2018年1月17日 (水)

2018年1月14日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝説教「ナタナエルの回心」

2018114日(日)顕現節第二主日聖餐礼拝 説教「ナタナエルの回心」    大柴 譲治

第一朗読 サムエル記上 3: 1〜10

8 主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、 9 サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。 10 主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」8−10節)

福音朗読  ヨハネによる福音書 1:43〜51                   

するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。46節)

 

本日の主題〜神の声に聴くということ

 本日は顕現節第二主日の礼拝です。「顕現節」というのは「主の栄光がすべての民の上に顕現した」ということを覚える期節です。本日の主題は、旧約聖書の日課には少年サムエルのエピソードが記されています。サムエルとは「その名は神」という意味の名で、イスラエルの預言者であり、神に立てられた「士師」(指導者)の一人で、サウル王やダビデ王に油を注いだことでも有名です。サムエルの両親(父エルカナと母ハンナ)は年老いて与えられたサムエルを神に捧げ、大祭司エリ(「わが神」の意)のところに送り神殿で仕えさせるのです。ある夜寝ていたサムエルは真夜中に自分の名前が呼ばれたのを聴いて、エリのところに参上します。しかしエリはサムエルを呼ばないと言う。そのような出来事が三度あって、エリはそれがサムエルに対する主なる神の特別な呼びかけ(コール/召命)であることに気づきます。エリのアドヴァイスを受けて、サムエルはそれに対して正しく応えてゆくのです。1サムエル3:10にはこのように記されていました。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。『サムエルよ。』サムエルは答えた。『どうぞお話しください。僕は聞いております』」。教会学校でもよく語られるエピソードでもあります。「神からの呼びかけ(コール)」に対して忠実にそれに応答してゆくこと、それが信仰者には求められているのです。しかしその気づきにおいて、背後にはサムエルの両親や大祭司エリの執り成しの祈りがあったことを私たちは知っています。「神の声(言)に立つ信仰」とは信仰の先輩たちとのつながりを通して導かれてゆくのです。私たち自身の信仰の歩みにおいてもそうであったことでしょう。真実の生とは出会いです。その出会いの背後には「永遠の汝」たる神が働いておられます。

 

ナタナエルのケース〜「回心」の背後にある神の賜物/恵み

 福音書の日課には「ナタナエル」という人物が出て来ます。この人はヨハネ福音書にしか出てこないのですが、恐らくマタイ、マルコ、ルカの三福音書(「共観福音書」と呼ばれますが)では12弟子の一人であった「バルトロマイ」と同じ人物であったと思われます。共観福音書ではバルトロマイがいつもフィリポの次に置かれて、その名前は一緒に並べられているからです(マタイ10:3、マルコ3:18、ルカ6:14)。本日のヨハネ福音書の日課ではナタナエルはフィリポによってイエスのもとに連れて行かれています。「ナタナエル」という名前は「神の賜物/宝物」という意味を持つ名前です(ちなみに「フィリポ」「馬を愛する者」という意味)。

 ナタナエルにはいくつか際立った特徴があります。最初に言わなければならないのは、彼が「よい友に恵まれていた」ということでしょう。彼はフィリポという友人によってキリストへと導かれました。フィリポはナタナエルにこう言います。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」。フィリポは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と批判的に語るナタナエルに対して、ただ「来て、見なさい」とだけ言って、彼をイエスのもとに案内するのです。これは極めて正しいアプローチです。「自分の目で見て自分で確かめなさい」と言うのですから。「このお方(イエス)と出会えば分かる」とフィリポはナタナエルをイエスのもとに招きます。

 ナタナエルの特長の第二は、彼が「旧約聖書に精通した真摯な祈りの人であった」ということです。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」46節)と言ったナタナエルは、旧約聖書には「ナザレ」という地名が一度も出てこないことを知っていました。だからそう言ったのです。そこからナタナエルを「強い先入観を持っていた人」と解釈する立場もありましょうが、私自身はどこまでも彼が神のみ言を大切にし、そこに立とうとした人物であったと理解したいのです。なぜなら、イエスご自身がナタナエルを賞賛しているからです。イエスはナタナエルがフィリポと会ったとき「イチジクの木の下にいた」ことを知っていました。彼はそこで神のみ言葉に思いを巡らせながら、真剣に祈っていたと思われます。イエスはだからこそナタナエルを見てこう言うのです。見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがないと。ナタナエルはイエスに賞賛されるほど「真の信仰者」でした。そのイエスの言葉を聴いてナタナエルは驚きます。なぜこの人は私のことを知っているのかと。そのあとの二人のやりとりはこうです。ナタナエルが、『どうしてわたしを知っておられるのですか』と言うと、イエスは答えて、『わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た』と言われた。ナタナエルは答えた。『ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です』」(48-49節)。「ラビ」とは「ユダヤ教の教師」のことで、「先生」という意味です。

 ナタナエルがイエスと出会ったことの背後には親友フィリポの存在がありました。少年サムエルが神と出会った背後に、その両親や大祭司エリの存在があったのと同じです。ナタナエルという名が「神からの賜物/宝物」を意味しているように、私たちの人生には神が備えてくださった「出会いの賜物」があるのです。それを通して「ナザレから何のよいものが出るだろうか(出はしない)」と思っていたナタナエルが、「キリストを救い主として信じて告白するキリスト者」へと変えられていったのです。彼は告白します。「ラビ、あなたは神の子、イスラエルの王である」と(49節)。これを「回心(コンバージョン)」と呼び「悔い改め(メタノイア)」「主体の転換」と呼びます。回心とは「神の恵みの御業」であり、「神からの賜物」です。神ご自身が私たちの内に働いてくださるのです。キリストと出会うことで「迫害者」から「伝道者」へと劇的に変えられたパウロはこう言っています。わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」のだと(ガラテヤ1:15)。既にこの世に生まれる前から自分は神の恵みの御手の内に置かれていたのだとパウロはここで語っているのです。私たち一人ひとりには神に与えられた貴い「使命(ミッション)」があり、「人生の目的(パーポス)」があるのです。

 ナタナエルについて特徴的な第三のことは、イエスの次のような預言です。「『いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。』更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」50-51節)。「信仰」とは神が備えた「偉大なこと(イエス・キリストにおける救いの御業)」「見る」ことなのです。「信仰とは、(神がわたしたちにおいて)望んでいることを確信し、見えない(神の恵みの)事実を確認すること」なのですから(ヘブライ11:1)。ナタナエルもフィリポも、他の弟子たち同様、「復活の証人」となってゆきました。ナタナエルはやがて生きたまま生皮を剥がれるような殉教の死を遂げていったとも伝えられています。彼の生と死は、人間の生と死を超えた、死や迫害によっても揺らぐことのない「神の永遠のいのち」を証ししています。「真の神の子、イスラエルの王」と出会った喜びがナタナエルを最後まで捉えて放さず、その大いなる喜びが彼をキリストの日に向かって守り導いたのでありましょう。「ナタナエル」という名が体を表わしているように、彼は「神から賜物」としての自分の人生を深く味わい、聖書のみ言と祈りに誠実に生き、主イエスと出会い、その約束の言葉を聴き、自らの眼で「主の上に天使が昇り降りするのを見る」という救いへと招き入れられたのです。 お一人おひとりの信仰の歩みの上に祝福をお祈りいたします。

2018年1月 8日 (月)

2018年1月7日(日)顕現主日聖餐礼拝説教「星をたよりに」

201817日(日)顕現主日聖餐礼拝 説教「星をたよりに」         大柴 譲治

イザヤ書 60:1〜6

1 起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。2 見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。 3 国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。1-3節)

 

マタイによる福音書 2: 112                   

9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。

 

2018年最初の主日礼拝に〜東からの博士たちを導いた星の光

 新年おめでとうございます。本日は今年最初の主日礼拝です。ご一緒に礼拝をもって一年を始めることができる幸いを覚え、心から神に感謝いたします。

 本日の顕現主日に与えられたマタイ福音書2章には、黄金・乳香・没薬という宝物をもって幼子イエスのもとを訪ねる東からの占星術の博士たちの姿が記されています。聖書自体には博士たちの人数は記されていませんが、宝物が三つだったということから博士たちも三人であったと言い伝えられてきました。それも降誕劇などの人形で描かれた場面では、アジアとアフリカ、そしてヨーロッパという三つの人種を代表した姿で博士たちは描かれていたりします。本日の第一日課イザヤ書60章にあったとおり、すべての民に(「異邦人」)に神の栄光が顕現したことを覚えるのが「顕現日(エピファニー、毎年1月6日に定められています)」であり「顕現主日」なのです。西方教会では1225日より本日までの二週間を「クリスマスの期間」と定めています。顕現節の主日は「聖灰水曜日(Ash Wednesday)」までと定められています。典礼色は「神の栄光を顕す白」が最初の二回と最後の変容主日に用いられ、間の主日は「信仰の成長を表す緑」が用いられます。本日は「星に導かれる」ということ、「星をたよりに生きる」ということがを意味しているのかに焦点を当てながらみ言葉に聴いてまいりたいと思います。クリスマスの出来事はマタイとルカの二つの福音書にしか記録されていませんが、東からの博士たちのエピソードを記録しているのはマタイ福音書だけです。

