています。このお方に信頼して、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。祝福をお祈りいたします。

2017年7月 7日 (金)

2017年7月2日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「根拠のない自信〜ありのままを受容する祝福」

201772日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝 説教「根拠のない自信〜ありのままを受容する祝福」 大柴譲治

マタイによる福音書 10:40〜42

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」(40節)

 

相手をあるがままに受容するということ

 向かい合う相手のありのままを受け入れるということ、受容するということは決して容易なことではないと思います。私たちは皆自分の枠組みとか物差しを持っていて、相手がその枠組みにきちんと入っているかどうか、自分の物差しで測れるかどうかというその範囲内で人を受容しようとするからです。自分の枠組みに入りきらない人、自分の物差しで測れない人はある意味で私たちの理解を超えている存在でもありますから、相手をそのままで受容するということは難しいことと思われます。どちらかというとそういう人を私たちは敬遠したり排除したりしてしまいがちです。自分の持つ考え方や感じ方の枠組みを拡張してゆくことが求められています。その際には、相手を測ることで私たちは自分自身も同時に測られているのです。

 本日の福音書の日課でイエスは言っています。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ1040-42「受け入れる」とはギリシア語で「デコマイ」、「レシーブする、受けとめる」という意味の語ですが、換言すれば「信じる」「信頼する」ということになりましょう。その対位語は「拒絶する」「認めない」「信頼しない」ということです。人生は出会いですから、信頼できる相手と出会えるかどうかは、私たちがこの世で意味ある人生を生きてゆくためにとても重要な事柄です。イエスは自分が出会う人々を愛し、受容してゆかれました。特に貧しい者、小さい者、重荷を負って苦しむ者たちに対して常に温かく優しい眼差しを注ぎます。イエスは「飼う者のない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」を見て「深く憐れまれた」お方でした(マタイ9:36)。自らのはらわたがよじれるほどに彼らの苦しみや悲しみをイエスはご自身の中心で受け止められたのです。

 

ホンモノとの出会い 〜 感動体験を求めて

 私たち自身はどうでしょうか。相手を受け入れること、信頼することにおいては、私たち自身の中の価値観や枠組み、物差しが問われることになります。美しい花があっても、それを美しいと感じる心が私たちの中になければその花の美しさに気づくことはできず、花と出会うことはできません。まず私たちが自分の中の価値観や感受性、美しいと感じる心を培ってゆく必要があるのです。古典的な書物を読書するとか、優れた絵画や音楽、映像などの芸術作品に触れるとか、大自然の美に触れるとか、世界中を旅して人々との出会いをするとか、私たちには自分自身を豊かにしてゆくホンモノとの出会い、ホンモノの感動体験がどうしても必要になります。相田みつを氏に「一生燃焼、一生感動、一生不悟という言葉がありますが、ホンモノとの出会いが私たちの魂を感動させ、私たちの美的感性を覚醒させ、私たちの思考の枠組みや世界を把握してゆく思想の物差しを拡げてゆくのです。

 私たちは子どもの頃は毎朝目が覚めるのが楽しみであったように思います。今日はどんなワクワクする体験が待っているか起きるのが楽しみでした。夏休みなどは特にそうでしたね。いつの頃からでしょうか、日々が色あせ、感動するということが少なくなってきたのは。成長するということは感動体験が乏しくなるということなのでしょうか。否、決してそうではありません。歳を取っても豊かな感性をもって輝いて生きている人々は私たちの周囲に大勢おられるからです。そのような人に共通しているものは何か。それは「根拠のない自信」であると私は思います。

 

「根拠のない自信」

 3年ほど前に放映された朝のNHKテレビ小説の『花子とアン』の中である時に「根拠のない自信」という言葉を耳にしました。それは『赤毛のアン』を訳したクリスチャンの翻訳者・村岡花子を主人公とするドラマでした。「根拠のない自信」とは、彼女の母校であった東洋英和女学院(花子の母校)で長く言い伝えられてきた表現のようです。一度私自身がそこでのクリスマス礼拝に招かれた時にも、あるお母さんから「私たちの子供は皆この学校が大好きなのです。この学校は子供たちの中にいっぱい愛を注ぐことを通して根拠のない自信を育ててくれたからです」という言葉を聞きました。そういえばルーテル神大にも東洋英和出身の学生がいて、彼女はいつも「自分には根拠のない自信があるのよ」と誇らしげに語っていたことを思い出します。東洋英和に限らず、学校や家庭というものは子供たちの中に「根拠のない自信」を育むという使命を持つものなのかもしれません。「根拠のない自信」を持つ者には「迷い」がありません。いや、たとえ「迷い」があったとしても、その「自信」のゆえに周囲を巻き込みながらも逆境を乗り越えてゆくことができるのだと思います。自分が愛されてきたことの中に育まれた「自尊感情」がその人の中にある「レジリエンス(回復力 復元力)」を支えているのです。いかにも逆境に強かった故小泉潤牧師の生き方をも思い起こします。ふだんの日常生活ではあまり見えてこないのですが、いざという時には私たちが持つ「根拠のない自信」が大きく事を左右するように思います。

 2011年の4月に、東日本大震災の直後でしたが、『こどもへのまなざし』で著名なクリスチャン児童精神科医の佐々木正美先生(川崎医大名誉教授)をむさしの教会にお招きしたことがありました。佐々木先生はその時に子供たちの内に「根拠のない自信」を育むことの大切さを語られたのです。そのために「子供たちに溢れるほどの愛情を注いで、大いに甘やかせてあげて欲しい」と言われました。人を愛するためにはまず自分が人に愛されるという体験がどうしても必要とであり、愛されることを通して子供たちの中に「根拠のない自信」が育まれてゆくのだと。そして先生は続けられました。「私たちは普通『根拠のある自信』を持っています。しかし『根拠のある自信』はその根拠が揺れ動くとガラガラと崩れてしまう。けれども『根拠のない自信』は根拠がないがゆえに決して揺れ動くことがないのです」。その実践に裏打ちされた温かい言葉は今でも私の中で一つの確かな声として響いています。(昨夜、佐々木先生は四日前の628日に81歳で天の召しを受けられたことをインターネットで通して知りました。合掌)

 「根拠のない自信」というのは逆説的な言い方ですが、そこにはやはり「根拠」があると私は思っています。そもそも「自信」とは「自分への信頼」を意味しますが、その「自信」の「根拠」は自分の「内」にはないのです。それは自分の「外」にあって、それが「外」から「私」を支えているということです。そこでの「自信」とは「自分を支えているものに対する信頼」という意味です。「根拠のない自信」とは、自らの外に自分を支える「確固とした足場・基盤」を持つということなのです。万物は揺らぐとも神からのI Love Youという言葉は永久に立つ。神の愛が私を捉え、決して離さない。自己を支える神の愛という足場を持つことができる者は幸いと言わねばなりません。

 

ありのままに相手を受容する者は天における「報い」(=大きな祝福)を得る

 イエスは言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。無条件にありのままの自己を神によって受容された体験を持つ者は、「根拠のない自信」をもって自分と向かい合う他者に接することができる。ありのままで他者を受容することができるのです。そのような者は天において大きな「報い」を約束されています。いや、そのような人は既にこの地上においても「報い」を受けているのだと思います。豊かに祝福されているからです。恵まれた出会い自体が神の祝福でありましょう。私たち自身もまたそのような出会いの祝福をもって互いに受容し、祝福し合うように招かれていると信じます。

 その独り子を賜るほど豊かに私たちに愛を注いで、私たちの中に「根拠のない自信」を育んでくださるお方(神)を見上げて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に天からの豊かな守りと導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2017年6月29日 (木)

2017年6月25日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教「だから、恐れるな」

2017625日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教「だから、恐れるな」 大柴 譲治

マタイによる福音書10:24〜39

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(28節)

 

迫害下にあった初代教会 〜 「人々を恐れてはならない」

 本日の福音書の日課にはイエスの四つの教えが並べられています。「迫害を予告する」「恐るべき者」「イエスの仲間であると言い表す」「平和でなく剣を」という四つの小見出しが着いています。イエスと出会い、イエスを主と信じ、イエスに従った初代教会の群れが厳しい迫害の中に置かれていたことを伝える箇所でもあります。初代教会の信者たちは、イエスの言葉を信じ、信仰を文字通り命がけで守り抜いていったのでした。本日はその中でも特に二番目の部分、26節から31節、「人々を恐れてはならない」に焦点を当ててみ言葉に聴いてまいりたいと思います。

