2017年12月10日 (日)

2017年12月10日(日)待降節第二主日礼拝説教「主の道筋をまっすぐにせよ」

20171210日(日)待降節第二主日礼拝 説教「主の道筋をまっすぐにせよ」 大柴 譲治

マルコによる福音書 1: 1〜 8

神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」1-3節)

 

荒れ野に響く声〜洗礼者ヨハネ

 アドヴェント第二主日の本日与えられたみ言葉はマルコ福音書の冒頭部分です。マルコ福音書は四つある福音書の中でも最も古く、最初に福音書を書いたことで知られています。マルコはガリラヤなまりのアラム語を話すペトロの通訳でした。ペトロの言葉を、当時ローマ帝国で公用語として使われていたギリシャ語やラテン語に通訳する役割を果たしていたのです。直接イエスを知っている12使徒たちを中心とする第一世代のクリスチャンたちが、世界宣教のために散らされたり、殉教したり、高齢化してゆく中で、直接イエスを知らない第二世代のクリスチャンたちのために福音書を記す必要が出て来たのです。そのような状況の中で、マルコはペトロの通訳としての経験を生かして福音書を書くことになります。それは紀元70年頃と考えられています。イエスが十字架に架けられたのが紀元30年頃でしたから、それから数えるとおよそ40年が経っていました。40年とはちょうど一世代が次の世代に代わってゆく年限でもあります。

 マルコは不要な言葉は一切用いず、極めて端的に事柄を記します。神の子イエス・キリストの福音の初め1節)。イエスは神の子であり、神によって油を注がれたキリスト・メシアである。その「福音」「良き音信」「はじめ」の発声としてマルコは、荒野にイエスの先駆者として現れた洗礼者ヨハネの姿を告げ知らせてゆくのです。この「はじめ」という言葉は、あの創世記の冒頭で「初めに、神は天と地を創造された」という時に用いられていた「初め」であり、ヨハネ福音書の冒頭での「初めに言があった」という「初め」と同じ言葉です。それは「一番最初に」「太初に」という意味と共に「根源に」「根本的に」という意味を示していましょう。「神の子、イエス・キリストの福音が私たちのライフ(人生/生活/いのち)を根本から支え、守り、導いている」という意味を込めてマルコはこのように宣言していると考えられます。

 それはマラキとイザヤという二人の預言者によって預言されていたみ言葉(マラキ3:1とイザヤ40:3)の成就でした。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」2-3節)。

 そしてその旧約聖書の預言の通り、荒れ野に洗礼者ヨハネが現れるのです。そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」4節)。洗礼者ヨハネは人々に「罪の赦し」を得させるための「悔い改めの洗礼」を施してゆきました。「荒れ野」とは「人間が自力では生きることができない世界」であり、「神がご自身を顕現する神の世界」を意味します。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた5節)とあるのは、洗礼者ヨハネは当時の人々が心の奥底に持っていた魂の飢え渇きと切望感とを、いわば「スピリチュアルニーズ」を深く満たしていったのだと思われます。その洗礼は人々の心の目を「神」「神の子イエス・キリスト」に向けるためのものでもありました。本日の日課の次の部分には、イエスご自身もまたヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたことが記されています。その時に天が裂けて、霊がハトのようにイエスに降り、天からの声が響くのです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と(9-11節)。

 マルコはイエスの先駆者ヨハネの、一種異様ないでたちをこう記しています。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた6節)。それは人間の力を拒絶する「荒れ野」において、「神によって生かされている神の人の姿」なのでありましょう。

 ヨハネははこう宣べ伝えました。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」7-8節)。ヨハネは自分がイエスの先駆者としての役割を果たしており、後から来るお方に比べたら自分は何者でもないと宣言しています。当時召使いの仕事であった「その方の履物のひもを解く値打ちも自分はない」というのです。自分は水で洗礼を施しているが、そのお方は聖霊で洗礼を施されるとヨハネは言います。マタイ福音書とルカ福音書は「その方は、聖霊と火による洗礼を施す」(マタイ3:11、ルカ3:16)と語り、ヨハネ福音書はマルコ福音書と同様、「聖霊によって洗礼を授ける」と伝えています。私たちはイエス・キリストの御名によって水と霊との洗礼を受けました。この教会の12/24のクリスマス礼拝では四人の方の洗礼が予定されています。洗礼とは古い自分が死んで、キリストにある新しい自分として生まれ変わることであり、神から水と聖霊の油を注がれるということです。一人のキリスト者にされるということは私たち自身が「一人のキリスト(油注がれた者)」(ルター『キリスト者の自由』)とされるということです。何よりも「失われた者が見出された時には、天において盛大な祝宴が開かれる」と聖書には記されています(ルカ15章)。洗礼を受けるということは、そのような「天の喜びの祝宴」に参加することでもある。その先取りとして、前祝いとして、この地上においては礼拝の中で「聖餐式」が行われます。本日も聖餐式が行われますが、それは天国の祝宴に与ることです。ここは天と繋がっている「空間」であり「時間」であり「聖徒の交わり」であるのです。

 

「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということ

 それにしても、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは私たちにとって何を意味するのでしょうか。ヨハネ福音書の中でイエスはこう言われています。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」14:6)。私たちはキリストという道を通って神の御許に近づいてゆくようにと招かれています。「信仰」とはこのキリストの道を歩むということでもあります。

 これまで申し上げたてきたように、「アドヴェント(待降節)」とは到来する主を待ち望む時です。主の到来、二千年前のクリスマスだけではなく、世の終わりの時の主の再臨に備えて、私たち自身が身を慎み、自らの罪を告白し、主の憐れみに寄り頼み、主に倣って信仰者として生きることを再確認する時でもあります。再臨の主は私たち自身の人生を通ってこられるのではないかと思わされています。私たち自身が主の通られる道となるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ということは、私たち自身が自らの日々の信仰生活を整え、それを神に向かってまっすぐにするということです。

 ルターは小教理問答で主の祈りの「み国を来たらせたまえ」という祈りについてこう語っています。

 

第二のねがい  み国がきますように。

 これはどんな意味ですか。

答:たしかに神の国は、わたしたちの祈りがなくても、みずからくるものです。しかしわたしたちはこの祈りにおいて、

  み国がわたしたちのところにもくるようにと祈るのです。

 それはどうして実現しますか。

答:それは天の父がわたしたちに聖霊を与えて、わたしたちが、神の恵みによって、聖なるみことばを信じ、この世に

  おいても、永遠の世においても、信仰ある生活をするときに、実現します。

 

 「信仰」とは、私たちにおいて働く神の恵みのみ業であり、神の聖霊の働きです。洗礼によって水と霊との油を注がれた私たちがキリスト者として生きる。それが今も生きて働いておられる復活のキリスト、現臨のキリストを証しすることなのです。それをもし妨げるものがあるとすれば、それに気づき、それを正し、それを手放してゆく必要があります。それが「悔い改め」であり、キリストの道を整え、まっすぐにするということです。キリストご自身が私たちの人生という道をご自身の道として整え、その道筋を神に向かってまっすぐにしてくださいます。その主の憐れみのみ業に与りたいと思います。どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に聖霊が豊かに注がれますように。そして私たちがキリストの再臨の道を指し示すために神によって用いられてゆくようお祈りします。アーメン。

2017年12月 3日 (日)

2017年12月3日(日)待降節第一主日礼拝説教「目を覚ましていなさい」

2017123日(日)待降節第一主日礼拝 説教「目を覚ましていなさい」   大柴 譲治

マルコによる福音書 13:32〜37

「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。」32-33節)

 

「啐啄同時」(そったくどうじ)

 「啐啄同時」という禅仏教の言葉があります。卵から雛(ヒナ)が生まれる時に、ヒナは殼を破って中から出て来ますが、その時に内側からヒナが殼をつつくことを「啐」と呼び、外から母鳥が殼をつつくことを「啄」と呼ぶそうです。その両者がピッタリと合ったときに固い殻が割れて、中からヒナは出てくることができるという意味を表す言葉が「啐啄同時」なのです。それは、弟子が悟りを開こうとするまさにそのタイミングで、師匠がヒントを与えて悟りの境地にまで導くという意味で用いられる言葉ですが、「目覚める」ということも「啐啄同時」なのではないかと私は常々思わされています。

 本日与えられた福音書の日課マルコ1332-37には、短い部分でありながら、三度も「目を覚ましていなさい」というイエスの言葉が繰り返されています。「ボンヤリとせず、覚醒しなさい」ということでありましょう。それは「気づきを深めなさい」「真理を悟りなさい」とも、「この言葉をあなたの魂に深く刻みなさい」とも呼びかけられているように感じます。イエスは大切なことを言う時にはしばしば、「(あなたがたに)はっきり言っておく」という言い方をされるのですが、これはギリシャ語では「アーメン、わたしは言う」という言い方です。ヨハネ福音書では「アーメン、アーメン、わたしは言う」「真実/然り」という意味の「アーメン」というヘブル語が繰り返されたりもしています。