 本日の第一日課であるイザヤ書60:1-3はこう謳っています。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。この預言の成就として重ね合わせながら、マタイ福音書は東からの占星術の学者たちを登場させているのです。

 

「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。」(イザヤ40:31

 皆さんは今年どのような初夢を見られたでしょうか。私はこれが初夢だというはっきりとした認識はないのですが、どうも自分が鷲のようになって飛翔する夢を見たような気がしています。そして空高いところから自分が鷲の目をもって地上を見下ろしているような感覚を持ったのです。それは夢かうつつか幻かははっきりしませんが、イザヤ書の40:31には次のようなみ言葉があり、それと重なっているように感じたのです。主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。大切なことは「主に望みをおく」ということだということを改めて再確認させられたように思います。同時に「天から地上を見る」という、言わば「『神の視点』で物事を見てゆくこと」が大切であると示されたようにも思いました。そこから与えられたマタイ2章を読み直すと、これまで全く思いも付かなかったような「新しい視点」が与えられたように思うのです。それは「地上から星を見上げる」のではなく、逆に「星から地上を見降ろしてゆく視点」が示されたように思うのです。神が夜空に「星」をひときわ明るく輝かせ、占星術の学者たちを幼子イエスまで導くのです。ヘロデ大王やエルサレムの住人たちが持つ「人間の深い闇(=不安と恐れとおののき)」もそこでは明らかにされてゆきます。東からの博士たちは「神の都」エルサレムに来て問いました。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです』2節)。 マタイはその時の人々の反応をこう記しています。「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった3節)。ヘロデは不安の中で、そのことがダビデの町ベツレヘムで起こるということを人々に調べさせて知ります。ヘロデは占星術の学者たちを再度ひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめたのです(7節)。 そして、心にもない嘘をついて彼らをベツレヘムに送り出します。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と(8節)。自分の身を守るためにヘロデがその幼子を殺そうと思ったことは、その後の16節に記されている出来事からも明かです。「さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」16節)。何と人間は残虐な存在になり得るのでしょうか。「不安」「恐れ」、そして「怒り」というものが人間を「悪魔」のように狂わせてゆくのです。ヘロデの持つ「闇」は何と救い難いほどに暗く、恐ろしいほど深淵が深いものなのでしょうか。「星の光」はヘロデの心には届かないのです。星の光がヘロデを避けたのでしょうか。否! ヘロデの中の何かがその光に気づくことを妨げているのです。それは自分の中だけで欲望を満足させ、自己完結しようとするモノローグ的で自己中心的で悪魔的な「罪」です。このままでは、ヘロデ大王の行き着く先は「絶望の死」以外にはありません。実際にヘロデ大王は残虐さでよく知られていました。自分の部下だけでなく妻や子どもたちをも、自分を無き者にしようとしているという「猜疑心と嫉妬」のために次々に殺していった。ヘロデ大王は人間の持つ闇の深さを体現しています。そのような闇を私たちもまた自分の内に持っているのです。闇の中に生き続ける限りどこにも救いはありません。光に照らされたものの反対側に必ず影ができるように、影の中に生きる者は光の中に出ることを恐れるのです。

 ヘロデと対照的なのが、星の光に導かれて幼児の場所に辿り着いた博士たちです。「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった」9節)。そしてこう続く。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」10節)。先立って進み、彼らを守り導く特別な星の光によって、彼らの身体と心と魂とは大きな喜びに満たされていったのです。それは「まさにこのことのために自分たちの人生はあったのだ!」と言えるような大きな喜びです。救い主と出会うということはそのような喜びの人生へと私たちを招き入れてくれます。苦しみや悲しみがなくなるわけではありません。そのただ中で主と共なる喜びを味わうような人生です。

博士たちの姿は闇の深いヘロデの姿と確かに対照的です。しかし私は思います。博士たちも夜空にひときわ明るく輝くその星を見つけるまではヘロデと同じような生き方をしていたのではなかったかと。一説によると「黄金・乳香・没薬」は、それまでの彼らの人生を支えてきた「占星術のための商売道具」でした。それらをすべて幼子に捧げたというのは、彼らがそれまでの古い生き方と訣別したことを意味します。それほど「光に照らされることの喜び」は大きいのです。「光を見ようとしないヘロデの姿」「光によって照らされた博士たちの姿」。それは「キリストと出会う前の古い人間」「キリストと出会った後の新しい人間」とを体現しています。「星」を発見したその最初の瞬間から彼らにはある種の「再起/復活/再生の予感」があったはずです。光の中に終わりが見えたのです。だからこそ彼らは何ヶ月も何年も前に自国を旅立ち、行く先も知らないで夜の旅に出発することができたのです。このような光に照らされ、光を信頼し、光に導かれ、光に向かって旅することができる者は幸いです。星は夜にしか見えません。昼間は見えない。私たちの旅もまた夜の旅なのかも知れません。しかしその旅は神が必ず守り導いてくださる確かな喜びと祝福の光に満ちた旅です。幼子と出会った者は「夢のお告げ」を受けて「別の道を通って自分たちの国へ帰って行く」ことができる。新しい生き方が始まってゆく。私たちもこの人生という夜の旅を、星をたよりに「主に望みをおくことで新たな力を得て」歩んでまいりましょう。起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:1-2

2017年12月31日 (日)

2017年12月31日(日)降誕後主日聖餐礼拝説教「ピーク&ラストの法則〜シメオンのケース」

20171231日(日)降誕後主日聖餐礼拝説教「ピーク&ラストの法則〜シメオンのケース」 大柴譲治

福音朗読  ルカによる福音書 2:22〜40                    

28 シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。 29 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 30 わたしはこの目であなたの救いを見たからです。 31 これは万民のために整えてくださった救いで、 32 異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」(28-31節)

 

2017年最後の主日に〜シメオンの讃歌「ヌンク・ディミティス」

 本日は今年最後の主日礼拝です。この大阪教会は、元旦礼拝に始まり、主日礼拝に終わる一年でした。本日の福音書には「シメオンの讃歌」が出て来ます。これは私たちが毎週礼拝の中で歌う「ヌンク・ディミティス」です。主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです(ルカ2:29-32)。これはすばらしい讃歌であると思います。人生の最後に老シメオンは待ち望んできた救い主である幼子イエス・キリストと出会うことができたのでした。何という喜び、何という誉れ。もう一人の老女預言者のアンナも同様でしょう。私たちはこのヌンク・ディミティスを葬儀式の中でも高らかに歌います。このような大きな喜びの中に人生を終えて行くことができるとすれば、何とすばらしいことかと思わずにはおれないのです。人生において主イエス・キリストと出会うということはそれほどまでに大きな喜びに満ちた出来事なのです。

 クリスマスの光はこの世の「闇」の中で輝いています。神の独り子がこの地上に、人間の姿を取って、私たちの「命の光」としてお生まれになったのです。救い主の降誕というクリスマスの出来事は、この世の闇がどれほど深くても、その闇の底に救いの光が届いたということを意味しています。闇の中にキリストの光が輝いています。

 イザヤ書9章が預言していた通りの救いの出来事が地上に生起した。老シメオンはそれを目の当たりにすることができました。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」9:1, 5節)。本日の第一朗読であるイザヤ書61章が歌う歓喜の歌は、その大きな喜びと重なります。わたしは主によって喜び楽しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。大地が草の芽を萌えいでさせ、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、主なる神はすべての民の前で、恵みと栄誉を芽生えさせてくださる」61:10-11)。

 