 与えられたマタイ10:26-31をもう一度読んでおきましょう。ここでイエスは三度繰り返して「恐れるな」と命じています。①26節の「人々を恐れてはならない」、②28節前半の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、③31節の「だから、恐れるな」の三回です。そして④28節の後半には「恐れなさい」と一度だけ命じられています。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と告げられているのです。「あなたがたを迫害しようとする人間を恐れてはならない。本当に恐るべきお方はただお一人。魂も身体も地獄で滅ぼすことのおできになる方、即ち神を恐れなさい。まことの神があなたがたと共にあり、あなたがたを最後まで守り抜く」とイエスは告げておられるのです。

 この箇所を読むと私は即座にいくつかの聖句を思い起こします。たとえばヨハネ黙示録2章の、スミルナの教会に宛てた手紙の言葉を思い起こします。ヨハネ黙示録は初代教会が厳しい迫害下にある中で終りの日の預言として書かれました。そこにはこうあります。「あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)。また、マタイ5章にある山上の説教の冒頭部分にも次のようなイエスの言葉があります。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:10-12)。

 マタイが繰り返し強調した「インマヌエル(神がわれらと共におられる)」という事実は、私たちを支える根源的な事実という意味で私はそれを「原事実」と呼びたいのですが、迫害にある初代教会の信仰者たちを深く慰め、支え、希望を与えた言葉だったのでした。「福音」とは「喜びのおとずれ」であり、その基調音は「恐れやおののき」ではなく、どこまでも「喜び」だったのです。

 

「私たちの生存を脅かす敵」としての生と死

 私たちは自分が基本的には無力であり傷つきやすい儚い存在であることを知っています。「恐れ」ということを考える場合、様々な次元で捉えることが出来るでしょうが、私たちが何を恐れて生きているかといえば、基本的には自分が傷つくこと、傷つけられることであると言うことができましょう。生存が脅かされること、命を失うことを私たちは「生物」として本能的に恐れています。病気や事故、災害などで、健康を失うことを恐れています。私たちは「生命体」としてDNAレベルにおいてサバイバル、生き残るために全力を尽くすよう定められているからでしょう。

 私たち人間が「死への恐れ」と共に「生への恐れ」「生きることに対する恐れ」をも持っていると洞察したのはフロイトでした。この世界は弱肉強食の生存競争が支配していますが、明日がどうなるか分からないようなこの世の現実の中で生き延びてゆくということは確かに考えてみれば大きな恐怖でもあります。この世界には、人間の善意という次元もありますが、同時にそれよりもはるかに力強いようなかたちで悪意に満ちた次元が存在しています。最近インターネットを通してあるリサーチを読んだのですが、このインターネットの時代に一番拡散・拡大している言葉を調べてみると、それは「喜び」ではなく「怒り」に関する言葉だということでした。「怒り」が伝染病のように世界中に拡散しているように見えるというのです。確かにそうかもしれません。私自身は、私たち人間が持っている様々な感情には、良し悪しではなく、それぞれ生存のための大切な役割(意義)があるだろうと考えていますから、「怒り」には「怒り」の存在意味があり意義がある。それは私たちが「闘うべき敵と向かい合うための感情」です。自らの力をパワーアップするための感情です。「怒り」の感情が拡散しているということは、私たちがこれまで以上に自己防衛的になっているということを意味しましょうし、私たちの生存を脅かす見えない脅威に対する「不安と恐れ」が支配的になっているということがあるのだろうと思います。フロイトが言うように、私たちは心の奥底に「死への恐れ」と共に「生への恐れ」を持って生きています。より根源的な次元で私たちは、キルケゴールが正しく洞察したように、恐れとおののきの中に置かれているのです。

 

「だから、恐れるな」〜「明日世界が滅ぶとも、わたしは今日リンゴの木を植える」(ルター)

 本日イエスは告げています。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」「身体」が殺されることではなく「魂」が殺されることを恐れなさいとイエスは言うのです。身体が殺されても、魂は殺されないという死の次元がある。私たちの身体も魂も、生も死も、すべては神の御手のうちに置かれているのです。イエスは続けます。二羽の雀が一アサリオン1/16デナリオン。現在の貨幣価値から言えば500円ほどか)で売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(29-31節)。髪の毛の数を含めて、天の父なる神は私たちのすべてを知っておられるのです。

 私たちは各自が置かれた場で、神からのコールに応じて、神を恐れ、神に畏敬の念を持ちながら、自分を捨て、自分自身の十字架を担ってキリストに従ってゆくことが求められています。生きることはなかなかしんどいことであり、思わぬ辛いこと、悲しいことや苦しいことがたくさん起こります。愛する者が病いに倒れ、看病の甲斐もなく若くして、幼い子ともたちを残して、無念の中に命を終えて行かなければならないということもありましょう。突然の事故や災害、テロや迫害の中で愛する者の命を奪われるということもありましょう。生きることは不条理に満ちています。

 そのような過酷なこの世の現実を前にして、私にはいつも思い起こすルターの言葉があります。それは「たとえ明日世界が滅ぶとも、今日わたしはリンゴの木を植える」という言葉です。もしかしたらこれはルターが語った真実の言葉ではないのかも知れません。どんなに調べても出典が分からないのです。しかし神のみ言に徹底して信頼し続けた宗教改革者マルティン・ルターの、大変にルターらしい言葉でもあると私は思っています。神を信じる信仰を与えられるということは、苦しまなくなることではありません。悲しまなくなることでもない。苦しみや悲しみや絶望は、この世の生を生きる限り依然として私たちを襲うことでしょう。しかし、そのような苦難の中で、私たちはキリストと共に生きるのです。十字架に死んで、死してよみがえられたお方と共にその重荷を担い続けるのです。この世の生は確かに恐れとおののきに満ちています。明日どうなるか分からないし、私自身も明日までの命かも知れない。しかし、たとえ明日世界が滅ぼうとも、自分が明日までの命であるとしても、私たちは知っているのです。本当の明日というものは、本当の希望というものは、永遠なる神の中にあるということを。「明日」とは漢字で「明るい日」と書きますが、本当の明るい明日は、たとえ世界が明日滅びようとも、その向こう側におられる神の中にあるのです。だからたとえ明日世界が終わろうとも、本当の明日に向かって、今日私たちは各自に神から与えられたリンゴの木を植えるという務めに従事することができるのです。神は世界の滅びを越えて、私たちをその永遠の救いの御業のために用いてくださるのです。ですから私たちは、どのような状況の中にあってもそれを恐れることなく、神のみを見上げ、神のみを畏れて、歩むことができる。なぜなら、「インマヌエル、神がキリストにおいてわれらと共にいます」からです。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。というイエスのみ言葉は、身体と魂を含め、私たちのいのちに責任を持って下さるお方に対する信頼がすべてであり、その幸いへと私たちを招いています。ただ神のみを見上げて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に上よりの豊かな守りと導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。

2017年6月18日 (日)

2017年6月18日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「断腸の思い」

2017618日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝 説教「断腸の思い」     大柴 譲治

マタイによる福音書 9:3510:8

35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

「イエス断腸」

 本日から教会暦では「聖霊降臨後の主日」が始まりました。典礼色は神の栄光を表す「白」(昇天主日)→聖霊の炎の色である「赤」(聖霊降臨日)→「白」(三位一体主日)とこの三週間で毎週目まぐるしく変わりましたが、本日からは信仰の成長を表す「緑」。主イエスの教えに焦点を当ててみ言葉に聴いてゆく教会歴の後半が始まりました。今年はマタイ福音書を中心にみ言葉に聴いてゆく一年です。本日の福音の日課としては9章の終わりと10章の最初の部分が与えられています。そこには、イエスが町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒したとあります。それは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆」に対しての「深い憐れみの御業」であったと記されている。主は常にそのように私たちに関わって下さるのです。