 それにしても「目を覚ます」ということは何を意味するのでしょうか。ヨハン・セバスチャン・バッハのカンタータ(140番)に「目覚めよと呼ばわる者の声がする」というものがありますが、私はいつも朝目覚める時に思います。「意識が戻る」ということは、向こう側から「目覚めなさい」と呼びかける者の声がして、それにハッと気づくということと同じなのではないかと。私たちが目が覚める時には、向こう側からの声に呼びかけられて起こされるのです。やはりそれは「啐啄同時」なのではないかと思います。イエスは今朝の福音書の日課の中で「三度」、「目を覚ましなさい」と私たちに呼びかけておられます。これは「寝てはならない」という意味ではありません。そのようなことは私たちにはできない。神に呼びかけられた時に、あなたがたはキチンと目を覚ましなさいということです。自分の外から届けられる声に対して開かれているということ、耳を澄ましているということでもありましょう。日本語には「一を聞いて十を知る」という言葉もありますが、外からの声またはノックの音に反応して「その大事な時」を瞬時に理解するということです。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:32-37

 

待降節(アドヴェント)第一主日〜教会暦の最初の主日に

 本日は「待降節(アドヴェント)第一主日」。クリスマスに備える四週間の期節が始まりました。普通のカレンダーよりも一足早く、教会で用いるカレンダーである「教会暦」では新しい一年が始まったのです。ですから、本日は「新年おめでとうございます」という挨拶で始めることもできましょう。米国の福音ルーテル教会からかつて日本に派遣されていたルーサー・キスラー宣教師は、私が神学生として武蔵野教会に派遣されていた際に、待降節第一主日の説教をHappy New Year!という言葉で始めたことが大変に印象に残っています。今日は「ハッピー・ニュー・イヤー!」なのです。

 本日から12月24日(日)までの期間、典礼色は「紫」を用います。この色は「悔い改めの色」であり「悲しみの色」であると共に、「高貴な存在を表す色」「王の色」でもあります。「紫」は、アドヴェント(待降節)とレント(四旬節)に用いられますが、葬儀で用いられることもあります。この期間、私たちは主の到来を覚えつつ自らを吟味し、罪の告白をしながら「第一のアドヴェント」であるクリスマスと「第二のアドヴェント」である再臨を待ち望むのです。

 

「目を覚ましていなさい。」〜エマオ途上の二人の弟子のケース

 先週までは一年間マタイ福音書を読んできましたが、本日からはマルコ福音書を一年間通して読んでゆきます。先ほどお読みしましたように、新年の一番最初の日曜日である本日に与えられている主イエスのみ言葉は、「目を覚ましていなさい」という三度の呼びかけです。聖書の中で3という数字は特別な意味を持ちます。3は、71240同様に、「完全数」と呼ばれたりもします。「最初から最後までを貫いて」「徹底的に繰り返して」というような意味として捉えていただければよいでしょう。イエスは「三日目」に死人の中からよみがえられましたし、2コリント12:8にはパウロが「肉体のとげ」で苦しんだ時にそれを離れさせて下さるように「三度」主に祈ったと出て来ます。それは「三回だけ祈った」ということでなく「繰り返し繰り返し徹底的に祈った」ということを意味します。

 考えてみれば、イエスの弟子たちの生涯は、その最初から最後まで、「覚醒の生涯」であったと言えるのかも知れません。繰り返し、師であるイエスは頑なな弟子たちの心の殼を叩いて、弟子たちも自分の中にある心の殼を内側から叩いて、それがカパッと割れ、「心の目」が開けて、イエスの救いの貴さに気づかされるということが起こったというようにも捉えられます。「心の目」ということでは、先週の第二日課でもあったエフェソ1:17-18には次のようにあります。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」。私はまた「心の目」ということに関して、あのルカ24章の復活のキリストがエマオ途上で二人の弟子たちに自分の姿を示される場面を思い起こします。です。最初二人の目は何かによって「遮られていて」(遮っていたのは何なのでしょうか。悲しみ?失望?悲しみ?怒り?常識?)、それがイエスであるとは分かりませんでした。しかし「道々」イエスが聖書について「モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」27節)時に、後から気づくのですが、二人の「心は燃えて」いました(32節)。そして「イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱えて、それを割いて二人にお渡しになったとき」に、二人の「目は開け」、目の前にいる人物が復活されたイエスだということに「ハッと気づく」30-31節)。するとイエスの姿は見えなくなるのです。「心の目」という語自体はその少し後のルカ24:45に出て来ますが、このエマオ途上での二人の弟子たちが復活のキリストに会う場面は象徴的です。ここでもやはり「啐啄同時」なのです。「気づき」とは「覚醒する」とは、見えない姿なのかもしれませんが、「復活のキリストがこの世の現実のただ中で今も生きて働いておられること」を、「復活の主が常に私たちと共にいてくださること」を知ることであり、感じることであり、信じることなのだと思います。このルカ24章のエピソードは、「復活された主のご臨在のリアリティ」「キリストのリアルプレゼンス」というものを初代教会の信徒たちが聖餐式を通して深く味わい続けたということを示していると思われます。私たちの「心の目」を開き、私たちを目覚めさせて下さるのは、そのような主イエス・キリストの「目覚めよ」という呼びかけであり、私たちのすぐ傍に復活のキリストが共にいてくださるという「インマヌエル(神われらと共にいます)の神」のご臨在なのです。それを感じ取るために、私たちはこのように毎回礼拝に集い、聖餐式に与かり、聖書のみ言葉を読み、神に感謝と讃美の祈りを捧げてゆくのです。

 どうか、ここにお集まりの皆さまお一人おひとりの上に、神の豊かな愛が注がれ、私たちの心の目と耳と口とが復活のキリストに向かって開かれますようにお祈りいたします。アーメン。

2017年12月 2日 (土)

2017年11月26日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「最後は、愛」

20171126日(日)聖霊降臨後最終主日礼拝 説教「最後は、愛」    大柴 讓治

マタイによる福音書 25:31〜46   

そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』40節)

 

教会暦の一年の最終主日の「王であるキリストの日」に〜「最後は、愛」

 本日は聖霊降臨後の最終主日。半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も最後となります。そして来週からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドベント)」が始まります。普通のカレンダーよりも一足早く、教会で用いるカレンダーでは新しい一年が始まるのです。聖霊降臨後の最終主日は「王なるキリストの日」とも呼ばれてきました。終わりの日に私たちが「王であるキリスト」の前に立たされる時が来ることに思いを馳せる日でもあります。

 本日はマタイ福音書25章からイエスの「終末の預言」が与えられています。終わりの日に「救いに入る者」「裁きに入る者」「分けるものは何か」が語られる。驚くべき事にそれは「信仰の有無」ではありません。「最も小さき者の一人に愛の行いをしたかどうか」が問われると告げられている。最後に問われるのは、「愛」なのです。31節から40節をお読みしてみましょう。31人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、33 羊を右に、山羊を左に置く。34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」

 有名な箇所です。最も小さき者の一人に愛の行いをするということは、イエスご自身にすることなのだと言われているのです。「最後は、愛」なのです。しかもそれは、本人がそのようなことをしたことを覚えていないほどささやかな愛です。インドのコルカタで生涯を貧しい者たちのために捧げたマザーテレサの話はこれまでも引用させていただきました。彼女は毎朝ミサに与った後、ホームから町へて出て行きます。キリストと出会うために出て行くのです。それも道端で倒れて死にかかっている人たちの中に、無力で小さな人々の中に、実際にキリストの姿を見、キリストに仕えるために出てゆくのです。私たちがもし自分と向かい合う人の中に敵対する者ではなく、キリストを見ることができれば、世界は変わってゆくことでしょう。一昨日もエジプトのイスラム教寺院であるモスクがイスラム過激派のテロの対象となって礼拝中の300人もの人の命が奪われました。現実には恐れと怒りの連鎖が止まりません。そのような現実の中で何が私たちにできるのか、それが問われているのでしょう。

 

カトリック浦上天主堂での「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」に参加して思うこと

 今回は、1123日(木)には長崎の浦上天主堂でカトリック教会との「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」が行われました。それは2年間をかけて準備を積み重ねてきた、歴史に残る出来事でした。それに先立って21日(火)〜22日(水)、浦上教会の信徒会館でJELC教師会が開かれ、三人の先生方のお話を伺うことができました。最初はルーテル学院大学の江口再起先生、22日は鹿児島大学の平和学の木村朗先生と熊本大学で紛争解決学の石原明子先生(JELC本郷教会員)のロールプレイのワークショップを受けました。場所は長崎ですから「平和を作り出す者は幸い」という全体の主題の元にすべてが結びつけられていたと思います。そして23日(木)はいよいよカトリック教会とルーテル教会の「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」。大阪教会からも15人が参加し、全体では1200人を超える参加者があって会堂は満杯でした。聖壇の上には150人もの両教会の聖職者たちが白いアルバに赤いストールをまとって座りました。その模様をインターネットで御覧になられた方も少なくなかったことでしょう。シンポジウムでは三人の発題です。小泉基九州教区長の司会の下、長崎教区の橋本勲神父さまからは「長崎からの声—苦難の歴史を踏まえて」JELCの教師会長でもありルーテル神学校校長でもある石居基夫先生は「『罪』についてーそれにも拘わらずをいただく福音」、上智大学教授でイエズス会司祭である光延一郎先生は「エキュメニズムーわたしたちの祈り求める平和と共生の未来」と題して発題をいただきました。限られた時間でしたが「イエス・キリストへの一点絞り」などの印象的な言葉などが聴く者の心に響いたことでしょう。高見三明カトリック大司教と立山忠浩JELC総会議長の共同説教も印象的でした。特に立山先生が「世界を変えてゆくのは、希望である」というルターの言葉を引用して両手を祈りに合わせてまたそれを開いて派遣されてゆくというロゴに触れた時にちょうど陽が差して十字架のキリストの右手に赤くなったことを後から聞き感動しました。神の祝福でありましょう。500年前の対立と断罪と分裂とを両教会の犯してきた罪として自覚しつつ、第二ヴァチカン公会議以降に対話を開始して50年。今は違う部分よりも一致できる部分を大切にしながら、私たちの現実にある困難な問題に対してどのように連帯ができるかが探られてきたのです。LWFレベルでは1967年から対話が始まりましたが、日本でも1984年から両教会の対話委員会が活動を始め、通常は年に二回ずつ集まって対話を積み重ねてきましたので、33年間の積み重ねがあることになります。先日913日(水)に開かれたのは第78回のルーテル/カトリック共同委員会でした。1988年にはカトリック教会とJELCとの洗礼の相互承認がなされましたし、対話の成果としては1989年に徳善先生と百瀬神父の編集によって『カトリックとプロテスタントーどこが同じでどこが違うか』(教文館)という書物が出版され今も版を重ねています。