ピーク&ラスト(ピーク・エンド)の法則

 私たちの持っている「記憶」「感覚」は様々な特徴を持っています。本日はそのうちの二つの特徴に触れたいと思います。「ピーク/マックス」「ラスト/エンド」の二つです。心理学の領域では「ピーク&ラストの法則(ピーク・エンドの法則)」と呼ばれるものがあります。何事でも私たちは一つの体験をした時に、喜びでも悲しみでも怒りでも、その時の「頂点にあった感情」(「ピーク感情」または「マックス感情」とも呼びますが)と共に「最後(ラスト/エンド)の感情」を強烈にその体験の記憶として定着させるという傾向があるようです。「経験全体の総和」ではなくて、「その経験の長さ」「ジグザクさ、複雑さ」でもなくて、「ピーク時の感情と終結時の感情」の二つを心に刻む傾向があります。記憶に残るのは「頂点の部分」「最後の部分」なのです。それを「ピーク&ラストの法則」あるいは「ピーク・エンドの法則」と呼びます。普段は意識していないのですが、確かにそう言われてみると、そのように思われます。いろいろな出来事を振り返るときに、それがたとえ紆余曲折を経るような長く複雑なものであったとしても、その時の「ピーク感情」がどのようなものであったか、「ラスト感情」がどのようなものであったかで、それが印象づけれられていることが少なくないのです。私たちの記憶はそのようなかたちで、意外にも単純化して、主だった印象を抽出して定着させているというわけです。

例えば、一枚の紙を取って、タテに半分に折ります。もう一度拡げると真ん中に折れ線が入っています。これを自分がこれまで歩いてきた人生だと思ってください。左端が誕生時、右端が現在です。自分の人生を振り返って、最高の喜びや幸せという「ポジティブ体験」を三つ、思い起こしていただきます。「三つだけに絞れない」とか「順番はつけられない」とか、様々な思いが交錯することでしょう。しかし時間をかけて、思い起こしてみるのです。そうすると、「何歳の時にはこういう体験があった」とか「そう言えば、あの時にはああいう体験もあった」と様々な振り返りができることでしょう。紙に書いてみてください。上端をピークとします。続いて最高に辛かった「ネガティブ体験」を三つ思い起こします。それもその時に気持ちを思い起こしながら書いていただきます。すると三つの喜びの山(「ポジティブ体験」)と三つの嘆きの谷(「ネガティブ体験」)ができた自分の生涯が目の前に浮かび上がってきます。改めて自分の歩んできた人生を振り返るのは大切なことでしょう。今の自分にとっては一つひとつが大切な経験です。それらを経て現在の自分があるからです。自分の人生において「ピーク&ラスト(ピーク・エンド)の法則」を当てはめるとすれば、どのようになるでしょうか。

 

シメオンのケース

そのところから「シメオンのケース(場合)」を考えてみるならば、どうなるでしょうか。老シメオンはそれまでの人生で様々な苦しみや悲しみ、壁にぶつかったり、徒労や失望をなめてきたに違いありません。私の母はよくこう言っていました。「譲治、歳を重ねるということは、実はそれだけで大仕事なのよ」と。本当にその通りであると実感したものでした。シメオンも、場合に違わず、人生山あり谷ありですから、多くの体験を積み重ねてきたことでしょう。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」2:25-26)と福音書にはあります。「シメオン」とは「聴く、耳を傾ける」という意味の名前です。「名は体を表す」と言いますが、シメオンは生涯を通して一生懸命に聖書を通して聞こえてくる「神の声」に耳を澄ませ、それに耳を傾けてきたのでありましょう。そのことを25-26節は「正しい人で信仰があつく」という表現で表していたと考えられます。

 そのシメオンが幼子イエスと出会ったのです。「シメオンがに導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った」27-28節)。そしてここからシメオンは大きな喜びに満たされて「ヌンク・ディミティス」を歌うのです。高らかに、そして決然として、「今わたしは主の救いを見ました」と。「ピーク&ラストの法則」から見れば、彼ほど幸せな人生を送った者はいないのではないでしょうか。シメオンの姿はこの世の人生においてキリストと出会った私たち自身の姿でもあります。先週のクリスマス礼拝では4人の方の洗礼式が行われましたが、それはキリストによって罪を贖われ、すべての罪を赦されて、古い自分が死んで、主にある新しい自分として生まれ変わるという奇蹟のような出来事でした。キリストにある大きな喜びが私たちを捉えて放しません。ローマ書8章のパウロの言葉を想起します。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」8:35-39)。

私たちは、シメオンと共に、キリストと出会えた喜びの讃歌を歌いながら、この主の年2017年を閉じてゆきたいと思います。そのような「ピーク&ラストの出来事」を神は私たちに恵みとして贈り与えてくださったのです。お一人おひとりの上に、メリークリスマス!

2017年12月26日 (火)

2017年12月24日(日)クリスマス主日礼拝説教「闇夜に輝くクリスマスライト」

20171224日(日)クリスマス主日礼拝説教「闇夜に輝くクリスマスライト」大柴譲治

イザヤ書 52:7〜10

7 いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。8 その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。7-8節)

ヨハネによる福音書 1:1〜14                    

1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・・ 14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。1-5, 14節)

 

はじめに

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とがあなたがたにあるように。 アーメン。

 

クリスマス おめでとうございます。

 クリスマスおめでとうございます。アドヴェントクランツの四本のローソクが、毎週一本ずつ増えてゆき、本日すべて点火されました。「クランツ」とは「環、円環」という意味のドイツ語ですが、「円、丸いかたち」には終わりがないために、クランツは終わることのない「永遠の命」を表しています。「緑の常緑樹」が用いられるのも同様にいつまでも永続する命が表されています。そして四本のローソクはアドヴェント(待降節)の四週間を表しています。

 今日から17日(日)の顕現主日までの二週間、クリスマスの喜びの期間が続きます。典礼色は神の栄光を顕す「白」。クリスマスが1225日と定められたのは4世紀の終わり頃、北半球では夜が一番長い「冬至」の頃にあった異教の「太陽祭」に重ね合わせるようなかたちで、「義の太陽」であるキリストの降誕を祝うようになってゆきました。西方教会では16日が「顕現日」、東からの博士たちが黄金・乳香・没薬をもって幼子のところを訪れたことを記念する日(異邦人にも主の救い主としての栄光が現れた日)として守っています。ロシア正教やギリシャ正教などの東方教会(Orthodox Church)では、今でも17日を主の御降誕日(クリスマス)として祝っています。

 

闇に輝く光がもたらす深い喜びと慰め

 ヨハネ福音書は次のように始まります。1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1-5)。光は暗闇の中に輝いています。この光を暗闇は理解しなかった、とある。この部分を私たちは長く「闇はこれに勝たなかった」という口語訳で親しんできました。「光」「闇」とは「相反するもの」「相容れないもの」「決して同居することができないもの」であるということになりましょう。確かにそうなのかもしれません。その場合には、光と闇とはあれかこれか、二つに一つということになるのでしょう。闇は光によって駆逐されるべきものとして考えられているようです。しかし私たちは知っています。光に照らされた事物の反対側には必ず影(ダークサイド)ができるということを。映画の『スターウォーズ』ではないですが、ある意味で光と影とは表裏一体なのです。区別はできても分離はできないものとして光と影はある。光が強ければ強いほど、影もまた濃くなるものなのです。

 クリスマスの光は、しかしこの世の「闇」「影」(ダークサイド)の中で輝いています。神の独り子がこの地上に、人間の姿を取って、私たちの「命の光」としてお生まれになったのです。救い主の降誕というクリスマスの出来事は、この世の闇がどれほど深くてもその底に救いの光が届いたということです。闇の底に届かない救いの光はないのです。

 それはちょうどクリスマスの出来事を預言したイザヤ書9章が次のように告げている通りです。「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。・・・ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」1-2, 5節)。

 本日の第一朗読であるイザヤ書52章が歌う歓喜の歌は、そのあたりの大きな喜びと重なります。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。その声に、あなたの見張りは声をあげ、皆共に、喜び歌う。彼らは目の当たりに見る、主がシオンに帰られるのを。歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた。主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」52:7-10)。

 

闇夜に輝く美しいクリスマスライト〜カナダ・ラングレイでの思い出

 クリスマスの出来事は深い闇の一番奥底にも神からの救いの光が届いたということを意味しています。日本でも最近ではLEDなどを用いて家全体のクリスマスライトやデコレーションが美しく飾られるようになりました。私にはそのことについて忘れられない一つの思い出があります。1983年のクリスマスのことです。カナダのブリティッシュコロンビア州のラングレイという小さな町(ヴァンクーバーから車で小一時間ほどの距離)で、私は「谷の羊飼いShepherd of the Valley Lutheran Churchという名のカナダ福音ルーテル教会において、牧師となるために一年間のインターンをしていました。その町の郊外に、ひときわ美しくクリスマスライトを飾った一件の家があったのです。前庭にはディズニーワールドのようにいくつもの動物や人形が置かれ、色とりどりのライトで様々にデコレーションされていて、それはそれは、おとぎの国のような美しさでした。道行く人たちも車を止めてしばし見入っていました。偶然通りかかった私は、闇の中に突然浮かび上がったその光景に深く感動し、しばしの時をその家の前で過ごしました。教会に戻ってからそのことを指導牧師のFrank Schmitt先生に報告したところ、牧師は一つのストーリーを話してくれたのです。実はその家には三人の男の子がいたのですが、ベトナム戦争に従軍して三人とも戦死してしまったということでした。私はそれまでカナダがベトナム戦争に関わっていたことを知りませんでした。以来そのご両親は、世界の平和を祈りながら毎年そのクリスマスデコレーションを飾っているのだと言うのです。とても悲しいけれども、忘れられないクリスマスの思い出です。

 あれから34年が経ちました。美しく飾られたクリスマスライトを見る度に私はその家のことを思い起こします。今はどうなっているのでしょうか。御子が生まれたベツレヘムの夜空には一つの星がひときわ明るく輝きました。その星の光はこの世の闇を照らしています。どのような時にも、どのように闇が深くとも、神は私たちと共にいてくださる。インマヌエルの神の光が、闇の淵まで、闇の奥底まで届いているのです。私たちはそのことを喜び祝いたいのです。

 困難な状況や深い悲しみの闇の中にある方々の上に主の慰めの光が注がれますように。天には栄光が神に、地には平和が人にありますように、心よりお祈りいたします。 メリークリスマス!