 佐藤研訳の聖書(『新約聖書翻訳委員会訳』、岩波書店、1995)によると、マタイ9:35-38には「イエス断腸」という小見出しが付いていて、36節はこうなっています。「さて、彼は群衆を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていたからである。」これはなかなか味わい深い訳だと思います。実は「深い憐れみ」と訳されている言葉は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語ですが、それは「内蔵、はらわた」を意味するのです。ですから「憐れみ」よりも「はらわたがちぎれる想い」「断腸の思い」という訳の方がふさわしいと思います。岩波訳では脚注でこう説明されています。「内蔵は人間の感情の座であると見なされていたため、同語は『憐れみ、愛』などの意に転化、それが動詞化した」

 カトリックの神父で聖書学者の雨宮慧先生はこの言葉を次のように説明しています。「聖書でのはらわたは愛情やあわれみの情がうごめく臓器です。はらわたが活気づけば喜びが心に生じますが、逆に狭くなったり閉じたりすれば同情を欠き、他人に無関心になります。わたしたちのはらわたは、狭くなったり閉じたりしますが、決してそうならないはらわたがあります。それは神やイエスのはらわたです。この動詞は新約聖書ではイエスに使われる場合がほとんどです。イエス以外に『あわれに思う』人物と言えば、たとえ話に登場する三人の人物、つまり一万タラントンの借金を帳消しにした『主人』と、『善いサマリア人』と、放蕩息子の『父親』です。これらの人物はいずれも神を表しているとも言えます。この動詞の用例が神やイエスに限定されるのは、理由のないことではありません。人間は同情しても事態を変えることはできませんが、神やイエスにはそれができます。ですから『あわれに思った』イエスは病を患っている人を清め、目の見えない人をいやし、やもめの一人息子をよみがえらせ、食べ物のない群衆のためにパンと魚を振る舞います。放蕩息子を『あわれに思う』父親は、息子として彼を受け入れ、新たな命を与えます。わたしたちが神のもとに戻るとき、神のはらわたは喜びにふるえ、わたしたちを子どもとして受け入れます。」(『小石のひびき』、女子パウロ会、1999

 

「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20

 『神の痛みの神学』で有名な熊本のルーテル教会出身の北森嘉蔵先生は、「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20というところからこの「神のはらわた痛む愛」「神の痛み」と表現しました。「愛(アガペー)」という語よりこの「はらわた痛むほどの深い憐れみ」という語の方が私たちにより直接的にインパクトをもって迫ってくるように感じます。私たちは心配事があるとよく胃が痛んだりお腹の調子が悪くなったりしますが、主の深い憐れみとは「はらわたが痛むほどの深い思い」であり「断腸の思い」なのです。イエスは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆」一人ひとりのことを、その「羊飼い」のように深く心に留め、その「はらわた」をもって受け止め顧みられたということを示しています。旧約聖書では神の憐れみ深いことを「ラハミーム」という語を用いていますが、それは「ラハム」(「子宮」)というヘブライ語の複数形です。「内蔵(はらわた)」「子宮」も私たちの身体の中心に、最も奥深いところにある臓器です。人々の苦しみや悲しみをイエスはご自身の存在の中心で受け止められ、慟哭されたのです。ゲッセマネの園でのイエスの苦しみもだえるように祈る姿はその最たるものでした。その深い憐れみのゆえにイエスは群衆に近づき、そのただ中で神の国の福音を宣べ伝え、人々の病いや煩いを癒されました。神はイエスを通して、マタイ福音書が強調する言葉を使うならば「インマヌエル」、「いつどこででも、世の終わりまで、神は私たちと共におられる」という神の恵みの事実を宣言したのでした。

 イエスはそこで弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(37b-38節)。天の父なる神がその豊かな収穫のために働き人を起こし、派遣して下さるというのです。収穫の主である天の神に祈り求めることが私たちに求められています。

 マタイ10章ではイエスが十二人の弟子を呼び寄せ、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」「汚れた霊に対する権能」をお授けになったことが、12弟子の名前と共に記されています。イエスも12弟子たちも、ユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる「会堂で神の国の福音を宣教し」、②人々がそれによって苦しめられ、非人間化されている「ありとあらゆる病気や患いをいやす」という二つの主なる働きに携わっています。弟子たちもそのイエスの働きを継承するために立てられて派遣されてゆくのです。そして私たち自身もまた主の憐れみの働き人として立てられています。それは私たちが先ほど「特別の祈り」で祈った通りです。「全能の神、あなたは権威をもってみ国の到来を告げ、教えるために、み子を遣わされました。悩む人によい知らせを、悲しむ人に慰めを、囚われている人に自由を伝えるために、み霊の力を注いで下さい」。このような祈りを通して、神の聖霊が私たちを捉えて力を注ぎ、私たちをこの世界に派遣してゆかれるのです。「イエス断腸」の働きは今もこの地上に継続されています。

 

聖路加国際病院での臨床牧会訓練(CPE)での体験

 私がまだ神学生であった頃、1985年の秋のことでした。ルーテルの神学生たちは当時、聖公会神学院や日基教団の農村伝道神学校の神学生たちと共に、東京の築地にある聖公会の聖路加国際病院で三週間の「臨床牧会訓練(Clinical Pastoral Education/CPE)」と呼ばれる集中病院実習を受けることが定められていました。この「スプランクニゾマイ」という事に関して私には忘れられない一つのエピソードがあります。当時のチャプレンであった聖公会の井原泰男司祭がある時にこう言いました。「ボクは患者さんたちの話を聞いていて、患者さんが一番言いたいところになると胃がビクビクと動くんだよね」。私はその言葉に、えっ!? はらわたで相手の気持ちを受け取る? そんなことができるの?!」と驚きました。これこそ「スプランクニゾマイ」ではないですか。私にとってこれは一つの啓示とも言うべき出来事でした。それ以降、私は深いところでそこにこだわり続けてきました。私は牧師として様々な方の苦しみや悲しみの現実に立ち会うことが少なくありませんが、主イエスがはらわたがちぎれるほどに深い痛みをもって「牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていた群衆を深く憐れんでくださったか」ということの意味をしばしば考えさせられます。その時に私は井原先生の「胃がビクビク動く」という言葉を必ず思い起こすのです。キリストが私たちの悲しみ、痛みをご自身の存在の中心(はらわた)でもって受け止め、共に背負ってくださる! だから私たちはそのお方にすべてを委ねてゆけばよいし、それだけでよいのです。人生の苦しみや悲しみの前で私たち人間は確かに無力です。ただ弱り果て、打ちひしがれて沈黙する以外にはない。そのような厳しい現実の中に私たちは置かれている。しかしそのような私たちの現実のただ中に主は近づいてこられ、真の羊飼い(飼い主)として立ち、ご自身の深い愛と憐れみとを豊かに注いで下さいます。インマヌエルの神が私たちと共にいてくださる。この溢れるほど強い主の憐れみの力が私たちを造り変えるのです。その憐れみと愛に触れた時、私たちは心の目が開かれ、新たに変えられてゆきます。そのようなお方の深い憐れみに思いを馳せながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

2017年6月17日 (土)

2017年6月11日(日)三位一体主日礼拝説教「父、子、聖霊の神」

2017611日(日)三位一体主日礼拝 説教「父、子、聖霊の神」  大柴 譲治

創世記 1:3

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 

マタイによる福音書 28:10〜20

18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

三位一体主日にあたって

 本日は教会暦では「三位一体主日」。私たちは先週「聖霊降臨日(ペンテコステ)」を守りましたが、ペンテコステの次の日曜日は毎年「三位一体主日」として守られます。その名称が示しているとおり、本日は「三位一体」というキリスト教の教理について覚える主日であり、一年に52週ある日曜日の中で唯一、キリスト教の教理について覚える日なのです。典礼色は神の栄光を顕す「白」。先週は聖霊の命を表す「赤」が用いられました。来週からの約半年間は「聖霊降臨後の主日」として、典礼色は信仰の成長を意味する「緑」が用いられてゆきます。クリスマスの四週間前のアドベント(待降節)から始まった教会暦は、その前半は「アドベント」→「クリスマス」→「顕現日」→「四旬節(レント)」→「受難週・受苦日」→「復活日(イースター)」→「主の昇天日」→「聖霊降臨日(ペンテコステ)」「キリストの生涯」について学びを深めてきましたが、本日の三位一体主日を境として今度は「キリストの教え」についてみ言葉に聴いてゆく日曜日が始まってゆくのです。キリストの教えに耳を傾けるためにも、父と子と聖霊なる三位一体の神について私たちが心に刻む主日が本日与えられています。父なる神、御子なる神、聖霊なる神がおられるけれども、神が三人おられるわけではない。神はただお一人で、その一人の神が三つのペルソナ(それは「仮面」という意味のラテン語ですが、位格・役割・姿をも意味します)を持って私たちにご自身を啓示されているのです。三つで一つ、一つで三つというのは私たち人間の理性的な理解を越えていますが、教会は私たちはこのように信じますと告白してきたのです。そして三位一体の神の聖名によって礼拝を招集し、三位一体の神の聖名において洗礼を施し、神の聖名によって主を信じる者たちを全世界に向かって派遣してきたのです。主日礼拝も「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉に始まり、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって終わります。