 このような祈りと対話の積み重ねの中で、今回の浦上教会での「宗教改革500年共同記念シンポジウムと礼拝」が行われた事になります。私もこの五年間半ほど共同委員会に関わってまいりました。三年前、2014年の1130日には東京の関口カトリック教会聖マリア大聖堂においてカトリック教会と日本聖公会、そしてJELCとの合同シンポジウムと礼拝でも岡田武夫カトリック大司教と大畑喜道聖公会東京教区主教と共に三人で主司式者としての役割を果たしました。「すべての業には時があり、天の下のすべての出来事には季節がある」と旧約聖書のコヘレトの言葉は謳っていますが、まことにその通りであると思います。私たちの人生には個々人を超えたところで何か大きな力によって導かれ、神によってその道具として用いられてゆくという大きな次元があるのだろうと思います。

 

三年前の三教会合同礼拝体験と今回の二教会共同記念礼拝体験

 三年前には私は、マリア大聖堂という巨大なカテドラルの一番高いところに立たされて、聖なるものの存在を強く感じ、自分のような相応しくない者がここにいるのは間違っているのではないかという大きな恐れとおののきを覚えたことを思い起こします。その体験は、私の中では、ルカ福音書5章が伝えているペトロの召命の出来事と重なります。ペトロはイエスに「起きに漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われて、「先生、(プロの漁師である)わたしたちは夜通し苦労しましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」というように口答えをするのです。しかししぶしぶイエスの言った通りにししたら、舟が沈みそうになるほどの大漁の魚が獲れ、ペトロは思わず叫びます。「私から離れてください。わたしは罪深い者なのです」と。それと同じ気持ちでした。しかし今回は違っていましたた。今回も前回同様緊張はしましたが、私の心には「不思議な平安と静かな喜び、そして感謝の気持ち」が与えられていたのです。浦上教会のホスピタリティーを通し、神が私たちを招き、受け入れ、支え、そしてそれを喜んでくださっていることが伝わってきたのです。カトリック教会と共にこのように神への祈りを捧げることができることに深い幸いと祝福とを感じることができました。どのようなセッティングの中で私たち一人ひとりを用いて下さるお方がいる。それは深い喜びでもありました。「最後は、愛」なのです。それがカトリック教会とのコラボレイション(協働)の中でこれまで以上にはっきりと見えてきたことです。このような類い希なる歴史的な祝福体験に与ることができ、心から感謝しています。 お一人おひとりの上に神の愛が豊かに注がれますように。アーメン。

2017年11月25日 (土)

2017年11月19日(日)聖霊降臨後第24主日礼拝 説教「恩寵無限」

20171119日(日)聖霊降臨後第24主日礼拝 説教「恩寵無限」    大柴 讓治

マタイによる福音書 25:14−30

19 さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。20 まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』

 

「タラントンのたとえ」

 本日は聖霊降臨後第24主日です。半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も次週で終わります。そして来月12月からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドヴェント)」が始まります。教会の暦ではアドヴェントから新しい一年が始まります。「アドヴェント」とは「来る、到来する」という意味のラテン語ですが、その四週間はクリスマスを待ち望むために私たち自身が身を正して待つ期間となります。本日の福音書の日課もまた、先週の「十人のおとめのたとえ」同様、私たちがどのような姿勢でその時を待つかということを伝える「天国のたとえ」です。このたとえが語られた「時」はイエスが十字架に架けられる直前のことです。本日も私たちにとって終わりの日に備えるということは何を意味するかが示されています。本日は主人が僕たちの「力に応じて」財産を預けるところからたとえが始まります。ある人には5タラントン、ある人には2タラントン、ある人には1タラントンを預けて主人は旅に出るのです。そして戻ってきた時に、僕たちは主人から預けられた賜物を忠実に用いて増やしたかどうかが問われています。

 

「タラントン」という金額の巨大さ

 私たちは「タラントン」という金額がどれほどのものであるかあまり実感がありませんが、1タラントン」6千デナリオン」、すなわち「労働者の6千日分の給与」に値しますので、一ヶ月を30日で考えますと、200ヶ月、16.6年分の給与」ということになります。仮に一日の賃金が8千円とすると、「1タラントン」4,800万円、2タラントン」はその2倍で9,600万円、5タラントン」はその5倍で24千万円ということになります。それぞれの僕たちは主人から信頼されて莫大な財産を託されたということが分かります。本日のたとえを読み解くならば、私たち一人ひとりがそれぞれ神からその「生命と能力」という高価な宝(賜物)を託されているということを意味しているように思われます。

 たとえによると最初の二人の僕たちは託された財産をもとにそれを倍増させて主人を喜ばせました。主人は言いました。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」21,23節)。しかし三人目の僕は土の中にその宝を埋めておいて何もしませんでした。なぜかというと、彼は主人がとても恐ろしかったからです。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です」24-25節)。確かに「恐怖」は私たちを金縛りにしてしまいます。身がすくんで、自分の決断や行為に自信を持つことができず、その結果、正確な判断もできなくて動けなくなってしまう。失敗することばかり考えて全く動けなくなるのです。死んだふりですね。その結果として、彼が当初予想していたとおりのことが起こるのです。主人は烈火のごとく怒って彼の持ち分を取り上げ、彼を外の闇の中へと追い出してしまいます。「怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」26-30節)。身震いするほど厳しく、救いようのないほど恐ろしい言葉です。

 

恩寵無限の神?

 ここに出てくる主人は僕の態度に応じて全く異なる二つの姿を示しています。終わりの日の「最後の審判」の際には私たち自身がそのどちらかの神の態度の前に立たせられてゆくと思うとゾッといたします。私たちの働きを喜び、それを祝福してくださる神と、私たちの働きに対して怒り狂う裁きの神。私たちはこのようなたとえの前には恐れとおののきを禁じ得ません。本日の旧約の日課もそうですが、聖書は確かに厳しい審判の前に私たちが立たされることを予告し、預言しています。誰が神の前に立てるのでしょうか。私たちの信じる神は「その独り子をも賜るほどにこの世を愛して下さった神」であり、「恩寵をもって私たちを無限に赦し、祝福して下さる神」のはずではなかったのでしょうか。

 

「託されたもの」を「増やす」とは何を意味するか?〜マザーテレサの言葉

 それにしても「商売」をして託された「賜物(タラントン)」を倍増させるとは一体何を意味しているのでしょうか。私にはそのことに関して思い出すマザーテレサの言葉があります。告別式などでご紹介することの多い言葉でもあります。マザーテレサは言いました。「人間の価値というものは、いかに多くのものを自分の手に獲得したかというところにあるのではない。そうではなく、いかに多くのものを他者に与えたか、他者と分かち合ったかというところにある」と。神の喜ばれる愛の行いとは、自分に託された5タラントン」を倍に増やして10タラントン」を手にしたり、2タラントン」4タラントン」にして自分の手元に獲得してゆくことではないのです。そうではなくてその反対に、自分に託されたものを他者に与えてゆくことであり、他者と共にそれらを豊かに分かち合ってゆくことなのです。例えば、ルカ福音書の6:38には「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」というイエスの言葉が記録されていますし、同じくルカの記した使徒言行録20:35には「受けるよりは与える方が幸いである」という主の言葉も記録されています。自分の持っている者を他者と分かち合ってゆくこと、他者のために用いてゆくことがイエスによって祝福されています。「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである」(ルカ6:20)という祝福の言葉もそこから理解されることでしょう。

 私たちの現実問題は、神さまから私たちに託されている「生命という賜物」をなかなか徹底して隣人と分かち合うことができずにいるということです。そのためにも私たちは神の恩寵は無限であることを知らなければなりません。主人を恐れるあまりに自分に託された1タラントンを土の中に埋めておいた僕」というのは、それを信じることができず、神をただ恐れ続けた者のことを意味しています。その背後には様々な理由があるのかもしれませんが、神の恵みの豊かさに目を向けることなしには、自分が持っているものに縛られて自分の恐れの中で自己完結してしまい、本当の意味で自分らしい自由な人生を生きることはできないし、神を喜ばせることもできないのです。恐れとおののきを超えて、私たちは「その独り子を賜るほどにこの世を愛された神」を信じる以外にはないのです。