 

おわりの祝福

 人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るように。 アーメン。

2017年12月17日 (日)

2017年12月17日(日)待降節第三主日礼拝 説教「光の証人ヨハネ」

20171217日(日)待降節第三主日礼拝 説教「光の証人ヨハネ」  大柴 譲治

 テサロニケの信徒への手紙 一  5:16〜24

16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。16-18節)

 ヨハネによる福音書 1: 6〜 8,19〜28

6 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7 彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8 彼は光ではなく、光について証しをするために来た。6-8節)

 

「光の証人」〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第三主日の本日に与えられたみ言葉は、(先週のマルコ福音書1章に続いて)ヨハネ福音書1章から「(洗礼者)ヨハネ」についてです(実はヨハネ福音書は一度も「洗礼者」という呼称を用いていません)。第四福音書は他の三つの福音書(それら三つはその構成や内容の一致する部分が多いために「共観福音書」と呼ばれます)と比較して、独自の表現やエピソードの展開をしていることが多いのですが、洗礼者ヨハネに関しては共観福音書と共通する部分が少なくありません。ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネは確かに「神から派遣された人」でしたが、「光そのもの」ではなく、「光について証しをする光の証人」であったことを明確に宣言します。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た」7-8節にある通りです。

 洗礼者ヨハネは自分をイザヤ40:3が預言する「荒野の声」として位置付け、それを「公言」します。ヨハネの元に来てその素性を明らかにしようとする人々に対して、自分は「メシア」ではなく、旧約聖書が預言する「エリヤ」でもなければ、メシアの前に現れると当時考えられていた「あの預言者」(申命記18:15-18)でもないと答える。洗礼者ヨハネは自らキリストを指し示す黒子の役割に徹底します。「自分は何者でも無い。荒れ野の声にすぎない」と言うのです。ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。『わたしは荒れ野で叫ぶ声である。「主の道をまっすぐにせよ」と』23節)。ここも先週のマルコ福音書の日課と同じ内容です。ヨハネはイエスの先駆者としての「荒れ野の声」でした。

 そして、ファリサイ派がヨハネに「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と尋ねると、ヨハネはこのように答えるのです。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」26-27節)。この部分もマルコ福音書と重なります。「これはベタニアでの出来事であった」とはヨハネ福音書だけが記す言葉ですが、「イエスの先駆者」であった洗礼者ヨハネが、自ら「光の証人」としての自覚を持っていたことが記されています。そして、自分はその人の前では、当時の召使いの仕事でもあった「その履物のひもを解く資格(マルコでは「値打ち」でした)もない」小さな存在に過ぎないと言っているのです。

 

「光の証人」とは何を意味するのか?

 私たちは本日、(洗礼者)ヨハネが「光の証人」であったように、私たち自身もまた「光の証人」として呼び出されていることを覚えたいと思います。「光の証人」であるということが何を意味するのか、それが本日の主題です。「光の証人である」ということは、当たり前のことですが、「闇の証人ではない」ということです。闇の中に輝く光を指し示し、それを証しするのが「証人」の役割です。ヨハネ福音書はこのような言葉で始まっていました。初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1-5)。光は暗闇の中に輝いているのです。この光を暗闇は「理解しなかった」とある。この部分を私たちは「闇はこれに勝たなかった」という口語訳で長く親しんできました。第四福音書において「光」「闇」とは「相反するもの」であり、「相容れないもの」「決して同居することができないもの」でありましょう。確かにそうなのかもしれません。その場合には、光と闇とはあれかこれか、二つに一つということになるのでしょう。闇は光によって「駆逐されるべきもの」として捉えられています。

 私たちは闇の中に輝く光の貴さ、有り難さを知っています。闇の中にただ一人置かれた体験を誰しもが持っているからです。真っ暗闇の中では、たとえそれがかすかな光であったとしても、私たちには灯火が必要だということが分かります。それは希望の光でもある。荒れ狂う夜の海の暗黒の中で、進むべき方向を示すかすかな灯台の光がどれほど大きな慰めと希望を与えるかを私たちは知っています。闇はそのような光の持つ力を理解することができず、その希望の力を知らないのです。ルターは言いました。「世界を動かす力は希望である」と。「希望の光」がなければ私たちには絶望の闇しか残されていないのです。

 ユダヤ人の精神科医であったオーストリー人ビクトール・フランクルはアウシュビッツなどユダヤ人強制収容所の体験を戦後に『夜と霧』という本にまとめました。その中でフランクルはこう言っています。「強制収容所で最初に倒れていったのは、身体の弱い体力の無い人々ではなかった。それは絶望した人、希望を見失った人たちから先に倒れていった」と。人間は絶望すると生きる力を無くすのです。逆に言えば、希望があるからこそ人は生きることができる。「希望の光」とは、フランクルの言い方を借りるならば、「生きる意味」と言い換えることもできましょう。絶望的な状況の中にあっても絶望することなく、希望の光に向かって目と心を上げて生きてゆく事が出来る人こそが生き残る。ルターが言うように「世界を動かす力は希望」なのです。洗礼者ヨハネが自らを「光の証人である」と語るのは、そのような絶望の闇の中にあっても希望の光を見失わず、それに向かって目を上げ、それを指し示す証人であるということでありましょう。

 「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たちにとっての希望の光です。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が希望の光に向かってまっすぐに顏を向けるということでもありましょう。マタイ福音書はクリスマスのエピソードとして、東からの博士たちが星を頼りに旅を続け、やがて幼子のところに辿り着いたことを記していますが、私たちもまた闇に輝く星の光をたよりにこの地上の生涯を歩むのです。

 今日の使徒書の日課として与えられている聖句がそのことを具体的に示していると思われます。1テサロニケ5:16-18のみ言葉です。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」。ここを愛唱聖句とされている方も少なくないことでしょう。昨日、この教会では、1958年の宗教得改革記念主日にこの教会で中尾忠雄牧師より洗礼を受け、先日の113日に82歳の地上でのご生涯を終えて神さまのみもとに帰って行かれたNY姉の召天50日の記念会と納骨式とが行われました。Y姉は若い頃からリウマチなど痛みを伴う病気を患いながらもいつも明るく、決して苦しいという言葉も顏も見せることはなかった方でした。それゆえその周りにはいつも多くの方々が自然に集まったそうです。昨日ある方が引用されたみ言葉がこの1テサロニケ5章のみ言葉でした。それはY姉が主イエス・キリストを信じる信仰を生きる希望として与えられていたからでありましょう。彼女もまた光の証人だったのです。苦しい時にも悲しい時にも、詩編23編を愛唱し、讃美歌を口ずさみながら、羊飼いである主と共に歩まれました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。そのような「いのちの光」が私たちには天からのプレゼントとして贈り与えられている。だから私たちは、「たとえ死の影の谷をゆく時も、災いを恐れません。なぜなら、あなたがいつもわたしと共にいてくださるのですから」(詩編23:4)。そのことを深く味わいながらご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。 アーメン。

 

2017年12月10日 (日)

2017年12月10日(日)待降節第二主日礼拝説教「主の道筋をまっすぐにせよ」

20171210日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道筋をまっすぐにせよ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 1: 1〜 8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」1-3節)

 

