2018年2月18日 (日)

2018年2月18日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」

2018218日(日)四旬節第一主日礼拝説教「無条件の存在是認」  大柴 譲治    

創世記 9: 8〜17

すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。(13節)

 

マルコによる福音書 1: 9〜15                   

そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。(9-11節)

 

四旬節第一主日

 本日から六週間の四旬節に入ります。先週の水曜日から聖灰水曜日(Ash Wednesday)ということで、教会暦では主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入りました。典礼色は悔い改めの色であり王の色でもある「紫」。日曜日を除く40日間を受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」は「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。身を慎んで主の十字架を覚えたいと思います。

 

< 二つの天からの声 >

先週は主の変貌主日で、高い山の上でイエスの姿が真っ白に輝き、旧約聖書のモーセ(父祖代表)とエリヤ(預言者代表)がイエスと親しく話す場面が与えられました。そして神顕現を顕す「雲」が彼らを覆い、雲の中から声がします。「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9:7)。いついかなる場合にも私たちが耳を傾けるべきは主イエス・キリストであることが明らかにされていました。

本日の日課はイエスの受洗の場面から始まります。ここでも天からの神の声が響き渡ります。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと押し出されてゆき、40日間そこで「悪魔の誘惑(試練)」を受けてゆくのです。そしてその誘惑に打ち勝った後、イエスはガリラヤで公に福音宣教を始められます。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。それは神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。無条件の存在是認と言ってもよいでしょう。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っているのです。

神のこのような私たちに対する確かな声が試練の中で私たちを支え守り導いてゆきます。「荒れ野」とは人間の力が無力であることがどこよりもはっきりと分かる場所です。そこは神に頼ることなしには人は生き抜くことができない場所なのです。それゆえそこは同時に「神顕現の場」でもあります。40日間」とはモーセが荒れ野で40年間さまよい続けたことを私たちに想起させてくれます。40は聖書では完全数で、一世代が次の世代に移り変わってゆく年月、つまり「人間の一生」を表しています。モーセも出エジプトの出来事を体験したイスラエルの人々も、荒れ野の旅の途中で「金の子牛」を神として拝んだという罪の罰を背負うかたちで「神の約束の地」には入ってゆけないのです。そしてその次の世代が「乳と蜜の流れる約束の地」に入ってゆくことになります。

映画『十戒』の中に、若き日のモーセがエジプトでイスラエル人をいじめるエジプト兵を殺してミデアンの荒れ野に逃げてゆく場面がありました。その荒れ野でモーセはとうとう力尽きて倒れてゆくのですが、そこに次のような印象的なテロップが入ります。「人の力が尽きたところから神の御業が始まる」と。祭司エテロの娘ツィポラが倒れたモーセを見つけて介抱してゆくのです。「人間の力が尽きたところから神の救いの御業が始まる」とは確かにそうであろうと思いますが、本当にそうなのだろうかとも私は思います。神の救いの御業は、いつも働いているのではないか。私たちが自分の力に頼って生きている時には、それがおそらく見えないのです。私たちが自分の力に頼ることができなくなって初めて、神の救いの御業に気づかされるのではないかと思えてなりません。私たちが自己に絶望して、徹底的に自我を打ち砕かれ、ボロボロになったどん底で神に拠り頼む時に、神の憐れみの御業が私たちにおいて既に実現していたことを知らされるのでしょう。その中心にイエス・キリストの十字架と復活という出来事があります。

 

「低い自己肯定感」の上にかけられた「虹」のしるし

現代社会では、特に若い世代において「自己肯定感(自尊心/自尊感情)」が乏しいというような声が聞こえてきます。「あなたは自分を好きですか」という問いかけに対して「嫌いです」とか「大嫌いです」と即座に答える若者が最近増えていると言われています。自己肯定感が低く、そこから必然的に「生きづらさ」を抱えてゆくことになるのでしょう。「生まれてきてすみません」という内向的で恥ずかしい気持ち(shame)が強くなってしまうのです。若い頃に私たちは「根拠のない自信」を自分の中に培う必要があると思われます。そのためにも私たちは自らに対する「無条件の存在是認の声」を必要としているのです。旧約聖書のコヘレトの言葉(伝道の書)の12章に「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。『年を重ねることに喜びはない』と言う年齢にならないうちに」1節)という言葉があります。文語訳では「汝の若き日に汝の造り主を覚えよ」と訳されていました。実はこれも私は、私たちが幼い頃から「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という天からの声に触れて生きるように促す言葉であると私は思っています。私たちの魂は、赤ちゃんがその母親からの無条件の存在是認を必要とするように、神からの無条件の存在是認の声を必要としているのです。特に、エリク・エリクソンという乳幼児発達心理学者は1歳までの母親との関係が赤ちゃんの成長過程の上で決定的に大きな影響を与えることを明らかにしました。人間や自分自身に対する「基本的な信頼感(Basic Trust)」を得ることができるかがこの時期の発達課題である言うのです。

「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という声は、私たちの魂がその根底において求めている根源的な声であり、私たちが人生で繰り返し困難に陥った時にそこへと戻ってゆくべき「原点」でもありましょう。このような声を告げてくれる人と出会うことができた人は幸いです。では、戦争や災害など時代的な状況や家族環境的な制約のゆえに親から豊かな愛情を注がれる体験が乏しい人、「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という自己肯定的な存在是認の声を聴くことができなかった人はどうなるのでしょうか。私たちはどれほど愛情を注がれてもそれに満足することができず、飢餓感を持つ存在なのかも知れません。井上陽水が歌うように「限りないもの、それは欲望」なのです。生きる構えとしての「基本的信頼感(Basic Trust)」を生育歴の中で獲得できなかった人はどうなるのか。1歳までが大切だと言われてももう遅いではありませんか。私たちはもう1歳を遙かに過ぎてしまっているのですから。そのような時にはどのようにすればよいのでしょうか。

大丈夫です。「聖書は神さまからのラブレター」(キルケゴール)ですから、聖書からその声を聴き取ってゆけばよいのです。私たちは繰り返し声に出して「あなたはわたしの愛する子。わたしの心に適う者」という言葉を自分の耳に入れる必要がある。他の人から繰り返しそのような確かな声を聴く必要があるのです。他にそう言ってくれる人がいなければ、自分で自分に向かってその言葉を言い続けてもよいのです。あるいは音楽でも美術でも映画でも、そのようなメッセージを自分に伝えてくれるものを身近に持っておけばよい。主日礼拝に出てみ言葉を聴き、聖餐式に与り、祝福を受けて派遣されてゆく。このこと自体が神からのI Love You! あなたはわたしの大切な人。わたしの心に適う者」という「無条件の存在是認の声」を受け止めるということだからです。十字架への歩みを始められたイエスもまたそのような天からの声に生かされ続けた方でした。私たちもキリストに倣いたいと思います。常に(あるいは人生の要所要所で)天を見上げて、天からの声に生きる者でありたい。そう願っています。それが私たちに示された神からの「契約のしるし」としての「虹」なのだと信じます。ご一緒に虹を見上げて歩んでまいりましょう。

お一人おひとりの上にそのような神さまの愛における祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2018年2月16日 (金)

2018年2月11日(日)主の変容主日礼拝説教「『啓示の光』体験」

2018211日(日) 主の変容主日聖餐礼拝 説教「『啓示の光』体験」     大柴 譲治

コリントの信徒への手紙 二 4: 3〜 6

「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました。(6節)

マルコによる福音書 9: 2〜 9                   

「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。」(2-4節)

 

主の変容(変貌)主日

 本日は「主の変容主日」。「変貌主日」とも呼ばれますが、高い山の上でイエスの姿が栄光に輝いたという出来事を覚える主日です。今週の水曜日から「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」ということで、教会暦では主の栄光が諸国民に顕現した(顕された)ということを覚える「顕現節」が終わり、いよいよ主の受難の歩みを覚える「四旬節(レント)」に入ります。今日は典礼色は神の栄光を顕す「白」ですが、次週からは悔い改めの色であり王の色でもある「紫」が用いられてゆきます。日曜日を除く40日間受難前節として主の十字架の歩みを覚えます。レントの期間は礼拝式文では「キリエ」(二)が用いられ、「グロリア」は省略されます。また「ハレルヤ唱」「詠歌」に替えて歌われることになります。具体的な主イエスの十字架への歩みが始まるのです。