 

「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」

 ルカ福音書の18章には「ファリサイ派と徴税人のたとえ」が出て来ます(189-14節)。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。『二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる』。私たちは「主よ、わたしを憐れんでください」と神の無限の憐れみと愛に拠り頼む以外にはありません。そのように神の前に魂が打ち砕かれた者だけが、「神に託された賜物(タラントン)」を神ご自身に喜ばれるようなかたちで倍増させてゆくことができるのです。神の恩寵は無限であり、私たち一人ひとりにそれぞれ豊かに注がれています。一人ひとりに託された賜物をこの人生において、主イエスに従うことの中で正しく用いてゆきたいと思います。

2017年11月12日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「備えのある者、ない者」

20171112日(日)聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「備えのある者、ない者」 大柴 譲治

マタイによる福音書 25: 1−13

1 そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。2 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。・・・13 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」1-2節、13節)

 

天の国のたとえ

 本日は聖霊降臨後の第23主日。64日のペンテコステから半年ほど続いた聖霊降臨後の主日も、あと三回、今月11月末で終わります。そして来月12月からはいよいよ、クリスマスに備える四週間の「待降節(アドヴェント)」の期間が始まります。教会の暦では、アドヴェントからは新しい一年が始まります。「アドヴェントとは「来る、到来する」という意味のラテン語ですが、その四週間はクリスマスの出来事を待ち望むために私たち自身が身を正して待つための期間となります。本日の福音書の日課は、私たちがどのような姿勢でその時を待つかということを伝えている箇所であると思われます。

 本日の日課には「天の国は〇〇のようにたとえられる」という「天国のたとえ」が与えられています。マタイ福音書にはそのような「天国のたとえ」が頻繁に出てきます。「天の国」という言葉はマタイ福音書に特徴的に用いられる語で、他の三つの福音書には出て来ません。マタイでは何と33回も使われているのです。その他に「神の国」という語が5回出て来ますので、合計で38回ですね。「神の国」という語を調べてみると、マルコ福音書には14回、ルカ福音書には24回、ヨハネ福音書では2回だけ(33節と5節のイエスとニコデモの対話において)出て来ます。そこからもマタイ福音書がいかに「天の国」(=「神の国」)というキーワードを大切にしていたかということが分かります。

 本日のマタイ251節から13節の「十人のおとめ」のたとえは、同時に「終わりの日」についてのたとえであり預言でもあります。「花婿の婚宴」という祝宴については、マタイ22章にも出て来ましたし、ヨハネ2章にはカナの婚宴が報告されていますが、ここでは神がこの世に裁きをもたらす終わりの日と重なっているのです。時はイエスが十字架に架けられる直前のことでもありました。

 ユダヤ教では結婚式は花嫁が花婿の家に来るという花嫁の行進と、それを別の親戚の家で待っていた花婿が自分の家に来るという花婿の行進によって、華やかに彩られていたようです。それらは通常真夜中に行われたということです(23時頃に開始)。そして饗宴が始まるのですが、それは何日もかけて行われたようです(3日〜7日)。花婿が花婿の到着が遅れて真夜中になった時に、賢い5人の乙女たちは油の準備をしていたが、愚かな5人は準備をしていなかったというたとえです。主イエスの言葉はたいへん明快に響いています。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。「いつ花婿が到着するか、いつ終わりの日が来るか分からないのだから、あなたがたは目を覚まして、その時に備えていなさい」というのです。予め準備ができているだけではダメなのです。油の備えを切らさないように普段から賢く用意しておかなければならないということです。

 

「待つ」時に大切な三つのこと:①待つこと、②備えること、③神の声に聴くこと

 ここでもう少し細かく見てゆきましょう。「花婿の到着を待つ」ということは終わりの日のイエス・キリストの到来を待つ」ことと重なります。「教会」はキリストという「花婿」「花嫁」として位置付けられてきました。先に「アドヴェント」とは「到来」という意味であることを述べましたが、それは「向こう側から近づいて来られる到来するキリストを待つ」という時期でもあります。「待つ」ということを考える上で大切なことが三つあります。「あなたがたは目を覚ましていなさいというイエスの言葉は「寝てはならない」という意味ではありません。私たちには睡眠は必要です。10人のおとめは10人とも夜中には寝ていたのです。それは「賢く備えて時を待ちなさい」ということでありましょう。

 そこには三つの事柄が含まれていると思われます。①花婿の到来に思いを向けて、到来をじっと待ち続けること、②花婿の到来が遅くなるもしもの場合に備えて、最初からともし火のための油をたっぷりと準備しておくこと(=「賢く備えて待つ」ということ)、③そして、真夜中に聞こえてくる『花婿だ。迎えに出なさい』と到来を告げる声に耳を澄まし、その声を聴いた時に目覚め、即座に応答して行動を起こしてゆくこと、の三つです。「真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた」とある通りです(6-7節)。

 

聽くということ

 カウンセリングの世界では「共感的な受容と傾聴」が大切であるとされています。『来談者中心療法(Client-Centered Therapy)』という方法を確立した米国の臨床心理学者のカール・ロジャーズ(1902-1987)は①クライエントに対する傾聴と共感的な理解、②真実性、③自己一致、④無条件の肯定的受容(積極的な尊重)、⑤非審判的で非指示的な態度」などの重要性を指摘し強調しました。

 「聴く」という字は「耳に十四の心」と書くといのちの電話のボランティア訓練の時に学びました。そのように、細心の注意をもって心を用い耳を澄ませることが必要です。人は日常生活でもそのようなケアとサポートを相互に求め、「自分の心の声に聴いてくれる耳と心」を求めているのです。「聴」という漢字の旧字体は「聽」ですが、それは「耳と目と心を一つにしてそれを十全に用いて王の声に耳を傾ける」という意味です。ちなみに、聖書の「聖」も同様に「王(神)の口から出る声に耳を傾ける」という意味があります。

 「聽く」ことは聖書においても重要です。「光あれ!」という「声」で天地創造が開始されているように(創世記1:3)、キリスト教は「声(言)」を重視する宗教です。例をいくつか上げて見ましょう。①「シェマー、イスラエル!(聽け、イスラエルよ)」(申命記6:4)。②「どうぞお話しください。僕は聽いております」(1サムエル3:10。神の呼びかけに対する少年サムエルの応答)。③「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38、受胎告知場面での天使に対するマリアの応答)。④「初めに、

(

ロゴス

)

(声)があった。言(声)は神と共にあった。言(声)は神であった」(ヨハネ福音書1:1。「ロゴス」は「声」とも訳しうる語。ここで「声」は神の「言」を伝える器です)。そのように、少年サムエルや母マリアのように「聽く」という「神の呼びかけに対する開かれた姿勢」は、キリスト者にとってだけでなくすべての人にとって祝福された豊かな人生を送るために重要であるように私には思われます。

 「聽く」ことに先立って必要な事は「黙する」「静まる」ことです。最近の脳科学の知見により分かってきたことは、本を黙読している時にも一人で沈思黙考している時にも私たちの頭の中では声が響いているという事実です。人間は「言葉」「声」として受け止めています。言わば「声」とは「言葉」を運ぶ「器」であり「乗り物(vehicle)」なのです。耳を澄ませて「聽く」ためには頭の中で響いている「自分の声」も消さなければならない。その意味で「聽く」ということは「無心になって待つこと」でもありましょう。聖なる「沈黙 Silence「孤独 Solitudeの中で私たちは向こう側から響いてくる「声を「待つ」のです。例えば、「沈黙は言葉の背景を持たずに存在しうるが、言葉は沈黙の背景を持たずには存在できない」と洞察したスイス人の医師にして思想家マックス・ピカートの『沈黙の世界』(原著は1948年。邦訳はみすず書房より1964年)。② “Hello, Darkness, my old friend.”という呼びかけで始まるサイモンとガーファンクルが歌った“the Sound of Silence”1964。③フランスにあるグランド・シャルトルーズ修道院の四季を描いたドキュメンタリー映画『大いなる沈黙へ(Die große Stille)』。これは欧米では2006年に公開されましたが、日本公開は2014年でした。ほとんど沈黙で語りが出てこないこの修道院に五年間カメラを回し続けてその日々を描いた映画は、日本でも大きな反響を呼びました。ここに、毎夜枕元に電灯と紙と鉛筆を用意して「無」の向こう側から届けられるものを待ちつつ寝た「禅仏教学者・鈴木大拙のエピソード」を加えることもできるかもしれません。

 私たちは耳と目と心を一つにし、それらを十全に用いて王の声に耳を傾けるのです。それが私たちに求められている「待つ」姿勢です。その姿勢の有無が「備えのある者」と「ない者」とを分かつのです。「アドヴェント」を前にして私たちがそこに思いを向けるのは時宜を得た事柄でありましょう。お一人おひとりに神の祝福をお祈りします。アーメン。

2017年11月11日 (土)