荒れ野に響く声〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第二主日の本日与えられたみ言葉はマルコ福音書の冒頭部分です。マルコ福音書は四つある福音書の中でも最も古く、最初に福音書を書いたことで知られています。マルコはガリラヤなまりのアラム語を話すペトロの通訳でした。ペトロの言葉を、当時ローマ帝国で公用語として使われていたギリシャ語やラテン語に通訳する役割を果たしていたのです。直接イエスを知っている12使徒たちを中心とする第一世代のクリスチャンたちが、世界宣教のために散らされたり、殉教したり、高齢化してゆく中で、直接イエスを知らない第二世代のクリスチャンたちのために福音書を記す必要が出て来たのです。そのような状況の中で、マルコはペトロの通訳としての経験を生かして福音書を書くことになります。それは紀元70年頃と考えられています。イエスが十字架に架けられたのが紀元30年頃でしたから、それから数えるとおよそ40年が経っていました。40年とはちょうど一世代が次の世代に代わってゆく年限でもあります。

 マルコは不要な言葉は一切用いず、極めて端的に事柄を記します。神の子イエス・キリストの福音の初め1節)。イエスは神の子であり、神によって油を注がれたキリスト・メシアである。その「福音」「良き音信」「はじめ」の発声としてマルコは、荒野にイエスの先駆者として現れた洗礼者ヨハネの姿を告げ知らせてゆくのです。この「はじめ」という言葉は、あの創世記の冒頭で「初めに、神は天と地を創造された」という時に用いられていた「初め」であり、ヨハネ福音書の冒頭での「初めに言があった」という「初め」と同じ言葉です。それは「一番最初に」「太初に」という意味と共に「根源に」「根本的に」という意味を示していましょう。「神の子、イエス・キリストの福音が私たちのライフ(人生/生活/いのち)を根本から支え、守り、導いている」という意味を込めてマルコはこのように宣言していると考えられます。

 それはマラキとイザヤという二人の預言者によって預言されていたみ言葉(マラキ3:1とイザヤ40:3)の成就でした。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」2-3節)。

 そしてその旧約聖書の預言の通り、荒れ野に洗礼者ヨハネが現れるのです。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」4節)。洗礼者ヨハネは人々に「罪の赦し」を得させるための「悔い改めの洗礼」を施してゆきました。「荒れ野」とは「人間が自力では生きることができない世界」であり、「神がご自身を顕現する神の世界」を意味します。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた5節)とあるのは、洗礼者ヨハネは当時の人々が心の奥底に持っていた魂の飢え渇きと切望感とを、いわば「スピリチュアルニーズ」を深く満たしていったのだと思われます。その洗礼は人々の心の目を「神」「神の子イエス・キリスト」に向けるためのものでもありました。本日の日課の次の部分には、イエスご自身もまたヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたことが記されています。その時に天が裂けて、霊がハトのようにイエスに降り、天からの声が響くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(9-11節)。

 マルコはイエスの先駆者ヨハネの、一種異様ないでたちをこう記しています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた6節)。それは人間の力を拒絶する「荒れ野」において、「神によって生かされている神の人の姿」なのでありましょう。

 ヨハネははこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」7-8節)。ヨハネは自分がイエスの先駆者としての役割を果たしており、後から来るお方に比べたら自分は何者でもないと宣言しています。当時召使いの仕事であった「その方の履物のひもを解く値打ちも自分はない」というのです。自分は水で洗礼を施しているが、そのお方は聖霊で洗礼を施されるとヨハネは言います。マタイ福音書とルカ福音書は「その方は、聖霊と火による洗礼を施す」(マタイ3:11、ルカ3:16)と語り、ヨハネ福音書はマルコ福音書と同様、「聖霊によって洗礼を授ける」と伝えています。私たちはイエス・キリストの御名によって水と霊との洗礼を受けました。この教会の12/24のクリスマス礼拝では四人の方の洗礼が予定されています。洗礼とは古い自分が死んで、キリストにある新しい自分として生まれ変わることであり、神から水と聖霊の油を注がれるということです。一人のキリスト者にされるということは私たち自身が「一人のキリスト(油注がれた者)」(ルター『キリスト者の自由』)とされるということです。何よりも「失われた者が見出された時には、天において盛大な祝宴が開かれる」と聖書には記されています(ルカ15章)。洗礼を受けるということは、そのような「天の喜びの祝宴」に参加することでもある。その先取りとして、前祝いとして、この地上においては礼拝の中で「聖餐式」が行われます。本日も聖餐式が行われますが、それは天国の祝宴に与ることです。ここは天と繋がっている「空間」であり「時間」であり「聖徒の交わり」であるのです。

 

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということ

 それにしても、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ヨハネ福音書の中でイエスはこう言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」14:6)。私たちはキリストという道を通って神の御許に近づいてゆくようにと招かれています。「信仰」とはこのキリストの道を歩むということでもあります。

 これまで申し上げたてきたように、「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たち自身の人生を通ってこられるのではないかと思わされています。私たち自身が主の通られる道となるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が自らの日々の信仰生活を整え、それを神に向かってまっすぐにするということです。

 ルターは小教理問答で主の祈りの「み国を来たらせたまえ」という祈りについてこう語っています。

 

第二のねがい  み国がきますように。

 これはどんな意味ですか。

答:たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、

  み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

 それはどうして実現しますか。

答:それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世に

  おいても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

 「信仰」とは、私たちにおいて働く神の恵みのみ業であり、神の聖霊の働きです。洗礼によって水と霊との油を注がれた私たちがキリスト者として生きる。それが今も生きて働いておられる復活のキリスト、現臨のキリストを証しすることなのです。それをもし妨げるものがあるとすれば、それに気づき、それを正し、それを手放してゆく必要があります。それが「悔い改め」であり、キリストの道を整え、まっすぐにするということです。キリストご自身が私たちの人生という道をご自身の道として整え、その道筋を神に向かってまっすぐにしてくださいます。その主の憐れみのみ業に与りたいと思います。どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に聖霊が豊かに注がれますように。そして私たちがキリストの再臨の道を指し示すために神によって用いられてゆくようお祈りします。アーメン。

2017年12月 3日 (日)

2017年12月3日(日)待降節第一主日礼拝説教「目を覚ましていなさい」

2017123日(日)待降節第一主日礼拝 説教「目を覚ましていなさい」   大柴 譲治

マルコによる福音書 13:32〜37

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」32-33節)

 

「啐啄同時」(そったくどうじ)

 「啐啄同時」という禅仏教の言葉があります。卵から雛(ヒナ)が生まれる時に、ヒナは殼を破って中から出て来ますが、その時に内側からヒナが殼をつつくことを「啐」と呼び、外から母鳥が殼をつつくことを「啄」と呼ぶそうです。その両者がピッタリと合ったときに固い殻が割れて、中からヒナは出てくることができるという意味を表す言葉が「啐啄同時」なのです。それは、弟子が悟りを開こうとするまさにそのタイミングで、師匠がヒントを与えて悟りの境地にまで導くという意味で用いられる言葉ですが、「目覚める」ということも「啐啄同時」なのではないかと私は常々思わされています。

 本日与えられた福音書の日課マルコ1332-37には、短い部分でありながら、三度も「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉が繰り返されています。「ボンヤリとせず、覚醒しなさい」ということでありましょう。それは「気づきを深めなさい」「真理を悟りなさい」とも、「この言葉をあなたの魂に深く刻みなさい」とも呼びかけられているように感じます。イエスは大切なことを言う時にはしばしば、「(あなたがたに)はっきり言っておく」という言い方をされるのですが、これはギリシャ語では「アーメン、わたしは言う」という言い方です。ヨハネ福音書では「アーメン、アーメン、わたしは言う」「真実/然り」という意味の「アーメン」というヘブル語が繰り返されたりもしています。

 それにしても「目を覚ます」ということは何を意味するのでしょうか。ヨハン・セバスチャン・バッハのカンタータ(140番)に「目覚めよと呼ばわる者の声がする」というものがありますが、私はいつも朝目覚める時に思います。「意識が戻る」ということは、向こう側から「目覚めなさい」と呼びかける者の声がして、それにハッと気づくということと同じなのではないかと。私たちが目が覚める時には、向こう側からの声に呼びかけられて起こされるのです。やはりそれは「啐啄同時」なのではないかと思います。イエスは今朝の福音書の日課の中で「三度」、「目を覚ましなさい」と私たちに呼びかけておられます。これは「寝てはならない」という意味ではありません。そのようなことは私たちにはできない。神に呼びかけられた時に、あなたがたはキチンと目を覚ましなさいということです。自分の外から届けられる声に対して開かれているということ、耳を澄ましているということでもありましょう。日本語には「一を聞いて十を知る」という言葉もありますが、外からの声またはノックの音に反応して「その大事な時」を瞬時に理解するということです。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:32-37

 