 いつも顕現節の一番最後に来るのが本日の山上の変貌の出来事です。主イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネの三名の弟子を連れて「高い山」に登り、そこで弟子たちは不思議な光景を目の当たりにします。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった」2-3節)。 そして、「エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていたということが起こるのです(4節)。三人の弟子たちは、イスラエルの歴史の中でも特に重要な使命を果たした父祖の代表である「モーセ」と、「炎の戦車(Chariot of Fire)」に乗って生きたまま天へと挙げられた預言者を代表する「エリヤ」とが、イエスと三人で語り合う姿を見るのです。この出来事はイエスがこれから果たそうとすることが「旧約聖書の預言の成就」であり「神の御心に適うこと」、そして「神の栄光」に満ちた出来事であるということが示されています。しかしその「栄光」とは「隠された栄光」でもありました。

 

隠された栄光

「隠された栄光」というのは、それはイエスの復活の時まで誰にも分からなかったからです。フィリピ書2章には初代教会で歌われた讃美歌「キリスト讃歌」として記録されています(6節〜11節)。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。神の身分であり、神と等しいものであった栄光のキリストが、自分を捨て、無となり、奴隷の姿となって人間としてこの地上に降り立たれたのです。キリストはこの地上で、十字架の死に至るほどのへりくだりと神の御心に従った従順とを示されました。天上にあった時の神の御子としての栄光の姿は、その生前は唯一回、本日の山上の変貌の出来事においてのみ、明らかとされたのです。ペトロとヤコブとヨハネの三人は、高い山の上で特別な「『啓示の光』体験」をしているとも言えましょう。三人は驚き恐れます。5-6節にはこう記録されています。ペトロが口をはさんでイエスに言った。『先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。』 ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのであると。ヤコブとヨハネもペトロと同じ気持ちだったでしょう。まばゆい聖なる神の光の中に立たされた時に、私たちはおそらく、我を忘れて彼らと同じような気持ち、同じような言葉を語るのでありましょう。

次の場面はこう記されています。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」7節)。「雲」は神がご自身のご臨在を顕わされる時に神が用いられる道具でもあります。「これはわたしの愛する子。これに聴け」。神の声ははっきりと、私たちがいついかなる時にも耳を傾けるべき人を指し示しています。それは私たちの救い主、羊飼いである受肉と十字架と復活の主イエス・キリストです。

この神の声は私たちにイエスの洗礼の場面を思い起こさせてくれます。そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた(マルコ1:9-11)。この直後に、イエスは「神の霊」によって「荒れ野」へと送り出されてゆき、40日間サタンの誘惑」を受けることになります。ここでの「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声はイエス自身に向けて発せられています。神から「よし、行け」と背中を叩かれているようなものですね。洗礼を受けるということは私たちにとってもそのような意味を持っています。それに対して、この山上の変貌の出来事の中で聞こえた神の天からの声は、「これはわたしの愛する子。これに聴け」というように、イエス自身に対してではなく、弟子たちに向かって、イエスの周囲にあってイエスに従う者たちに向かって発せられています。この言葉は私たちに、どのような時にもイエスの御心を求めてゆくようにと促しています。イエスの中に神の御心が明らかとされているからです。そこでは、ヨハネ福音書が繰り返し強調しているように、イエスと父なる神とは一つなのです。

「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた」8節)。三人は、夢を見ていたような気持ちになったことでしょう。イエスも栄光にまばゆく光輝く姿から、もとの普通の姿に戻っておられました。しかしペトロとヤコブとヨハネの三人は、それを人々に話してはならないと口止めされます(9節)。一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」。復活後にようやく彼らはその出来事を話すことを許されるのです。その山上の変貌の出来事がキリストの勝利の栄光を顕す出来事であったということのすべては復活の光の中で明らかにされるのです。

 

「啓示の光」体験

 この主の変容の出来事は私たちにとって何を意味しているのでしょうか。私たちが日常生活の中で主の栄光の姿が隠されているということを知るということでしょうか。地上の悲しみや怒りに満ちた惨めで救いようがないような日々の出来事の中には、全く隠された栄光を見出すことができないのではないかと思われます。私はこの世に起こるすべての出来事を主の復活の光の中で見てゆくということを教えているのだと思います。

昨日私は日基教団天満教会を会場として開かれた21世紀キリスト教社会福祉実践会議第11回大会」に参加させていただきました。そこでは「貧困・差別とたたかうキリスト教社会福祉」という主題の下に、釜ヶ﨑で「こどもの里」というこどものための居場所作りに1970年から50年近く関わってこられたカトリック信徒の荘保共子(しょうほともこ)さんと、「聖公会生野センター」で総主事として長く働いてこられた在日大韓教会信徒の呉光現(オ クァンヒョン)さんという二人の方々の実践報告を受けました。お二人の実践に裏打ちされたお話しを伺いながら私は、どのような困難の中にあっても、どれほど大きな怒りや悲しみ、徒労や失望を味わい続けたとしても、決して諦めることなく、再び起き上がってゆかれる(「復活」とは「再起」を意味します)姿を通して、すべてを復活の光の中で見てゆくとはこのようなことなのだと改めて教えられたように思います。「これはわたしの愛する子。これに聴け」という神の声の通り、私たちはキリストに耳を傾けることを通し、いついかなる時にあっても希望の光、復活の光、神の啓示の光を見上げてゆくことができるのです。そのためにも今私たちに与えられているネットワークを大切にしたいと思います。それが私たちにとって「神の隠された栄光に与る」ということであり、「『啓示の光』体験」ということになるのです。

2018年2月 4日 (日)

2018年2月4日(日)総会聖餐礼拝説教「主に望みをおく人は〜ランニングハイ」 

201824日(日)総会聖餐礼拝説教「主に望みをおく人は〜ランニングハイ」 大柴譲治 

イザヤ書 40:21〜31

「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」30-31節)

 

「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31) 

 ピョンチャンの冬季オリンピックの開幕が9日に近づいてきました。楽しみにされている方もおられることでしょう。また、2年後の2020年には東京オリンピックも予定されています。先週の日曜日(28日)には大阪国際女子マラソンが行われましたが、本日の総会礼拝にあたって私は本日のイザヤ書40章のみ言葉と重なる一つの映画を思い起こしています。それは1924年のパリ・オリンピックを描いた『炎のランナー』という1981年製作のイギリス映画です。この映画は、作品賞をはじめアカデミー賞を四つも受賞した映画で(他に衣装デザイン賞と脚本賞、そして作曲賞)、ヴァンゲリスが作曲し演奏するシンセサイザーのテーマ曲もヒットしました。原題は“Chariot of Fire”(炎の戦車。以前に「シャリオ」という名前の車がありましたがそれです)。それは旧約聖書列王紀下2:11から取られ、預言者エリヤが「炎の(一人乗り)戦車」に乗って地上を見下ろすシーンが回想されるという意味のタイトルでした。

 

映画『炎のランナー』〜1924年のパリ・オリンピックでの実話

 物語は今からほぼ100年ほど前に遡ります。1924年のパリ・オリンピックが映画の舞台で、実在の人物がモデルとなっています。映画を御覧になられた方もおられるかもしれません。映画は短距離走で競い合う二人の青年を主人公に据えて、その二人の歩みを丁寧に追ってゆきます。一人は大富豪の息子、ケンブリッジ大学の学生であったユダヤ人青年のハロルド・エイブラハムス(1899-1978。聖書的に呼べば「アブラハム」ですね)。ユダヤ人として差別に苦しんできた彼はオリンピックの金メダルを取って真の英国人になろうとします。プロのコーチにもついて必死です。もう一人は、神の栄光のために走るスコットランド人宣教師の息子のエリック・リデル(1902-1945)。彼は競技場で皆に求められると聖書の解き明かしをしたりもするのです。彼もまたスコットランド人として英国では中心ではなく周縁に置かれてきた人物でした。オリンピック後にエリックは父と同じように宣教師になって中国に派遣され、そこで日本軍に捉えられて収容所で脳腫瘍のために43歳の短い生涯を終えてゆくことになるのです(ネットを読むとその後の彼の物語も出てきます)。エリックのランナーとしてのフォームは、ある意味頭をのけぞらせ手を振り回すという独特(滅茶苦茶)なのですが、彼は走っているうちに不思議な喜びに満たされて最後は天を仰ぎながら満面笑みを浮かべて皆の先頭でゴールしてゆくのです。彼は自分のためにではなく、神の恩寵を讃えてその栄光を顕すために走るのです。まさにその姿は本日のイザヤ書の言葉に合致します。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ40:31。彼らは二人とも100m200mの英国代表選手として選ばれてゆきます。英国という国はイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドという四つの国の連合したUnited KingdomUK)です。結局エリックは100m走の予選が日曜日に行われるということを知り、自らの信仰の立場を貫いてそれに参加することを拒否します。しかし、400m走の選手が機転を利かせてエリックと交代し、結果としては100m走に出たハロルドと、400m走に出たエリックと共に優勝して金メダルを英国に勝ち取ることになります。ユダヤ人とスコットランド人という生粋のイングランド人ではない二人の青年が、それぞれのアイデンティティーを賭けて、「炎のランナー」としてパリ・オリンピックで走るのです。原題の“Chariot of Fire”(炎の戦車)というタイトルはもしかして、その二人の地上の人生を描きながらも天上から神の祝福をその対照的な二人に注ごうとしている炎の戦車に乗ったエリヤの姿を浮かび上がらせていたのかも知れません。