2017年11月5日(日)全聖徒主日礼拝説教「わたしがあなたがたを選んだ」

2017115日(日)全聖徒主日礼拝説教 「わたしがあなたがたを選んだ」大柴 譲治

ヨハネの黙示録 7: 9−17

「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」16-17節)

 

「全聖徒(召天者記念)主日」に

 本日は「全聖徒主日」。毎年111日は「全聖徒の日」と呼ばれ、キリストによって「聖徒」とされた者を覚えて神に祈りを捧げてきました。そこから教会は11月の最初の日曜日を「全聖徒主日」として守るようになっていったのです。この日は別名「召天者記念主日」とも呼ばれます。天に召された信仰の諸先輩を覚えて祈る礼拝です。本日は特別に召天者たちの写真がこの前に並べられていますし、この礼拝に集ってくださったその家族の方々が少なからずおられます。今朝は152名の召天者のお名前が記された召天者のリストを週報と共にお渡しいたしました。そのうちの38名の方は(裏面参照)、この教会の納骨堂に収められている方々です。また聖卓の前には100人ほどのお写真が並んでいます。懐かしいお顔がたくさんあることでしょう。懐かしいあの声この声もその笑顔の中から聞こえてくるようでもあります。これらの方々は皆キリストの証人です。今年のイースターで私たち大阪教会は「宣教百年」を迎えましたが、このような先達たちの信仰の証しの上に、今日の大阪教会が置かれているということを心に刻みたいと思います。闇の中に輝く神の救いの光を信仰の先輩方は証しし、後の世代の私たちに指し示し続けているのです。

 

聖卓の向こう側とこちら側〜「天国に一番近い場所」

 ある意味で教会は「天国に一番近い場所」です。中心に置かれたキリストの食卓、ここでは毎週聖餐式が行われます。この聖餐式は終わりの日の祝宴の先取りであり、前祝いでもあります。今日は目に見えるかたちで召天者のお写真が並んでいますが、聖卓のこちら側には私たち生ける者が集います。同時に聖卓の見えない向こう側には、天に召された聖徒の群れが聖卓を中心に集っているのです。なぜならば、私たちが救い主として信じているキリストは、生ける者と死せる者の双方の救い主だからです。生きるとしても死ぬとしても、私たちキリスト者は主イエス・キリストのものなのです。私たちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。生きるとしても死ぬるとしても私たちは主のものだからです。地上の教会と天上の教会がこのキリストの聖卓を中心として繋がっています。主は言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。

 

NY姉のご生涯

 本日はそのように特別な日ですが、特に二日前の113日(金)に天に召されたNY姉が本日私たちと一緒に棺に安らうかたちでこの主日礼拝に参列されていることは特筆に値するでありましょう。西行法師は歌いました。「願わくは、花の下にて春死なん。その如月(きさらぎ=二月)の望月(もちづき=満月)のころ」と。自分が死ぬ時期を選べるとするならば、サクラの季節の満月の頃に自分は死を迎えたいものだと歌ったのです。私はそれを少しもじって次のように歌いたいと常々思っています。今は11月、霜月ですからそれに合わせるとこうなるでしょうか。「願わくは、主日聖餐礼拝の前にて秋死なん。その霜月の望月のころ」。

 前の教会にいた頃に、受難主日まで聖歌隊で歌い、その一週間後のイースターの礼拝には、サクラが満開の時でしたが、天に召されて棺に安らいながら聖餐礼拝に参加された女性信徒の方がおられました。もうほぼ20年が経ちますが、その方の生と死は私の中に忘れられない余韻を残しています。NY姉もその方同様の深い余韻を私の中には残しています。お嬢さんからお電話をいただいて前日から肺炎のために入院をされているということを知ったのは1031日(火)の夜19時過ぎでした。妻と二人で病院に伺ったのは面会時間が終わる20時の10分ほど前でしたが、主の祈りをしっかりした声で唱え、一緒にはっきりとした声でNYさんと讃美歌「いつくしみ深き」の一節を歌いました。NYさんは讃美歌が大好きで、お嬢さんはいつもお母さんのために讃美歌のCDをかけていたのです。「アーメン」とはっきりと力強い声で言われた時に、信仰の持っている力というものも私は生き生きと感じました。

 私たちは確かに死ぬまで生きるのです。しかしキリスト者は復活であり命であると宣言して下さる主が告げられている通り、私たちはたとえ死んでも生きるのです。キリストにある命は死によっても絶ちきられることがない。終わることがないからです。この全聖徒の日はそのことを私たちに力強く語っています。

 またイエスは次のように告げられました。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである(ルカ20:34-38)。私たちは「神の中に生き、動き、存在する」のです(使徒言行録17:28)。

 わたしたちは生きるとしても死ぬとしても主のものです。そのことは天地万物がひっくり返っても、揺らぐことのない真実です。私たちは「わたしは復活であり命である」と宣言して下さったイエス・キリストにすべてを委ねてゆけばよい。12弟子の中にいたヤコブとヨハネは兄弟でした。気性が激しくて「雷の子ら」と呼ばれたほどです。二人は対照的な生涯を送りました。ヤコブは殉教の死を遂げ、ヨハネは長寿の中で福音書や黙示録を書いたとされています。ヤコブ的な死であっても、ヨハネ的な死であっても、私たちは与えられた命を主と共に最後まで生きるのです。ヨハネ福音書は「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ」15:16)というイエスの言葉を記録しています。イニシアティブは常に神の側にあるのです。

 

「あなたは死んでもいいですね。でも、生きているともっといいですね。」(あるカトリック神父の言葉)

 最後に印象的なエピソードを一つご紹介して終わりましょう。もう25年以上も前のことですが私は、かつて北里大学に勤務していたクリスチャン医師の坂上正道先生が心筋梗塞で自らCCUに緊急入院した時の体験を伺ったことがあります。坂上正道氏の所属する日本キリスト教団の教会の牧師がすぐ病院に駆けつけて祈りに来てくださったそうです。牧師は「坂上氏が家族にとっても、教会にとっても、病院にとっても、日本社会全体にとっても大切な存在であるということ」に触れつつ、病気からの回復について熱く祈ってくださったのだそうです。その時に坂上先生が、「そうか、自分はぜひとも頑張って治らなければいけないのだ」と思った途端に心電図が乱れ、モニターを見ていた医師が慌てて飛んできてその祈りを中断させたのだそうです。何日かして今度は、坂道先生の妻の所属するカトリック教会から外国人の神父が見舞いに来てくれました。その神父は祈るわけでもなく、ニコニコと笑いながら手を握り、「あなたは死んでもいいですね。でも、生きているともっといいですね」と言ってくれたそうです。その言葉を聞いた時、「ああ、そうか。自分は主において死んでもいいんだ」と思うと心底ホッとした気持ちになりましたと坂上氏は語って下さいました。それは私にとっても忘れることのできない言葉でした。私たちの人生は、主にあって死ぬことも許されている人生なのです。頑張らない人生、しかしそれは明るい光の中に置かれた諦めない人生でもあるのです。なぜか。キリストが私たちを選び、キリストが私たちを掴んでいてくださるからです。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。

 

 聖徒たちの人生が神の豊かな選びの祝福の中に置かれていたように、ここにお集まりの皆さんお一人おひとりの上にも神が臨み、その祝福が豊かに注がれますようお祈りいたします。アーメン。

2017年10月31日 (火)

2017年10月22日(日)聖霊降臨後第20主日礼拝説教「神のものは神に」

20171022日(日) 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「神のものは神に」 大柴 譲治

マタイによる福音書 22:15−22

イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」18-21節)

 

ローマ帝国の属国としてのイスラエル〜ガリラヤ地方とユダヤ地方

 本日の福音書の「税金問答は、イエスのエルサレムでの最後の一週間に起こった出来事の一つです。マルコとルカに平行箇所があります。エルサレムでの宮清め以降、イエスはユダヤ教の指導者たちと公に鋭く対決します。「権威についての問答」「二人の息子のたとえ」「ぶどう園と農夫のたとえ「婚宴のたとえ」も、イエスは祭司長(=サドカイ派)や律法学者(=ファリサイ派)等、当時のユダヤ教の指導者階級を鋭く批判し、彼らの怒りと憎しみを買ってゆきました。最後には結局彼らが民衆を操作して「イエスを十字架にかけよ」と叫ばせ、イエスを十字架に架けて殺してゆくのです。人間の眼には結局、彼らがイエスに対して勝利したかたちになりました。しかし実はそこで神の救いが成し遂げられていたということがイエスの復活を通して明らかになっていったのです。