待降節(アドヴェント)第一主日〜教会暦の最初の主日に

 本日は「待降節(アドヴェント)第一主日」。クリスマスに備える四週間の期節が始まりました。普通のカレンダーよりも一足早く、教会で用いるカレンダーである「教会暦」では新しい一年が始まったのです。ですから、本日は「新年おめでとうございます」という挨拶で始めることもできましょう。米国の福音ルーテル教会からかつて日本に派遣されていたルーサー・キスラー宣教師は、私が神学生として武蔵野教会に派遣されていた際に、待降節第一主日の説教をHappy New Year!という言葉で始めたことが大変に印象に残っています。今日は「ハッピー・ニュー・イヤー!」なのです。

 本日から12月24日(日)までの期間、典礼色は「紫」を用います。この色は「悔い改めの色」であり「悲しみの色」であると共に、「高貴な存在を表す色」「王の色」でもあります。「紫」は、アドヴェント(待降節)とレント(四旬節)に用いられますが、葬儀で用いられることもあります。この期間、私たちは主の到来を覚えつつ自らを吟味し、罪の告白をしながら「第一のアドヴェント」であるクリスマスと「第二のアドヴェント」である再臨を待ち望むのです。

 

「目を覚ましていなさい。」〜エマオ途上の二人の弟子のケース

 先週までは一年間マタイ福音書を読んできましたが、本日からはマルコ福音書を一年間通して読んでゆきます。先ほどお読みしましたように、新年の一番最初の日曜日である本日に与えられている主イエスのみ言葉は、「目を覚ましていなさい」という三度の呼びかけです。聖書の中で3という数字は特別な意味を持ちます。3は、71240同様に、「完全数」と呼ばれたりもします。「最初から最後までを貫いて」「徹底的に繰り返して」というような意味として捉えていただければよいでしょう。イエスは「三日目」に死人の中からよみがえられましたし、2コリント12:8にはパウロが「肉体のとげ」で苦しんだ時にそれを離れさせて下さるように「三度」主に祈ったと出て来ます。それは「三回だけ祈った」ということでなく「繰り返し繰り返し徹底的に祈った」ということを意味します。

 考えてみれば、イエスの弟子たちの生涯は、その最初から最後まで、「覚醒の生涯」であったと言えるのかも知れません。繰り返し、師であるイエスは頑なな弟子たちの心の殼を叩いて、弟子たちも自分の中にある心の殼を内側から叩いて、それがカパッと割れ、「心の目」が開けて、イエスの救いの貴さに気づかされるということが起こったというようにも捉えられます。「心の目」ということでは、先週の第二日課でもあったエフェソ1:17-18には次のようにあります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」。私はまた「心の目」ということに関して、あのルカ24章の復活のキリストがエマオ途上で二人の弟子たちに自分の姿を示される場面を思い起こします。です。最初二人の目は何かによって「遮られていて」(遮っていたのは何なのでしょうか。悲しみ?失望?悲しみ?怒り?常識?)、それがイエスであるとは分かりませんでした。しかし「道々」イエスが聖書について「モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」27節)時に、後から気づくのですが、二人の「心は燃えて」いました(32節)。そして「イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを割いて二人にお渡しになったとき」に、二人の「目は開け」、目の前にいる人物が復活されたイエスだということに「ハッと気づく」30-31節)。するとイエスの姿は見えなくなるのです。「心の目」という語自体はその少し後のルカ24:45に出て来ますが、このエマオ途上での二人の弟子たちが復活のキリストに会う場面は象徴的です。ここでもやはり「啐啄同時」なのです。「気づき」とは「覚醒する」とは、見えない姿なのかもしれませんが、「復活のキリストがこの世の現実のただ中で今も生きて働いておられること」を、「復活の主が常に私たちと共にいてくださること」を知ることであり、感じることであり、信じることなのだと思います。このルカ24章のエピソードは、「復活された主のご臨在のリアリティ」「キリストのリアルプレゼンス」というものを初代教会の信徒たちが聖餐式を通して深く味わい続けたということを示していると思われます。私たちの「心の目」を開き、私たちを目覚めさせて下さるのは、そのような主イエス・キリストの「目覚めよ」という呼びかけであり、私たちのすぐ傍に復活のキリストが共にいてくださるという「インマヌエル(神われらと共にいます)の神」のご臨在なのです。それを感じ取るために、私たちはこのように毎回礼拝に集い、聖餐式に与かり、聖書のみ言葉を読み、神に感謝と讃美の祈りを捧げてゆくのです。

 どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に、神の豊かな愛が注がれ、私たちの心の目と耳と口とが復活のキリストに向かって開かれますようにお祈りいたします。アーメン。

2017年12月 2日 (土)

2017年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「最後は、愛」

20171126日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「最後は、愛」    大柴 讓治

マタイによる福音書 25:31〜46   

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』40節)

 

教会暦の一年の最終主日の「王であるキリストの日」に〜「最後は、愛」

 本日は聖霊降臨後の最終主日。半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も最後となります。そして来週からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドベント)」が始まります。普通のカレンダーよりも一足早く、教会で用いるカレンダーでは新しい一年が始まるのです。聖霊降臨後の最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれてきました。終わりの日に私たちが「王であるキリスト」の前に立たされる時が来ることに思いを馳せる日でもあります。

 本日はマタイ福音書25章からイエスの「終末の預言」が与えられています。終わりの日に「救いに入る者」「裁きに入る者」「分けるものは何か」が語られる。驚くべき事にそれは「信仰の有無」ではありません。「最も小さき者の一人に愛の行いをしたかどうか」が問われると告げられている。最後に問われるのは、「愛」なのです。31節から40節をお読みしてみましょう。31人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 有名な箇所です。最も小さき者の一人に愛の行いをするということは、イエスご自身にすることなのだと言われているのです。「最後は、愛」なのです。しかもそれは、本人がそのようなことをしたことを覚えていないほどささやかな愛です。インドのコルカタで生涯を貧しい者たちのために捧げたマザーテレサの話はこれまでも引用させていただきました。彼女は毎朝ミサに与った後、ホームから町へて出て行きます。キリストと出会うために出て行くのです。それも道端で倒れて死にかかっている人たちの中に、無力で小さな人々の中に、実際にキリストの姿を見、キリストに仕えるために出てゆくのです。私たちがもし自分と向かい合う人の中に敵対する者ではなく、キリストを見ることができれば、世界は変わってゆくことでしょう。一昨日もエジプトのイスラム教寺院であるモスクがイスラム過激派のテロの対象となって礼拝中の300人もの人の命が奪われました。現実には恐れと怒りの連鎖が止まりません。そのような現実の中で何が私たちにできるのか、それが問われているのでしょう。

 

カトリック浦上天主堂での「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」に参加して思うこと

 今回は、1123日(木)には長崎の浦上天主堂でカトリック教会との「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」が行われました。それは2年間をかけて準備を積み重ねてきた、歴史に残る出来事でした。それに先立って21日(火)〜22日(水)、浦上教会の信徒会館でJELC教師会が開かれ、三人の先生方のお話を伺うことができました。最初はルーテル学院大学の江口再起先生、22日は鹿児島大学の平和学の木村朗先生と熊本大学で紛争解決学の石原明子先生(JELC本郷教会員)のロールプレイのワークショップを受けました。場所は長崎ですから「平和を作り出す者は幸い」という全体の主題の元にすべてが結びつけられていたと思います。そして23日(木)はいよいよカトリック教会とルーテル教会の「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」。大阪教会からも15人が参加し、全体では1200人を超える参加者があって会堂は満杯でした。聖壇の上には150人もの両教会の聖職者たちが白いアルバに赤いストールをまとって座りました。その模様をインターネットで御覧になられた方も少なくなかったことでしょう。シンポジウムでは三人の発題です。小泉基九州教区長の司会の下、長崎教区の橋本勲神父さまからは「長崎からの声—苦難の歴史を踏まえて」JELCの教師会長でもありルーテル神学校校長でもある石居基夫先生は「『罪』についてーそれにも拘わらずをいただく福音」、上智大学教授でイエズス会司祭である光延一郎先生は「エキュメニズムーわたしたちの祈り求める平和と共生の未来」と題して発題をいただきました。限られた時間でしたが「イエス・キリストへの一点絞り」などの印象的な言葉などが聴く者の心に響いたことでしょう。高見三明カトリック大司教と立山忠浩JELC総会議長の共同説教も印象的でした。特に立山先生が「世界を変えてゆくのは、希望である」というルターの言葉を引用して両手を祈りに合わせてまたそれを開いて派遣されてゆくというロゴに触れた時にちょうど陽が差して十字架のキリストの右手に赤くなったことを後から聞き感動しました。神の祝福でありましょう。500年前の対立と断罪と分裂とを両教会の犯してきた罪として自覚しつつ、第二ヴァチカン公会議以降に対話を開始して50年。今は違う部分よりも一致できる部分を大切にしながら、私たちの現実にある困難な問題に対してどのように連帯ができるかが探られてきたのです。LWFレベルでは1967年から対話が始まりましたが、日本でも1984年から両教会の対話委員会が活動を始め、通常は年に二回ずつ集まって対話を積み重ねてきましたので、33年間の積み重ねがあることになります。先日913日(水)に開かれたのは第78回のルーテル/カトリック共同委員会でした。1988年にはカトリック教会とJELCとの洗礼の相互承認がなされましたし、対話の成果としては1989年に徳善先生と百瀬神父の編集によって『カトリックとプロテスタントーどこが同じでどこが違うか』(教文館)という書物が出版され今も版を重ねています。