その映画の冒頭は砂浜を走るイギリスのオリンピックチームの練習の姿で始まり、最後は同じく砂浜を走る練習風景で終わります。その場面にヴァンゲリスのシンセサイザーの曲が重なるという、様々な意味で深い余韻を残した優れた映画だったと思います。ぜひ御覧になっていない方は御覧になっていただきたいと思います。イギリスの名作映画100選の中にも19番目に選ばれている名作です。

 

「ランナーズハイ」

 イザヤ書40:31の言葉は私たち信仰を持つ者が生きるための根源的な力をどこから得るかを明らかにしています。主(なる神)に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」のです。今はマラソンブームで、先週もこの教会のすぐ横で大阪国際女子マラソンがありました。皆さんの中にも走ることが好きな方もおられるかもしれません。しかし「主に望みをおく人」は本当に疲れないのかと言うと、私はそうではないと思います。信仰者であっても走れば息が切れるし、長く歩けば足が疲れるのです。30節にある通り、若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れるのです。信仰者であっても同じように弱りもすれば疲れもする。しかしただ一点違いがあるとすれば、恐らく私たち信仰者はどん底にあっても神から見捨てられることなく、希望を持ち続けることができる。私たちは主イエス・キリストから新たな力を得ることができるということを知っているのです。「信仰」(ピスティス)とは私たち人間の業ではありません。私たちは自分の力に頼って神を信じているということではない。それは神の恵みの御業であり、「神の〈まこと〉(ピスティス)」(小川修)なのです。神が私たちを捕らえ、私たちにおいてそのみ業を実現してくださる。「神の〈まこと〉」が私たちの中に応答としての「人間の信仰」を生起させるのです。

 最近「ランナーズハイ」という言葉がしばしば使われます。お聞きになったことのある方もおられましょう。走っていて苦しいけれどもそれをひたすら我慢して走り続けると、ある時点を超えると急に楽になって不思議な陶酔感や恍惚感、喜びに満たされるという現象が起こります。それを「ランナーズハイ」と呼ぶのです。そこでは脳内にリラックスした時に出る脳内にα波という脳波と「脳内麻薬」とも呼ばれる快感ホルモンのβエンドルフィンという物質が出て、走っているランナーたちをハイにして「至高感(至福感)」を与えてゆくのだということが次第に分かってきました(2015年以降、その原因物質は「内在性カンナビノイド」(通常は大麻に含まれる)という別の物質であるという新説も出ているようです)。同様に登山家たちが登山の途中に感じてゆく「クライマーズハイ」や、最近ではホスピスの看護師などに見られる「ワーカーズハイ」という現象も報告されています。「苦難を通して歓喜に至る」のですね。

私たちキリスト者はどのような場合にも主イエス・キリストを見上げてゆきます。そこにはもしかすると、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」とイザヤによって預言されているように、「ビリーバーズハイ」とも呼ぶべき現象が生起するのかも知れません。しかしそれは陶酔感や恍惚感というよりも、キリストが私たちを救うためにこの世の闇のどん底まで降りてきて下さったことを覚えて深く慰められ、心に深く平安を与えられるという「静かな幸福感」であると思います。そしてキリストのゆえに、キリストと共に、私たちは自分に与えられた苦しみや悲嘆を、己を捨て、己の十字架を担ってキリストに従ってゆく力が上から与えられてゆくのだと信じます。聖餐式で私たちが感じるようなキリストのリアリティが日々私たちを支えるのです。

 今日は大阪教会の定期総会です。昨年一年間を振り返り、新しいこの一年について協議する大切な日です。その日に与えられた聖書のみ言葉であるイザヤ書40:31は、牧師報告にも掲げさせて頂きましたが、まことに時に適ったみ言葉であると思います。私たちは聖書のみ言葉から、主イエス・キリストの言葉、その独り子を賜るほど私たちを愛して下さっている神の言葉によって日ごとに「新たな力」を得てゆきます。主が共にいましたもうがゆえに(「インマヌエル」!)、私たちは走っても弱ることなく、歩いても疲れない。私たちと共にいてくださる主が私たちを支えて下さるからです。そのことを覚え、主の上に私たちのすべての「望み」を置きながら、ご一緒に本日の総会を経て、新しい一年をご一緒に踏み出してまいりましょう。

お一人おひとりの上に天よりの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

2018年1月29日 (月)

2018年1月28日(日)顕現節第四主日聖餐礼拝説教「四千人に七つのパン」

2018128日(日)顕現節第四主日聖餐礼拝説教「四千人に七つのパン」   大柴 譲治

マルコによる福音書 8: 1〜13 

「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた。」(8-9a)

 

四千人に七つのパン

 本日は顕現節第四主日。本日の福音書には、イエスが七つのパンと僅かな魚で四千人の空腹を満たしたという出来事が記されています。「四千人の給食の奇蹟」ですね。本日はこの出来事の意味についてみ言葉に思い巡らせてゆきたいのです。それにしても、たった七つのパンで四千人もの飢えた男性たちの空腹を満たすことができるだろうかと私たちは考えてしまいます。それは物理的にみればとうてい無理なことだろうと。しかしマルコ福音書には、この「四千人の給食」のエピソードと共に、6:30-44に五つのパンと二匹の魚による「五千人の給食」のエピソードも記されているのです。なぜ繰り返しこのような大勢の人に対する給食の出来事が記されているのか。それはイエスが実に多くの人々の、魂のニーズに応えられたことを示しています。イエスと出会った人々はイエスに対して忘れ得ぬほどの強い印象を持ったに違いありません。「このお方こそ私の救い主である」と。

 

事の発端は「主の深い憐れみ」(スプラングニゾマイ)

 もう一度福音書の日課を読んでみましょう。「そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。『群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる』」1-3節)。事の発端は、イエスが三日間彼と共にいた群衆が空腹で苦しんでいるのを見て「かわいそうに思った」ところから始まります。ここで用いられている語は「スプラングニゾマイ」というギリシャ語で、「はらわたが痛む、断腸の思いがする」という意味の重要なキーワードです。これは「深く憐れむ」とも訳される言葉です。たとえばルカ福音書10章に出てくる「よきサマリア人のたとえ」では、強盗に襲われて傷つき倒れている旅人を、その傍を通り架かったサマリア人が彼を「深く憐れみ」、近寄って彼を抱き起こし、傷に薬(油とブドウ酒)を注いで包帯をまき、ロバに乗せて宿屋にまで連れて行って介抱する物語が出て来ます。加えて彼は2デナリオン銀貨」を出して宿屋の主人にその後の介抱を頼むのです。徹底した深い憐れみの行為、真の愛の行為です。

また、先に引用したマルコ6章の「五千人の給食」のエピソードには次のような言葉が記されていました。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた6:34)。ここでも「深く憐れみ」(スプラングニゾマイ)という言葉がキーワードです。イエスは人々の苦しみ悲しみをそのはらわたで、存在の中心をもって受け止めてくださる「深い憐れみの主」として聖書には記録されているのです。イエスはいつも苦しむ者、悲しむ者の現実の生活の中での苦しみや悲しみの思いを、自らの中心(はらわた)で受け止めて、それらをご自身に引き受けてゆかれました。そしてそのことを通して人々の飢え渇きを満たし、癒しと救いを与えてゆかれたのです。「重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」と彼らを招きながら。

 

「パンは幾つあるか」

 弟子たちのイエスに対する最初のリアクションは至極もっともなことでした。弟子たちは答えます。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」4節)。この言葉の背後にある弟子たちの気持ちはこのようなものだったでしょう。「主よ、無理です。これだけ大勢の人々に食べさせるだけのパンをどこで手に入れることができると言うのでしょうか」。弟子たちは自分の思いを越えた神の憐れみの御業をその目で見てゆくことになるのです。そこには「教会の働き」が予言されています。