 今日の箇所には「ファリサイ派」「ヘロデ派」という二つのグループが登場します。この二つのグループは実は犬猿の仲でした。そのことを理解するためには当時のイスラエルが置かれていた政治状況を思い起こす必要があります。イスラエルはローマ帝国の属国としてその支配下に置かれていたのです。広く地中海沿岸を支配するローマ帝国はある意味大変賢い統治の仕方をしました。二つのことだけを守れば、あとはそれぞれの民族の自治権や宗教や価値観を認めていったのです。二つのこととは、①「ローマ皇帝(カエサル)に対する忠誠義務」②「ローマ帝国に対する納税義務」でした。をチェックするためにローマはガリラヤ地方とユダヤ地方に対しても異なる二つの方法を取っています。ガリラヤ地方には親ローマ派であるユダヤ人ヘロデ・アンティパスが領主として任命されていましたし、ローマの「直轄地」であったユダヤ地方にはローマから総督のポンティオ・ピラトが派遣されていました。ピラトがイエスをローマ帝国に対する反逆者として有罪とし、十字架に架けて殺した直接の責任者です。十字架刑はローマ帝国の反逆者に対して与えられた極刑でした。ユダヤ人たちは宗教的な自治権を持っていましたから、イエスが神を冒涜するという罪を犯したのであれば自分たちで裁判をして石打の刑に処することもできたはずだったのです。ピラトはイエスを吟味した際に何の罪をも認めることはできなかった。むしろその時暴動と殺人で捕らえられていたバラバの方がピラトに遙かに危険人物に思えました。だからイエスを無罪にして、バラバを処刑したかった。しかし結局彼は律法学者に煽動されて「イエスを十字架に架けよと叫ぶ民衆の声に従わざるを得なかったのです。そこで暴動が起これば、ピラトの責任問題になって失脚するかもしれないからです。

 「ファリサイ派」「ヘロデ派」についても触れておきます。前者は旧約の律法を大切に守ろうとする「ユダヤ分離主義」の立場に立つグループ、後者は親ローマ帝国の立場を取るガリラヤの領主ヘロデ・アンティパス一家に親近感を抱くグループです。聖書は黙して語りませんが、実はガリラヤ湖の西岸にはヘロデによって「ティベリアス」というローマ皇帝(在位AD14-37年)の名を付けられたローマ風の大都市が建築されていました。イエスとその一行はその地に足を踏み入れないばかりか、近寄りさえしていません。ローマ帝国への税金を支払うことを快くは思っていないファリサイ派とローマに協力し税金制度を支えるヘロデ派。立場を全く異にする二つのグループがイエスを陥れようとする一点で結託してここには登場しているのです。彼らの目的は明確でした。ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した15節にはありますが、イエスを言葉の罠にかけて失脚させるためでした。彼らはイエスを「超危険人物」として恐れ、憎み、排斥しようとしていました。そのためずる賢くもよく考えられた税金についての質問を、実に巧妙にイエスに対して問うたのです。

 彼らはまず歯が浮くような美辞麗句をイエスに対して並べ立てます。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです16節)。ここに語られている言葉はすべて正しくイエスに当てはまる言葉ですが、彼らは実は心の中では全く微塵もそのようには考えてはいません。この世の生活ではよくあることなのかもしれませんが、人間は本心とは全く違う次元でへつらいの言葉を空しく語る事ができる。真実の言葉を語ると逆に人間関係では浮いてしまうということが起こるのかもしれません。イエスは真実の人」で、「真理」に基づいて「神の道」を人々にストレートに教え、誰をもはばかる(へつらう)ことがなかったためにユダヤ教の指導者階級などの人々の憎しみを買い、彼らからは自分たちの存在を脅かす「危険な敵」とみなされて殺されたとも言えるのです。人間は「光」よりも「闇」の方を好むのです。

 

ファリサイ派とヘロデ派の「巧妙な罠」とイエスの答え:「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

 日課に戻りましょう。そのように嘘とへつらい、おべっかを語った後にファリサイ派とヘロデ派はイエスに問いかけます。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか17節)。これは巧妙な罠です。もし「適っている」と、つまり「皇帝に税金を納めるのはユダヤの律法に対して合法である」と答えるとイエスは反ローマ的心情を抱く多くのユダヤ民衆の失望と怒りを買うことになりますし、「それは律法に適っていない。合法ではない」と答えるとイエスは納税に異を唱えたことになってローマ帝国に対する政治的な反逆者となります。どう答えてもイエスの立場は危うくなる。当然ながらイエスはそれが罠であることにすぐに気づきます。「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか』」。そしてこう言われました。「税金に納めるお金を見せなさい」と(18-19節)。当時のローマの貨幣であったデナリオン銀貨(1デナリオンは労働者一日分の賃金)にはローマ皇帝の肖像が刻まれ、「アウグストゥスの子、神なる皇帝ティベリウス・カエサル」という銘が刻まれていました。その次に起こったことをマタイは淡々と記しています。「彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』と言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』19-21節)。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」よく知られたイエスの言葉です。結局ファリサイ派とヘロデ派は「これを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った」とあります(22節)。彼らはイエスの毅然とした言葉の前に一言も言い返すことができません。この出来事が私たちにとって何を意味しているのかが本日の主題です。

 一つの興味深い解釈があります。ここでイエスは二つの税金に触れて語っているというのです。その説によると「皇帝のもの」とはデナリオン銀貨で収められる「ローマの人頭税」(男性は14歳から65歳までの男性、女性は12歳以上65歳に対してかけられる年額1デナリオン)を意味し、「神のもの」とは神殿に捧げられる「十分の一税(神殿税)」のことと説明されます。そう理解するとイエスのこの「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という答えは、「ローマの税金」「ユダヤの神殿税」の両方を神の前に相対化した言葉ということになりましょう。確かにここでイエスは税金のことに関しては全く無関心です。それはイエスが十字架を前にして「神の国は近づいた」という終末論的な強い自覚を自ら持っていたからでもありましょう。イエスは十字架を見据えながら常に「人のこと」ではなく「神のこと」を考えているのです(ペトロがイエスにサタンと叱責されたエピソードをも参照。マタイ16:23

 皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさいというイエスの言葉は、人間世界の税金の次元を遙かに超えて、私たちに神の御心、神の次元に思いを向けるよう命じています。それは私たちに心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、すべてを尽くして主なる神を愛することを命じた言葉であるように思うのです。パウロ的に言えば、私たち自身、「キリスト者」、すなわち「イエスの焼き印」(ガラテヤ6:17)をこの身に帯びる者として、生きるとしても死ぬとしても「主のもの」だからです(ローマ14:8)。「もはや生くるは我にあらず。キリスト我がうちにありて生くるなり」(ガラテヤ2:20)。私たちの魂にはキリストの像と銘とが刻まれているのです。だから、何を食べようか何を着ようか思い煩わず、ただ神の国と神の義を求めること。イエスの十字架を通して神の国と神の義は鮮やかに示されています。ここにこそ私たちを生かす真実の言葉があって、豊かな神の祝福が約束されています。

2017年10月19日 (木)

2017年10月15日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝説教“Can you celebrate?”

20171015日(日)聖霊降臨後第19主日礼拝 説教 Can you celebrate?” 大柴 譲治

イザヤ書 25: 1− 9

6 万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。・・・9 その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。 6節、9節)

マタイによる福音書 22: 1−14

2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3 王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4 そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』(2-4節)

 

Can you celebrate?”

 19977月のことでした。私が家族と共に二年間の米国フィラデルフィアでの留学を終えて日本に帰国した時に、とても流行していた曲に安室奈美恵のCan you celebrate?という曲がありました。曲自身の内容としては恋愛の歌でしたが、私はそのタイトルに強く惹かれました。より正確に言えば、 Can you celebrate your life (yourself)?”ということになるでしょうか。「あなたは自分自身のライフ(生活/いのち/人生)を喜び祝っていますか?」という意味です。このタイトルに触発されて、私は私がその時に着任した教会の翌年の年間宣教主題をCelebration(いのちの祝宴を喜び祝う)」という言葉に定めたことを思い起こします。「セレブレイション」とはとてもよい響きを持った言葉ですね。自分自身を含めて、私たちは神から与えられた自分自身という日々のいのちを大切にしているか、喜び祝うことができているかどうかが問われているのだと思います。

 宮澤賢治は私たちの人生を「祝祭」にたとえましたが、聖書も同様です。この世界を創造された時に神は、それを見て「良し」と七度も繰り返して祝福しておられます(創世記1章)。その神の祝福にも関わらず、神に背き、自らを神のようになれると思い上がって罪を犯してゆく人間の姿が、創世記の3章以降には描かれることになります。しかしそれにも関わらず、聖書の基調音は神の祝福の言葉なのです。聖書は繰り返して、神が私たちのために天の祝宴を準備し、私たちをそこに招いてくださっていることを告げています。

 

「婚宴のたとえ」

 今週の土曜日には教会員の結婚式、華燭の祭典が行われることになっていて私たちは大きな喜びの中に置かれていますが、本日の福音書の日課にはピッタリと時宜を得たように「婚宴のたとえ」が記されています。実はこれは天国のたとえの一つです。この婚宴のたとえは天国、すなわち神の国は実はこのようなものなのだということを説明したたとえなのです。並行箇所としては記されているようにルカ福音書19章にも出て来ます。

 またヨハネ黙示録19章には小羊の婚宴が預言されていて、その言葉にもつながってゆくたとえでもあります。4 そこで、二十四人の長老と四つの生き物とはひれ伏して、玉座に座っておられる神を礼拝して言った。『アーメン、ハレルヤ。』5 また、玉座から声がして、こう言った。『すべて神の僕たちよ、神を畏れる者たちよ、小さな者も大きな者も、わたしたちの神をたたえよ。』6 わたしはまた、大群衆の声のようなもの、多くの水のとどろきや、激しい雷のようなものが、こう言うのを聞いた。『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。7 わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。小羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。8 花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。』9 それから天使はわたしに、『書き記せ。小羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ』と言い、また、『これは、神の真実の言葉である』とも言った。」(黙示録19:4-9