 このような祈りと対話の積み重ねの中で、今回の浦上教会での「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」が行われた事になります。私もこの五年間半ほど共同委員会に関わってまいりました。三年前、2014年の1130日には東京の関口カトリック教会聖マリア大聖堂においてカトリック教会と日本聖公会、そしてJELCとの合同シンポジウムと礼拝でも岡田武夫カトリック大司教と大畑喜道聖公会東京教区主教と共に三人で主司式者としての役割を果たしました。「すべての業には時があり、天の下のすべての出来事には季節がある」と旧約聖書のコヘレトの言葉は謳っていますが、まことにその通りであると思います。私たちの人生には個々人を超えたところで何か大きな力によって導かれ、神によってその道具として用いられてゆくという大きな次元があるのだろうと思います。

 

三年前の三教会合同礼拝体験と今回の二教会共同記念礼拝体験

 三年前には私は、マリア大聖堂という巨大なカテドラルの一番高いところに立たされて、聖なるものの存在を強く感じ、自分のような相応しくない者がここにいるのは間違っているのではないかという大きな恐れとおののきを覚えたことを思い起こします。その体験は、私の中では、ルカ福音書5章が伝えているペトロの召命の出来事と重なります。ペトロはイエスに「起きに漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、「先生、(プロの漁師である)わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というように口答えをするのです。しかししぶしぶイエスの言った通りにししたら、舟が沈みそうになるほどの大漁の魚が獲れ、ペトロは思わず叫びます。「私から離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。それと同じ気持ちでした。しかし今回は違っていましたた。今回も前回同様緊張はしましたが、私の心には「不思議な平安と静かな喜び、そして感謝の気持ち」が与えられていたのです。浦上教会のホスピタリティーを通し、神が私たちを招き、受け入れ、支え、そしてそれを喜んでくださっていることが伝わってきたのです。カトリック教会と共にこのように神への祈りを捧げることができることに深い幸いと祝福とを感じることができました。どのようなセッティングの中で私たち一人ひとりを用いて下さるお方がいる。それは深い喜びでもありました。「最後は、愛」なのです。それがカトリック教会とのコラボレイション(協働)の中でこれまで以上にはっきりと見えてきたことです。このような類い希なる歴史的な祝福体験に与ることができ、心から感謝しています。 お一人おひとりの上に神の愛が豊かに注がれますように。アーメン。

2017年11月25日 (土)

2017年11月19日(日)聖霊降臨後第24主日礼拝 説教「恩寵無限」

20171119日(日)聖霊降臨後第24主日礼拝 説教「恩寵無限」    大柴 讓治

マタイによる福音書 25:14−30

19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

「タラントンのたとえ」

 本日は聖霊降臨後第24主日です。半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も次週で終わります。そして来月12月からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドヴェント)」が始まります。教会の暦ではアドヴェントから新しい一年が始まります。「アドヴェント」とは「来る、到来する」という意味のラテン語ですが、その四週間はクリスマスを待ち望むために私たち自身が身を正して待つ期間となります。本日の福音書の日課もまた、先週の「十人のおとめのたとえ」同様、私たちがどのような姿勢でその時を待つかということを伝える「天国のたとえ」です。このたとえが語られた「時」はイエスが十字架に架けられる直前のことです。本日も私たちにとって終わりの日に備えるということは何を意味するかが示されています。本日は主人が僕たちの「力に応じて」財産を預けるところからたとえが始まります。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを預けて主人は旅に出るのです。そして戻ってきた時に、僕たちは主人から預けられた賜物を忠実に用いて増やしたかどうかが問われています。

 

「タラントン」という金額の巨大さ

 私たちは「タラントン」という金額がどれほどのものであるかあまり実感がありませんが、1タラントン」6千デナリオン」、すなわち「労働者の6千日分の給与」に値しますので、一ヶ月を30日で考えますと、200ヶ月、16.6年分の給与」ということになります。仮に一日の賃金が8千円とすると、「1タラントン」4,800万円、2タラントン」はその2倍で9,600万円、5タラントン」はその5倍で24千万円ということになります。それぞれの僕たちは主人から信頼されて莫大な財産を託されたということが分かります。本日のたとえを読み解くならば、私たち一人ひとりがそれぞれ神からその「生命と能力」という高価な宝(賜物)を託されているということを意味しているように思われます。

 たとえによると最初の二人の僕たちは託された財産をもとにそれを倍増させて主人を喜ばせました。主人は言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」21,23節)。しかし三人目の僕は土の中にその宝を埋めておいて何もしませんでした。なぜかというと、彼は主人がとても恐ろしかったからです。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」24-25節)。確かに「恐怖」は私たちを金縛りにしてしまいます。身がすくんで、自分の決断や行為に自信を持つことができず、その結果、正確な判断もできなくて動けなくなってしまう。失敗することばかり考えて全く動けなくなるのです。死んだふりですね。その結果として、彼が当初予想していたとおりのことが起こるのです。主人は烈火のごとく怒って彼の持ち分を取り上げ、彼を外の闇の中へと追い出してしまいます。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」26-30節)。身震いするほど厳しく、救いようのないほど恐ろしい言葉です。

 

恩寵無限の神?

 ここに出てくる主人は僕の態度に応じて全く異なる二つの姿を示しています。終わりの日の「最後の審判」の際には私たち自身がそのどちらかの神の態度の前に立たせられてゆくと思うとゾッといたします。私たちの働きを喜び、それを祝福してくださる神と、私たちの働きに対して怒り狂う裁きの神。私たちはこのようなたとえの前には恐れとおののきを禁じ得ません。本日の旧約の日課もそうですが、聖書は確かに厳しい審判の前に私たちが立たされることを予告し、預言しています。誰が神の前に立てるのでしょうか。私たちの信じる神は「その独り子をも賜るほどにこの世を愛して下さった神」であり、「恩寵をもって私たちを無限に赦し、祝福して下さる神」のはずではなかったのでしょうか。

 

「託されたもの」を「増やす」とは何を意味するか?〜マザーテレサの言葉

 それにしても「商売」をして託された「賜物(タラントン)」を倍増させるとは一体何を意味しているのでしょうか。私にはそのことに関して思い出すマザーテレサの言葉があります。告別式などでご紹介することの多い言葉でもあります。マザーテレサは言いました。「人間の価値というものは、いかに多くのものを自分の手に獲得したかというところにあるのではない。そうではなく、いかに多くのものを他者に与えたか、他者と分かち合ったかというところにある」と。神の喜ばれる愛の行いとは、自分に託された5タラントン」を倍に増やして10タラントン」を手にしたり、2タラントン」4タラントン」にして自分の手元に獲得してゆくことではないのです。そうではなくてその反対に、自分に託されたものを他者に与えてゆくことであり、他者と共にそれらを豊かに分かち合ってゆくことなのです。例えば、ルカ福音書の6:38には「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」というイエスの言葉が記録されていますし、同じくルカの記した使徒言行録20:35には「受けるよりは与える方が幸いである」という主の言葉も記録されています。自分の持っている者を他者と分かち合ってゆくこと、他者のために用いてゆくことがイエスによって祝福されています。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)という祝福の言葉もそこから理解されることでしょう。

 私たちの現実問題は、神さまから私たちに託されている「生命という賜物」をなかなか徹底して隣人と分かち合うことができずにいるということです。そのためにも私たちは神の恩寵は無限であることを知らなければなりません。主人を恐れるあまりに自分に託された1タラントンを土の中に埋めておいた僕」というのは、それを信じることができず、神をただ恐れ続けた者のことを意味しています。その背後には様々な理由があるのかもしれませんが、神の恵みの豊かさに目を向けることなしには、自分が持っているものに縛られて自分の恐れの中で自己完結してしまい、本当の意味で自分らしい自由な人生を生きることはできないし、神を喜ばせることもできないのです。恐れとおののきを超えて、私たちは「その独り子を賜るほどにこの世を愛された神」を信じる以外にはないのです。