 するとイエスは弟子たちに問いかけます。「イエスが『パンは幾つあるか』とお尋ねになると、弟子たちは、『七つあります』と言った。そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた」5-7節)。すると人々の目には不思議なことが起こります。「人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。およそ四千人の人がいた」8-9a節)。満腹しただけではなく、七籠ものパンくずが後に残ったというのです。たった七つのパンがイエスの祝福によって大きな恵みのみ業として用いられてゆくのです。弟子たちにとっても到底信じられないような出来事でした。

 

人々のニーズを満たす主イエス

 1990年代の後半から「世界保健機構(WHO)」においても繰り返し言われるようになってきましたが、私たち人間が持っているニーズには四つあります。①身体的・肉体的ニーズ②精神的・心理的ニーズ③社会的ニーズ、そして④霊的・スピリチュアルニーズの四つです(これに、⑤知的ニーズを加えるウァルデマール・キッペス神父のような方もいます)。このいずれの領域においてもニーズが満たされるようなケアが必要となります。

本日のイエスによる四千人の給食の出来事は、①の「肉体的な空腹」というニーズを満たしているだけではないでありましょう。もちろん、「飢え」を何とかするという事柄はそれ自体で重要な問題でもあります。イエスは荒れ野の40日間の誘惑の際、自ら空腹を覚えた時のサタンの「石をパンに変えて見ろ」という誘惑を旧約聖書・申命記の言葉をもって撃退しました。「人はパンのみに生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのだ」(マタイ4:4、ルカ4:4。申命記8:3)。肉体的な飲食も大切であることは当然なのですが、しかしイエスはそれよりももっと大切な次元があることをはっきりと示されたのだと思います。イエスのなしてくださった事は、そしてイエスにしかできなかった事は、私たちの「魂の渇望(霊的なニーズ)」を満たすことなのです。

真正面から深く現実の自分自身を受け止め、自分と明確な関わりを持ってくれるイエスの姿は、そこにいた「四千人」にとって、②の心理的なニーズ、③の社会的なニーズを満たしていたということでしょうし、何よりも④霊的なニーズ、魂のニーズを満たしていたと申し上げることができましょう。四千人が満腹した後に「七つの籠いっぱいにパン屑が残った」ということは、すべての次元において有り余るケアがイエスを通して神から与えられたということを意味しています。深い憐れみをもってイエスは私たち一人ひとりが魂の奥底から求めている「渇望(ニーズ)」を受け止め、ケアして、満たしてくださるのです。これはまことに有り難い事柄であります。

 

四千人に食事を配った弟子たちの奉仕

 もう一つ言及しておきたい点があります。ともすれば見過ごされがちなのですが、私は本日の箇所では弟子たちの「三つの奉仕」をも心に刻みたいのです。まず最初には、①「パンが幾つあるか」とイエスに問われて「持っているパンの数を調べるという奉仕」です。これは、12弟子の中だけだったらそうでもないかもしれませんが、四千人を含めて調べるとなるとたいへんな奉仕であったのかもしれません。そして第二に、②イエスによって祝福されて割かれた「七つのパンと僅かな魚を地面に座った四千人の群衆たちに配るという奉仕」が来ます。さらに最後には、③四千人が満腹した後に「残ったパン屑を七つの籠に集めるという奉仕」が来ます。このような「三つの奉仕」を弟子たちは連続して行っているのです。イエスはご自身の「深い憐れみの御業」のために弟子たちを清めて用いてゆかれます。それが私たち教会の働きです。フランシスコの平和の祈りでは、「神よ、どうかわたしたちをあなたの平和の道具として用いて下さい」と祈りますが、私たち一人ひとりが主の憐れみの御業のために清められ、私たちの思いを超えたかたちで主ご自身によってその道具として用いられてゆく。このような奉仕に与ることも、大きな主の恵みであると信じます。私たち一人ひとりを「人々の飢え渇き(ニーズ)」を満たすために派遣して下さる主に信頼して、新しい一週間を踏み出してまいりましょう。主の祝福をお祈りいたします。

2018年1月17日 (水)

2018年1月14日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝説教「ナタナエルの回心」

2018114日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝 説教「ナタナエルの回心」    大柴 譲治

第一朗読 サムエル記上 3: 1〜10

8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。 10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」8−10節)

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:43〜51                   

するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。46節)

 

本日の主題〜神の声に聴くということ

 本日は顕現節第二主日の礼拝です。「顕現節」というのは「主の栄光がすべての民の上に顕現した」ということを覚える期節です。本日の主題は、旧約聖書の日課には少年サムエルのエピソードが記されています。サムエルとは「その名は神」という意味の名で、イスラエルの預言者であり、神に立てられた「士師」(指導者)の一人で、サウル王やダビデ王に油を注いだことでも有名です。サムエルの両親(父エルカナと母ハンナ)は年老いて与えられたサムエルを神に捧げ、大祭司エリ(「わが神」の意)のところに送り神殿で仕えさせるのです。ある夜寝ていたサムエルは真夜中に自分の名前が呼ばれたのを聴いて、エリのところに参上します。しかしエリはサムエルを呼ばないと言う。そのような出来事が三度あって、エリはそれがサムエルに対する主なる神の特別な呼びかけ(コール/召命)であることに気づきます。エリのアドヴァイスを受けて、サムエルはそれに対して正しく応えてゆくのです。1サムエル3:10にはこのように記されていました。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』」。教会学校でもよく語られるエピソードでもあります。「神からの呼びかけ(コール)」に対して忠実にそれに応答してゆくこと、それが信仰者には求められているのです。しかしその気づきにおいて、背後にはサムエルの両親や大祭司エリの執り成しの祈りがあったことを私たちは知っています。「神の声(言)に立つ信仰」とは信仰の先輩たちとのつながりを通して導かれてゆくのです。私たち自身の信仰の歩みにおいてもそうであったことでしょう。真実の生とは出会いです。その出会いの背後には「永遠の汝」たる神が働いておられます。

 

ナタナエルのケース〜「回心」の背後にある神の賜物/恵み

 福音書の日課には「ナタナエル」という人物が出て来ます。この人はヨハネ福音書にしか出てこないのですが、恐らくマタイ、マルコ、ルカの三福音書(「共観福音書」と呼ばれますが)では12弟子の一人であった「バルトロマイ」と同じ人物であったと思われます。共観福音書ではバルトロマイがいつもフィリポの次に置かれて、その名前は一緒に並べられているからです(マタイ10:3、マルコ3:18、ルカ6:14)。本日のヨハネ福音書の日課ではナタナエルはフィリポによってイエスのもとに連れて行かれています。「ナタナエル」という名前は「神の賜物/宝物」という意味を持つ名前です(ちなみに「フィリポ」「馬を愛する者」という意味)。

 ナタナエルにはいくつか際立った特徴があります。最初に言わなければならないのは、彼が「よい友に恵まれていた」ということでしょう。彼はフィリポという友人によってキリストへと導かれました。フィリポはナタナエルにこう言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。フィリポは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と批判的に語るナタナエルに対して、ただ「来て、見なさい」とだけ言って、彼をイエスのもとに案内するのです。これは極めて正しいアプローチです。「自分の目で見て自分で確かめなさい」と言うのですから。「このお方(イエス)と出会えば分かる」とフィリポはナタナエルをイエスのもとに招きます。

 ナタナエルの特長の第二は、彼が「旧約聖書に精通した真摯な祈りの人であった」ということです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」46節)と言ったナタナエルは、旧約聖書には「ナザレ」という地名が一度も出てこないことを知っていました。だからそう言ったのです。そこからナタナエルを「強い先入観を持っていた人」と解釈する立場もありましょうが、私自身はどこまでも彼が神のみ言を大切にし、そこに立とうとした人物であったと理解したいのです。なぜなら、イエスご自身がナタナエルを賞賛しているからです。イエスはナタナエルがフィリポと会ったとき「イチジクの木の下にいた」ことを知っていました。彼はそこで神のみ言葉に思いを巡らせながら、真剣に祈っていたと思われます。イエスはだからこそナタナエルを見てこう言うのです。見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがないと。ナタナエルはイエスに賞賛されるほど「真の信仰者」でした。そのイエスの言葉を聴いてナタナエルは驚きます。なぜこの人は私のことを知っているのかと。そのあとの二人のやりとりはこうです。ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(48-49節)。「ラビ」とは「ユダヤ教の教師」のことで、「先生」という意味です。