 

復活の主の大宣教命令

 本日、三位一体主日に与えられている福音書の日課はマタイ28章の最後の部分で、復活のキリストによる「大宣教命令」と呼ばれる部分です。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:18-20

ここで復活の主は、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げておられます。マタイ福音書は、「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということを福音書全体を通して繰り返し強調してきました。1章の終わりに天使がヨセフに夢の中で表れて次のように告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。そしてマタイはイザヤ書の預言(イザヤ7:14)を引用するのです。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(同22-23節)。その名はインマヌエル! 復活のキリストが弟子たちに「全世界に出て行って、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」と命じた時にも、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げておられます。このインマヌエルという事実、「父と子と聖霊」という三位一体の神が世の終りまで私たちと常に共にいてくださるという神の恵みの事実は、私たちを支える根源的な事実(「原事実」)として、いついかなる時においても、またいついかなる場所においても、決して揺るぐことはないとマタイは宣言しています。私たちは「洗礼と聖餐」という「サクラメント」を通してその恵みを味わい続けることができるのです。神の恵みが私たちを捉えて離さないのだということを主は私たちが受け止め続けることができるように「サクラメント」(「聖礼典」とも「秘跡」とも呼ばれますが)を与えて下さいました。

 

「『光あれ。』こうして、光があった。」

 本日の第一日課は創世記の冒頭部分です。そこでは神が「光あれ」という第一声をもって天地創造を開始されたということが記されています。ここを読むたびに私はハッとさせられます。闇と混沌の中で神の声が最初に響き渡る。「光あれ!」「すると、光があった」「光あれ」という声、言葉によって私たちはそのイメージを心の中に点されます。何と言葉とは不思議なものでありましょう。「光」と告げられると私たちは「光」を意識し始める。バッハが作曲したカンタータの中に「目覚めよと呼ばわる者の声が聞こえ」というものがありますが、私たちがいつも目覚めるときには自らの意識がボンヤリと戻ります。それはちょうど向こう側から「目覚めよ」と呼びかけられるのと同じ状況です。意識しておりませんが、私たちは言葉を声として受け止めています。「声」は「言葉」を乗せる「器」であり「車」です。黙って一人で本を読んでいる時にも、沈思黙考している時にも、私たちの頭の中には声が響いています。「目が覚める」ということは、向こう側からの「起きよ」という声によって起こされるのと同じことなのです。バッハはそのことを正しく表現しました。「光あれ」という天からの声は私たちの眠っていた意識を呼び覚まし、光に向けて私たちを覚醒させてくれるのです。神の言、神の声にはそのような覚醒力、創造力が宿っています。その力にハッとするのです。宗教改革500年を記念するルターのバナーには「初めに言があった」というヨハネ福音書の言葉がありますが、聖書は私たちに呼びかけてくる太初の声の存在を告げています。この「声」の中に私たちを生かす希望の光がある。この光の中に私たちは創造され生かされている。神との人格的な呼応関係に生きるよう私たちが最初から造られていること、それを聖書は人間が「神のかたち」に造られていると告げているのです。

 

鈴木大拙のエピソード〜「無」の向こう側から屆けられるもの

 「向こう側から呼びかけてくる声」ということで私にはいつも思い起こすエピソードがあります。それは禅仏教の大家として世界的にも知られている鈴木大拙(だいせつ)のエピソードです。私は学生時代北陸の古都・金沢で過ごしました。金沢は「旧制四校」があったところで、『善の研究』でよく知られた哲学者の西田幾多郎と禅仏教学者の鈴木大拙が同じ年(1870年)に生まれ育った土地でもあります。後に神学生の時、三鷹のルーテル神学校で仏教とキリスト教についての講演会があり、鈴木大拙先生の高弟であった加藤智見というお坊さまから伺った話です。

 鈴木大拙は毎晩寝る時には枕元に電気スタンドと神と鉛筆を用意して寝たそうです。そして寝ていても何かがパッと閃くと、ガバッと起きてスタンドを点け、紙と鉛筆を取ってそこにサラサラと書き付けたのだそうです。書き終わるとまた電気を消して床につきました。そんなことが夜の間に何度かあって、朝になると枕元には文字が書かれた紙がたまっていて、それがそのまま印刷に回されて本として出版されていったのだそうです。そのことについて大拙はこう語られたと伺いました。「私は何もしていない。ただ向こう側から届くものを自分は書き留めているにすぎない」と。一度聞いたら忘れられないような羨ましくも印象的なエピソードです。しかし考えてみれば私たちも毎朝、目醒めよと呼ばわる者の声によって起きているという意味では、同じなのかもしれません。

 「光あれ」という声を闇の中に響かせることを通して三位一体の神はその創造のみ業を始められました。私たちもまた向こう側から響いてくるお方の声に耳を澄ませてゆきたいと思います。インマヌエル、神われらと共にいます!このお方に信頼して新しい一週間をも踏み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に祝福をお祈りします。

2017年6月 8日 (木)

2017年6月4日(日)聖霊降臨日礼拝説教「聖霊の息吹き」

201764日(日)聖霊降臨日礼拝 説教 「聖霊の息吹き」      大柴 譲治

使徒言行録 2: 1〜21

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

 

聖霊降臨日に起きた出来事

 本日は教会暦では「聖霊降臨日(ペンテコステ)」。教会暦では「復活日(イースター)」、「降誕日(クリスマス)」に次ぐ三大祝祭日の一つです。先週私たちは「主の昇天主日」を守りました。復活後40日に渡って復活した姿を弟子たちに示されたイエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられた昇天の出来事を覚えたのです。それ以降、直接的にはイエスの姿は弟子たちの肉眼には見えなくなりました。そしてちょうど昇天から10日経った日、復活日から数えるとちょうど50日目の日曜日のことでした。弟子たちが一つのところに集まっていると聖霊降臨の出来事が起こります。「ペンテコステ」とはギリシア語で50を意味します。復活が日曜日に起こり、聖霊降臨日も日曜日に起こったので、それまではユダヤ教の「安息日(第七の日)」である「土曜日」に集っていたキリスト者たちは、週の終わりの日ではなくて週の初めの日である「日曜日」「主日」として礼拝を守るようになって行きます。

 そこで起こったことについてルカは次のように簡潔に告げています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。何度聞いてもとても不思議な光景です。神の聖霊そのものは、風が私たちの眼には見えないのと同様に、眼には見えないはずであるのに、ここでは「突風のような大音響」「炎のような舌」として描かれています。耳に聞こえ、肌に感じ、目に見えるかたちで記録されている。人間が五感を通して聖霊の存在を感じ取ることが出来るように描かれているのです。そしてそこで起こったことは、「一同が聖霊に満たされて、その神からのが語らせるままに、ほかの様々な国々の言葉で話し出した」ということでした。この出来事に大きな物音に集まってきたエルサレムにいた人々は驚きに満たされ、あっけにとられます。信じられないことにガリラヤ人(その多くは漁師でした)たちが「自分たちの生まれ故郷の言語」で話していたからです。それがどのような言語であったかもリアルに記されています。「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』。人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」。福音書記者ルカの文筆家としての無駄のない的確な筆致はさすがです。

 彼らは何を語り出したのか。それは一つの出来事でした。14節から以降に記録されているペトロの説教に明らかです。それは、旧約聖書ヨエル書(本日の第一日課)の預言の成就であり、神がイエス・キリストの救いの出来事であり、一言で言えば「イエス・キリストの福音」です。彼らは聖霊に満たされてキリストの福音を、それを聴く人々の魂に響く言葉、こころに届く言葉で語り始めたのです。「魂に響く」「こころに届く」という点が大切です。