 先に申し上げたように、実は神の国が救いを喜び祝う「祝宴(セレブレイション)」としてたとえられているのは聖書のあちこちに出てきます。本日の第一日課イザヤ書25章にもこうありました。万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである。その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」6-9節)。 まさに天の国の祝宴を彷彿とさせる描写です。

 また、ルカ福音書15章にはイエスの「失われた一匹の羊のたとえ」「失われた銀貨のたとえ」そして「放蕩息子のたとえ」の三つが語られていますが、そこでも失われたものが見出された時には天では大きな祝宴が開かれるということが宣言されていました。神は私たちのために天のセレブレイションを開いてくださるのです。今小教理問答で洗礼の準備をしておられる方々が5人おられます。いつどこでどのようなかたちで洗礼を受けることになるかは神さまの決められる出来事となると思いますが、私はそれらの人たちとの関わらせていただく中で、天のセレブレイションに与る幸いということを強く思いながら商況問答のクラスを進めています。イエスを救い主として信じて洗礼を受けるということは、天の祝宴に連なると言うことなのです。あなたたちはそのことを喜び祝うことができているか。 Can you celebrate?” とイエスご自身が、本日の婚宴のたとえを通して私たち一人ひとりに問いかけておられるのではないかと思わずにはいられません。イエスがこの地上に降り立ち、私たちの罪と恥を背負って十字架にかかり、死してよみがえることを通して私たちを永遠のいのちへと招き入れてくださったこと。これ以上のセレブレイションはありません。

 今日も私たちは聖餐式に招かれていますが、これは「終りの日の祝宴の先取り」であり「前祝い」でもあります。そのことが一番よく分かるのは、11月の第一日曜日、召天者の写真をこの前に並べて礼拝を守る「全聖徒の主日」でありましょう。このキリストの聖卓の、目に見えるこちら側には私たち生ける者が並びますが、聖卓の向こう側には天に召された聖徒の群れが集っているのだと信じます。なぜならキリストは生者と死者の双方の救い主となってくださったからです。

 

私たちの罪の現実の中に降り立ってくださった「生ける神のいのちの言」としてのイエス・キリスト

 私たち人間の現実は、イエスの語られたたとえにあるように、神が準備してくださった「婚宴/祝宴(セレブレイション)」に招かれてもその大きな価値に気づかず、その招待を拒絶してしまうところにありましょう。招待されていることに気づかない場合もあるかもしれませんし、自分は相応しくないと自らそれを辞退してしまうこともあるかもしれません。「私たちの罪」が私たちの眼を遮るのです。神がその独り子を賜るほどこの世を愛してくださったのは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命の祝福を得るためでした。月が太陽の光を遮る時に「日蝕」が起こるように、私たちの罪が神の祝福の光を遮る時に「神の蝕」が起きるのだと洞察した20世紀のユダヤ人の思想家マルティン・ブーバーのような人もいます。祭司長や律法学者、ファリサイ人たちユダヤ教の指導者たちは天の祝宴への招待を自分の都合で断ってゆくのです。何ともったいないことかと思います。同時に私たちが招かれていることを、何と有り難いことかとも思うのです。イエス・キリストがその十字架の苦難と死と復活とを通して「神の蝕」を造り変えて下さったのです。イエス・キリストの中にこそ私たちの「祝福の基、祝福の源」があります。この命の光は闇の中で輝いています。そして「闇はこれに勝たなかった」のです(ヨハネ1:5)。聖書は私たちに神の声を響かせています。私たちが神の祝福を喜び祝うことができているかどうか。 Can you celebrate?” Can you celebrate God’s blessings?”と問いかけているのです。私たちははっきりとご一緒にこう答えたいと思います。 Yes, we can! We praise you from our heart. We are celebrating your blessings upon us.” (「はい、私たちはあなたの祝福に心から感謝して、その救いを祝って喜び躍ろう!」)と。 

 お一人おひとりの上に神の祝福と愛とが豊かに注がれますように。アーメン。

2017年10月14日 (土)

2017年10月8日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝説教「託された公共性」

2017108日(日)聖霊降臨後第18主日礼拝 説教「託された公共性」   大柴 讓治

マタイによる福音書 21:33−46

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』」(42節)

 

ブリューゲルの『バベルの塔』

 昨日中之島の国立国際美術館で開催されているブリューゲルの『バベルの塔』展を観てきました。創世記11章に記されているバベルの塔の物語を題材にして、16世紀の画家ペーテル・ブリューゲル(ネーデルランド。現在のオランダ)が大変に精緻な作品を描いていて、御覧になられた方もおられることでしょう(1015日までの展示)。

 このブリューゲルの作品『バベルの塔』は、それほど大きな作品ではありませんが(ほぼ60cmx75cm)、細部まで大変に精密に描かれていて心に残りました。何とそこには1400人もの人物像が描かれているということでした。レンガや石灰を塔の上部に持ち上げるなど建築工事に携わる人や礼拝堂に向かって進む人々と並び、洗濯物を干す人なども描かれているのでした。一人ひとりの大きさは3ミリほどでしょうか。驚きました。展覧会の最後には、ブリューゲルが「ミクロの視点」「マクロの視点」、つまり細部に至るまで忠実に描写することと同時に全体を見据えた大きな視点から描いていること、その両方の視点を大切にしてこの作品を完成させたことが説明されていて、確かにその通りであると思いました。人間の持つ可能性のすばらしさ、科学技術というものの大きな可能性をそこに深く感じ取ることができました。同時に私たちはそれがどのような結果をもたらしたかということをも知っています。

 「バベルの塔」は大変ダイナミックな物語です(創世記11:1-9)。まだ全地が一つの言葉だった時に人間が「天」にまで届く塔を建てようということで、レンガを焼いて、力を合わせ、協力し合って塔の建築を進めてゆきます。その目的は「天まで届く塔のある町を建てて有名になること」「それによって全地に散らされることを避けること」という二つがあったと創世記には記されています。しかし、「天(神)に等しい者になろう」とする人間の傲慢を怒った神が塔を崩し、人々の言葉を「混乱させ(バラル)」、彼らを全地に散らせたということでその町には「バベル」という名が付けられたのです。アダムとエヴァがヘビの誘惑に負けて禁断の木の実を取って食べた時(創世記3:5)同様に、そこでは自ら「神のようになろう」とする人間の「罪」が問題となっています。神の被造物である人間が、その分際を弁えずに自ら神のようになろうとする。その「傲慢さ」について警鐘が鳴らされているのです。モーセの十戒の第一戒で神は人間にはっきりと「あなたはわたしのほかに、なにものをも、神としてはならない」(出エジプト20:3)と告げています。「まことの神以外のものを神としない。まことの神を神とする」ということが私たち人間には求められているのです。それを忘れてしまう時にどのような結果がもたらされるかを「バベルの塔の物語」は私たちに教訓として教えています。「まことの神を神とする」という神との信頼関係、人格的な応答関係の中でこそ、私たちは「ミクロの視点」「マクロの視点」の両方を大切にして生きるよう求められているのでありましょう。

 

「ぶどう園と農夫のたとえ」

 本日の福音書にはイエスの語られた「ぶどう園と農夫のたとえ」が記されています。主人からの絶大な信頼の中にぶどう園の管理を託された農夫たちがそれを私物化してしまい、収穫時に主人から派遣された僕たちを次々に殺して、最後には跡取り息子をも殺してしまうという無残なたとえです。このようなたとえを含め、私たちが聖書を読むときに与えられる視点は「ミクロの視点」と「マクロの視点」の二つがあると思います。私たちはある思いに囚われると自分の目の前のことだけしか見えなくなって、視野が狭まり、それだけのことしか考えられなくなりがちです。「ミクロの視点」しかなくなってしまうことが多い。しかしそのような私たちに聖書は「神の視点」という自分を越えた大きな「マクロの視点」があることを示してくれます。この視点を知り、この視点から事柄を見ることができるようになった時に、私たちは自分の目からウロコが落ちたように感じ、それまでの狭かった視野が開かれてゆくのです。

 この「ぶどう園と農夫のたとえ」を読むと私などは、ぶどう園の主人があまりにも善意の人であり、農夫たちを信じ続けるそのおめでたさ、愚かさにイライラしてしまうようなところがあります。農夫たちの善意を信じて疑うことを知らない主人の、あまりにも楽天的かつおバカさんな態度に閉口してしまうのです。ぶどう園の主人は私たち人間の現実を知らなすぎるのではないか、そう思ってしまいます。皆さんはいかがでしょうか。もし私たちがそのように感じてしまうとすれば、恐らく私たち自身もぶどう園を託された農夫と同じような心を持っているからでありましょう。神のぶどう園を私物化し、その私物化を守り抜くためには手段を選ばず何でもするというような狡猾さを私たちは確かに持っている。もしかするとそれは、「死すべき有限な存在」である自らを「神」と同じような「無限であり、永遠である存在」として位置付けてゆきたいと思っているのかもしれません。