 ナタナエルがイエスと出会ったことの背後には親友フィリポの存在がありました。少年サムエルが神と出会った背後に、その両親や大祭司エリの存在があったのと同じです。ナタナエルという名が「神からの賜物/宝物」を意味しているように、私たちの人生には神が備えてくださった「出会いの賜物」があるのです。それを通して「ナザレから何のよいものが出るだろうか(出はしない)」と思っていたナタナエルが、「キリストを救い主として信じて告白するキリスト者」へと変えられていったのです。彼は告白します。「ラビ、あなたは神の子、イスラエルの王である」と(49節)。これを「回心(コンバージョン)」と呼び「悔い改め(メタノイア)」「主体の転換」と呼びます。回心とは「神の恵みの御業」であり、「神からの賜物」です。神ご自身が私たちの内に働いてくださるのです。キリストと出会うことで「迫害者」から「伝道者」へと劇的に変えられたパウロはこう言っています。わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のだと(ガラテヤ1:15)。既にこの世に生まれる前から自分は神の恵みの御手の内に置かれていたのだとパウロはここで語っているのです。私たち一人ひとりには神に与えられた貴い「使命(ミッション)」があり、「人生の目的(パーポス)」があるのです。

 ナタナエルについて特徴的な第三のことは、イエスの次のような預言です。「『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」50-51節)。「信仰」とは神が備えた「偉大なこと(イエス・キリストにおける救いの御業)」「見る」ことなのです。「信仰とは、(神がわたしたちにおいて)望んでいることを確信し、見えない(神の恵みの)事実を確認すること」なのですから(ヘブライ11:1)。ナタナエルもフィリポも、他の弟子たち同様、「復活の証人」となってゆきました。ナタナエルはやがて生きたまま生皮を剥がれるような殉教の死を遂げていったとも伝えられています。彼の生と死は、人間の生と死を超えた、死や迫害によっても揺らぐことのない「神の永遠のいのち」を証ししています。「真の神の子、イスラエルの王」と出会った喜びがナタナエルを最後まで捉えて放さず、その大いなる喜びが彼をキリストの日に向かって守り導いたのでありましょう。「ナタナエル」という名が体を表わしているように、彼は「神から賜物」としての自分の人生を深く味わい、聖書のみ言と祈りに誠実に生き、主イエスと出会い、その約束の言葉を聴き、自らの眼で「主の上に天使が昇り降りするのを見る」という救いへと招き入れられたのです。 お一人おひとりの信仰の歩みの上に祝福をお祈りいたします。

2018年1月 8日 (月)

2018年1月7日(日)顕現主日聖餐礼拝説教「星をたよりに」

201817日(日)顕現主日聖餐礼拝 説教「星をたよりに」         大柴 譲治

イザヤ書 60:1〜6

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。1-3節)

 

マタイによる福音書 2: 112                   

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

2018年最初の主日礼拝に〜東からの博士たちを導いた星の光

 新年おめでとうございます。本日は今年最初の主日礼拝です。ご一緒に礼拝をもって一年を始めることができる幸いを覚え、心から神に感謝いたします。

 本日の顕現主日に与えられたマタイ福音書2章には、黄金・乳香・没薬という宝物をもって幼子イエスのもとを訪ねる東からの占星術の博士たちの姿が記されています。聖書自体には博士たちの人数は記されていませんが、宝物が三つだったということから博士たちも三人であったと言い伝えられてきました。それも降誕劇などの人形で描かれた場面では、アジアとアフリカ、そしてヨーロッパという三つの人種を代表した姿で博士たちは描かれていたりします。本日の第一日課イザヤ書60章にあったとおり、すべての民に(「異邦人」)に神の栄光が顕現したことを覚えるのが「顕現日(エピファニー、毎年1月6日に定められています)」であり「顕現主日」なのです。西方教会では1225日より本日までの二週間を「クリスマスの期間」と定めています。顕現節の主日は「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」までと定められています。典礼色は「神の栄光を顕す白」が最初の二回と最後の変容主日に用いられ、間の主日は「信仰の成長を表す緑」が用いられます。本日は「星に導かれる」ということ、「星をたよりに生きる」ということがを意味しているのかに焦点を当てながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。クリスマスの出来事はマタイとルカの二つの福音書にしか記録されていませんが、東からの博士たちのエピソードを記録しているのはマタイ福音書だけです。

 本日の第一日課であるイザヤ書60:1-3はこう謳っています。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。この預言の成就として重ね合わせながら、マタイ福音書は東からの占星術の学者たちを登場させているのです。

 

「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(イザヤ40:31

 皆さんは今年どのような初夢を見られたでしょうか。私はこれが初夢だというはっきりとした認識はないのですが、どうも自分が鷲のようになって飛翔する夢を見たような気がしています。そして空高いところから自分が鷲の目をもって地上を見下ろしているような感覚を持ったのです。それは夢かうつつか幻かははっきりしませんが、イザヤ書の40:31には次のようなみ言葉があり、それと重なっているように感じたのです。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。大切なことは「主に望みをおく」ということだということを改めて再確認させられたように思います。同時に「天から地上を見る」という、言わば「『神の視点』で物事を見てゆくこと」が大切であると示されたようにも思いました。そこから与えられたマタイ2章を読み直すと、これまで全く思いも付かなかったような「新しい視点」が与えられたように思うのです。それは「地上から星を見上げる」のではなく、逆に「星から地上を見降ろしてゆく視点」が示されたように思うのです。神が夜空に「星」をひときわ明るく輝かせ、占星術の学者たちを幼子イエスまで導くのです。ヘロデ大王やエルサレムの住人たちが持つ「人間の深い闇(=不安と恐れとおののき)」もそこでは明らかにされてゆきます。東からの博士たちは「神の都」エルサレムに来て問いました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』2節)。 マタイはその時の人々の反応をこう記しています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった3節)。ヘロデは不安の中で、そのことがダビデの町ベツレヘムで起こるということを人々に調べさせて知ります。ヘロデは占星術の学者たちを再度ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめたのです(7節)。 そして、心にもない嘘をついて彼らをベツレヘムに送り出します。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と(8節)。自分の身を守るためにヘロデがその幼子を殺そうと思ったことは、その後の16節に記されている出来事からも明かです。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」16節)。何と人間は残虐な存在になり得るのでしょうか。「不安」「恐れ」、そして「怒り」というものが人間を「悪魔」のように狂わせてゆくのです。ヘロデの持つ「闇」は何と救い難いほどに暗く、恐ろしいほど深淵が深いものなのでしょうか。「星の光」はヘロデの心には届かないのです。星の光がヘロデを避けたのでしょうか。否! ヘロデの中の何かがその光に気づくことを妨げているのです。それは自分の中だけで欲望を満足させ、自己完結しようとするモノローグ的で自己中心的で悪魔的な「罪」です。このままでは、ヘロデ大王の行き着く先は「絶望の死」以外にはありません。実際にヘロデ大王は残虐さでよく知られていました。自分の部下だけでなく妻や子どもたちをも、自分を無き者にしようとしているという「猜疑心と嫉妬」のために次々に殺していった。ヘロデ大王は人間の持つ闇の深さを体現しています。そのような闇を私たちもまた自分の内に持っているのです。闇の中に生き続ける限りどこにも救いはありません。光に照らされたものの反対側に必ず影ができるように、影の中に生きる者は光の中に出ることを恐れるのです。

 ヘロデと対照的なのが、星の光に導かれて幼児の場所に辿り着いた博士たちです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」9節)。そしてこう続く。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」10節)。先立って進み、彼らを守り導く特別な星の光によって、彼らの身体と心と魂とは大きな喜びに満たされていったのです。それは「まさにこのことのために自分たちの人生はあったのだ!」と言えるような大きな喜びです。救い主と出会うということはそのような喜びの人生へと私たちを招き入れてくれます。苦しみや悲しみがなくなるわけではありません。そのただ中で主と共なる喜びを味わうような人生です。

博士たちの姿は闇の深いヘロデの姿と確かに対照的です。しかし私は思います。博士たちも夜空にひときわ明るく輝くその星を見つけるまではヘロデと同じような生き方をしていたのではなかったかと。一説によると「黄金・乳香・没薬」は、それまでの彼らの人生を支えてきた「占星術のための商売道具」でした。それらをすべて幼子に捧げたというのは、彼らがそれまでの古い生き方と訣別したことを意味します。それほど「光に照らされることの喜び」は大きいのです。「光を見ようとしないヘロデの姿」「光によって照らされた博士たちの姿」。それは「キリストと出会う前の古い人間」「キリストと出会った後の新しい人間」とを体現しています。「星」を発見したその最初の瞬間から彼らにはある種の「再起/復活/再生の予感」があったはずです。光の中に終わりが見えたのです。だからこそ彼らは何ヶ月も何年も前に自国を旅立ち、行く先も知らないで夜の旅に出発することができたのです。このような光に照らされ、光を信頼し、光に導かれ、光に向かって旅することができる者は幸いです。星は夜にしか見えません。昼間は見えない。私たちの旅もまた夜の旅なのかも知れません。しかしその旅は神が必ず守り導いてくださる確かな喜びと祝福の光に満ちた旅です。幼子と出会った者は「夢のお告げ」を受けて「別の道を通って自分たちの国へ帰って行く」ことができる。新しい生き方が始まってゆく。私たちもこの人生という夜の旅を、星をたよりに「主に望みをおくことで新たな力を得て」歩んでまいりましょう。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:1-2