 

「聖霊言行録(行伝)」としての「使徒言行録(行伝)」

 私が三鷹のルーテル神学校で学んでいた時、新約学教授の間垣洋助先生が『使徒言行録』(当時は口語訳聖書でしたので『使徒行伝』と呼んでいました)について授業で語られた言葉が今でも私の心に強く刻まれています。間垣先生はこう言われました。「ルカが記した『使徒行伝』には前半はペテロ、後半はパウロの働きが書かれています。しかしその真の主人公はペテロでもパウロでもありません。神の聖霊です。聖霊が彼らを捉えて使徒とし、福音宣教者として派遣していった。だから『使徒行伝』は『聖霊行伝』と呼ぶべき書物です。そして、『使徒行伝』は28章で終わっていますが、聖書は閉じられたかたちで完結しているわけではありません。その29章以降は、皆さん一人ひとりの人生を通して神の聖霊がそこに書き加えてゆくのです」と。確かにその通りです。神の聖霊は、聖霊降臨日以降、二千年に渡って人々の中にキリストの福音を信じる心を呼び覚ましてきました。そのことはキリスト教の歴史が証ししています。二千年続いた「カトリック教会」の歴史を見ても、500年続いた「宗教改革の教会/プロテスタント教会」の歴史を見ても、また百年続いたこの「ルーテル大阪教会」の歴史を見ても、さらには私たち自身の人生の歩みを見ても、そこには確かに聖霊が生きて働いてきたと申し上げることが出来ましょう。使徒言行録の29章以降が二千年に渡って書き続けられてきたし、今も書き続けられているし、今後も「終りの日」まで書き続けられてゆくのです。

 私は以前にどこかで「会社など人間が始めることは三世代、だいたい70年ぐらいの長さで終わってゆく」と聞いたことがあります。時代が変わってゆくということもあるのでしょうが、親が始めたことが子に受け継がれ、そして孫の時代まで続いて終了してゆくというのです。なるほどと思いました。しかしそのスパンから考えるとキリスト教会がしてきたことはすごいと思います。人知や人の力を越えている。そこには愛の聖霊が働いているとしか言うことができません。宗教に限らず、芸術や思想、文化なども、それが真実なものであれば残り続けてゆくのだと思います。

 

聖霊の息吹きに満たされて

 私たちが神の聖霊に満たされる時に何が起こるか。そこには、「特別の祈り」で祈ったように、言語や文化・習慣の違いや、歴史や思想的立場の違いを超えて、キリストの福音が全世界共通語として私たちの心を愛の中に一つに結び合わせてゆくということが起こります。ペンテコステに起こったことは、創世記12章にある「バベルの塔」と真逆の、正反対の出来亊でした。バベルの塔の出来事では、それまで人間が一つの言葉で話していた時代に、天にまで届くような塔を作ろうとした人間、神のようになろうとした人間が神の怒りに触れて言葉が通じなくなり、全地に散らされていったことが記録されています。言葉が乱されたというのは、互いに心が通じ合わなくなったということでしょう。それに対してペンテコステの出来事では、多くの言葉で語られたイエス・キリストの福音が、様々な違いを超えて、人々の心を結び合わせ、通わせて、一つの群れにしていったということです。

 昨夕この教会で「第11回のペンテコステ・ヴィジル」が行われました。「ヴィジル」というのは「前夕の祈り」と訳されますが、本来は「世を徹して行う徹夜祈祷」のことを意味します。カトリック教会、聖公会、ルーテル、日本基督教団や他の教派から90名ほどの参加がありました。11年前からこの大阪で始められたエキュメニカル(超教派的)な働きです。それは、目に見えるかたちで連帯と一致を目指す共同の働きであり、聖霊の働きでもありましょう。亡くなられた小泉潤牧師がよく語っておられたように、「弟子たちが一つに集まっていたところに聖霊が降る」のです。私たちが一つところに集まること、集められることこそ大切なのです。イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20と言われたように、私たちが毎週主日礼拝に集うのも、聖研や集会に集うのも、そこに神のいのちの息吹きが注がれ、主イエスが臨在しておられることを共に知ることができるからです。

 風そのものが眼には見えないように、聖霊そのものも私たちの眼には見えません。しかし、風が吹くと何かが動かされるのと同様に、神の聖霊(==息吹き)が吹くときにはそこで何かが動かされるのです。私たちの中の何かが、社会の中の何かが、世界の中の何かが愛なる神の聖霊の息吹きによって変えられてゆく。私たちのこころとこころ、魂と魂とが結び合わされ、互いに通い合うものとされて行く。ご一緒にその風にすべてを委ね、身を任せてゆきたいと思います。お一人おひとりの上に神の聖霊による豊かな祝福をお祈りいたします。アーメン。

2017年6月 2日 (金)

2017年5月28日(日)主の昇天主日礼拝説教「天からの祝福」

2017528日(日) 主の昇天主日礼拝 説教 「天からの祝福」   大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙1:15〜23

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節)

ルカによる福音書 24:44〜53

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(50-53節)

 

昇天の主は天国で何をしておられるか

 本日は教会暦では「主の昇天主日」。復活後40日に渡ってご自身の姿を弟子たちに示された復活の主イエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられた出来事を覚える主日です。そこからイエスの姿は弟子たちの眼には見えなくなりました。そして10日が経って、弟子たちが一つのところに集まっていると聖霊降臨の出来事が起こります。復活日から数えるとちょうど50日のことでした。来週が聖霊降臨日となります。その前日の土曜日の夕には、この大阪教会でカトリックと聖公会、日本基督教団、日本福音ルーテル教会が集まり、「ペンテコステ・ヴィジル(聖霊降臨日の前夕の祈り)」が行われることになっています(後援:大阪キリスト教連合)。本日は、主の昇天の出来事が私たちにとってどのような意味を持っているか思い巡らしながら、聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。

 最初に一つ質問です。イエスはある時に「誰でも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と言われましたが、幼子に戻ったつもりでお答えいただきたいと思います。イエスは天国で何をしておられるのでしょうか。ヒントは本日の福音書の日課です。ルカ24:50-51には次のようにありました。

 

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた

 

 そうです。「イエスは天国で何をしておられるのか」という問いに対する答えは、「いつも両手を上げて私たちを祝福しておられる」になります。私たちは礼拝の最後に司式者によって「アロンの祝福」(民数記6:24-26)をいただきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主がみ顔を貴方に向け、あなたに平安を賜ります」。これをいただいて礼拝を終え、それぞれの生活の場に私たちは散らされ派遣されてゆくのです。このことは実は、復活されたキリストが天においても私たちを祝福して下さっている神の恵みの事実に与ること、私たちがその主の天からの祝福に与るということを意味しています。牧師の声を通して天のキリストが神の祝福を宣言しているのです。

 

「祝福の源(基)」としてのアブラハム

 そのことは私たちにアブラハムに対する神の召命を想起させます。主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(創世記12:1-4

 神は「祝福の源」であるアブラハムを通して、その「祝福」を人々に分かち合おうとされたのです。神は霊的には「アブラハムの子孫」である私たち「教会」を通して、その「祝福」を多くの人々に分かち合おうとされています。ここには「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」とあり、厳密に言えば「祝福」だけでなく「呪い」も出てきますが、基本的には神は恵み深いお方ですから私たちに「祝福」を与えようとしていると理解できましょう。ルターが小教理問答の十戒にも引用していますが、出エジプト20章にこう通りです。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(5b-6節)。ここで新共同訳で「熱情の神」と訳されている語は、長く口語訳聖書では「ねたむ神」(英語では「ジェラシーの神」)と訳されていました。そこでは慈しみが罪とは比較にならないほど「幾千代にも及ぶ」まで豊かに与えられると言うのですから。本日の第二日課、エフェソ書1:23にあった通りです。パウロはこう言います。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。これは神の平安と祝福とが豊かに満ち満ちている状態を表していましょう。

 