 43節以降でイエスが説明しているようにこのたとえでは「ぶどう園の主人」「神」「ぶどう園」は「神の国」、「ぶどう園を託された農夫たち」「祭司長たちやファリサイ派の人々」というイスラエルの指導者階級、「主人から派遣された僕たち」「預言者たち」、「最後に派遣された跡取り息子」「イエス・キリスト」を指しています。「だから言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」と言われている通りです(43節)。祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」45-46節)とあります。神のことを忘れ、自分たちのことしか考えようとしない「ミクロの視点」しか持たない彼らには、神の大きな救いの御業をイエスにおいて見てゆこうとする巨視的な「マクロの視点」は全く理解できませんでした。私たちは人のことばかりを思うのではなく、神のことを思うべきなのです。聖書は私たちに「神の視点」、神の救いのご計画から事柄を捉えてゆくという動的でダイナミックな「マクロの視点」を与えてくれます。

 

家を建てる者の捨てた「隅の親石」

 イエスは言われます。聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える42節。詩編118:22-23)。神のなさることは私たち人間の眼からは本当に「不思議なこと」に見えるのです。建築家の眼から見ると全く役に立たず不要に思われて捨てられた石が神によって隅の親石として据えられてゆくというのですから。この場合の「親石」「頭石」「要石」とも呼ばれますが、そこには二つの意味があります。一つには建物全体を支える重要な「土台」「礎石」としての働きです。日本建築の場合には家の中心に置かれる太い「大黒柱」と言うところでしょうか。もう一つは、アーチなどを造る際に一番最後に、最頂点の部分にそれを保つために埋め込まれる石を指す場合があります。エフェソ2章には「キリストこそわたしたちの平和であり、十字架によって敵意という隔ての中垣を取り除き、神との和解をもたらせてくださった」とありますが、神との和解のアーチを完成させるための最後のワンピースとしてイエスは派遣されたということなのでしょう。神はその独り子が捨てられ十字架の上で殺されるということを通して、私たちの眼には思いも寄らなかったような不思議な救いの御業を成し遂げてくださったのです。神は「その独り子を賜るほどこの世を愛された」。それは「御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るため」でした(ヨハネ3:16)。

 いずれにせよ、神が最後に派遣した独り子イエス・キリストという親石によって、私たちの思いを遙かに超えるような不思議なかたちで神の国は完成し、その「親石」のもとに私たち一人ひとりは集められ立てられているのです。この神の愛とキリストの従順が私たちの罪を雪よりも白くしてくださる。「ミクロの視点」によって自分のことしか考えることができなかった私たちに、キリストを通して「マクロの視点」を与えてくださった神に感謝を捧げたいと思います。このような思いをもって、神の委託に正しく応えてゆきたいと思います。私たちに託された「神のぶどう園」を私物化するのではなく、多くの人々と共にその恵みを公に分かち合ってゆくためにも、「神に託された公共性」というものを大切にしつつ、「忠実な管理人」として私たち一人ひとりに委ねられている賜物を正しく管理し用いながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。神の祝福が豊かにありますようにお祈りします。アーメン。

2017年10月 7日 (土)

2017年10月1日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝説教「天からの権威によって」

2017101日(日)聖霊降臨後第17主日礼拝説教「天からの権威によって」   大柴讓治

第一日課:エゼキエル書 18: 1− 4、25−32

「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる。32節)

第二日課:フィリピの信徒への手紙 2: 1−13

キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。6-8節)

福音の日課:マタイによる福音書 21:23−32

イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか。」24-25節)

 

エゼキエルの預言の言葉:「あなたがたは飜って、生きよ」(口語訳)

 本日の旧約の日課のエゼキエル書の18章には次のような言葉がありました。私たち、聴く者の心に深く、そして真剣に迫ってくる神の言葉です。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる。30-32節)

 神は誰の死をも喜ばれないのです。「お前たちは、どうして死んでよいだろうか。あなたがたは生きなければならない。神に立ち帰れ。あなたがたは飜って、生きよ」。大変に熱い、まっすぐに私たちの魂に悔い改めを迫る言葉です。神は私たち一人ひとりに対してこれほどまでに真剣に関わって下さるのです。「わたしはあなたのことを放ってはおけない!あなたはわたしの目には価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)。このような真摯な言葉と態度をもって自分と関わってくれる存在を持つ者はまことに幸いであると言わねばなりません。神は「ねたむ神」であり「熱情の神」(出エジプト20:5と言われている通りです。モーセの第一戒にあるように神は、神を神としない者、神以外のものを神とする者に対してその罪を悔い改めるように迫ります。マザーテレサは「愛の反対は憎しみではありません。無関心です」と言いました。無関心・無関係・無感覚・無感動。深い関わりを持とうとしない者が多い中で、神は私たちに常に真剣に向い合って下さるのです。「あなたはわたしにとって大切な存在。わたしはあなたを愛している。だから、あなたは滅びてはならない。飜って生きよ」と。「神の権威」はこの呼びかけの真実さの中に明らかです。この神からの呼びかけにどのように答えることができるかが私たちに問われています。

 

権威についての問答

 本日の福音書にはイエスと祭司長・民の長老たちとの間での権威についての問答が記されています。イエスがエルサレム神殿で(旧約)聖書について教えておられた時に、祭司長や民の長老たちが近寄ってきて問うたのです。何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と。「このようなこと」というのは、文脈から読むと、マタイ21章に記されている子ロバに乗って神の都エルサレムに入城されたということや、エルサレムの神殿から商人たちを追い出したという宮清めの出来事などをも含めていると思われます。

 「祭司長や民の長老たち」(並行箇所のマルコ福音書11:27ではそこに「律法学者」も加えられています)が「イエスの権威」を問います。彼らはユダヤ教の社会の中にあっては宗教的な「権威者」でした。イエスによってその彼らの権威は脅かされたのです。彼らは自分たちの権威を守ろうとしています。その問いの背後には「イエスよ、お前は本当に神の権威によって立てられたのか?お前は自分勝手に、人からの権威を天からのものであると思い込んで行動しているだけではないのか」というイエスを「冒涜者」として見る批判的で否定的な思いが込められていましょう。

 これまでイエスはしばしば「律法学者のようにではなく、権威ある者のように」振る舞い、そのように周囲から受け止められてきました(マルコ1:22、マタイ7:29)。会堂で一人の男に取りついた汚れた霊を「黙れ、この人から出て行け」と命じて追い出した時にも、人々は皆驚いてこう言っています。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く」と(マルコ1:27)。神の権威によってイエスは人々に真剣に向かい合い、深く関わってきました。イエスのキリストとしての権威は、祭司長や律法学者、長老たちにはどうしても認めることができなかった。イエスの生き方の中に、神が真剣に私たち人間の「悔い改め」を求めているという次元を彼らは見ることができませんでした。神からの「お前たちは死んではならない。飜って生きよ」という真摯な声に対して彼らは自分の耳を塞ぎ、それを聴き取ることはできなかったのです。イエスの生と死は、そのような神からの悔い改めを呼びかける熱い確かな声であったのに、彼らは全くそれに気づかないのです。

 イエスは権威の根拠を問う彼らに対して逆に質問をしています。洗礼者ヨハネの権威について彼らに問い返しているのです。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」24-25節)。洗礼者ヨハネは荒野で「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけ、ヨルダン川で悔い改めの洗礼を行ったイエスの先駆者です。マタイは彼らのリアクションを次のように記しています。「彼らは論じ合った。『「天からのものだ」と言えば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と我々に言うだろう。「人からのものだ」と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから。』そこで、彼らはイエスに、『分からない』と答えた。すると、イエスも言われた。『それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい』」25-27節)。このようなごまかしの線上に立つ限り、祭司長や律法学者、長老たちには、私たち一人ひとりに真剣に悔い改めを迫る神の真実の愛を理解することは永遠にできなかったことでしょう。私たちは今日ここで、私たちに悔い改めを迫ってくる神の真剣な声に耳を傾け、魂を開いてゆきたいと思います。

 

「キリスト讃歌」において「キリストのへりくだりと従順」を通して示された「天からの権威」

 本日与えられている第二日課(使徒書)はフィリピ書2章。初代教会の「キリスト讃歌」という讃美歌が記録されている箇所です(6-11節)。残念ながらメロディーは分かりませんが、それはこういう歌詞でした。キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、(それも十字架の死に至るまで)従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」。括弧に入れたそれも十字架の死に至るまで」という一節だけはどうしてもここで十字架の死にまで貫かれたキリストの「へりくだりと従順」について触れたかったパウロの加筆です。

 私たちの悔い改めを真剣に求める神は、そのためにその独り子イエス・キリストを天からこの地上に派遣し、その十字架の苦難と犠牲の死という「贖い」を通して私たちの救いを備えて下さったのです。神はその独り子を賜るほどこの世を愛してくださった。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠のいのちを得るためだったのです(ヨハネ3:16)。イエスの徹底した父なる神への従順・服従が父の権威と愛とを証ししています。イエスはそのような天からの愛の権威をもって私たちに迫ります。「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちはわたしに立ち帰り、飜って生きよ」。この天からの確かな声に応えつつ、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの歩みの上に神の愛が豊かに注がれますようにお祈りいたします。 アーメン。

«2017年9月24日(日)聖霊降臨後第16主日礼拝説教「ヒューマン・ビーイング」