2017年12月31日 (日)

2017年12月31日(日)降誕後主日聖餐礼拝説教「ピーク&ラストの法則〜シメオンのケース」

20171231日(日)降誕後主日聖餐礼拝説教「ピーク&ラストの法則〜シメオンのケース」 大柴譲治

福音朗読  ルカによる福音書 2:22〜40                    

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(28-31節)

 

2017年最後の主日に〜シメオンの讃歌「ヌンク・ディミティス」

 本日は今年最後の主日礼拝です。この大阪教会は、元旦礼拝に始まり、主日礼拝に終わる一年でした。本日の福音書には「シメオンの讃歌」が出て来ます。これは私たちが毎週礼拝の中で歌う「ヌンク・ディミティス」です。主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです(ルカ2:29-32)。これはすばらしい讃歌であると思います。人生の最後に老シメオンは待ち望んできた救い主である幼子イエス・キリストと出会うことができたのでした。何という喜び、何という誉れ。もう一人の老女預言者のアンナも同様でしょう。私たちはこのヌンク・ディミティスを葬儀式の中でも高らかに歌います。このような大きな喜びの中に人生を終えて行くことができるとすれば、何とすばらしいことかと思わずにはおれないのです。人生において主イエス・キリストと出会うということはそれほどまでに大きな喜びに満ちた出来事なのです。

 クリスマスの光はこの世の「闇」の中で輝いています。神の独り子がこの地上に、人間の姿を取って、私たちの「命の光」としてお生まれになったのです。救い主の降誕というクリスマスの出来事は、この世の闇がどれほど深くても、その闇の底に救いの光が届いたということを意味しています。闇の中にキリストの光が輝いています。

 イザヤ書9章が預言していた通りの救いの出来事が地上に生起した。老シメオンはそれを目の当たりにすることができました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」9:1, 5節)。本日の第一朗読であるイザヤ書61章が歌う歓喜の歌は、その大きな喜びと重なります。わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」61:10-11)。

 

ピーク&ラスト(ピーク・エンド)の法則

 私たちの持っている「記憶」「感覚」は様々な特徴を持っています。本日はそのうちの二つの特徴に触れたいと思います。「ピーク/マックス」「ラスト/エンド」の二つです。心理学の領域では「ピーク&ラストの法則(ピーク・エンドの法則)」と呼ばれるものがあります。何事でも私たちは一つの体験をした時に、喜びでも悲しみでも怒りでも、その時の「頂点にあった感情」(「ピーク感情」または「マックス感情」とも呼びますが)と共に「最後(ラスト/エンド)の感情」を強烈にその体験の記憶として定着させるという傾向があるようです。「経験全体の総和」ではなくて、「その経験の長さ」「ジグザクさ、複雑さ」でもなくて、「ピーク時の感情と終結時の感情」の二つを心に刻む傾向があります。記憶に残るのは「頂点の部分」「最後の部分」なのです。それを「ピーク&ラストの法則」あるいは「ピーク・エンドの法則」と呼びます。普段は意識していないのですが、確かにそう言われてみると、そのように思われます。いろいろな出来事を振り返るときに、それがたとえ紆余曲折を経るような長く複雑なものであったとしても、その時の「ピーク感情」がどのようなものであったか、「ラスト感情」がどのようなものであったかで、それが印象づけれられていることが少なくないのです。私たちの記憶はそのようなかたちで、意外にも単純化して、主だった印象を抽出して定着させているというわけです。

例えば、一枚の紙を取って、タテに半分に折ります。もう一度拡げると真ん中に折れ線が入っています。これを自分がこれまで歩いてきた人生だと思ってください。左端が誕生時、右端が現在です。自分の人生を振り返って、最高の喜びや幸せという「ポジティブ体験」を三つ、思い起こしていただきます。「三つだけに絞れない」とか「順番はつけられない」とか、様々な思いが交錯することでしょう。しかし時間をかけて、思い起こしてみるのです。そうすると、「何歳の時にはこういう体験があった」とか「そう言えば、あの時にはああいう体験もあった」と様々な振り返りができることでしょう。紙に書いてみてください。上端をピークとします。続いて最高に辛かった「ネガティブ体験」を三つ思い起こします。それもその時に気持ちを思い起こしながら書いていただきます。すると三つの喜びの山(「ポジティブ体験」)と三つの嘆きの谷(「ネガティブ体験」)ができた自分の生涯が目の前に浮かび上がってきます。改めて自分の歩んできた人生を振り返るのは大切なことでしょう。今の自分にとっては一つひとつが大切な経験です。それらを経て現在の自分があるからです。自分の人生において「ピーク&ラスト(ピーク・エンド)の法則」を当てはめるとすれば、どのようになるでしょうか。

 

シメオンのケース

そのところから「シメオンのケース(場合)」を考えてみるならば、どうなるでしょうか。老シメオンはそれまでの人生で様々な苦しみや悲しみ、壁にぶつかったり、徒労や失望をなめてきたに違いありません。私の母はよくこう言っていました。「譲治、歳を重ねるということは、実はそれだけで大仕事なのよ」と。本当にその通りであると実感したものでした。シメオンも、場合に違わず、人生山あり谷ありですから、多くの体験を積み重ねてきたことでしょう。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」2:25-26)と福音書にはあります。「シメオン」とは「聴く、耳を傾ける」という意味の名前です。「名は体を表す」と言いますが、シメオンは生涯を通して一生懸命に聖書を通して聞こえてくる「神の声」に耳を澄ませ、それに耳を傾けてきたのでありましょう。そのことを25-26節は「正しい人で信仰があつく」という表現で表していたと考えられます。

 そのシメオンが幼子イエスと出会ったのです。「シメオンがに導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」27-28節)。そしてここからシメオンは大きな喜びに満たされて「ヌンク・ディミティス」を歌うのです。高らかに、そして決然として、「今わたしは主の救いを見ました」と。「ピーク&ラストの法則」から見れば、彼ほど幸せな人生を送った者はいないのではないでしょうか。シメオンの姿はこの世の人生においてキリストと出会った私たち自身の姿でもあります。先週のクリスマス礼拝では4人の方の洗礼式が行われましたが、それはキリストによって罪を贖われ、すべての罪を赦されて、古い自分が死んで、主にある新しい自分として生まれ変わるという奇蹟のような出来事でした。キリストにある大きな喜びが私たちを捉えて放しません。ローマ書8章のパウロの言葉を想起します。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」8:35-39)。

私たちは、シメオンと共に、キリストと出会えた喜びの讃歌を歌いながら、この主の年2017年を閉じてゆきたいと思います。そのような「ピーク&ラストの出来事」を神は私たちに恵みとして贈り与えてくださったのです。お一人おひとりの上に、メリークリスマス!

2017年12月26日 (火)

2017年12月24日(日)クリスマス主日礼拝説教「闇夜に輝くクリスマスライト」

20171224日(日)クリスマス主日礼拝説教「闇夜に輝くクリスマスライト」大柴譲治

イザヤ書 52:7〜10

7 いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。8 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。7-8節)

ヨハネによる福音書 1:1〜14                    

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・ 14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1-5, 14節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン。

 

クリスマス おめでとうございます。

 クリスマスおめでとうございます。アドヴェントクランツの四本のローソクが、毎週一本ずつ増えてゆき、本日すべて点火されました。「クランツ」とは「環、円環」という意味のドイツ語ですが、「円、丸いかたち」には終わりがないために、クランツは終わることのない「永遠の命」を表しています。「緑の常緑樹」が用いられるのも同様にいつまでも永続する命が表されています。そして四本のローソクはアドヴェント(待降節)の四週間を表しています。

 今日から17日(日)の顕現主日までの二週間、クリスマスの喜びの期間が続きます。典礼色は神の栄光を顕す「白」。クリスマスが1225日と定められたのは4世紀の終わり頃、北半球では夜が一番長い「冬至」の頃にあった異教の「太陽祭」に重ね合わせるようなかたちで、「義の太陽」であるキリストの降誕を祝うようになってゆきました。西方教会では16日が「顕現日」、東からの博士たちが黄金・乳香・没薬をもって幼子のところを訪れたことを記念する日(異邦人にも主の救い主としての栄光が現れた日)として守っています。ロシア正教やギリシャ正教などの東方教会(Orthodox Church)では、今でも17日を主の御降誕日(クリスマス)として祝っています。