私たちの過酷な現実の上に注がれる天からの祝福

 しかし私たちの現実はどのような現実であるか。それは「祝福された喜びの現実」であるというよりも、むしろ「呪われたような、辛く悲しい現実」であることが多いように思います。私たちの現実を見ると「どこに天からの祝福があるのだろうか」と思わされることの方が多いのです。

 たとえば、この3月末には、大阪教会のすぐ裏に「大阪国際がんセンター」がオープンしました。森ノ宮から移転してきたのです。それによって地下鉄谷町四丁目駅の人の流れが確かに変わりました。この大阪国際がんセンターは高度な治療設備を整え、最先端のがん治療が受けられる病院です。病床は500床。ホームページを見ると、その理念としては「患者の視点に立脚した高度ながん医療の提供と開発」とありました。そして運営の基本方針として次の5つが挙げられていました。①先進医療の開発と実践、患者満足度の徹底追求、教育と情報発信の充実、④医療資源の最大利活用、⑤経営改革へのたゆまぬ努力。

 ですからある意味でこの地域は病気との闘いの場であり、「戦場」とも呼びうる場所であると言ってもよいと思います。しかし同時にここは、どのような困難な現実の中にあっても、決して諦めずにがんとの闘いに挑む「希望の場所」でもあります。このような場所に「私たちの教会」が位置しているということには、大切な意味があると思います。教会を通して、昇天の主は、その祝福の御業を宣言し続けて来ました。人間の現実の困難のただ中にあって「神の祝福の器」「祝福の源」として、私たちはこの地において百年間、福音を宣言し続けて来たのです。その祝福とは、どのような時、どのような状況の中にも「インマヌエル、神われらと共にいます」という神の恵みの現実があるということです。キリストの救いの光が届かない闇の底はどこにもないのです。

 パウロも2コリントの4章でこう言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(7-11節)。「為()ん方(かた)尽(つ)くれども希望(のぞみ)を失(うしな)わず」です。それはイエスご自身が、あの十字架に架かることを通して、私たちの呪われたような救いのない現実を、神の豊かな祝福の現実へと変えて下さったからです。イエスは人間の罪に対する罰と呪いとをその身に引き受け、代わりにご自身が持っていた神の赦しの祝福を私たちに与えて下さった。それはキリストによる「祝福」「呪い」との「喜ばしき交換」でした。

 今朝も私たちはキリストの食卓に集います。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、パンとブドウ酒をご自身のからだと血として私たちに差し出して下さったキリスト。このキリストの祝福に与ることが私たちのいのちの希望なのです。神われらと共にいます。そのことを覚えて、この新しい一週間をもご一緒に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に昇天の主の豊かな祝福と恵みとがありますようにお祈りいたします。 アーメン。

2017年5月27日 (土)

2017年5月21日(日)復活節第6主日礼拝説教「わたしの弁護者」

2017521日(日) 復活節第6主日礼拝 説教「わたしの弁護者」     大柴 譲治

ヨハネによる福音書 14:15〜21

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(14:16-17a

 

聖書=「神の愛の手紙」

 「聖書は神さまからのラブレター」。これは実存主義の哲学者、ゼーレン・キルケゴール(デンマークのルーテル教会員)の言葉です。「だから聖書のどのページを開いても、そこからは神さまからの『I Love You!』という声が響いてくる」と彼は言ったのです。なかなか味わい深い至言です。「I Love You」は「あなたは(私の)大切な人」とも「(あなたが)大好き!」とも訳せる言葉でしょう。また、意訳すれば「君は愛されるため生まれた」とも「人生には生きるべき大切な意味があり、目的がある」とも訳しうるかも知れません。「I Love You(アイ・ラヴ・ユー)」、もしかするともうこれは既に日本語になっている言葉なのかもしれません。聖書をラブレターとして読むというのは正しい読み方であると思われます。「神はその独り子を賜るほどこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」なのです(ヨハネ3:16)。そして聖書は神さまの聖霊、愛の霊を受けた人たちが、何とかその愛を伝えようとして書いた文書です。それは一冊になっていますが、そこには旧約聖書に39冊、新約聖書に27冊、合わせて66冊の本が合体しています。66冊はどれも神の愛が最も明確に示された「主イエス・キリストの出来事(受肉と十字架と復活)」を指し示しているという意味で66冊のキリスト」と言った人もいます。

 「神の愛」ということばは最初日本語では「デウスの御大切(ごたいせつ/おたいせつ)」と訳されました。「愛する」とは「大切にする」ということです。「愛する」というよりも「大切にする」という表現の方が私にはストンと腑に落ちるように思われます。神は私たちのためにご自分が一番大切に思っておられたその独り子を与えてくださった。そこに神の愛(御大切)があります。

 「愛」という漢字について誰かが言いました。「愛という字は、真ん中に心という文字があるでしょう。それは心を受けると書くんです。すなわち愛とは、自分の存在の中心で相手の心を受け止めること、互いに受け止め合うことなのです」と。よく見ると愛という文字の中にあるのは「受ける」という字とは少し違うようにも思います。ある漢字語義辞典などを引きますと、「愛」という字は、象形文字的には、「後ろを振り返る人の姿」と「心臓」と「足」とが組み合わさった「別れの切なさ」を表す字であるということのようですが、私自身はこの「心を(存在の中心で)受ける」という説明は「なるほど、愛についてうまく説明している」と思わされています。愛の無い人生があるとすれば、それは何と味気ないものになるだろうかと思うからです。愛し、愛されるということがあるからこそ、私たちの人生は豊かなものとなってゆくのです。

 ある意味で私たちは、「まことの愛、真実の愛とは何か」ということをこの世の人生において懸命に探求しているとも言えます。それは、聖書が告げるように、私たちの心、私たちの魂が、最初から愛を求めるように、真実の愛に向かうように造られているからでありましょう。赤ちゃんを見ると分かりますが、私たちは生きるためには「愛されること」を必要としています。自分を守ってくれる親の愛なくしては片時も生きることはできません。そのように赤ちゃんはまず最初に「愛されること」を通して「愛すること」を学んでゆくのです。そして長じて、例えば家族を持ち、親となることで、「愛すること」を通して「自分が愛されてきたこと」をも確認してゆくのです。「愛されること」の大切さ、「愛を豊かに注がれること」の必要性はどれほど強調しても強調しすぎることはありません。私たちが今ここに生きて存在しているのは、多くの人々の愛を受けてきた結果なのです。ここに至るまでに私たちは無数の他者からの「愛」という恩を受けてきました。この世を生きてゆく上で、私たちには愛されてきたこと、大切にされてきたことの記憶を想起することが大切です。

 

「彼は私の弁護者(カウンセラー)なんだ」〜映画『フィラデルフィア』(1993)より

 私は映画が好きで、時折時間を見つけては映画館に足を運んだり、テレビで鑑賞したりします。『フィラデルフィア』(1993)という映画をご存知の方もおられるかもしれません。その映画は大変にシリアスなテーマを扱っていて、同性愛(ゲイ)のためにエイズになった一人の弁護士が主人公で、実際にあった出来事をベースにして作られたようです。同性愛やエイズに対する偏見のために弁護士事務所を不当に解雇された主人公アンドリュー・ベケットを名優トム・ハンクスが演じ、その年のアカデミー主演男優賞を獲得しています。その弁護士事務所の先輩弁護士たちを主人公が裁判に訴え、それに勝訴するプロセスを描いた映画でした。主人公自身も弁護士なのですが、その難しい裁判の弁護を引き受けてくれる弁護士がなかなか見つからず、結局デンゼル・ワシントン演じる黒人弁護士ジョー・ミラーが孤立無援の主人公に対し共感を覚えて弁護を引き受けてゆきます。そこに人間としての友情が芽生えてゆくというヒューマンな流れも描かれた映画でした。映画は、同性愛や友情、家族愛といった様々な領域の愛を扱いながら、「真実の人間の愛とは何か」ということを深く掘り下げていたと思います。愛とはどこまでも相手をありのままで大切にすることなのです。「フィラデルフィア」というタイトルにも実は深い意味が込められています。それはギリシャ語の「フィリア(愛)」と「アデルフィア(兄弟)」という語が繋げられた言葉で「兄弟愛」を意味しています。映画の舞台は米国の独立宣言起草の町であるペンシルバニア州のフィラデルフィアでした。そこは同性愛やエイズなど社会的に様々な課題を抱えている町でもありました。