 

「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」

 ルカ福音書の18章には「ファリサイ派と徴税人のたとえ」が出て来ます(189-14節)。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』。私たちは「主よ、わたしを憐れんでください」と神の無限の憐れみと愛に拠り頼む以外にはありません。そのように神の前に魂が打ち砕かれた者だけが、「神に託された賜物(タラントン)」を神ご自身に喜ばれるようなかたちで倍増させてゆくことができるのです。神の恩寵は無限であり、私たち一人ひとりにそれぞれ豊かに注がれています。一人ひとりに託された賜物をこの人生において、主イエスに従うことの中で正しく用いてゆきたいと思います。

2017年11月12日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「備えのある者、ない者」

20171112日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「備えのある者、ない者」 大柴 譲治

マタイによる福音書 25: 1−13

1 そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。・・・13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」1-2節、13節)

 

天の国のたとえ

 本日は聖霊降臨後の第23主日。64日のペンテコステから半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も、あと三回、今月11月末で終わります。そして来月12月からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドヴェント)」の期間が始まります。教会の暦では、アドヴェントからは新しい一年が始まります。「アドヴェントとは「来る、到来する」という意味のラテン語ですが、その四週間はクリスマスの出来事を待ち望むために私たち自身が身を正して待つための期間となります。本日の福音書の日課は、私たちがどのような姿勢でその時を待つかということを伝えている箇所であると思われます。

 本日の日課には「天の国は〇〇のようにたとえられる」という「天国のたとえ」が与えられています。マタイ福音書にはそのような「天国のたとえ」が頻繁に出てきます。「天の国」という言葉はマタイ福音書に特徴的に用いられる語で、他の三つの福音書には出て来ません。マタイでは何と33回も使われているのです。その他に「神の国」という語が5回出て来ますので、合計で38回ですね。「神の国」という語を調べてみると、マルコ福音書には14回、ルカ福音書には24回、ヨハネ福音書では2回だけ(33節と5節のイエスとニコデモの対話において)出て来ます。そこからもマタイ福音書がいかに「天の国」(=「神の国」)というキーワードを大切にしていたかということが分かります。

 本日のマタイ251節から13節の「十人のおとめ」のたとえは、同時に「終わりの日」についてのたとえであり預言でもあります。「花婿の婚宴」という祝宴については、マタイ22章にも出て来ましたし、ヨハネ2章にはカナの婚宴が報告されていますが、ここでは神がこの世に裁きをもたらす終わりの日と重なっているのです。時はイエスが十字架に架けられる直前のことでもありました。

 ユダヤ教では結婚式は花嫁が花婿の家に来るという花嫁の行進と、それを別の親戚の家で待っていた花婿が自分の家に来るという花婿の行進によって、華やかに彩られていたようです。それらは通常真夜中に行われたということです(23時頃に開始)。そして饗宴が始まるのですが、それは何日もかけて行われたようです(3日〜7日)。花婿が花婿の到着が遅れて真夜中になった時に、賢い5人の乙女たちは油の準備をしていたが、愚かな5人は準備をしていなかったというたとえです。主イエスの言葉はたいへん明快に響いています。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。「いつ花婿が到着するか、いつ終わりの日が来るか分からないのだから、あなたがたは目を覚まして、その時に備えていなさい」というのです。予め準備ができているだけではダメなのです。油の備えを切らさないように普段から賢く用意しておかなければならないということです。

 

「待つ」時に大切な三つのこと:①待つこと、②備えること、③神の声に聴くこと

 ここでもう少し細かく見てゆきましょう。「花婿の到着を待つ」ということは終わりの日のイエス・キリストの到来を待つ」ことと重なります。「教会」はキリストという「花婿」「花嫁」として位置付けられてきました。先に「アドヴェント」とは「到来」という意味であることを述べましたが、それは「向こう側から近づいて来られる到来するキリストを待つ」という時期でもあります。「待つ」ということを考える上で大切なことが三つあります。「あなたがたは目を覚ましていなさいというイエスの言葉は「寝てはならない」という意味ではありません。私たちには睡眠は必要です。10人のおとめは10人とも夜中には寝ていたのです。それは「賢く備えて時を待ちなさい」ということでありましょう。

 そこには三つの事柄が含まれていると思われます。①花婿の到来に思いを向けて、到来をじっと待ち続けること、②花婿の到来が遅くなるもしもの場合に備えて、最初からともし火のための油をたっぷりと準備しておくこと(=「賢く備えて待つ」ということ)、③そして、真夜中に聞こえてくる『花婿だ。迎えに出なさい』と到来を告げる声に耳を澄まし、その声を聴いた時に目覚め、即座に応答して行動を起こしてゆくこと、の三つです。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた」とある通りです(6-7節)。

 

聽くということ

 カウンセリングの世界では「共感的な受容と傾聴」が大切であるとされています。『来談者中心療法(Client-Centered Therapy)』という方法を確立した米国の臨床心理学者のカール・ロジャーズ(1902-1987)は①クライエントに対する傾聴と共感的な理解、②真実性、③自己一致、④無条件の肯定的受容(積極的な尊重)、⑤非審判的で非指示的な態度」などの重要性を指摘し強調しました。

 「聴く」という字は「耳に十四の心」と書くといのちの電話のボランティア訓練の時に学びました。そのように、細心の注意をもって心を用い耳を澄ませることが必要です。人は日常生活でもそのようなケアとサポートを相互に求め、「自分の心の声に聴いてくれる耳と心」を求めているのです。「聴」という漢字の旧字体は「聽」ですが、それは「耳と目と心を一つにしてそれを十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味です。ちなみに、聖書の「聖」も同様に「王(神)の口から出る声に耳を傾ける」という意味があります。

 「聽く」ことは聖書においても重要です。「光あれ!」という「声」で天地創造が開始されているように(創世記1:3)、キリスト教は「声(言)」を重視する宗教です。例をいくつか上げて見ましょう。①「シェマー、イスラエル!(聽け、イスラエルよ)」(申命記6:4)。②「どうぞお話しください。僕は聽いております」(1サムエル3:10。神の呼びかけに対する少年サムエルの応答)。③「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38、受胎告知場面での天使に対するマリアの応答)。④「初めに、

(

ロゴス

)

(声)があった。言(声)は神と共にあった。言(声)は神であった」(ヨハネ福音書1:1。「ロゴス」は「声」とも訳しうる語。ここで「声」は神の「言」を伝える器です)。そのように、少年サムエルや母マリアのように「聽く」という「神の呼びかけに対する開かれた姿勢」は、キリスト者にとってだけでなくすべての人にとって祝福された豊かな人生を送るために重要であるように私には思われます。

 「聽く」ことに先立って必要な事は「黙する」「静まる」ことです。最近の脳科学の知見により分かってきたことは、本を黙読している時にも一人で沈思黙考している時にも私たちの頭の中では声が響いているという事実です。人間は「言葉」「声」として受け止めています。言わば「声」とは「言葉」を運ぶ「器」であり「乗り物(vehicle)」なのです。耳を澄ませて「聽く」ためには頭の中で響いている「自分の声」も消さなければならない。その意味で「聽く」ということは「無心になって待つこと」でもありましょう。聖なる「沈黙 Silence「孤独 Solitudeの中で私たちは向こう側から響いてくる「声を「待つ」のです。例えば、「沈黙は言葉の背景を持たずに存在しうるが、言葉は沈黙の背景を持たずには存在できない」と洞察したスイス人の医師にして思想家マックス・ピカートの『沈黙の世界』(原著は1948年。邦訳はみすず書房より1964年)。② “Hello, Darkness, my old friend.”という呼びかけで始まるサイモンとガーファンクルが歌った“the Sound of Silence”1964。③フランスにあるグランド・シャルトルーズ修道院の四季を描いたドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ(Die große Stille)』。これは欧米では2006年に公開されましたが、日本公開は2014年でした。ほとんど沈黙で語りが出てこないこの修道院に五年間カメラを回し続けてその日々を描いた映画は、日本でも大きな反響を呼びました。ここに、毎夜枕元に電灯と紙と鉛筆を用意して「無」の向こう側から届けられるものを待ちつつ寝た「禅仏教学者・鈴木大拙のエピソード」を加えることもできるかもしれません。

 私たちは耳と目と心を一つにし、それらを十全に用いて王の声に耳を傾けるのです。それが私たちに求められている「待つ」姿勢です。その姿勢の有無が「備えのある者」と「ない者」とを分かつのです。「アドヴェント」を前にして私たちがそこに思いを向けるのは時宜を得た事柄でありましょう。お一人おひとりに神の祝福をお祈りします。アーメン。

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