 

闇に輝く光がもたらす深い喜びと慰め

 ヨハネ福音書は次のように始まります。1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1-5)。光は暗闇の中に輝いています。この光を暗闇は理解しなかった、とある。この部分を私たちは長く「闇はこれに勝たなかった」という口語訳で親しんできました。「光」「闇」とは「相反するもの」「相容れないもの」「決して同居することができないもの」であるということになりましょう。確かにそうなのかもしれません。その場合には、光と闇とはあれかこれか、二つに一つということになるのでしょう。闇は光によって駆逐されるべきものとして考えられているようです。しかし私たちは知っています。光に照らされた事物の反対側には必ず影(ダークサイド)ができるということを。映画の『スターウォーズ』ではないですが、ある意味で光と影とは表裏一体なのです。区別はできても分離はできないものとして光と影はある。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるものなのです。

 クリスマスの光は、しかしこの世の「闇」「影」(ダークサイド)の中で輝いています。神の独り子がこの地上に、人間の姿を取って、私たちの「命の光」としてお生まれになったのです。救い主の降誕というクリスマスの出来事は、この世の闇がどれほど深くてもその底に救いの光が届いたということです。闇の底に届かない救いの光はないのです。

 それはちょうどクリスマスの出来事を預言したイザヤ書9章が次のように告げている通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」1-2, 5節)。

 本日の第一朗読であるイザヤ書52章が歌う歓喜の歌は、そのあたりの大きな喜びと重なります。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」52:7-10)。

 

闇夜に輝く美しいクリスマスライト〜カナダ・ラングレイでの思い出

 クリスマスの出来事は深い闇の一番奥底にも神からの救いの光が届いたということを意味しています。日本でも最近ではLEDなどを用いて家全体のクリスマスライトやデコレーションが美しく飾られるようになりました。私にはそのことについて忘れられない一つの思い出があります。1983年のクリスマスのことです。カナダのブリティッシュコロンビア州のラングレイという小さな町(ヴァンクーバーから車で小一時間ほどの距離)で、私は「谷の羊飼いShepherd of the Valley Lutheran Churchという名のカナダ福音ルーテル教会において、牧師となるために一年間のインターンをしていました。その町の郊外に、ひときわ美しくクリスマスライトを飾った一件の家があったのです。前庭にはディズニーワールドのようにいくつもの動物や人形が置かれ、色とりどりのライトで様々にデコレーションされていて、それはそれは、おとぎの国のような美しさでした。道行く人たちも車を止めてしばし見入っていました。偶然通りかかった私は、闇の中に突然浮かび上がったその光景に深く感動し、しばしの時をその家の前で過ごしました。教会に戻ってからそのことを指導牧師のFrank Schmitt先生に報告したところ、牧師は一つのストーリーを話してくれたのです。実はその家には三人の男の子がいたのですが、ベトナム戦争に従軍して三人とも戦死してしまったということでした。私はそれまでカナダがベトナム戦争に関わっていたことを知りませんでした。以来そのご両親は、世界の平和を祈りながら毎年そのクリスマスデコレーションを飾っているのだと言うのです。とても悲しいけれども、忘れられないクリスマスの思い出です。

 あれから34年が経ちました。美しく飾られたクリスマスライトを見る度に私はその家のことを思い起こします。今はどうなっているのでしょうか。御子が生まれたベツレヘムの夜空には一つの星がひときわ明るく輝きました。その星の光はこの世の闇を照らしています。どのような時にも、どのように闇が深くとも、神は私たちと共にいてくださる。インマヌエルの神の光が、闇の淵まで、闇の奥底まで届いているのです。私たちはそのことを喜び祝いたいのです。

 困難な状況や深い悲しみの闇の中にある方々の上に主の慰めの光が注がれますように。天には栄光が神に、地には平和が人にありますように、心よりお祈りいたします。 メリークリスマス!

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2017年12月17日 (日)

2017年12月17日(日)待降節第三主日礼拝 説教「光の証人ヨハネ」

20171217日(日)待降節第三主日礼拝 説教「光の証人ヨハネ」  大柴 譲治

 テサロニケの信徒への手紙 一  5:16〜24

16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。16-18節)

 ヨハネによる福音書 1: 6〜 8,19〜28

6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。6-8節)

 

「光の証人」〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第三主日の本日に与えられたみ言葉は、(先週のマルコ福音書1章に続いて)ヨハネ福音書1章から「(洗礼者)ヨハネ」についてです(実はヨハネ福音書は一度も「洗礼者」という呼称を用いていません)。第四福音書は他の三つの福音書(それら三つはその構成や内容の一致する部分が多いために「共観福音書」と呼ばれます)と比較して、独自の表現やエピソードの展開をしていることが多いのですが、洗礼者ヨハネに関しては共観福音書と共通する部分が少なくありません。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネは確かに「神から派遣された人」でしたが、「光そのもの」ではなく、「光について証しをする光の証人」であったことを明確に宣言します。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」7-8節にある通りです。

 洗礼者ヨハネは自分をイザヤ40:3が預言する「荒野の声」として位置付け、それを「公言」します。ヨハネの元に来てその素性を明らかにしようとする人々に対して、自分は「メシア」ではなく、旧約聖書が預言する「エリヤ」でもなければ、メシアの前に現れると当時考えられていた「あの預言者」(申命記18:15-18)でもないと答える。洗礼者ヨハネは自らキリストを指し示す黒子の役割に徹底します。「自分は何者でも無い。荒れ野の声にすぎない」と言うのです。ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と』23節)。ここも先週のマルコ福音書の日課と同じ内容です。ヨハネはイエスの先駆者としての「荒れ野の声」でした。

 そして、ファリサイ派がヨハネに「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と尋ねると、ヨハネはこのように答えるのです。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」26-27節)。この部分もマルコ福音書と重なります。「これはベタニアでの出来事であった」とはヨハネ福音書だけが記す言葉ですが、「イエスの先駆者」であった洗礼者ヨハネが、自ら「光の証人」としての自覚を持っていたことが記されています。そして、自分はその人の前では、当時の召使いの仕事でもあった「その履物のひもを解く資格(マルコでは「値打ち」でした)もない」小さな存在に過ぎないと言っているのです。

 

「光の証人」とは何を意味するのか?

 私たちは本日、(洗礼者)ヨハネが「光の証人」であったように、私たち自身もまた「光の証人」として呼び出されていることを覚えたいと思います。「光の証人」であるということが何を意味するのか、それが本日の主題です。「光の証人である」ということは、当たり前のことですが、「闇の証人ではない」ということです。闇の中に輝く光を指し示し、それを証しするのが「証人」の役割です。ヨハネ福音書はこのような言葉で始まっていました。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1-5)。光は暗闇の中に輝いているのです。この光を暗闇は「理解しなかった」とある。この部分を私たちは「闇はこれに勝たなかった」という口語訳で長く親しんできました。第四福音書において「光」「闇」とは「相反するもの」であり、「相容れないもの」「決して同居することができないもの」でありましょう。確かにそうなのかもしれません。その場合には、光と闇とはあれかこれか、二つに一つということになるのでしょう。闇は光によって「駆逐されるべきもの」として捉えられています。

 私たちは闇の中に輝く光の貴さ、有り難さを知っています。闇の中にただ一人置かれた体験を誰しもが持っているからです。真っ暗闇の中では、たとえそれがかすかな光であったとしても、私たちには灯火が必要だということが分かります。それは希望の光でもある。荒れ狂う夜の海の暗黒の中で、進むべき方向を示すかすかな灯台の光がどれほど大きな慰めと希望を与えるかを私たちは知っています。闇はそのような光の持つ力を理解することができず、その希望の力を知らないのです。ルターは言いました。「世界を動かす力は希望である」と。「希望の光」がなければ私たちには絶望の闇しか残されていないのです。