 その映画には印象的な場面がいくつもあるのですが、その中でも主人公が自分の家族にこれから自分がやろうとしている裁判について話しをする場面がありました。年老いた両親も兄弟たちやその家族たちも、一人ひとりが、主人公たちのカップルを信頼し、愛し、「自分の思っていることを貫け、私たちはそれを心から理解し応援するから」と言ってくれたのです。家族の愛に支えられ、励まされて、主人公が孤立無援の闘いを決断してゆくことがよく伝わってくる場面でした。やがて病気が進行する中、裁判が進んでゆきます。そして遂に法廷で主人公はめまいがし、力尽きて倒れてしまうのです。しかし弁護を引き受けた黒人弁護士の努力もあって、結果としてその裁判は勝訴に終わります。同性愛やエイズに対して偏見を持つ人々の闇が次第に明らかにされてゆきます。主人公が入院している病院に弁護士が勝利を告げに訪れる場面だったでしょうか、死を目前にした主人公が嬉しそうに「彼は私のカウンセラー(弁護者)なんだ」と笑顔で周囲の人々に言う場面が深く印象に残っています。

 

「わたしの弁護者」

 本日の福音書には次のようなイエスの約束の言葉があります。あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ14:15-17)。父なる神が聖霊を私たちの弁護者として派遣して下さると言うのです。この「真理の弁護者」がどのような困難な時にあっても私たちを見捨てず、必ず共にいて私たちを守り、支え、導いてくださる。これはまことに確かな事柄です。

 ヘンデルの『メサイア』の中に「ワンダフルカウンセラー」という言葉がとても印象的な曲があります(第一部第12「ひとりのみどりごがわれらのために生まれた」)。それはイザヤ書の9:5(口語訳では6節)のメシア預言からの引用ですが、そこにはこうあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者(Wonderful Counselor口語訳聖書では「霊妙なる義士」となっていました)、力ある神(Almighty God)、永遠の父(Eternal Father)、平和の君(Prince of Peace)』と唱えられる」。「わたしの弁護者・ワンダフルカウンセラー」として私たちを愛し、その心をご自身のはらわた(中心)で受け止めながら、どのような困難な状況の中にあっても私たちと共に歩んでくださるお方がおられます。そのお方につながっている幸いを深く味わいながら、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

2017年5月14日 (日)

2017年5月14日(日)復活節第5主日礼拝 説教「いのちの道」

2017514日(日)復活節第5主日礼拝 説教「いのちの道」大柴譲治 joshiba@mac.com

ヨハネによる福音書 14:1〜14

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」

 ヨハネ福音書はある意味、非常に分かり易い書物です。イエスがご自分のことを「わたしは〇〇である」と宣言している言葉が多く、私たちの記憶に留まり易いためであると思われます。例えば先週私たちはヨハネ10:11から「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」という言葉を聞きました。また、「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である」(15:5)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは命のパンである」(6:35などなど、印象に残る主イエスの言葉は枚挙にいとまがありません。

 本日の箇所も同様です。主イエスはそこで「わたしは道であり、真理であり、命である。」と宣言しておられる。そして「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われているのです。その意味するところは明白です。キリストは父なる神に至る道であり、真理に通じる道、命の道である、というのです。私たちに神に至る一つの道が示されているのです。本日は「道」ということについてみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

「キリスト道」を歩む

 ローマ帝国は交通のために「道路網」を整備しました。「すべての道はローマに通じる」という言い方があるくらいです。ヨーロッパとアジアを結ぶ「シルクロード(絹の道)」という道もありました。「道」というものを通して、商業や貿易、文化や人的な交流が促進されてきたのです。私たちは「道」というものの大切さを知っています。「道」を通って私たちは目的地に向かってゆくのです。日本語には「道を究める」という言い方があります。書道や茶道、華道や武道(剣道や柔道、弓道など)、道教の影響もあってのことでしょう、何事も「真理に通じる道」として受け止められてきました。そしてどのような「道」であっても生涯を賭けて「芸を磨いてゆくこと」「道を究めてゆくこと」が大切というように考えられてきたのです。

 私たちにとってキリストを信じる「信仰」も一つの「道」であると位置付けることができましょう。私はそれを「キリスト道」と呼びたいと思っています。しかしこの道は私たちが神へと近づいてゆくような「上り道」ではない。私たちは自らの「罪」のゆえに神に近づいてゆくことができなかったからです。この「道」は、神が、天におられた神の方からこの地上に生きる私たちに近づいて来てくださったそのような「下り道」なのです。自分の能力や業績や努力や地位を誇るような「昇り道」ではない。かえって自分の弱さや破れ、無力さや惨めさを誇る「降りてゆく道」です。パウロも言っています。「私は喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜならば、私は弱い時にこそ、キリストにあって強いからだ」2コリント12:9-10「キリストに従う道」とは、自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを誇る、そこに働くキリストの強さを誇る、そのような道なのです。

 

浦河べてるの家

 今、日本のみならず世界中から注目を集めているのが北海道(北海道も「北の海の道」と書きますね)の浦河というところにある「浦河べてるの家」という精神障がい者の施設とその活動です。その活動が始まってもう30年以上になります。べてるの家とは、1984に設立された浦河町にある精神障がい等をかかえた当事者の地域活動拠点で、社会福祉法人浦河べてるの家(2002年法人化-2つの小規模授産施設12の共同住居、3つのグループホーム)、有限会社福祉ショップべてるなどの活動の総体です。そこで暮らす当事者たちにとってそれは、①生活共同体、②働く場としての共同体、③ケアの共同体という3つの性格を有しています。最初はクリスチャンソーシャルワーカーの向谷地生良という方が日基教団浦河教会で始めた小さな活動から始まりました。今は日本中から病気を抱えた人が集まってきて、何と年商1億円もの利益を出すまでになっています。もちろん「べてるの家」は聖書から命名されています。「ベテル」とは「ベート・エル(神の家)」という意味です。

 皆さんの中にも「当事者研究」という言葉をお聞きになった方もおられることでしょう。浦河べてるの家では、皆が自分の病気を自分で研究材料にしているのです。それは「当事者研究」と呼ばれています。たとえば、幻聴を持っている人はそれを「幻聴さん」と呼んで研究対象にしてしまっているのです。病気が治るわけではありません。むしろ病気さえも自分に与えられた「個性」として笑いながら味わい楽しむというような姿勢でしょうか。病気はよくならないのに、皆がそれを抱えたままでどんどん元気になってゆく。不思議な実践です。私は20079月に浦河べてるの家を訪問させていただいたことがあります。その半年ほど前に教会のニュースレターに書いた文章がありますのでご紹介させてください(むさしのだより20073月号巻頭言)。

 

浦河べてるの家の「当事者研究」  大柴讓治

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」2コリント12:10/ クリスチャンのソーシャルワーカー向谷地生良(むかいやち いくよし)氏の書いた『安心して絶望できる人生』(NHK生活人新書、2006)という書物を知った。そのたすきには印象的な言葉がある。「病気なのに心が健康になってきた。精神病を抱えた人たちが、自分で自分の助け方を見つける浦河べてるの家。今日も順調に問題だらけだ!」北海道の襟裳岬の近くに浦河という人口15千人の過疎の町があり、そこに「浦河べてるの家」という共同体がある。「べてる」とは「神の家」(創世記28章)という意味のヘブル語。その「問題だらけの共同体」についてのレポートが実に面白く、読む者の心にまっすぐに響いてくる。/ そこには、これまで幻聴など精神的な病いに長く苦しめられてきた人々が自分自身を研究対象にすることで気づきを深め、それを分ち合うことを通して共同体を形成してゆく姿が描かれている。題して「当事者研究」。なるほど!それは私にとって「目からウロコ」体験であった。私たちの問題は「自分の中に弱さを抱える」ことにあるのではなく「その弱さを分かち合う共同体を形成できないでいる」ことにあるのだ。困った時に、それを乗り越えること以上に大切なことは、「今、私は困っています」というSOSを外に向かって発することなのである。これが簡単に見えて難しい。自分の無力さをさらけ出すことになるからだ。しかし不思議なことに、それができた時に共同体が形成されてゆく。安心して弱さを分ち合い、絶望を担い合うことのできる共同体がそこに出現する。「しかし、『絶望感』という鉱脈を掘り当てたときに、ふつふつとわき上がってきたのは、不思議にも『充実感』だった」(『べてるから吹く風』)。ティリッヒに触発されながら向谷地氏は、イエスが人々の弱さの中に降り立ったことに思いを馳せつつ、ソーシャルワーカーとして自らの無力さを原点に「安心して絶望できる援助」を展開してゆく。/それは決してきれい事ではない。そこには生身のぶつかり合いがあり、徒労と失望の涙があり、どん底を共に生きようとする覚悟があり、気が遠くなるような忍耐がある。同時に、底抜けの明るさがあり、ユーモアがあり、しぶとい生命力があり、かけがえのない人間のドラマがある。登場人物一人ひとりが何と生き生きと輝いていることか。べてるの家の混とんとした現実を見守る精神科医や看護師、ソーシャルワーカー、牧師や浦河の人たちの姿も実に温かい。/ この世の上昇志向的な価値観に真っ向から対立するその「降りてゆく生き方」に「我弱き時にこそ強し」というパウロの言葉を思い起こす。そこにキリストのリアリティーを強く感じるのは私だけではあるまい。この本を多くの方に手にしていただきたい。そして私たちの気づきを分ち合うことができれば、私たちもそのような共同体に参与できるようになるのではないかと思う。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言して下さった主イエス・キリスト。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言いながら、向こう側から私たちの所にその命の道を開いて下さったお方がいます。そう言って私たちと共に歩んでくださるお方がいる。そのお方につながっている幸いを深く味わいながら、この新しい一週間をもご一緒に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に復活の主の豊かな力と祝福とがありますように。アーメン。

2017年5月 8日 (月)

2017年5月7日(日)復活節第4主日礼拝説教「わたしはよい羊飼い(詩編23編)」

201757日(日) 復活節第4主日礼拝 説教「わたしはよい羊飼い(詩編23編)」  大柴 譲治 josihba@mac.com

詩編23/ ヨハネによる福音書 10:1-10

10 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:10b-11

 

主はわたしの羊飼い

1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

 これは詩編23編からの言葉です(1-4節)。詩編23編は、全部で150編ある詩編の中でも最も有名で、最も愛されてきたものの一つです。皆さまの中でも愛唱聖句とされておられる方も少なくないと思います。この詩編23編が本日の礼拝の主題詩編となっています(各主日の主題詩編は教会手帳に掲載されています)。この詩編を私たちは、私たちの羊飼いである主イエス・キリストに対する徹底した信頼の詩編として受け止めることができます。この羊飼いと羊の信頼関係はどのような中にあっても決して揺らぐことはなく、損なわれることはないのです。主はどのような時にあっても、どのような場所にあっても、私の羊飼いであって、私には何一つ欠けたこと、乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴いたもう。主の御名のゆえにわたしの魂を生きかえらせ、常に私を正しい道へと導き給う、のです。人生においてこのような羊飼いを持つことができる者は幸いであると言わなければなりません。人生は山あり谷ありです。順風の時もあれば逆風の時もある。しかしどのような時にも、たとえ苦難の中にあっても、この詩編23編は実に多くの人々を支えてきました。「たとえ死の陰の谷をゆく時も、あなたが共にいますがゆえに、災いを恐れません」と告白することが私たちには許されていることは幸いです。羊飼いが持っている鞭と杖とが、私たちを悪しき敵から守り、どのような時にも私たちを力づけてくれるのです。この羊飼いとの関係は決して揺らぐことがありません。

 この詩編はイスラエルの歴史の中で読まれてきたものでした。神とその神の民との間の強い信頼関係を歌ったものです。作者は浮き沈みの激しいこの人生において神の愛と保護とを確信し、平静そのものであります。

 そして5-6節は次のように歌っています。5 わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。ここでは、私たちを待っているであろう「終りの日の祝宴」(終末論的な希望)が指し示されています。このような希望があればこそ、私たちは「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」とパウロがローマ書5章で告げているように、現実の困難を耐えてゆくことができるのです。

 この詩編は、歴史的に見るならば、旧約聖書につぶさに記されているように、神の民イスラエルの歴史を導いた牧者としてのヤーウェを歌ったものでありましょう。ヤーウェは「その牧の(羊の)群れ」であるイスラエルを、モーセを立てて、「死の影の谷」であるエジプトから導き出し、途中の荒れ野では水のあるところ(岩清水)に導き、緑の牧草が豊かな約束の地に連れて入ってゆきました。5節のわたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。という言葉は、敵のただ中からの救出のしるしとして祝った最初の過ぎ越しの食事を意味しているとも理解できます。「御名にふさわしく」とは「ヤーウェ」という聖なる神の名前が本来、ヘブル語の動詞形の「ヤー」という語に由来し、それが「ある、存在する」「ありてある者」という意味であったように、神が常にその民と共にあったこと(インマヌエル!)を意味しています。「ヤーウェ」という御名にふさわしく、その民を守り、導き、世話をしながら、「正しい道へと導かれた」ということが告白されています。「死の陰の谷」とは「敵に殺される危険」を意味し、これを「暗い闇」と読む人もいるようですが、歴史的には「エジプトでの10の災害」のうちの「暗闇」と「初子の死」を指したものであるとも考えられます。ヤーウェなる神は、小羊の血によってイスラエルの民からこれらの災いを過ぎ越された(英語では「Pass-over」)のでした。「鞭と杖」とは、オオカミを追い払うための「鞭(棒)」と羊を導くための「杖」を意味します。「わたしの頭に香油を注ぎ」とは「主人のもてなしの意を表すために客人に注がれる香油」のことを意味しています。同時にこの「油注ぎ」は、将来のイスラエルに対するヤーウェの祝福を意味しているとも考えられます。主イエスは神によって「油を注がれた者(キリスト/メシア)」となられたのでした。

 本日の福音書の日課にも、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(10:3-4とありました。実際に羊たち一頭一頭には名前が付いていたようです。羊という動物は、大変に視力が弱いようですが、逆に聴覚は並外れて優れていたようです。その羊が迷子にならないように、羊飼い主イエス・キリストは、羊たちが迷子にならないようにその名前を呼びながら、ある時には先頭に立って、ある時には一番後ろから、またある時には羊の横に並んで、歩いてくださるのです。歩けなくなった羊をその胸に抱いて歩いて下さることもあったことでしょう。そして群れの先頭に立って私たちを導き守って下さるのです。羊は羊飼いの声を知っていて聞き分けるので、羊飼いに安心してついて行くことができます。主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがないからです。

 

私たち一人ひとりもまた、主によって「小さな羊飼い」としてこの世に派遣されてゆく

 そして主が私たちのために命を捨てるよい羊飼いであるという事実は私たちを根底から造り変えてゆきます。私たち自身もまたキリストによってこの世の苦しみや悲しみの中に置かれている「飼う者のない羊」のような存在に向かって派遣されてゆくのです。羊飼いであるキリストはその手足として私たちを用いてゆかれるのです。宗教改革者のルターはそれを「全信徒祭司(万人祭司)」という言葉で言い表しました。「すべてのキリスト者は『祭司』としての務めと責任を持つ」とルターは言ったのです。それは何か。神と人々の間に立つ「祭司」には二つの役割があります。一つは「人々に神の言葉を伝える」という役割です。方向としては、神から隣人に向かう方向(ベクトル)であると言ってよいでしょう。聖書のみ言葉を通して、神のI Love Youという確かな声を隣人に届ける役割です。そしてもう一つは、隣人のために神に対して「とりなしの祈りを捧げること」です。隣人のために祈る役割です。こちらは、先とは逆で、隣人から神へとベクトルは向いています。私たち一人ひとりが「小さなキリスト」となり(ルター『キリスト者の自由』)、「小さな羊飼い」となるのです(それを「真の羊飼いであるイエス・キリストを助ける牧羊犬」と言った私の恩師もいました)。ここに深く大きな、揺るがぬ喜びがあります。まことの慰めがあり、希望があります。この人生という旅路を、真の羊飼いである主イエスの御声に従ってゆく幸いを味わいながら、私たちはご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいのです。

 お一人おひとりの上に主の豊かな力と守り、導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。アーメン。

 

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