 ユダヤ人の精神科医であったオーストリー人ビクトール・フランクルはアウシュビッツなどユダヤ人強制収容所の体験を戦後に『夜と霧』という本にまとめました。その中でフランクルはこう言っています。「強制収容所で最初に倒れていったのは、身体の弱い体力の無い人々ではなかった。それは絶望した人、希望を見失った人たちから先に倒れていった」と。人間は絶望すると生きる力を無くすのです。逆に言えば、希望があるからこそ人は生きることができる。「希望の光」とは、フランクルの言い方を借りるならば、「生きる意味」と言い換えることもできましょう。絶望的な状況の中にあっても絶望することなく、希望の光に向かって目と心を上げて生きてゆく事が出来る人こそが生き残る。ルターが言うように「世界を動かす力は希望」なのです。洗礼者ヨハネが自らを「光の証人である」と語るのは、そのような絶望の闇の中にあっても希望の光を見失わず、それに向かって目を上げ、それを指し示す証人であるということでありましょう。

 「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たちにとっての希望の光です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が希望の光に向かってまっすぐに顏を向けるということでもありましょう。マタイ福音書はクリスマスのエピソードとして、東からの博士たちが星を頼りに旅を続け、やがて幼子のところに辿り着いたことを記していますが、私たちもまた闇に輝く星の光をたよりにこの地上の生涯を歩むのです。

 今日の使徒書の日課として与えられている聖句がそのことを具体的に示していると思われます。1テサロニケ5:16-18のみ言葉です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。ここを愛唱聖句とされている方も少なくないことでしょう。昨日、この教会では、1958年の宗教得改革記念主日にこの教会で中尾忠雄牧師より洗礼を受け、先日の113日に82歳の地上でのご生涯を終えて神さまのみもとに帰って行かれたNY姉の召天50日の記念会と納骨式とが行われました。Y姉は若い頃からリウマチなど痛みを伴う病気を患いながらもいつも明るく、決して苦しいという言葉も顏も見せることはなかった方でした。それゆえその周りにはいつも多くの方々が自然に集まったそうです。昨日ある方が引用されたみ言葉がこの1テサロニケ5章のみ言葉でした。それはY姉が主イエス・キリストを信じる信仰を生きる希望として与えられていたからでありましょう。彼女もまた光の証人だったのです。苦しい時にも悲しい時にも、詩編23編を愛唱し、讃美歌を口ずさみながら、羊飼いである主と共に歩まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。そのような「いのちの光」が私たちには天からのプレゼントとして贈り与えられている。だから私たちは、「たとえ死の影の谷をゆく時も、災いを恐れません。なぜなら、あなたがいつもわたしと共にいてくださるのですから」(詩編23:4)。そのことを深く味わいながらご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。 アーメン。

 

2017年12月10日 (日)

2017年12月10日(日)待降節第二主日礼拝説教「主の道筋をまっすぐにせよ」

20171210日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道筋をまっすぐにせよ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 1: 1〜 8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」1-3節)

 

荒れ野に響く声〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第二主日の本日与えられたみ言葉はマルコ福音書の冒頭部分です。マルコ福音書は四つある福音書の中でも最も古く、最初に福音書を書いたことで知られています。マルコはガリラヤなまりのアラム語を話すペトロの通訳でした。ペトロの言葉を、当時ローマ帝国で公用語として使われていたギリシャ語やラテン語に通訳する役割を果たしていたのです。直接イエスを知っている12使徒たちを中心とする第一世代のクリスチャンたちが、世界宣教のために散らされたり、殉教したり、高齢化してゆく中で、直接イエスを知らない第二世代のクリスチャンたちのために福音書を記す必要が出て来たのです。そのような状況の中で、マルコはペトロの通訳としての経験を生かして福音書を書くことになります。それは紀元70年頃と考えられています。イエスが十字架に架けられたのが紀元30年頃でしたから、それから数えるとおよそ40年が経っていました。40年とはちょうど一世代が次の世代に代わってゆく年限でもあります。

 マルコは不要な言葉は一切用いず、極めて端的に事柄を記します。神の子イエス・キリストの福音の初め1節)。イエスは神の子であり、神によって油を注がれたキリスト・メシアである。その「福音」「良き音信」「はじめ」の発声としてマルコは、荒野にイエスの先駆者として現れた洗礼者ヨハネの姿を告げ知らせてゆくのです。この「はじめ」という言葉は、あの創世記の冒頭で「初めに、神は天と地を創造された」という時に用いられていた「初め」であり、ヨハネ福音書の冒頭での「初めに言があった」という「初め」と同じ言葉です。それは「一番最初に」「太初に」という意味と共に「根源に」「根本的に」という意味を示していましょう。「神の子、イエス・キリストの福音が私たちのライフ(人生/生活/いのち)を根本から支え、守り、導いている」という意味を込めてマルコはこのように宣言していると考えられます。

 それはマラキとイザヤという二人の預言者によって預言されていたみ言葉(マラキ3:1とイザヤ40:3)の成就でした。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」2-3節)。

 そしてその旧約聖書の預言の通り、荒れ野に洗礼者ヨハネが現れるのです。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」4節)。洗礼者ヨハネは人々に「罪の赦し」を得させるための「悔い改めの洗礼」を施してゆきました。「荒れ野」とは「人間が自力では生きることができない世界」であり、「神がご自身を顕現する神の世界」を意味します。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた5節)とあるのは、洗礼者ヨハネは当時の人々が心の奥底に持っていた魂の飢え渇きと切望感とを、いわば「スピリチュアルニーズ」を深く満たしていったのだと思われます。その洗礼は人々の心の目を「神」「神の子イエス・キリスト」に向けるためのものでもありました。本日の日課の次の部分には、イエスご自身もまたヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたことが記されています。その時に天が裂けて、霊がハトのようにイエスに降り、天からの声が響くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(9-11節)。

 マルコはイエスの先駆者ヨハネの、一種異様ないでたちをこう記しています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた6節)。それは人間の力を拒絶する「荒れ野」において、「神によって生かされている神の人の姿」なのでありましょう。

 ヨハネははこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」7-8節)。ヨハネは自分がイエスの先駆者としての役割を果たしており、後から来るお方に比べたら自分は何者でもないと宣言しています。当時召使いの仕事であった「その方の履物のひもを解く値打ちも自分はない」というのです。自分は水で洗礼を施しているが、そのお方は聖霊で洗礼を施されるとヨハネは言います。マタイ福音書とルカ福音書は「その方は、聖霊と火による洗礼を施す」(マタイ3:11、ルカ3:16)と語り、ヨハネ福音書はマルコ福音書と同様、「聖霊によって洗礼を授ける」と伝えています。私たちはイエス・キリストの御名によって水と霊との洗礼を受けました。この教会の12/24のクリスマス礼拝では四人の方の洗礼が予定されています。洗礼とは古い自分が死んで、キリストにある新しい自分として生まれ変わることであり、神から水と聖霊の油を注がれるということです。一人のキリスト者にされるということは私たち自身が「一人のキリスト(油注がれた者)」(ルター『キリスト者の自由』)とされるということです。何よりも「失われた者が見出された時には、天において盛大な祝宴が開かれる」と聖書には記されています(ルカ15章)。洗礼を受けるということは、そのような「天の喜びの祝宴」に参加することでもある。その先取りとして、前祝いとして、この地上においては礼拝の中で「聖餐式」が行われます。本日も聖餐式が行われますが、それは天国の祝宴に与ることです。ここは天と繋がっている「空間」であり「時間」であり「聖徒の交わり」であるのです。

 

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということ

 それにしても、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ヨハネ福音書の中でイエスはこう言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」14:6)。私たちはキリストという道を通って神の御許に近づいてゆくようにと招かれています。「信仰」とはこのキリストの道を歩むということでもあります。

 これまで申し上げたてきたように、「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たち自身の人生を通ってこられるのではないかと思わされています。私たち自身が主の通られる道となるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が自らの日々の信仰生活を整え、それを神に向かってまっすぐにするということです。

 ルターは小教理問答で主の祈りの「み国を来たらせたまえ」という祈りについてこう語っています。

 

第二のねがい  み国がきますように。

 これはどんな意味ですか。

答:たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、

  み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

 それはどうして実現しますか。

答:それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世に

  おいても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

 「信仰」とは、私たちにおいて働く神の恵みのみ業であり、神の聖霊の働きです。洗礼によって水と霊との油を注がれた私たちがキリスト者として生きる。それが今も生きて働いておられる復活のキリスト、現臨のキリストを証しすることなのです。それをもし妨げるものがあるとすれば、それに気づき、それを正し、それを手放してゆく必要があります。それが「悔い改め」であり、キリストの道を整え、まっすぐにするということです。キリストご自身が私たちの人生という道をご自身の道として整え、その道筋を神に向かってまっすぐにしてくださいます。その主の憐れみのみ業に与りたいと思います。どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に聖霊が豊かに注がれますように。そして私たちがキリストの再臨の道を指し示すために神によって用いられてゆくようお祈りします。アーメン。

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